2012年09月17日

アルゼンチン Argentina


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アルゼンチンは、
南米大陸の南部に位置する国です。
日本から見て、ほぼ地球の裏側にあります。
首都はブエノスアイレスです。

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アルゼンチンは
移民の受け入れを積極的に行ってきた国なので、
イタリアやスペインなど
ヨーロッパからの移民が97%を占めています。
日本との間にも1963年に移住協定が発効されました。

アルゼンチンの人たちは肉料理を主食としているため、
一人当たりの牛肉の消費量が世界第一位の国です。

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肉料理と一緒に赤ワインを楽しむ習慣があるため、
ワインの生産量は世界第5位を占めています。

・・・

アルゼンチンは、豊かな自然に支えられ、
農業や牧畜業などの産業で栄えた国でした。

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ところが、21世紀に入ってすぐの2001年、
アルゼンチンは国の借金を返済することができなくなり、
「デフォルト」と呼ばれる経済破綻を起こしてしまいました。

以下に、豊かだったアルゼンチンが
経済破綻してしまった理由を説明していきます。

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アルゼンチンには
「パンパ」と呼ばれる広大な草原地帯があります。
そこでは、大豆やとうもろこし、小麦が生産され、
家畜となる牛や羊の放牧も行われています。

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特に、東部の湿潤パンパは、平坦で土壌が肥えており、
気候も温暖で、適度に雨も降るため、
肥料や灌漑が必要ありません。
また、農業地帯の中心地であるロザリオ港に
大型輸出船が入港できるため、
輸送も効率的に行われました。

このようにパンパでは、
農畜産品を欧州へ低コストで輸出することができるため、
農業と畜産業はアルゼンチン経済を支える
大きな柱となりました。

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20世紀初頭まで、
この豊かな農産物の輸出は
アルゼンチンの人たちの生活を向上させ
当時の日本人よりもずっと豊かな生活を送っていました。


あなたの大切なものは何ですか。

「僕は豊かな自然が好きです」

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第二次世界大戦後、
大統領に就任したペロンは、
労働者を保護する政策を推し進めるようになります。

ペロンは、
賃金の引き下げを違法にし、
休日労働や解雇を制限し、
社会保障制度を充実させました。

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これらの政策は、
労働者の福祉を充実させましたが、
同時に、労働者の既得権益にもなり、
バラマキ政策との批判の声もあがりました。

やがて、
この既得権益を維持するために
政治家や官僚への政治献金や賄賂、汚職が横行し、
労働者と政治家、官僚との間に腐敗をもたらしました。

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労働者の権利が過剰に保護されたため
企業は雇用に消極的になってしまい
仕事にありつけない人たちは、
ネグロと呼ばれる違法就労者として
低賃金で働かざるを得なくなりました。

また、労働者の既得権益は、
後々、国際競争力改善を阻害する
要因ともなっていくのでした。

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生産性以上に、
労働者の賃金は引き上げられ、
福祉支出が拡大されたため、
このようにばら撒かれたお金が、
アルゼンチン国内にインフレを発生させました。

1980年代末には、
最高で年間約5000%の
ハイパーインフレという「物価高」に陥ります。
これは、100円で買えたパンが、
5000円以上払わないと買えなくなったということです。
このため、消費者の生活は困窮しました。

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1989年に、新しくメネム政権(〜1999年)が誕生すると、
彼は、一転して(社会主義的な)労働組合と対立し、
(資本主義的で自由市場を重視する)
「新自由主義」を掲げるようになります。

この政策によって、今度は、
国内企業は、外国の強力な企業と
競争していかなければならなくなりました。

メネム政権は、
ハイパーインフレの対策として
兌換法(だかんほう)を導入し、1ドルを1ペソに固定しました。

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また、国内への資本流入を促進させるため、
アルゼンチン国内外での
資本移動を完全自由化にしました。

兌換性はインフレ対策であったのと同時に
外国の投資家が為替変動のリスクを気にせずに、
安心して投資できる環境を生み出し、
外国からの投資を増やしました。

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さらに、
電力、石油、ガス、通信、郵便、年金など
あらゆる国営企業を民営化していきました。

これらの政策により、
ハイパーインフレは終息し、
外国からの投資は活発になり、
一時的に、経済成長をももたらしました。

実は、これらの政策の影には
IMF(国際通貨基金)という
国際機関による働きかけがありました。

IMFというのは、
世界経済を安定させる役割を持った組織です。

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そのため、
途上国とされる国々に融資を行い、
その国の経済を安定・成長させるという
役割も担っています。

しかし、融資の条件として
IMFは、「構造調整プログラム」といわれる
一連の政策を要求しました。

これは、民営化や規制緩和、
貿易・金融自由化、財政・社会保障改革など
いわゆる「新自由主義」として知られるものでした。

そして、アルゼンチン政府が
IMFに要求されたのもこの政策でした。

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このIMFの条件は、アルゼンチンに限らず、
それぞれ異なる財政状況のあらゆる国々に要求されました。

果たしてこのやり方は、
正しかったといえるのでしょうか。

同じ国際機関の一つであるユニセフは
『世界子供白書』において、
IMFによる構造調整プログラムが
貧困層の生活に深刻なダメージを与えていることを指摘しました。
その理由は、
新自由主義では、「貧富の差」が拡大していくからです。

また、アルゼンチンを含むラテンアメリカの国々では、
IMFや新自由主義への批判が高まり
後に、IMFと対立する(社会主義的な)政権が
いくつも誕生することになります。

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アルゼンチンは、
外国からの資金流入により経済成長を遂げましたが、
経済成長には、それに対応した雇用の増大や
(技術革新の速度などの)国際競争力が必要でした。

しかし、自由化の波に競争力が追いつかず、
ある段階から、今度はかえって失業者が増えてしまい
やがて、国内の財政赤字も膨らみ、
このため、外国への借金も膨れ上がりました。

90年代にはアジアとロシア、
そして、同じラテンアメリカのメキシコとブラジルを
「通貨危機」が襲います。

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各国が輸出産業を振興するため
「通貨切り下げ」を行い対ドル交換レートを下げる中、
アルゼンチンだけが兌換性を維持したことで、
輸出品が相対的に割高になってしまい
競争力低下に拍車をかけました。

このように不況に苦しむアルゼンチンは、
IMFの緊急支援(大量のお金を借りること)を必要としていましたが
融資を受けるためには
条件とされる緊縮財政を実行しなければならなりませんでした。

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緊縮財政とは、
公務員の給与や雇用を減らしたり、
年金を減らすことで、
政府の支出を抑えることです。

デラルア政権(1999年〜2001年)は、
緊縮財政の一環として
銀行の預金が激減するのを防ぐため、
「預金引出制限」をしました。

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これにより、銀行から引き出せる額は
週に250ドルまでとなり、
資本の海外流出の防止として
海外への送金も1日1000ドルまでに制限されました。

緊縮財政は国民の反発を買い、
労働組合や各種団体のストライキを起こし、
国民による暴動が全国に拡大していきました。

結局、IMFの融資の条件は
満たすことができず融資は断られしまいます。

このころまでには、
失業率は30%近くにのぼり、
デモや道路封鎖、略奪が多発するなど、
治安が悪化していきます。

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2001年12月
ロドリゲス・サー暫定大統領は
「対外債務に対する支払い停止」
(借金を返さないこと)を宣言し、
経済破綻が公のものとなりました。

アルゼンチンのデフォルトに関して、
IMFの独立評価室レポートは
(アルゼンチン政府の)構造改革の不徹底が
原因であったとしています。

一方、
当時、アルゼンチンの経済大臣であったラバーニャは
IMFの構造改革自身に問題があったと主張しています。

IMFの政策は、
アメリカをはじめとする先進国のビジネス界や金融界の
利益に結びついているという批判も多く、
アルゼンチン国民の間でも、
IMFが要求した政策に問題があった
という見方が一般的になっています。

ちなみに、
IMFと世界銀行は、
1944年にアメリカのブレトンウッズという町で
創設された国際機関で
世界経済を資本主義で自由な市場経済に
導くためにつくられた組織です。
この二つの組織を「ブレトンウッズ体制」といいます。

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さて、その後、2002年に成立した
ドゥアルデ暫定政権(〜2003年)は、
兌換性を廃止し、変動相場制に移行します。

これにより
ペソの為替相場が下がり、
輸出産業に活気が戻りました。

その後、
アルゼンチンはIMFと対立し、
一方的な政策をとり続けましたが、
国際金融界やエコノミストの予想とは裏腹に
その後、急速な経済回復を遂げていきます。

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・・・

しかし、
アルゼンチン経済の回復とは裏腹に
国内の経済的な格差は大きく、
貧困者の生活は依然としてよくありません。

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特に貧困層が多い州のひとつである
コリエンテス州コリエンテス市の
貧困率は2005年の調査で
貧困率が56%、極貧困率は24%と
最も高い値になっています。

特に、貧しい地域では
医療センターの運営も不安定なため、
適切な医療を受けることが難しい状況です。


あなたの大切なものは何ですか。

「みんなの健康が大切です」

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JICAでは、NGOと協力のもと
コリエンテス州において
「草の根からの市民社会強化プロジェクト」を
実施しました。

そのひとつとして、
貧困層の人たちが医療サービスを
より多く受けられるよう改善し、
乳幼児の感染予防や、母子保健、予防医療が
改善されることを目標に掲げました。

そして、現地のNGOと連携して
医療センターの運営を安定させるための組織づくりや
人材育成などの活動を支援しました。

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・・・

アルゼンチンは、
1810年の建国以来、軍部の力が強く、
クーデターが日常的に起きる国でした。

1976年には、
ホルヘ・ビデラ将軍がクーデターを起こし、
軍事政権が始まりました。

彼らはマルクス主義者を排除するため、
左翼思想を持つと見なした多くの市民を殺害しました。


あなたの大切なものは何ですか。

「私は友達が大好きです」

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拘束された市民は拷問の末、銃殺されたり、
飛行機から生きたまま海に突き落とされました。
妊娠中の女性は収容所に拘束され、
生まれた子供たちは
左翼思想の影響を受けないよう
軍人や警察官の家庭に養子に出されました。

この時代に
アルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為は
「汚い戦争」と呼ばれています。

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汚い戦争による
行方不明者は3万人以上とも言われています。

1983年に民政に移管の後、
旧政権による犯罪が問われました。

紆余曲折の末、
アルゼンチンの裁判所は、
元大統領ホルヘ・ビデラに対して、
2010年に人道に対する罪として終身刑、
2012年には、
女性が出産した乳児を政権が奪ったとして
禁錮50年の判決を言い渡しました。

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軍事政権の最中の1977年、
子どもや孫を奪われた母親たちは、
「5月広場の祖母たち」という人権団体を設立しました。

彼女たちは、
子どもたちを取り戻すため、
毎週木曜日になると、
首都ブエノスアイレスにある「5月広場」に集まり、
抗議活動を行いました。

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民政移管後は、アルゼンチン政府も
彼女たちの活動に協力し、
DNA鑑定による親子特定の動きが拡がりました。

その甲斐もあり、
現在までに100人以上の
子どもたちの身元確認ができました。

「5月広場の祖母たち」は、
2011年にユネスコ平和賞を受賞しました。

・・・

あなたの大切なものは何ですか。

「僕は綺麗な海が好きです」


(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考  PeaceBoat_Argentina_Noname_M.JPG)



アルゼンチンは、イギリスとの間に、
フォークランドという諸島をめぐった
領土問題も抱えています。

フォークランドは、
アルゼンチンの東沖に位置する諸島です。

この島には、過去に、フランス、イギリス、
スペインが入植した歴史があります。

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アルゼンチン政府は、スペインから独立した際に、
継承したとして領有を宣言しましたが、

1833年にイギリスが実効支配して以来、
蒸気艦船の普及と共に、
最大都市のポート・スタンリーは
重要な給炭鉱となりました。

その後、2度の世界大戦を通じて
イギリスにとってフォークランドは戦略的拠点として
重要な位置を占めるようになります。

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1982年に、
アルゼンチンとイギリスとの間で
フォークランド紛争が起こりました。

アルゼンチン軍が
フォークランド諸島を占領したことをきっかけに
武力紛争化が始まります。

イギリスは、
アメリカやEC、NATO諸国の支援もあり、
フォークランドを再び奪還しました。


あなたの大切なものは何ですか。

「恐竜が好きです」

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1990年には、
両国は国交回復しますが、領有権問題は棚上げされ、
国連は話し合いによる解決を呼びかけています。

フォークランド紛争から30年経った2012年には、
両国が国連本部に赴き、領有権を主張し合いました。

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アルゼンチンのキルチネル大統領は
フォークランドが
イギリスから1万4000マイルも離れていて、
南大西洋に属しているので
アルゼンチンのものだと主張しました。

一方、フォークランド諸島に住んでいる人の9割は、
イギリス国籍で、現在も生活しています。
このため、問題は複雑です。

・・・

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アルゼンチンのパタゴニア地方は、
世界でも希な強風地帯として有名です。
非常に風が強いため
住んでいる人はほとんどいませんが、
この風力資源を利用した
エネルギーの開発地として注目されています。

風力発電は、二酸化炭素を排出しないため
クリーンなエネルギーとして知られています。

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アルゼンチンの
エネルギー消費を見てみましょう。
第1位は天然ガスで、
全エネルギーの約半分を占めています。
2位が石油、3位に水力、そして原子力という順番で続きます。

アルゼンチン国内の
天然ガスのほとんどは、
発電のために使用されていますが、
それも、あと10年ほどで枯渇すると言われています。

そのため、
将来の新しいエネルギー資源として
この地方の風力が注目されています。

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試算によれば、
パタゴニア地方での風力発電による
潜在的な発電量は、
日本の年間発電量の約10倍とも言われています。

日本の企業であるリサイクルワンは
アルゼンチンの協同組合と協力して
2001年よりパタゴニア地方で
風力発電事業を行いました。

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リサイクルワンは
環境問題を解決するために設立された会社で、
カーボンオフセットの提供を行っています。

カーボンオフセットとは、
私たちの生活で発生させてしまったCO2を
CO2削減プロジェクト
(植林をして、育ってゆく木にCO2を吸ってもらうことなど)に
資金提供することで埋め合わせをしようという
考えや活動をいいます。

オフセットとは
「相殺」(そうさい)することを言います。
リサイクルワンは、
「企業の社会的責任」(Corporate Social Responsibility)の
取り組みとして、この事業を行っています。

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一方、カーボンオフセットは、
(後から相殺するからいいんだとして)
「自ら排出削減を行わないことへの
正当化に利用されるべきではない」との意見もあります。

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このプロジェクトでは
16機の風力発電機が設置され、
年間約27,000トンのCO2を削減することができました。
これにより、
天然ガスの燃焼によって生じていた
大気汚染の軽減に貢献することができました。

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現在、世界では
地域(大陸)ごとの経済共同体の構築が進んでいます。

世界の経済規模が
第1位の国はアメリカ、
2位は中国、3位が日本です。
その次に大きな「経済活動が行われている地域」として
EU(欧州連合)があります。

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これらに次ぐ第5位の経済圏として
アルゼンチン、ブラジル等の
南米の4か国によって結ばれている
「メルコスール」と呼ばれる共同市場があります。

メルコスールは
1991年に創設された(隣接する国家の)地域統合体で
加盟国である4か国間での農作物や石油・天然ガス等の
輸出入の関税が撤廃されており、自由貿易が行われています。

アルゼンチンの
初等教育(小学校・中学校)では
このメルコスールに関するユニークな授業が行われています。

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それは、メルコスール加盟国である
ブラジル、パラグアイ、ウルグアイの言葉や文化を
学習するという科目で、生徒たちに大変好評となっています。

・・・

アルゼンチンはサッカーでも
有名な国ですが、
サッカーのアルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手は
ユニセフ親善大使も務めています。

最後に彼のメッセージで締めくくりたいと思います。

「世界には病気の子どもたちがたくさんいること、
多くの子どもたちが教育を受けていないこと、
多くの子どもたちが栄養不良であることを知っています。
私は、自分ができることはなんでもやるつもりです。」




・・・
・・・



絵と写真を集めた人:
ピースボートの人々

画像データを編集し、文章を書いた人:
菊地賢一

編集完了日:
2012年10月1日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/
posted by お絵描きイベント at 11:51| 日記