2012年12月03日

ポーランド Poland

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あなたの大切なものは何ですか。

「私はポーランドが大好きです」

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ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制の国です。

首都はワルシャワにあり、公用語はポーランド語です。
国教がキリスト教のカトリックであるため
ポーランドの9割の人がカトリック教徒です。

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カトリック教の「総本山」といわれる
バチカンの第264代ローマ教皇であった
ヨハネ・パウロ2世もポーランド出身です。

彼のほかにも、科学者のキューリー夫人、
天文学者のコペルニクス、
ピアニストのショパンなどが有名ですね。

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「ポーランド」の語源「ポーレ」は
「平野、耕地」といった意味です。
その由来のとおり国土の大部分は広い平地となだらかな丘陵で
美しい森と平原が広がっています。

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ポーランドは、10世紀に建国されました。
16世紀には、ポーランド・リトアニア共和国として
欧州最強にして最大の地位を占めました。

しかし、しだいに国力が衰え、
18世紀末には、3度にわたって、ロシア、プロシア、オーストリアの
隣接三国に分割されてしまいました。

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その後、1918年に独立するまでの123年間、
ポーランドという国は世界から姿を消していました。

また、独立後も第二次世界大戦において、
ソ連とドイツに分割占領されるなど、
数世紀わたって隣国による分割・統治を繰り返してきました。

そして、終戦後は、ソ連の支配下に置かれ、
社会主義国として東西冷戦の東側陣営に組み込まれます。

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しかし、1989年に東欧革命が起こると、
ポーランドは、共産主義国家から民主国家へと一変しました。

1994年には欧州連合(EU)に加盟、
翌年にはWTO(世界貿易機関)、
また翌年にはOECD(経済協力開発機構)への加盟を果たし、
ポーランドは西側諸国の仲間入りを果たし、
先進国と呼んでもいい国にまで発展しました。

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そんなポーランドの歴史を踏まえながら、
ポーランドについて詳しく見ていきましょう。


・・・


あなたの大切なものは何ですか。

「お互いに、よく知りあうことが大切です」

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ポーランドが親日国として有名なことをご存知ですか?

ポーランドは、昔から日本文化を高く評価し、
日本研究を行ってきた国なのです。

2012年11月に野田総理大臣が
ポーランドのトゥスク首相と会談をした際も、
ワレサ元大統領が「ポーランドを第二の日本にしたい」と
常々言っていたとトゥスク首相は野田総理に伝えました。

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このように、ポーランドが日本に関心を持ち始めたのは
日本が経済大国として国際的に知られるよりもずっと以前のことなのです。

そのきっかけは日露戦争でした。
当時、隣国に国土を分割・統治され、
国家を失っていたポーランド人たちにとって
ロシアは自分たちの国家独立を阻む最大の敵国でした。
そんな敵国ロシアに勇敢に戦いを挑み、見事に勝利した日本という国に
当時のポーランド人たちは大きな関心を寄せました。

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第一次世界大戦が終了した次の年(1919年)になると、
ポーランドは悲願の国家再生を果たしますが、
その際にも、ポーランドが親日国となる出来事がありました。

第一次世界大戦後、
ロシア国内は、革命による内戦状態にあり、
混乱を逃れて東に避難したポーランド人の難民が
シベリアに集まっていました。

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シベリアはもともと、政治犯などの流刑の地とされていたため、
ポーランド独立を目指して反乱を企てた政治犯やその家族も含め
当時のシベリアには、十数万人のポーランド人が
生活していたと言われています。
彼らは飢餓と疫病の中で苦しい生活を送っていましたが、
特に親を失った子どもたちは悲惨な状況に置かれていました。

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1919年9月、ロシア極東部の都市、ウラジオストク在住の
アンナ・ビルケウィッチを中心とするポーランド人たちは、
「ポーランド救済委員会」を組織しました。

この委員会は、親を失った子どもたちだけでも救済し、
祖国に送り届けたいとの思いから結成されました。

救済委員会ははじめ、欧米諸国に援助を求めましたが聞き入れてもらえず、
最終的に、日本政府に援助を要請することになりました。
会長のビエルキエヴィッチが来日し、
外務省を訪れてシベリア孤児の救済を求めると、
彼女の訴えは「日本赤十字社」に伝えられました。
そして、17日後には、シベリア孤児救済が決定されたのです。

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「赤十字」は、世界最大のネットワークを持つ人道機関です。
人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性という
7つの「赤十字の基本原則」を掲げています。
日本赤十字社は、1952年に制定されました。
ちなみに、世界の187カ国には、
各国ごとに赤十字グループに含まれる組織が作られています。

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日本赤十字社の救済活動は、
シベリア出兵中の日本軍の協力もあり、
決定の2週間後には、救済活動が開始され、
750名以上の孤児たちが日本へ送られ、手厚い保護を受けたのち、
無事に、ポーランドへの帰還を果たすことができました。

・・・

ポーランドの日本への関心の高さは、
教育の分野からも見ることができます。

日本では、ポーランド語を専攻で学べる大学が
1つ(東京外国語大学)しかありませんが、
ポーランドでは、ワルシャワ大学やヤギェウォ大学、
ミツキェヴィチ大学などで日本語を学ぶことができ、
日本関係の教育機関もたくさんあります。

ポーランドの教育水準は高く、
8年制の義務教育が行き渡っています。
高等教育も長い伝統を持ち、
クラクフにあるヤギェウォ大学は1364年に創設されました。
これは中央ヨーロッパでは2番目に古い大学となります。

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天文学史上もっとも重要な発見といわれる地動説を説いたコペルニクスや、
史上初のスラブ系教皇となったヨハネ・パウロ2世も
このヤギェウォ大学で学びました。

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歴史の深いこの大学の図書館の蔵書は膨大で、
モーツァルトの自筆譜や
貴重な古写本など研究資料の宝庫となっています。

情報機器販売会社である
コニカミノルタビジネスソリュージョンズポーランド社は、
このヤギェウォ大学の財団と共同で、2007年から
ポーランドの文化遺産保護プロジェクトを開始しました。

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このプロジェクトでは、
19世紀末から20世紀初頭にかけて出版された
貴重な書籍7点を、
高速複合機で印刷し、復刻出版する予定です。
2010年までに6点の復刻が完成し、
ポーランド全国の大きな図書館に配布されています。

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近年のポーランドを語る上で、
1989年に起こった「体制転換」を避けて通ることはできません。

第二次世界大戦後、ポーランドは、
ソ連の影響下のもとで共産主義化が進められていましたが、
債務の増加と物価の上昇などにより経済的に行き詰まり、
国民の不満は、全国的なストライキへと発展していきました。

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政府は、打開策を模索するため、ワルシャワで
「円卓会議」と呼ばれる政府と反体制勢力による話し合いを行い、
その後、自由選挙が行われました。

そして、1989年6月の総選挙の結果、
ポーランドに東ヨーロッパ初の非共産党政権が誕生しました。

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この出来事の後、共産主義国家の崩壊は、
ポーランドに続いてハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニアにも及び、
同じ年の11月9日にはドイツのベルリンの壁崩壊が起こりました。
これは「東欧革命」と呼ばれます。

新しく発足したポーランドのマゾヴィエツキ政権は、
バルツェロヴィチを副首相兼大蔵大臣に据え、
市場経済への移行に向けて新しい経済プログラムを発表しました。

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この経済プログラムは「バルツェロヴィチ・プラン」と呼ばれ、
インフレの抑止、物価の引き下げ、財政赤字の削減を優先課題に、
価格や貿易の自由化、強力な金融引き締め、
通貨の大幅切り下げなどを行いました。

別名、「ショック療法」と呼ばれたこの政策は、
その名の通り、失業や生活水準の低下など
深刻な副作用を伴いましたが、
それでも、90年代からは順調に経済成長を遂げることができました。

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このようにポーランドの「ショック療法」が
結果的に成功した背景には、国際社会の強い支援がありました。

ポーランドの成功は、
共産主義化を防止したいという共通の目標をもつ
アメリカをはじめとする西側諸国にとっても重要でした。

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ポーランドの体制転換が失敗に終われば、
東欧革命に歯止めがかかり社会主義へ逆行してしまうという
懸念が西側諸国にはあったからです。

そのため、国際通貨基金(IMF)や
世界銀行による融資、EUの構造基金の支給、
そして、異例の公的債務(借金)削減が行われ
ポーランド経済を下支えました。

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日本政府も、ポーランドが市場経済や民主主義へ
円滑に移行できるよう財政や金融、産業、経済など
多岐にわたる支援を行ってきました。

OECD(経済協力開発機構)の中にある
DAC(開発援助委員会)という委員会では
先進国が援助を行うべき開発途上国のリストを作成しています。

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ポーランドは、1994年にEU、96年にはOECDへの
加盟を果たしたことで先進国の仲間入りをし、
2005年をもって、この「被援助国リスト」から除外されました。

それを受け、日本の支援も、
2008年6月の技術協力プロジェクトをもって終了しました。


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東欧革命において体制転換を果たした
ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアの3か国は
市場経済への移行だけでなく、西側諸国への回帰も目指していました。

1991年に、ハンガリーの都市のヴィシェグラードで
これら3国の大統領が集まり、EU(欧州連合)への加盟を目標に
お互いに協力するためのグループを形成しました。

これが「ヴィシェグラード・グループ(V4)」と呼ばれる
地域協力機構です。

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1993年に、チェコスロバキアが
チェコとスロバキアに解体されたため
ヴィシェグラード・グループは4か国となり、
2004年には、4か国そろってEUへの加盟を果たしました。

V4では、文化、環境、防衛、教育、観光、エネルギー、IT等、
さまざまな分野での協力が行われています。

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日本政府は、2003年に、V4と日本との間で
「V4+日本」対話・協力を推進していくことに合意し
さまざまなワークショップやセミナーを開催してきました。

2009年には、環境・気候変動ワークショップが行われ、
環境・気候変動分野に対する理解を深めるとともに
日本の環境問題に対する取り組みや環境技術が紹介されました。

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2010年には、ハンガリーで開発協力セミナーが行われ、
世界経済・金融危機が開発協力に与える影響や
「ミレニアム開発目標(MDGs)」の達成状況、援助効果などについて
率直な意見交換が行われました。

ミレニアム開発目標というのは、
90年代に採択された国際開発目標や
2000年の国連ミレニアム・サミットで採択された国連ミレニアム宣言を
開発分野における国際社会共通の目標として2001年に総括したものです。

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2012年4月には、
エネルギー効率化・再生可能エネルギー及び原子力分野に
関するワークショップが日本の外務省にて行われ、
エネルギーの効率化・再生可能エネルギー及び原子力安全に関する
活発な意見交換が行われました。


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あなたの大切なものは何ですか。

「家族の健康が大切です」

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体制転換は、ポーランドの医療事情にも影響を与えました。

旧ソ連ブロック時代、ポーランドは
国営の病院により無料で医療サービスを提供していました。

しかし、過度な中央集権化のため
医療費の無駄遣いが起り、資金は慢性的に不足状態になりました。
そのため、施設の管理は不十分になり、
地域によっては病院が少ないところがあるなど
地域的不平等によって、サービスを受けるのが困難であったり、
医療の質も低いものでした。

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体制転換後、各地域に医療サービスが行き渡るよう
いくつかの改革が起こり、
新しい医療保険制度(傷病給付金庫)が導入されました。

これにより、医療制度の運営費を各地域に収めることが義務付けられ、
中央集権化された医療サービスが各地域へ分権化されました。

2003年には、医療の地域格差をなくすため、
「傷病給付金庫」から「国民健康基金(NFZ)」へと
再編・再集権化されました。

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この制度では、国民健康基金と契約した病院であれば
無料で医療サービスを受けることができます。

しかし、この制度でも慢性的な資金不足という問題は残されており、
今後の大きな課題となっています。


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1986年にソ連(現在のウクライナ)で起きた
チェルノブイリ原子力発電所の事故は
隣国のポーランドにも大きな影響を与えました。

事故当時、国境沿いをはじめとしてポーランド国内でも
かなりの放射能汚染が確認されたため、
ポーランド政府は、事故発生の初期から対策をとりました。

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ポーランド政府は、
汚染ミルクを子どもや妊娠・授乳中の女性が飲むことを禁止し、
4歳以下の子どもには牛乳のかわりに粉ミルクを飲ませることを決めました。
また、全国の小児にヨウ素剤を配布しました。

これら初期の対応の結果、
隣国のウクライナやベラルーシでは小児の甲状腺ガンが増加したのに対し、
ポーランドでは甲状腺ガンの増加を防ぐことができました。

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放射能汚染地域での小児甲状腺の検診や支援活動を行っている
日本の菅谷(すげのや)昭・元信州大学医学部第二外科助教授は、
ポーランド政府のこれらの対応を高く評価し、
日本の原発事故後の対策としても参考にすべきであると述べました。


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あなたの大切なものは何ですか。

「誰にでも平等な社会が大切です」

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「子どもの権利条約」をご存知ですか?

「子どもの権利条約」とは、
正式には、「児童の権利に関する条約」(1989年採択、1990発行)といい、
子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められた条約のことです。

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実は、この条約が国連で創設された背景には、
一人のポーランド人が関わっていたのです。

それが、小児科医のコルチャックという人です。
コルチャックは、医師でありながら教育者として、
また作家として子どもたちと共に生きた人でした。

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彼は、子どもの権利の3つの大きな柱として、

1)子どもの死についての権利
2)子どもの今日という日についての権利
3)子どものあるがままである権利

を提唱し、子どもの人格を認めることを主張しました。

「子どもは親の所有物ではない。」
「子どもにも秘密を持つ権利がある。」
「子どもは『過ち』をおかす。
それは子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。
完璧な子どもなどいない。あなたが完璧な人間でないのと同じように」
というように、コルチャックは、
子どもを「権利の主体」として尊重していました。

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彼は、全生涯を孤児の救済と子どもの教育に捧げました。
多くの教育書、研究所、童話、文学作品、新聞、ラジオ放送を通じて
子どもの福祉と権利を訴えました。

また、彼は、ポーランド人とユダヤ人の2つの孤児院を
それぞれ運営していました。
コルチャックは彼らへの教育を通して
戦争のない平和な世界を実現しようと試みました。

しかし、第二次世界大戦中、、
ドイツによって行われていたユダヤ人絶滅政策によって
孤児院にいた200人のユダヤ人の子どもたちは、
絶滅収容所行きが決まってしまいます。

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このとき、コルチャック(本人)には
彼が高名であることから、
特別なゆるし(死刑の免除)が与えられていました。
しかし、彼は子どもたちを見捨て、自分だけが助かることを拒否し、
「子どもたちも同じように扱われないなら、
私は子どもらと一緒に運命を共にします」といい、
子どもたちとともに収容所で殺害されました。

子どもたちに対するコルチャックの精神は、
戦後、ポーランド政府を介して
条約の草案として国連に提出されることになりました。

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そして、コルチャックの理想は、
彼の死後、47年が経った1989年に国連で
「子どもの権利条約」として実現されることになりました。

日本でも、子どもの権利条約は、
1989年に採択され、翌年に発行されました。
その後、193の国と地域によって締結されています。

ポーランド政府は、コルチャック没70年であり、
彼の作った孤児施設「ドム・シュロット」の誕生100周年にあたる
2012年を「コルチャック年」とすることを決めました。

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あなたの大切なものは何ですか。

「平和が一番、大切です」

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最後に、ポーランドの「負の遺産」ともいえる
「アウシュビッツ」についてお話したいと思います。

アウシュビッツは、第二次世界大戦中、
ドイツによって国家をあげてつくられた強制収容所です。

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「アウシュヴィッツ」という呼び名は、
ポーランドの都市「オシフィエンチム」のドイツ語読みからきています。
「アウシュビッツ」というとナチス・ドイツが連想されますが、
アウシュヴィッツがあるのはポーランドです。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはポーランドを中心に、
欧州のあらゆる国に強制収容所を設置しました。

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特に、アウシュヴィッツは、
歴史上最も悪名高い強制収容所として有名です。
この収容所内では、
満足な食事も与えられず、強制労働をさせられたり、
「価値なし」と判断された人たちはガス室で虐殺されたり、
人体実験の対象とされました。

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アウシュヴィッツは、1945年1月27日にソ連軍によって解放されるまでに
150万人のユダヤ人虐殺が行われたと言われています。

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二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて
アウシュヴィッツは「負の世界遺産」として、
1979年にユネスコ世界遺産に登録されました。
また、現存する一部の施設は、
ポーランド国立オシフィエンチム博物館によって管理・公開されています。

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アウシュヴィッツやユダヤ人迫害にまつわる話は数多くあります。

ポーランド人のカトリック司祭であった
マキシミリアノ・コルベ(通称:コルベ神父)は、
彼が発行した「無原罪の聖母の騎士」という小冊子が
ナチスを批判していたという理由でアウシュヴィッツに投獄されました。

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ある日、脱走者が出たことが原因で、その「見せしめ」のために、
10人が選ばれ、餓死刑に処せられることになりました。
コルベ神父は、妻子がいる男性がその一人として選ばれたのを見て、
身代わりになることを自ら名乗り出ました。
餓死刑に処せられたコルベ神父は、
牢内でも最後まで、他の囚人を励まし続けたと言います。

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彼は、後に「アウシュビッツの聖者」と呼ばれるようになり、
身代わりとして助けられたガイオニチェクという男性は、
奇跡的に終戦まで生き延びた後、
亡くなるまでコルベ神父に関する講演を世界各地で行いました。

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同じくカトリック教徒であった
ポーランド人のイレナ・センドラーは、
ナチス・ドイツによりワルシャワのゲットー(ユダヤ人居住地区)に
収容されていた2500人のユダヤ人の子どもたちを
看護師に変装して連れ出し、助け出しました。

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彼女は、1943年に
ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に逮捕され、
強制収容所に入れられてしまいます。

収容所内で彼女は度重なる拷問を受けますが
「活動内容を明かすぐらいなら迷わず死を選ぶ」と沈黙を守り、
助けた子供たちの名前を明かすことはありませんでした。

その後、彼女は、ジュゴタ(ユダヤ人救済委員会)により救出され、
戦後、その功績により多くの賞を受賞しました。

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また、第二次世界大戦時リトアニア領事館に赴任していた
日本人の杉原千畝(すぎはらちうね)は、
ポーランドなどから逃げてきたユダヤ人難民に対して
大量の日本へのビザを発給し、彼らが亡命できるよう手助けをしました。

これは当時の外務省の命令に背いた行動でしたが、
これにより、ナチス・ドイツによって迫害を受けていた
約6千人のユダヤ人が救われました。

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ユダヤ人の強制収容所博物館元館長のカジミエシュ・スモレンは
アウシュビッツを訪れたドイツ人の若い世代に対して次のように言います。

「君たちに戦争責任はない。でも、それを繰り返さない責任はある。
・・そしてそれは多分、私も同じなのだ。」

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実は、彼自身、ユダヤ系ポーランド人として
戦時中のアウシュヴィッツ収容所から、
奇跡的に助かった中の一人でした。


・・・


ナチス・ドイツを通して、
私たちは人間の残酷な側面を垣間見てきました。
しかし、このような状況でも、
コルベ神父やセンドラー、杉原のように
勇気ある行動をとる人たちがいたことは、
人間の価値を理解する上で重要なことではないでしょうか。

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アウシュヴィッツで起きた悲劇は過去の歴史となりましたが、
世界では、今でも深刻な人権侵害や迫害が存在します。

そして、これを読まれている方であれば、
いつでもそういった情報をインターネットを通じて
身近な出来事のように知ることができます。

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もし私たちが今、
彼らのような正義の行動を起こすタイミングを
まさに迎えているのだとしたら、どうでしょう。

スモレンが言ったように「繰り返さない責任」が
私たちにあるのだとしたら、何ができるのでしょうか。

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最後に、
ヨハネ・パウロ2世の言葉で終わりたいと思います。

わたしたちの住むこの惑星の広い地域を非人間的なものとし、
住みにくいものとしてしまった環境破壊を目の前にして、
あるいは、破壊的な世界戦争の悪夢によって繰り返し繰り返し
脅かされている平和の危機を目の前にして、
あるいは、これほど多くの人間に対する、
とりわけ子どもたちに対する基本的人権の無視を目の前にして、
わたしたちは部外者を決め込んでいることができるでしょうか。
ヨハネ・パウロ二世

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・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
山本敏晴

画像データを編集し、文章を書いた人:
菊地賢一

編集完了日:
2012年12月5日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 10:24| 日記