ヨーロッパの南東部にある
バルカン半島の中心に位置する国です。

「私の大切なものは、地球です。
そして、この地球をこの先もずっと守っていくことです。」
この絵を描いたのは、Elmedima Bajrame、14歳の女の子です。
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この国は、2008年に2月にセルビア共和国から独立を果たした、
世界で二番目に新しい国です(2012年2月現在)。
人口は約200万人、
国の面積は、日本の岐阜県と同じくらいです。

(コソボ周辺の地図:外務省ホームページより)
オレンジ色の国がコソボです。
首都はプリシュティナにあります。
国民は、ほとんどがアルバニア人で、
そのほか、セルビア人やトルコ人などの民族がいます。

主な言語として、アルバニア人はアルバニア語、
セルビア人はセルビア語を話します。
アルバニア人はイスラム教、
セルビア人はキリスト教宗派の一つであるセルビア正教を信じています。
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国の主な産業は、商業などのサービス業、
大麦や小麦、トウモロコシなどの農業で、
褐炭(石炭の一種)、亜鉛などの鉱物資源ももっています。
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現在のコソボがある土地は、
以前、セルビア王国があった場所の一部、南端でした。
6〜7世紀以前の時代は、アルバニア系の先住民が住んでいた
とされるこの地ですが、
7世紀に、東からセルビア人や別の民族がやってきて、
この土地を統治しました。

12〜13世紀になると、
セルビア人はここにセルビア王国を建て、
この地をセルビア正教の発祥の地としました。
セルビア王国とセルビア正教が誕生した地であるコソボは、
セルビア人にとって神聖で大切な場所となりました。

ところが、14世紀にイスラム国家のオスマン帝国が
セルビア王国に勝利すると
オスマン帝国はイスラム教徒であるアルバニア人を
コソボへ連れてやってきました。
コソボにアルバニア人が多く住むようになった理由は、
このオスマン帝国によるアルバニア人の移住でした。
20世紀になるとセルビアはコソボを奪い返したのですが、
そのころには、コソボ人口のほとんどを
アルバニア人が占める状況になっていました。

この民族構成の変化が、
今に至るまでコソボの抱える大きな問題を生み出しました。
コソボの土地を支配するのはセルビア政府ですが、
そこに暮らすのはほとんどがアルバニア人であるため、
セルビア人とアルバニア人の間に対立ができたり、不平等が生じて、
お互いの仲がうまくいかなくなってしまったのです。
この状況を「不公平だ!」と感じたアルバニア人は、
自分たちの力でセルビアから独立をしようと動き、
1990年に独立宣言をするところまでこぎ着けたのですが、
歴史上、セルビア王国とセルビア正教が生まれた
大事な場所を失いたくなかったセルビア政府は、
アルバニア人による独立運動を力づくで抑えようとしました。

セルビア政府は、人々がアルバニア語を話すことを制限し、
軍隊をつかってアルバニア人の独立集会や反政府運動を
やめさせました。
また、セルビア政府は確かな理由もなしにアルバニア人を捕まえて
殺害しました。
すると、アルバニア人も武力を備えた組織をつくり、
セルビア人への仕返しとして、攻撃、殺害など
残酷な行為をしました。
対立はさらに暴力的な闘争へとエスカレートし、
コソボの治安は急激に悪くなりました。

ヨーロッパ地域にあるコソボがこのような状態になっていることを
危険と感じたNATO(北大西洋条約機構
=ヨーロッパの国々と北アメリカとによる軍事同盟)は、
セルビアを爆弾で攻撃し武力で争いを止めようとしました。
1996年から1999年に起こったこの紛争を、「コソボ紛争」といいます。
NATOによる爆弾攻撃の結果、
セルビア側の軍隊がコソボから撤退すると、
国連がコソボの政治を行うことになりました。

その後、2008年にコソボ共和国は独立し、
2011年5月現在、75ヵ国がコソボを国として承認しました。
国づくりは始まったばかりで、
解決するべき課題は多くありますが、
コソボは新しい時代を切り開き、歩みだしました。
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「あなたの大切なものは何ですか?」
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「平和と、人種を越えて自由に人を愛せることです。」
この絵を描いたのは、Ardianna Azemi、14歳の女の子です。

この子は、「自分の大切なもの」として、
PEACE(平和)の文字と、
愛をあらわすハート、
そして、
「それぞれの指の色(肌色)が異なっている手」
を描きました。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「世代を越えて、みんなが一緒に暮らせることです。」
この絵を描いたのは、Drilona Sejgiu、14歳の女の子です。
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 120(80)a-thumbnail2.jpg KSV_053a.jpg)
この子は、絵の右側から、
子どもたち、おじいさん、お父さんお母さん、
車椅子に乗っているおばあさんや、おじさんというふうに、
何世代もの人が家族一緒に暮らす様子を描きました。
コソボがその歴史を歩むなかで直面してきた、
民族同士の対立は、コソボという国にとって大きな問題です。
セルビア人とアルバニア人の争いは、
コソボ紛争という悲惨な結果を招いてしまいました。

争いにより多くの人が命を落とすなかで、
NATOはセルビアの軍隊をコソボから撤収させました。
しかし、紛争で心も体もボロボロになってしまった人々は
不安でいっぱいです。
「どのようにしたら、
これからのコソボを平和にすることができるだろうか。」
ということを相談するため、
国連安全保障理事会は会議を開きました。

国連安全保障理事会はこの話し合いにおいて、
国連コソボ暫定行政ミッションをつくり、
混乱状態にあるコソボの政治を、しばらくの間は国連が行う
ことを決めました。

国連コソボ暫定行政ミッションは、
主に以下4つの範囲に関して、プロジェクトを行いました。
1.人道(人間の苦痛を取り除くこと):
紛争により被害を受けた人に家や食べ物、医療を提供したり、
地中に埋まっている地雷を取り除くこと
2.臨時統治:
雇用、教育、運輸、清掃、警察と消防、郵便と通信など、
コソボで生活する人々にとって必要なことをすべて指揮すること
3.組織と制度づくり:
人材育成を行い、選挙を実施し、国の民主化を進めること
4.復興:
コソボの経済を立て直すために土台をつくること
国連コソボ暫定行政ミッションは、
コソボを少しずつ回復させ、独立への大きな力をもたらしました。
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「あなたの大切なものは何ですか?」
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「国が豊かになることです。」
この絵を描いたのは、Gemtrii Veliu、12歳の男の子です。

もともとセルビア共和国の一部だったコソボは、
(実際は)経済的に、
セルビアから助けられていた面もありました。
コソボは、独立した現在も自分たちの力で経済を成り立たせることが
難しく、多くの国民の生活が、外国からの支援に頼っているのが現状です。
国の主な産業である農業は、
ほとんどが家族で経営している小さな規模のものです。
コソボには鉱物資源があるのですが、
コソボ政府は、まだ有効に活用できていません。
この結果、コソボの経済状況は赤字が続いています。

人口の7割は35歳以下の若者です。
ところが、彼らには、仕事がなく、
失業率が非常に高い状態です。
このため、国は税収を得ることができず、
国家予算は、赤字になっています。
長い紛争を乗り越え、独立を果たし、
これから国をつくっていくコソボにとって、
経済を成長させることが重要な課題です。
株式会社ウイは、コソボが経済的に自立することを目指して、
コソボワイン事業をはじめました。

コソボは、降り注ぐ太陽の光とぶどう育成に適した気候によって、
品質の高いワインを生産しています。
現在コソボは、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国へ
ワインを輸出していますが、
この会社は、コソボワインを日本へ輸入し、
紹介、販売をすることで、
コソボと日本における架け橋の役割を果たしています。
また、この活動による利益の一部は、
コソボへ送られ、子どもたちへの支援となる予定です。
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「あなたの大切なものは何ですか?」
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「学ぶことのできる機会と、たくさん勉強して将来大学に行くことです。」
この絵を描いたのは、Dorentina Gashi、14歳の女の子です。

子どもたちが教育を受ける場である学校でも、
異なる民族が争いをせず一緒に学べるかということが、
課題となっています。
これをうけて、
国連児童基金(UNICEF)は、
複数の民族が通う小学校の支援をしています。
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コソボの首都プリシュティナに、エレナジカ小学校という学校があります。
紛争が起こるまで、この地域ではアルバニア人(イスラム教、多数民族)、
セルビア人(セルビア正教、少数民族)、そしてトルコ人というふうに、
違う民族の子どもたちが一緒に勉強をしていました。
ところが、
1989年にセルビア人を優遇する政策をセルビア共和国がはじめると、
エレナジカ小学校では、
人数としては少ない側であるセルビア人の先生と子どもたちが
学校施設のほとんどを使い、
大人数であるアルバニア人の先生と子どもたちは
少ない教室を交代制で使わなくてはならなくなりました。

すると、これを不平等だと感じたアルバニア人が、
逆に、セルビア人やほかの少数民族を迫害し、
お互いが相手を傷つけるようになりました。
エレナジカ小学校は学校を続けられなくなってしまいました。
このように、教育の場面でも、
もともと同じ場所で学んでいた民族の仲が悪化するなか、
エレナジカ小学校の先生たちはどうすれば、
学校をもう一度はじめることができるか話し合いを重ねました。

コソボ紛争の結果、セルビア人は他の国へ避難したため、
学校に戻ることはなかったのですが、
国が紛争をしている時に、セルビアの側についたトルコ系の人々は、
学校が再開したとしても、
アルバニア人は自分たちと仲良くしてくれないのではないだろうか
と心配しました。
「紛争での対立でお互いに辛い思いをしたけれど、
これからは、子どもたちのこと、未来のことを考えよう。
もう一度、みんなが同じ場所で勉強できる環境をつくろう。」
そう呼びかける先生と、子どもたち、保護者が努力した結果、
エレナジカ小学校は、アルバニア人もトルコ人も一緒に学ぶ場として
再開校することができました。

国連児童基金は、民族の壁を乗り越えたエレナジカ小学校における
教育の仕方や、授業内容をさらに広い地域に伝える活動をしています。
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「あなたの大切なものは何ですか?」
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「赤ちゃんです。
一生懸命生まれてきてくれたから、うれしいです。」
この絵を描いたのは、Aojrare、5歳の女の子(写真左側)です。

コソボ紛争により、多くの死者、難民がうまれました。
また、病院や診療所、薬局などの医療機関もほとんど壊れてしまいました。
これをうけて、
NPO 日本医療救援機構は、コソボの医療支援プロジェクトを行いました。
日本医療救援機構は、破壊の状況が特にひどい地域に向かい、
治療に必要な医療器具や薬を人々にあげたり、
診療所を建て直したりしました。

これにより、
医療を受けられなかったコソボの人々が
治療の望みをもてるようになりました。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、世界保健機関(WHO)、
国連コソボ暫定行政ミッションは、
日本医療救援機構の活動を高く評価しました。

この評価により日本医療救援機構は、
医療支援プロジェクトの運営をコソボ現地の医療組織へ引き継ぎ、
現地の人々が自分たちの力でプロジェクトを続けられる体制を
つくることができました。
国連コソボ暫定行政ミッションと現地の市は、
日本医療救援機構に感謝状を贈りました。
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「あなたの大切なものは何ですか?」
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「僕たちが生きる地球です。」
この絵を描いたのは、Zeqir Sekiraqa、14歳の男の子です。

国づくりをはじめたばかりのコソボは、
経済面での復興に力を注いだため、
環境の分野における活動はあまりしてきませんでした。
そのため、環境問題に関する課題がたくさんあります。
環境問題の中でも、コソボで特に深刻な問題となっていたのが、
廃棄物の管理でした。

コソボでは、ごみ収集車が古くなったり足りないことで、
ごみを回収する効率が悪くなりました。
しかも、コソボの首都やそのほかの都市では、
人口が急激に増えているため、ごみの収集が追いつきません。
ごみ問題への対応を少しでも早く行うことが必要です。

これをうけて、国際協力機構(JICA)は、
環境やエネルギーに関する日本の技術を
コソボの人々に伝える活動を行っています。
この計画は、
1.ごみが出るときに進む環境汚染を少しでも抑えること
2.コソボにおけるごみ収集の仕組みを改善すること
3.ごみを減らして(Reduce)、再利用して(Reuse)、
再資源化する(Recycle)という「3R」を実践すること
により、環境に負担をかけない国づくりを目指しています。
・・・
おわりに。
コソボの子どもたちが描いてくれた、
100枚近くに及ぶ絵を見ていて、
future(未来)という言葉が何度も目に入りました。

「大切なものは何ですか?」ときかれて、
大切なものは、未来である、
私たちがつくりあげていくこれからのことである
という言葉がすぐに浮かぶ子どもたち。
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コソボの未来を導く子どもたちと、
彼ら彼女らが描く活き活きとした絵から
真剣な、明るい、希望に満ちた力を、筆者は強く感じました。
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・・・
絵と写真を集めた人:
安田 弓
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年3月23日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/