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この記事は、まだ製作中です。
現在、担当者が、執筆作業をしています。
NPO法人・宇宙船地球号
2013年01月23日
ウガンダ Uganda(作成準備中)
posted by お絵描きイベント at 12:38| 日記
2012年12月31日
お絵描きイベントの目次
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お絵描きイベントは、2種類に、まとめられています。
@インターネット上の、『ウェブ版』
http://www.ets-org.jp/artevent_age10/
A小学5年生以上向けの、『写真絵本版』
以上の二つです。
・・・
その1.インターネット上の、『ウェブ版』
このサイトは、
まず、中学生前後の方々にも、わかりやすいように、
各国から、1枚ずつ特徴的な絵を選び出した、
簡略化したホームページを、
比較的、浅い階層に作りました。
(クリックしてリンク先に飛んでいく回数が少ない場所に設置しました。)
また、
大学生以上向けに、
「大切なもの」の絵を通して、
各国にある社会問題を導き出し、
また、
そうした問題に対して、実施されている
各国際協力団体によるプロジェクトも階層しました。
これらは、
比較的、深い階層に設置しました。
(クリックしてリンク先に飛んでいく回数が多い場所に設置しました。)
以下は、その18歳以上向けの記事へのリックです。
簡単なウェブサイトの方を、ご覧になりたい方は、
上記のリンクをクリックして下さいませ。
・・・
アジア
インド India 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/48384151.html
この記事は、10067字。記事内で使用された絵は、20枚。写真48枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、188枚。写真は、8884枚。
カンボジア Cambodia 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/60534221.html
この記事は、10067字。記事内で使用された絵は、80枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、301枚。写真は、16876枚。
スリランカ Sri Lanka 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/48001163.html
この記事は、10451字。記事内で使用された絵は、15枚。写真46枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、120枚。写真は、10330枚。
タイ Thailand 担当:二見茜
http://painting.sblo.jp/article/53821500.html
この記事は、3623字。記事内で使用された絵は、7枚。写真31枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、40枚。写真は、9388枚。
台湾 Taiwan 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/55387030.html
この記事は、7656字。記事内で使用された絵は、8枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、121枚。写真は、1262枚。
中国 China 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/43553532.html
この記事は、5252字。記事内で使用された絵は、8枚。写真8枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、58枚。写真は、225枚。
ネパール Nepal 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/46792715.html
この記事は、4484字。記事内で使用された絵は、8枚。写真23枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、110枚。写真は、12208枚。
バングラデシュ Bangladesh 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/42207533.html
この記事は、3485字。記事内で使用された絵は、6枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、436枚。写真は、762枚。
フィリピン Philippines 担当:佐渡愛子
http://painting.sblo.jp/article/51437406.html
この記事は、5540字。記事内で使用された絵は、12枚。写真22枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、203枚。写真は、9943枚。
ベトナム Viet Nam 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/47022786.html
この記事は、4355字。記事内で使用された絵は、5枚。写真9枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、10枚。写真は、360枚。
ミャンマー Myanmar 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/53350487.html
この記事は、8156字。記事内で使用された絵は、13枚。写真42枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、326枚。写真は、10034枚。
マレーシア Malaysia 担当:大川絵美
http://painting.sblo.jp/article/47292725.html
この記事は、3211字。記事内で使用された絵は、8枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、24枚。写真は、121枚。
モンゴル Mongolia 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/46914890.html
この記事は、6730字。記事内で使用された絵は、14枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、172枚。写真は、16367枚。
ラオス Laos 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/56367578.html
この記事は、11747字。記事内で使用された絵は、2枚。写真45枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、2枚。写真は、2209枚。
アフリカ
エジプト Egypt 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/51436260.html
この記事は、4395字。記事内で使用された絵は、5枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、36枚。写真は、1455枚。
ガーナ Ghana 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、9451字。記事内で使用された絵は、10枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、50枚。写真は、2132枚。
カメルーン Cameroons 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、4499字。記事内で使用された絵は、9枚。写真27枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、55枚。写真は、71枚。
ケニア Kenya 担当:田島久美子
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、6664字。記事内で使用された絵は、7枚。写真33枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、167枚。写真は、11248枚。
シエラレオネ Sierra Leone 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/54392160.html
この記事は、10783字。記事内で使用された絵は、24枚。写真54枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、672枚。写真は、18155枚。
ジブチ Djibouti 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/53030820.html
この記事は、4607字。記事内で使用された絵は、10枚。写真28枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、60枚。写真は、169枚。
セネガル Senegal 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/55368318.html
この記事は、7468字。記事内で使用された絵は、8枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、33枚。写真は、51枚。
チュニジア Tunisia 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/47064135.html
この記事は、4551字。記事内で使用された絵は、5枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、107枚。写真は、247枚。
ニジェール Niger 担当:周東明美
http://painting.sblo.jp/article/41940150.html
この記事は、2959字。記事内で使用された絵は、5枚。写真10枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、201枚。写真は、782枚。
ブルキナファソ Burkina Faso 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/53867977.html
この記事は、5886字。記事内で使用された絵は、6枚。写真32枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、167枚。写真は、7781枚。
ベナン Benin 担当:田島久美子
http://painting.sblo.jp/article/60534249.html
この記事は、8308字。記事内で使用された絵は、30枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、110枚。写真は、455枚。
ボツワナ Botswana 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/46245999.html
この記事は、3644字。記事内で使用された絵は、4枚。写真12枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、95枚。写真は、393枚。
マダガスカル Madagascar 担当:寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/47656421.html
この記事は、3058字。記事内で使用された絵は、6枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、138枚。写真は、394枚。
モザンビーク Mozambique 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/47635002.html
この記事は、3772字。記事内で使用された絵は、9枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、165枚。写真は、113枚。
モロッコ Morocco 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/53273739.html
この記事は、4545字。記事内で使用された絵は、9枚。写真28枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、17枚。写真は、68枚。
アメリカ、ラテンアメリカ
アメリカ合衆国 USA(United States of America) 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/53125565.html
この記事は、9823字。記事内で使用された絵は、17枚。写真43枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、610枚。写真は、9782枚。
アルゼンチン (Argentina) 担当:菊地賢一
http://painting.sblo.jp/article/58310136.html
この記事は、6631字。記事内で使用された絵は、5枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、5枚。写真は、26枚。
コロンビア Columbia 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/54336575.html
この記事は、6801字。記事内で使用された絵は、16枚。写真74枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、229枚。写真は、6788枚。
セントルシア Saint Lucia 担当:寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/47928967.html
この記事は、2447字。記事内で使用された絵は、5枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、102枚。写真は、335枚。
パラグアイ Paraguay 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/48362655.html
この記事は、4974字。記事内で使用された絵は、8枚。写真18枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、152枚。写真は、705枚。
ブラジル Brazil 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/47599210.html
この記事は、4708字。記事内で使用された絵は、10枚。写真20枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、166枚。写真は、4231枚。
ペルー Peru 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/54057213.html
この記事は、10564字。記事内で使用された絵は、6枚。写真46枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、60枚。写真は、9291枚。
ボリビア Bolivia 担当:佐渡愛子
http://painting.sblo.jp/article/47373711.html
この記事は、3442字。記事内で使用された絵は、12枚。写真21枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、652枚。写真は、1813枚。
太平洋
パプアニューギニア Papua New Guinea 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/47999666.html
この記事は、4956字。記事内で使用された絵は、15枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、566枚。写真は、57枚。
フィジー Fiji 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/53049100.html
この記事は、4406字。記事内で使用された絵は、4枚。写真17枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、4枚。写真は、1356枚。
ヨーロッパ
イタリア Italy 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/47998340.html
この記事は、2060字。記事内で使用された絵は、8枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、81枚。写真は、3572枚。
グリーンランド Greenland 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/49110184.html
この記事は、5834字。記事内で使用された絵は、11枚。写真26枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、124枚。写真は、1526枚。
コソボ Kosovo 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/53321180.html
この記事は、5365字。記事内で使用された絵は、7枚。写真32枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、96枚。写真は、356枚。
デンマーク Denmark 寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/49362662.html
この記事は、2950字。記事内で使用された絵は、4枚。写真12枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、22枚。写真は、39枚。
ポーランド Poland 担当:菊地賢一
http://painting.sblo.jp/article/60481801.html?1354500081
この記事は、8679字。記事内で使用された絵は、5枚。写真56枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、5枚。写真は、2562枚。
ロシア Russia 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/52096010.html
この記事は、9136字。記事内で使用された絵は、13枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、49枚。写真は、1425枚。
日本
岩手県奥州市水沢区 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/56062309.html
この記事は、5777字。記事内で使用された絵は、17枚。写真23枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、48枚。写真は、693枚。
東京都 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/57070226.html
この記事は、5164字。記事内で使用された絵は、11枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、781枚。写真は、1628枚。
長野県栄村 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/54995430.html
この記事は、4256字。記事内で使用された絵は、5枚。写真21枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、58枚。写真は、1931枚。
まだ制作中のもの
ベナン Benin 担当:田島久美子
カンボジア Cambodia 担当:矢野弘明
・・・
・・・
その2.写真絵本版(小学5年生以上向け)
(カンボジア編が基本です。
お絵描きイベントの根本的なメッセージが描かれています。
ご興味のある方は、まずそれから、ご一読下さい。)
あなたのたいせつなものはなんですか?―カンボジアより (小学館、2005年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097278916/
地球温暖化、しずみゆく楽園ツバル (小学館、2008年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097262955
ルーマニア どこからきてどこへいくの (小学館、2009年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097263730
HIV/エイズとともに生きる子どもたち ケニア (小学館、2009年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409726401X
・・・
補足:
18歳前後向けの、『ウェブ版』は、
「国際協力に興味はあるけれど、
何をしたらいいいのか、さっぱりわからない」
という状態の、大学1年生ぐらいの方のために、
国際協力をする上で、まず知っておくべき、
基本的な情報を提供する、という企画です。
世界各国の人々が描いた「大切なもの」の絵を通し、
その国の背景にある社会問題を説明し、
それに対して、各国際協力団体が、
どのようなプロジェクトを行っているか、までを、
簡潔に説明しています。
とりあげる社会問題としては、
政治(紛争・差別・難民など)、
経済(貧困、貧富の差の拡大など)、
教育(初等教育就学率、女児が学校にいけないなど)、
医療(乳幼児死亡率、妊産婦死亡率など)、
環境(気候変動、生物多様性など)、
などですが、なんでも取り上げます。
当法人は、政治・宗教的に完全に中立のため、
紹介する国際協力団体として、
国際機関(国連など)、政府機関(JICAなど)、
民間組織(NGO・NPOなど)、企業(社会企業、フェアトレードなど)を、
それぞれ、公平な視点で、まんべんなく紹介しております。
・・・
補足2:
お絵描きイベントは、
2000年頃から、山本敏晴が個人として始め、
2004年からNPO法人・宇宙船地球号を創設して
続行しているイベントです。
これまで、
60か国以上の国々で実施してきました。
上記の本や記事たちは、
そこから生まれたものです。
NPO法人・宇宙船地球号の活動については、以下をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65628221.html
お絵描きイベントは、2種類に、まとめられています。
@インターネット上の、『ウェブ版』
http://www.ets-org.jp/artevent_age10/
A小学5年生以上向けの、『写真絵本版』
以上の二つです。
・・・
その1.インターネット上の、『ウェブ版』
このサイトは、
まず、中学生前後の方々にも、わかりやすいように、
各国から、1枚ずつ特徴的な絵を選び出した、
簡略化したホームページを、
比較的、浅い階層に作りました。
(クリックしてリンク先に飛んでいく回数が少ない場所に設置しました。)
また、
大学生以上向けに、
「大切なもの」の絵を通して、
各国にある社会問題を導き出し、
また、
そうした問題に対して、実施されている
各国際協力団体によるプロジェクトも階層しました。
これらは、
比較的、深い階層に設置しました。
(クリックしてリンク先に飛んでいく回数が多い場所に設置しました。)
以下は、その18歳以上向けの記事へのリックです。
簡単なウェブサイトの方を、ご覧になりたい方は、
上記のリンクをクリックして下さいませ。
・・・
アジア
インド India 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/48384151.html
この記事は、10067字。記事内で使用された絵は、20枚。写真48枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、188枚。写真は、8884枚。
カンボジア Cambodia 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/60534221.html
この記事は、10067字。記事内で使用された絵は、80枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、301枚。写真は、16876枚。
スリランカ Sri Lanka 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/48001163.html
この記事は、10451字。記事内で使用された絵は、15枚。写真46枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、120枚。写真は、10330枚。
タイ Thailand 担当:二見茜
http://painting.sblo.jp/article/53821500.html
この記事は、3623字。記事内で使用された絵は、7枚。写真31枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、40枚。写真は、9388枚。
台湾 Taiwan 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/55387030.html
この記事は、7656字。記事内で使用された絵は、8枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、121枚。写真は、1262枚。
中国 China 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/43553532.html
この記事は、5252字。記事内で使用された絵は、8枚。写真8枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、58枚。写真は、225枚。
ネパール Nepal 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/46792715.html
この記事は、4484字。記事内で使用された絵は、8枚。写真23枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、110枚。写真は、12208枚。
バングラデシュ Bangladesh 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/42207533.html
この記事は、3485字。記事内で使用された絵は、6枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、436枚。写真は、762枚。
フィリピン Philippines 担当:佐渡愛子
http://painting.sblo.jp/article/51437406.html
この記事は、5540字。記事内で使用された絵は、12枚。写真22枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、203枚。写真は、9943枚。
ベトナム Viet Nam 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/47022786.html
この記事は、4355字。記事内で使用された絵は、5枚。写真9枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、10枚。写真は、360枚。
ミャンマー Myanmar 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/53350487.html
この記事は、8156字。記事内で使用された絵は、13枚。写真42枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、326枚。写真は、10034枚。
マレーシア Malaysia 担当:大川絵美
http://painting.sblo.jp/article/47292725.html
この記事は、3211字。記事内で使用された絵は、8枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、24枚。写真は、121枚。
モンゴル Mongolia 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/46914890.html
この記事は、6730字。記事内で使用された絵は、14枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、172枚。写真は、16367枚。
ラオス Laos 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/56367578.html
この記事は、11747字。記事内で使用された絵は、2枚。写真45枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、2枚。写真は、2209枚。
アフリカ
エジプト Egypt 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/51436260.html
この記事は、4395字。記事内で使用された絵は、5枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、36枚。写真は、1455枚。
ガーナ Ghana 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、9451字。記事内で使用された絵は、10枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、50枚。写真は、2132枚。
カメルーン Cameroons 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、4499字。記事内で使用された絵は、9枚。写真27枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、55枚。写真は、71枚。
ケニア Kenya 担当:田島久美子
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、6664字。記事内で使用された絵は、7枚。写真33枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、167枚。写真は、11248枚。
シエラレオネ Sierra Leone 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/54392160.html
この記事は、10783字。記事内で使用された絵は、24枚。写真54枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、672枚。写真は、18155枚。
ジブチ Djibouti 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/53030820.html
この記事は、4607字。記事内で使用された絵は、10枚。写真28枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、60枚。写真は、169枚。
セネガル Senegal 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/55368318.html
この記事は、7468字。記事内で使用された絵は、8枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、33枚。写真は、51枚。
チュニジア Tunisia 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/47064135.html
この記事は、4551字。記事内で使用された絵は、5枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、107枚。写真は、247枚。
ニジェール Niger 担当:周東明美
http://painting.sblo.jp/article/41940150.html
この記事は、2959字。記事内で使用された絵は、5枚。写真10枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、201枚。写真は、782枚。
ブルキナファソ Burkina Faso 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/53867977.html
この記事は、5886字。記事内で使用された絵は、6枚。写真32枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、167枚。写真は、7781枚。
ベナン Benin 担当:田島久美子
http://painting.sblo.jp/article/60534249.html
この記事は、8308字。記事内で使用された絵は、30枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、110枚。写真は、455枚。
ボツワナ Botswana 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/46245999.html
この記事は、3644字。記事内で使用された絵は、4枚。写真12枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、95枚。写真は、393枚。
マダガスカル Madagascar 担当:寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/47656421.html
この記事は、3058字。記事内で使用された絵は、6枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、138枚。写真は、394枚。
モザンビーク Mozambique 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/47635002.html
この記事は、3772字。記事内で使用された絵は、9枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、165枚。写真は、113枚。
モロッコ Morocco 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/53273739.html
この記事は、4545字。記事内で使用された絵は、9枚。写真28枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、17枚。写真は、68枚。
アメリカ、ラテンアメリカ
アメリカ合衆国 USA(United States of America) 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/53125565.html
この記事は、9823字。記事内で使用された絵は、17枚。写真43枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、610枚。写真は、9782枚。
アルゼンチン (Argentina) 担当:菊地賢一
http://painting.sblo.jp/article/58310136.html
この記事は、6631字。記事内で使用された絵は、5枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、5枚。写真は、26枚。
コロンビア Columbia 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/54336575.html
この記事は、6801字。記事内で使用された絵は、16枚。写真74枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、229枚。写真は、6788枚。
セントルシア Saint Lucia 担当:寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/47928967.html
この記事は、2447字。記事内で使用された絵は、5枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、102枚。写真は、335枚。
パラグアイ Paraguay 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/48362655.html
この記事は、4974字。記事内で使用された絵は、8枚。写真18枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、152枚。写真は、705枚。
ブラジル Brazil 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/47599210.html
この記事は、4708字。記事内で使用された絵は、10枚。写真20枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、166枚。写真は、4231枚。
ペルー Peru 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/54057213.html
この記事は、10564字。記事内で使用された絵は、6枚。写真46枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、60枚。写真は、9291枚。
ボリビア Bolivia 担当:佐渡愛子
http://painting.sblo.jp/article/47373711.html
この記事は、3442字。記事内で使用された絵は、12枚。写真21枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、652枚。写真は、1813枚。
太平洋
パプアニューギニア Papua New Guinea 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/47999666.html
この記事は、4956字。記事内で使用された絵は、15枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、566枚。写真は、57枚。
フィジー Fiji 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/53049100.html
この記事は、4406字。記事内で使用された絵は、4枚。写真17枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、4枚。写真は、1356枚。
ヨーロッパ
イタリア Italy 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/47998340.html
この記事は、2060字。記事内で使用された絵は、8枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、81枚。写真は、3572枚。
グリーンランド Greenland 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/49110184.html
この記事は、5834字。記事内で使用された絵は、11枚。写真26枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、124枚。写真は、1526枚。
コソボ Kosovo 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/53321180.html
この記事は、5365字。記事内で使用された絵は、7枚。写真32枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、96枚。写真は、356枚。
デンマーク Denmark 寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/49362662.html
この記事は、2950字。記事内で使用された絵は、4枚。写真12枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、22枚。写真は、39枚。
ポーランド Poland 担当:菊地賢一
http://painting.sblo.jp/article/60481801.html?1354500081
この記事は、8679字。記事内で使用された絵は、5枚。写真56枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、5枚。写真は、2562枚。
ロシア Russia 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/52096010.html
この記事は、9136字。記事内で使用された絵は、13枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、49枚。写真は、1425枚。
日本
岩手県奥州市水沢区 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/56062309.html
この記事は、5777字。記事内で使用された絵は、17枚。写真23枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、48枚。写真は、693枚。
東京都 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/57070226.html
この記事は、5164字。記事内で使用された絵は、11枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、781枚。写真は、1628枚。
長野県栄村 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/54995430.html
この記事は、4256字。記事内で使用された絵は、5枚。写真21枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、58枚。写真は、1931枚。
まだ制作中のもの
ベナン Benin 担当:田島久美子
カンボジア Cambodia 担当:矢野弘明
・・・
・・・
その2.写真絵本版(小学5年生以上向け)
(カンボジア編が基本です。
お絵描きイベントの根本的なメッセージが描かれています。
ご興味のある方は、まずそれから、ご一読下さい。)
あなたのたいせつなものはなんですか?―カンボジアより (小学館、2005年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097278916/
地球温暖化、しずみゆく楽園ツバル (小学館、2008年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097262955
ルーマニア どこからきてどこへいくの (小学館、2009年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097263730
HIV/エイズとともに生きる子どもたち ケニア (小学館、2009年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409726401X
・・・
補足:
18歳前後向けの、『ウェブ版』は、
「国際協力に興味はあるけれど、
何をしたらいいいのか、さっぱりわからない」
という状態の、大学1年生ぐらいの方のために、
国際協力をする上で、まず知っておくべき、
基本的な情報を提供する、という企画です。
世界各国の人々が描いた「大切なもの」の絵を通し、
その国の背景にある社会問題を説明し、
それに対して、各国際協力団体が、
どのようなプロジェクトを行っているか、までを、
簡潔に説明しています。
とりあげる社会問題としては、
政治(紛争・差別・難民など)、
経済(貧困、貧富の差の拡大など)、
教育(初等教育就学率、女児が学校にいけないなど)、
医療(乳幼児死亡率、妊産婦死亡率など)、
環境(気候変動、生物多様性など)、
などですが、なんでも取り上げます。
当法人は、政治・宗教的に完全に中立のため、
紹介する国際協力団体として、
国際機関(国連など)、政府機関(JICAなど)、
民間組織(NGO・NPOなど)、企業(社会企業、フェアトレードなど)を、
それぞれ、公平な視点で、まんべんなく紹介しております。
・・・
補足2:
お絵描きイベントは、
2000年頃から、山本敏晴が個人として始め、
2004年からNPO法人・宇宙船地球号を創設して
続行しているイベントです。
これまで、
60か国以上の国々で実施してきました。
上記の本や記事たちは、
そこから生まれたものです。
NPO法人・宇宙船地球号の活動については、以下をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65628221.html
posted by お絵描きイベント at 20:10| 日記
2012年12月05日
ベナン Benin

西アフリカにあるナイジェリアとトーゴに挟まれた、
南北に長い、不思議な形をした小さな国。
それがベナンです。

ベナンのセカンダリースクール(日本の中学校と高校に相当します)
に通う子どもたちが、それぞれの「大切なもの」の絵を描いてくれました。

「私の大好きな国、ベナンです。12の県に分かれているの」
ベナンの面積は、11万2,622平方キロメートル(日本の約3分の1)。
そこに、910万人(日本の約7%)、46の部族が住んでいます
(2011年、UNFPA)。
女の子が描いてくれた上の地図、
よく見ると県の順番がバラバラですが、
そこはご愛嬌。
みなさん、本物はご自分で調べてみてください。
ベナンは日本ではなじみが薄い国ですが、
かつて人気を集めたテレビ番組『ここがヘンだよ日本人』に
出演していたタレント、ゾマホン・ルフィンさんの出身国、
といえば、うなずく方も少なくないでしょう。

(コトヌー)
法律上の首都はポルト・ノボですが、
ギニア湾に面し、西アフリカで一番大きな港を有する
コトヌーがもっとも発展しており、実質的な首都となっています。

「みんなが集まるおうちのテーブルには、きれいなお花があるの」
ベナンの治安は比較的落ち着いていますが、
国の発展度合いを示すHDI(人間開発指数)は0.427と、
187カ国中167位です。
この国は、小さいながらも「西アフリカの玄関」ともいわれ、
貿易の一大中継地として、大きな役割を果たしてきました。
そこには、深く黒い歴史があります。
ベナンの港でかつて一大輸出品となったもの、
それは「奴隷」でした。
・・・

ベナンの元の国名は、ダホメー王国といいます。
上は、ダホメー王国時代の国旗です。
とてもかわいらしい国旗ですが、この旗の下に、
黒い歴史がつむがれてきました。
16世紀以前、ベナンには、フォン族、ヨルバ族、
アジャ族など、多くの部族が住んでいました。
このうち、もっとも人口の多かったフォン族の居住地に、
17世紀、ダホメー王国が成立しました。
この王国の繁栄を支えたのが、奴隷貿易です。

ダホメー王国は、近隣の国々を攻め滅ぼし、
敵国の捕虜を奴隷として、ヨーロッパ商人の
火薬や鉄砲と交換し、国力を増強しました。
17〜18世紀にかけて、奴隷貿易は世界の一大産業でした。
ヨーロッパの商人たちは、アフリカから「仕入れ」た奴隷を、
船でアメリカ大陸まで連れて行きます。
なるべく多く奴隷を運ぶため、船中には身動きが取れないほど
奴隷たちが詰め込まれました。
3〜9か月の船旅の間に、ひどいときで3人に1人の奴隷が死亡したといいます。

当時は、ヨーロッパなどで砂糖や紅茶の需要が急増。
アメリカでは大規模な砂糖や紅茶の農場(プランテーション)が
多く作られていました。
家族から引き離され、アフリカから運ばれた奴隷たちは、
プランテーションで一日中、過酷な労働を強いられました。
ベナン沿岸部を中心とするギニア湾岸は、
こうした奴隷貿易の一大中継地として栄え、奴隷海岸と呼ばれました。
ダホメー王国は奴隷たちの苦しみの上に財を築き、
19世紀にかけて絶大な勢力を誇ります。
当時の王宮は、ベナン唯一の世界遺産として保存されています。
(ダホメー王国では、王の近衛兵部隊として、
女性だけの軍団も創設されました。
最強の軍団として、近隣諸国に恐れられたと伝えられます。)
・・・
ベナンの奴隷貿易は、その後の世界の歴史にも
少なからず影響を与えました。

世界で最初の、黒人による共和国となったハイチ。
建国のきっかけとなったハイチ革命を率いた指導者の1人は、
ダホメー王国の奴隷の子孫であるトゥーサン・ルーヴェルチュールでした。
また、現在、西アフリカを中心に、キューバやブラジルなどでも
広く信仰されている「ブードゥー教」。
これは、もともとフォン族の土着宗教だったものです。
ハイチに連れて行かれたフォン族の奴隷の間で発展し、
カトリック教会から徹底的な弾圧を受けながらも、
奴隷貿易の拡大とともに、キューバやブラジル、
北アメリカなどへ広がりました。

(ブードゥー教の儀式)
現在のベナンでは、ブードゥー教(ヴォドゥンといわれる)は
国教となっています。
・・・
栄華を極めたダホメー王国ですが、19世紀、
ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化が進み、
奴隷貿易が廃止されはじめると、財政が弱体化します。
そこにヨーロッパの列強による植民地化の波が押し寄せ、
1894年、ベナンはフランスの植民地となりました。
奴隷貿易で一大勢力を誇った時代から一転、
フランスの従属としての植民地時代が、60年余り続きます。
そして第二次世界大戦が終わった後しばらくしてからの1960年、
ベナンは再び、「ダホメー共和国」として独立を取り戻しました。
現在の国旗は、そのときに制定されたものです。
「国旗は、私たちの誇りです。
緑は希望と復活、赤が先祖の勇気、黄色が富への願望を
表しているの」

独立したダホメー共和国ですが、安定は一筋縄では
得られませんでした。
民族間の抗争や激しい政権争いが続き、独立後、12年の間に、
5度もクーデターが起こります。
1972年、5度目のクーデターで、マチュー・ケレク政権が誕生。
ケレク政権は、ベナンに面する「ベニン湾」にちなみ、
国名を「ベナン人民共和国」と変え、
中国寄りの社会主義国家を目指しました。
しかし、社会主義路線はうまくいかず、ケレク政権の経済政策も失敗。
1989年、ソ連が崩壊間近となり、社会主義国家が次々と消滅して
いったこともあり、国民からは独裁的な政権をやめるようにという声が
強くなりました。
この流れを受け、ケレク政権は1990年、国名を「ベナン共和国」に改称し、
複数政党制、三権分立、大統領制を採用。
資本主義国家としての新たな一歩を踏み出しました。
現在はボニ・ヤイ大統領の下、安定した政権運営が行われています。
長い政情不安の末にたどりついた平穏を、国民は歓迎しています。
「ふだんの暮らしが大切です。失いたくありません」
・・・
ベナンの人々の暮らしをみてみましょう。
「実りは私たちの宝です。自然が、私たちの生活を支えています」

今回のお絵描きイベントでは、多くの子どもたちが、
美しい植物の絵を描いてくれました。
ベナンは、国民の大半が農業に従事する農業国です。
主要な輸出品は綿花で、他にもパームオイル、トウモロコシなどが
栽培されています。
産業が多角化していないため、
市場価格の影響を受けやすいのが弱みです。
(一般に、農産物をまったく加工せず、そのまま輸出する産業形態は、
世界的な食料価格の影響を受けやすいため、利益が急に減ったり
増えたりするリスクがあるといわれています。)
近年、欧米諸国が国内の綿花農家に対して補助金を出したことにより、
綿花の価格が変動し、ベナンの綿花産業に大きな打撃となりました。

ベナンは、同じく綿花を主要産業とするブルキナファソ、チャド、マリの
4カ国と、「欧米諸国の綿花補助金の段階的な撤廃」と、
「撤廃までの期間の補償措置」を求める『綿花イニシアティブ』を推進し、
日本のODAもこれを支持しました。

ベナンに産業を生み出すため、日本のNPO法人「IFE」は、
株式会社スタジオグラフィコなどとともに、
「フィール・ピース・プロジェクト」を行っています。
このプロジェクトは、単なる物的、金的支援ではなく、
長期的な収入源となる産業を作り、現地の自立を支援することを
目的としています。
フィール・ピース・プロジェクトの一環として、スタジオグラフィコは、
ベナン産のシアバター※を原料に使用したスキンケア化粧品
「スキンピース」シリーズを開発。
日本国内での需要拡大をめざしています。
※シアバター:シアバターノキという木から取れる脂(あぶら)で、
食用や保湿用クリームなどに使われています。
・・・
「水辺の生活が大切です。漁は、生活の一部なんです」
農業に次いで、ベナンの人々の生活を支えるのは、水産業です。
ベナンの国民の動物たんぱく質摂取量の40%は、水産物から得られている、
というデータがあります。
コトヌー港での交易業は、ベナンの経済において重要な役割を担っていますが、
漁業地としては、海岸線が120kmと短く、漁場にはあまり適しません。
では、ベナンの人々は、どこから水産物を得ているのでしょう?

ベナンの沿岸部には、ラグーン(湾口がふさがってできた湖沼)が
広がっており、国土にも総延長700km超におよぶ河川が流れています。
ベナンの人々は、この内陸部の水産業を、大切な資源としているのです。
海の漁業の漁獲量が年間約1万トン弱なのに対し、
内陸漁業(養殖含む)の漁獲量は、3万5千トンに達します。
しかし現在、この漁獲量だけでは国内の需要をまかないきれず、
年間で4万5千トンもの水産物を、他国からの輸入に頼っています。

ベナンの人口は年々、高い割合で増え続けており、
それにともなって、食糧も確保していかねばなりません。
ベナン国政府は、国内でまだ十分発達しておらず、
今後、増産が期待される「内陸地での養殖」について、
日本に支援を要請しました。
これを受けて、日本の国際協力機構(JICA)は
「内水面養殖普及プロジェクト」を実施。
養殖の専門家を派遣し、ベナンの農業・畜産・水産省と協力して
養殖家戸数を増やす試みに取り組んでいます。
このプロジェクトには、雇用を増やし、農民の収入を向上させることも
期待されています。

(ベナンの標準的な食事。白いのは、トウモロコシの粉から作られる「ウォー」。
手でちぎり、野菜や魚介の入ったスープと一緒に食べます)
・・・
農業と水産業で生計を立てるベナンの人々。
この国が抱えている大きな問題は、出産するお母さんと新生児の
死亡率がとても高いことです。

ベナン国民の平均寿命は56歳。
(日本は83歳)(ユニセフ、世界子供白書2012)
5歳未満の子どもが死亡する率は、1000人中115人です。
これは世界の中で20番目に高い数値です。
(日本は1000人中3人、186番)
家の近くに病院がないため、介助がないまま自宅で出産し、
命を落とすお母さんがいます。
その理由は、出産後の出血が止まらないことなどです。
また、生まれた子どもも頻繁に亡くなります。
肺炎や下痢などの感染症が、おもな原因です。
病院がなく、医師や看護師がいないため、こうしたことが
起こるのです。
前述のゾマホンさんも、10人いた兄弟のうち、
7人が幼くして亡くなっているそうです。

こうした状況を受け、JICAは、地域の中心的な役割を担っている
コトヌー市のラギューン母子保健病院の施設・設備の拡充を支援。
保健の専門家や青年海外協力隊を派遣し、現地の医療従事者のための
研修なども行っています。
また、NPO法人「ハンガー・フリー・ワールド」は
コトヌー市近くのベト村に母子保健センターを建設。
いずれは地域の行政と住民が自分たちの手でセンターを運営していけるよう、
活動を続けています。

・・・
まだ大きな問題となっていませんが、ひとつ、
懸念されていることがあります。
エイズの拡大です。
ベナンの成人のHIV感染率は1.2%と、
アフリカ諸国の中では比較的、低いほうです。
(トーゴ3.2%、ケニア6.3%、ザンビア13.5%、日本0.1%)
(ユニセフ「世界子供白書」2012。データは2009年のもの)
しかし、マイクロソフトの創業者であり、世界最大規模の慈善団体
「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」の会長であるビル・ゲイツ氏は、
「ベナンでは今後、都市部のセックス産業に関わる人々の間で
HIV新規感染者が増大するだろう」と懸念を表明しました。
同時に彼は、コンドームの使用の奨励など予防ツールの拡大で、
感染者を大幅に減らせるとの解決策を提示しています。

世界人口白書2011によれば、コンドームやピルといった
近代的避妊法を行っている15〜49歳の女性は、
ベナンではわずか6%です。
(日本は44%)
ひとたび感染が拡大すれば、それをくい止めるのは困難です。
早い段階でのエイズ予防知識の普及が求められています。
・・・
「ぼくの大切なものはアニメのナルトです。
友達の間でも流行っていて、大好きです」

ベナンの人々は親日家です。
外務省の一般文化無償資金協力により、
2010年から国営ラジオ・テレビ局に、日本の番組も入るようになりました。

一方、日本でベナンといえば、前述の
テレビ番組『ここがヘンだよ日本人』で人気を集めた、
タレント、ゾマホン・ルフィンさんが有名です。
ゾマホンさんは、ベナン国立大学を卒業後、
中国・北京語文化大学に留学。
その後、来日し、上智大学大学院に入学。
現在は、2012年より、駐日ベナン共和国大使に就任しています。
ベナンにいたころ、街灯や月明かりの下で勉強し、苦労して学校に通った
ゾマホンさんは、母国が抱える最大の問題に、「教育」を挙げています。

(ベナンの学校)
ベナンでは、2007年から小学校の授業料が無償化され、
初等教育の就学率は男子99%、女子86%にまで上昇しました
(2011年、世界子供白書)。
しかし、学校の数や教員は慢性的に不足しています。
また、中等教育の就学率は男子26%、女子13%と非常に低く、
15‐24歳の若者の識字率は男子64%、女子42%と、
男女間の差もあります。
植民地時代の影響も色濃く残ります。
ベナンの公用語はフランス語で、学校でも、
多くの授業がフランス語で行われています。

(授業風景)
「ベナンの教育内容はフランス植民地時代と同じで、土着の教育とは言えません。
私もベナンで受けてきた教育はフランス人になるための教育です。
このような教育では誰も国のために頑張ろうとする人はいません。
みんなフランス寄りになってしまいました。かく言う私も、
最初に行きたかった国はフランスでした。」
(2005年、ゾマホンさんと衆議院議員竹本直一との対談より)
ゾマホンさんは、『ゾマホンのほん』『ゾマホン、大いに泣く』の2冊の本を出版し、
その印税をすべて使って、ベナンに3つの小学校と、日本語学校を建設しました。
ゾマホンさんの活動を個人のものにとどめず、将来的にも支援を行っていくために
設立されたのが、前述のNPO法人「IFE」(ベナンの言葉で「愛・分かち合い」の意)
です。
IFEは、ベナン共和国のIFE財団とともに、日本とベナンを中心とした
教育・文化などの協力提携や、相互理解の推進活動を行っています。
・・・

2001年、ベナンが面するギニア湾で、一艘の船が行方不明になる事件が
起こりました。
この船には、ベナンとその近隣の国から連れてこられた
10〜14歳の139人の子どもたちが乗っていました。
子どもたちは、児童労働に従事させられるため、
ベナンから近隣のガボン共和国へ連れて行かれるところでした。
この事件により、ベナンで子どもの人身売買が深刻な問題であることが
公になります。
はるか昔に終わったと思われていた奴隷貿易ですが、
同じようなことが、現在も続いていたのです。
「海に出て行ったまま、帰ってこない友達・・・」
子どもたちは、誘拐されたり、貧しさのために親が手放したり、
「教育の機会を与えてあげる」とだまされて連れてこられることが多く、
人身売買の結果、児童労働に従事したり、性的な搾取の対象になることが
ほとんどです。
こうした人身売買は秘密裏に行われているため、
なかなかその実態がつかめません。
国際機関のユニセフは、現地NGOへの支援や、
首都のポルトノボで修道院など子どもたちの避難所となる場所への
支援を行い、子どもたちを保護し、その権利を守るための支援を続けています。
・・・
「僕の大事なものはパソコン。
世界のいろんなことを教えてくれるから」

ベナンのインターネット普及率は、1.85%
(国際電気通信連合(ITU)の統計・2008年)。
日本の75.40%に比べたら、とても低い率ですが、
ベナンにも少しずつ、近代化の波は押し寄せています。
それにともない、以前にはなかった、
環境汚染の問題が顕在化してきました。
「自然のなかで好きなものを5つ描きました。
サッカーは、自然のなかで遊べるから好き。
車が多いと、排気ガスがたくさんでます。
男の人は警察官で、“排気ガスを出すのをやめて”と
言っているところです」

日本のように「ゴミはゴミ箱に」という意識がないベナンでは、
人々は道路や空き地など、いろんなところにゴミをそのまま
捨てていきます。
近年は、ビニールやプラスチックなど、自然に還りにくいゴミが増え、
今後、ゴミ問題が深刻化することが予想されています。
学校では、環境に関する授業も行われるようになりました。
「授業で、ゴミが私たちの住むところを汚して、
水も空気も汚れていくことを勉強しました。
清潔なことは大切です」

この女の子は、ゴミが湖を汚し、その汚れた水をみんなが使わなくては
いけない様子を描きました。
女の子のお父さんは、「野生の動物が多く見られたこの地域も、
開発が進むにつれ、住民自身がゴミを捨てたり、道端で排泄するなどし、
地域が汚れてしまった」と、話してくれました。

日本の国際協力機構(JICA)は、環境教育を支援する
青年海外協力隊を派遣し、「みんなが住むところなのだから、
きれいに保っていかなくては」という意識を広げていこうと
しています。
・・・
ここで、現在、アフリカ諸国に訪れている変化をみてみましょう。
20-20a-thumbnail2.jpg)
未開発の天然資源が多くあるアフリカ大陸は今、世界の注目を集め、
各国がこぞって進出を図っています。
その中でも、近年、中国の進出はめざましいものがあります。
中国はこれまで、アフリカ諸国の道路などのインフラ整備を無償で行ったり、
融資を低金利の好条件で行うなど、数十億円規模の資金を投資してきました。
これは、アフリカ大陸の天然資源や成長市場へのアクセスを得るための施策だと
いわれています。
現地に進出しても中国人労働者を起用し、
現地の雇用を拡大するわけではなく「中国式」をつらぬくやり方は、
アフリカの一般の人々の反感を買っています。
その一方で、支援に対し人権問題や独裁政権の改善を求める
欧米諸国と異なり、なんでもタダでやってくれ、交換条件を求めない
中国は、アフリカ政府の偉い人からは歓迎されています。
ベナンにおいてもこの流れは同様で、2011年には、
中国からの申し出により、コトヌーとベナンの中部を結ぶ
およそ100キロの道路の舗装を、中国が無償で行うことになりました。
他にも中国は、さまざまなインフラ整備を贈呈方式で実施しています。
こうした外部からの力は、よくも悪くも、
これからのベナンの人々の生活に影響を与えていくでしょう。
・・・
「人の心のなかに、喜びは簡単には見つけられません。
でも、自分のなかに種を見つけて、喜びの花を育てること。
それが、とても大切だと思います」

7人兄弟のこの女の子の家は、いつもにぎやか。
大変なことも多い生活ですが、うれしいこと、楽しいことを
大切に、笑顔で暮らしています。
日本ではまだまだ知られていない国ですが、
貧しいながらも、元気で、前向きなのがベナンの人々です。
明るい色で、美しい花などの絵を描いてくれた子どもたち。
その絵を見ていると、この小さな国の明るい未来が、
はっきりと想像できます。
・・・
絵と写真を集めた人
青年海外協力隊・看護師・佐藤しおり(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・助産師・中村悦子(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・看護師・鈴木詩子(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・徳星達仁(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・統計・渡邊潤(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・家政・大谷恵美(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・大畑紗弥和(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・狩野麻里絵(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・白神綾菜(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・三橋利佳(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・武藤悠紀(2010年6月〜2010年12月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・吉岡由佳梨(2010年6月〜2012年6月)
画像データを編集し、文章を書いた人:
田島久美子
編集完了日:
2012年12月17日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 11:21| 日記
カンボジア Cambodia

野菜『かぼちゃ』の名前は、国名『カンボジア』に由来します。
かぼちゃは戦国時代にカンボジアから伝わったのです。
当時、カンボジアには日本人街がありましたし、
じつは日本と古くからつながりをもつ国なのです。
そのカンボジアで、子どもたちに尋ねました。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「ボクの大切なものはカンボジアです」


カンボジアは、日本の約半分の国土、約1300万人の人口を擁し、
ベトナム、タイ、ラオスと隣接しています。
内戦があった影響から、
東南アジアでもっとも開発が遅れている国の一つです。
国民の9割がクメール人(カンボジア人)で、
公用語はカンボジア語です。
国民の大半は、修行をすることによって
『涅槃(静寂の境地)』に至ろうとする
『上座仏教』を信仰していますが、
イスラム教など他の宗教を信仰している人もいます。

・・・
それでは、カンボジアの歴史を振り返りましょう。
1〜7世紀前半まで、『扶南(ふなん)』という国が
いまのメコン川の下流地帯を支配していました。
扶南はインド文化を吸収し、海上交易によって栄えましたが、
交易ルートが変わったこともあり、7世紀初頭から衰退していきました。
そこで、ラオス南部を支配する、
クメール人の王国『真臘(しんろう)』が台頭してきました。
この真臘は、一時ラオス南部およびカンボジア全土を支配したものの、
その後は衰退して、ジャワ王国の支配を受けるようになります。

しかし、9世紀初頭、『ジャヤバルマン2世』が
アンコール地域を支配するジャワ王国を撃退し、独立を宣言しました。
これが『アンコール王朝』の始まりです。

(アンコール遺跡群の一つ、ベンメリア)
11〜12世紀にかけて即位した『スールヤバルマン2世』は、
積極的に遠征をおこない、
その勢力をタイ東北部、ベトナム南部にまで拡大しました。
「僕はアンコール・ワットが大好きです。カンボジアの誇りです。」

有名なアンコール・ワットは、この時代に建設されました。
ヒンドゥー寺院であるとともに、スールヤバルマン2世のお墓でもあります。
アンコール・ワットを建設するために、1113年頃から30年あまり、
毎日約1万人の労働力をつぎこまれ、
エジプトのピラミッドと同様、
強権の象徴であると考えられています。

(アンコール・ワット)
スールヤバルマン2世没後、
ベトナムのチャンパ王国による侵攻を受け、
アンコールは一時陥落しました。
しかし、『ジャヤバルマン7世』の指揮のもと、
1181年にはチャンパを撃退し、
アンコール王朝の繁栄を取り戻しました。
『アンコール・トム』はこの頃つくられたもので、
壁にはチャンパとの戦いが描かれています。

アンコール王朝はこのときに最盛期を迎え、
その支配地域は、カンボジア、タイ、ラオス、ベトナム南部にまで及びました。
しかし、13世紀後半になると、モンゴルの元(げん)、
タイのシャム王国(アユタヤ王朝)が侵略し、
国は衰退していきました。
そして、1413年、シャム王国の攻撃を受けて、アンコール地域から撤退しました。

(アンコール・トム)
以後、タイやベトナム、ラオス、
ヨーロッパなどの各勢力がカンボジアに介入するようになります。
17世紀後半からは、カンボジア王室が分裂し、
一方がベトナムから、他方がタイから支援を受けるなどしました。
この結果、互いにカンボジアを属国と考える、
タイとベトナムの間で戦争が起きました。
カンボジアをめぐるこのような複雑な勢力争いが、
後の内戦につながったと言われています…。

(アンコール遺跡群の一つ、タ・プローム)
19世紀になると、フランスがインドシナ半島の支配に乗り出します。
そこで、カンボジア王国はタイとベトナムからの支配から逃れるために、
フランスに保護を要請し、
1884年にフランス保護領となりました。
カンボジアはフランスの保護を受けている期間中、
鉄道などのインフラの整備がすすみ、
目覚ましい経済発展を遂げました。

しかし、フランスが第一次世界大戦に参戦した際、
その戦費をインドシナ半島に求めたため、
カンボジアの国民は重税に苦しみました。
このため、フランスによる統治にもほころびがでるようになりました。
1940年、第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏し、
フランスの代わりに日本軍がカンボジアに進駐しました。
そこで、1941年に即位したシハヌーク殿下(2012年10月没)は、
国民のフランスに対する不満の声を背景として、
日本と協力してカンボジアの独立を宣言しました。
しかし、日本が連合国に降伏したため、
カンボジアの独立は取り消されました。
シハヌーク殿下はそのあとも欧米諸国に積極的に働きかけ、
1954年にようやくカンボジアは独立を勝ち取りました。

(独立記念塔)
シハヌーク殿下は中立政策を掲げ、
東西両陣営から援助を引出し、
農業開発や工業化を促進しました。
首都プノンペンは、これらの支援の恩恵を受け、
『東洋のパリ』と呼ばれるほど発展しました。
カンボジアが唯一平和な時期でした。

1960年、隣のベトナムで東西両陣営による代理戦争が始まると、
シハヌーク殿下は中立を掲げながらも、国の存続のために
北ベトナム軍がカンボジア領内を通って物資を輸送したり、
北ベトナム軍がカンボジア領内に逃げ込むのを認めていました。
ところが、南ベトナムを支援していたアメリカはこれに業を煮やしました。
1970年、反中親米派のロン・ノルにクーデターを起こさせ、
シハヌーク政権を転覆しました。
これにより、『クメール共和国』が樹立しました。
ロン・ノル政権はアメリカと共同でカンボジア領内の
北ベトナム軍や解放戦線を次々と攻撃しました。
加えて、アメリカは北ベトナム軍を攻撃するために、
カンボジア東部で爆撃を繰り返しました。

これに対し、シハヌーク殿下は北京に亡命し、
反米反ロン・ノルを掲げる
『カンボジア民族統一戦線』を結成しました。
これに、ポル・ポト率いる『KR(クメール・ルージュ)』が呼応し、
ロン・ノルに対抗することで合意しました。
こうして、ベトナム同様、親米勢力VS反米勢力
の内戦が勃発しました。
「わたしは戦争をなくしたいです。
戦争のせいで家族や家、健康を失います。
武器の取引はそもそも違法なはずです」


内戦時、報道カメラマンの一ノ瀬泰造は、
アンコール・ワットへの潜入を試みたものの、
クメール・ルージュに捕らえられて殺害されてしまいました。
映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』では、
一ノ瀬泰造が奮闘する様子が描かれています。

(一ノ瀬泰造のお墓)
その後、アメリカ軍がベトナムから撤退すると、
ロン・ノル政権は弱体化しました。
そして、1975年4月、
カンプチア民族統一戦線の軍隊が
首都プノンペンを占領し、ロン・ノル政権は崩壊しました。
内戦は終結しましたが、
それまでに50万人以上が死亡しました。
また、100万人以上が難民となって首都プノンペンに流入し、
プノンペンの人口は200万人に達しました。
「ボクは戦争をなくしたいです」


カンボジア民族統一戦線がプノンペンを占領したとき、
国民の多くはカンボジアが平和になると思いました。
しかし、国民にとって本当の受難はそこから始まりました。

(ポル・ポトの肖像)
ポル・ポトは、
全国民が自給自足の生活をし、
さながら原始時代のように血縁同士で富を分かち合う
『原始共産主義社会』を理想としていました。
これを実現するためには、
都市や、病院、学校、貨幣、宗教などの
旧体制を徹底的に破壊する必要がありました。

ポル・ポトは、まず、首都プノンペンの市民200万人を、
着の身着のままで自宅から追い出し、
農村部に強制移住させました。
この強制移住は徒歩で行なわれ、子どもや老人、病人など、
多くの人たちが途中で命を落としました。
死体であふれかえった国道を国民が行進する様子は、
まさに地獄絵図だったと言われています。

そして、古くから農村部にいる住民を『旧住民』、
都市部から農村部に移動した住民を『新住民』と呼び、
新住民にはいかなる権利も与えられませんでした。
ポル・ポトは、旧体制になじんだ都市部の住民が許せなかったのです。
新住民のなかには、過酷な労働に従事させられ、
病気や飢餓で死んでいく人も多数いました。

ポル・ポトは、内戦中はシハヌーク殿下と協力関係にあることを利用して、
国民の支持を集めることに成功しました。
ところが、内戦が終結するとシハヌーク殿下の存在が邪魔になりました。
そこで、ポル・ポトはシハヌーク殿下を幽閉し、自ら首相に就任しました。
以後、ポル・ポトの暴政に拍車がかかります。

(王宮の中にあるアンコール・ワットの模型)
ポル・ポトは農村部で大規模な粛清を開始しました。
具体的には、医者や教師、技術者などの知識人を徹底的に抹殺しました。
海外に留学している者も「国の再建のため」という名目で帰国させ、
次々と抹殺しました。
なかには、メガネをかけているだけで知識人とみられ、
抹殺された人もいました…。
政策に対して異を唱える可能性がある知識人たちは邪魔だったのです。

また、ポル・ポトは側近などにも疑いの目を向け、
粛清をしていきました。
首都プノンペンにある『S21(現トゥールスレン博物館)』は
政治犯を収容したところで、
約2万人が収容され、そのうち生きのびたのはわずか『7名』でした。

ポル・ポトは、通貨や法律、市場、企業などすべて廃止しました。
休日はなくなり、音楽や映画などの娯楽も禁止となりました。
また、国民の心のよりどころとなる仏教も弾圧しました。
仏教寺院を破壊し、6万人いた僧侶のうち2万5千人を殺害し、
残りを還俗させました。

加えて、夫婦を引きはなし、
子どもたちは5〜6歳で親から引き離して
『国家の子ども』として教育を受けさせました。
恋愛も禁止され、
国民は党が決めた相手との結婚を強要され、
逆らうと、本人もしくは家族が処刑されました。
カンボジアの国民は、
農作業や土木作業をすることだけが許されるという、
まるで奴隷のような生活を強いられることになりました。

さらに、ポル・ポトは中国の『大躍進政策』という農業政策をまねしました。
これは中国で失敗して大飢饉を招いたにもかかわらず、
隠ぺいされていたため、
ポル・ポトは失敗の歴史を学ぶことができませんでした。
結果、カンボジアでも中国と同じように大飢饉が起こりました。
しかし、ポル・ポトは、この失敗を国内にいる反乱分子のためと考え、
子どもをスパイにし、
反乱の恐れがある者を次々と摘発して抹殺していきました。
このように、恐怖の政治を次々と断行していったのです。

恐怖政治を断行したポル・ポト政権も崩壊するときがきます。
ポル・ポトはベトナムを敵視しており、
国が疲弊しているにもかかわらず、ベトナムに度々侵攻しました。
これに対し、1978年12月、ベトナム軍がカンボジアに反撃すると、
わずか2週間で首都プノンペンを占領することに成功しました。
こうして、3年8か月に及ぶポル・ポト政権が終わりました。
そして、ベトナム軍はKRの地方小幹部だった
ヘン・サムリンを元首とする政権を擁立しました。

カンボジアを占領したベトナム軍は、
そこで、カンボジアの荒廃した姿を目にしました。
まず、首都プノンペンはゴーストタウンと化しており、
約70人しかいなかったと言われています。
また、カンボジアの都市の郊外にはキリング・フィールド(処刑場)があり、
そこからは夥しい数の白骨死体が見つかりました。
この衝撃は、映画『キリング・フィールド』で描かれています。

ポル・ポト政権下での死者数は100〜200万人と言われています。
これは当時の国民の約1/6〜1/3にあたる数で、
まさに史上最悪の虐殺です。
知識人が殺されたという点も特徴的です。
この影響により、
カンボジアではポル・ポト政権下の1974〜1979年
生まれの人口が極端に少なく、
人口ピラミッドは一部が窪んだひょうたん型となっています。
また、内戦前に生まれた男性の比率が少ないことも特徴的です。
男性のほうが知識人と見られやすく、多く殺害されたためです。

ベトナム軍の侵攻後、
ポル・ポトはタイ国境付近のジャングルに逃げ込みました。
以後、5〜10月の雨季には
KR、王党派、共和派からなる三派連合が
タイ国境付近からゲリラ活動を展開し、
4月の乾季にはヘン・サムリン政権が重火器で応戦するという
内戦が10年間続きました。
これにより、100万人以上の難民が発生し、国際問題となりました。
しかし、カンボジアの混乱は国際社会から放置されました。
ヘム・サムリン政権はベトナムの傀儡政権だったので、
アメリカなど、反ベトナム・反ソ連の西側諸国は
国として承認しなかったからです。

しかし、1989年9月、ベトナム軍がカンボジアから撤退すると、
和平への機運が高まりました。
日本政府はカンボジアの平和構築に積極的に関わり、
1990年には東京で国際会議を開催しました。
そこで、プノンペン政権と三派連合政府が対等参加する
最高国民評議会を設置することなどで合意しました。
1991年10月、『パリ和平協定』が結ばれ、内戦は終結しました。

1992年3月、
国連が設立した『カンボジア暫定統治機構(UNTAC)』が活動を開始し、
明石康が特別代表に就任しました。

UNTACは、
難民の帰還、地雷撤去、武装解除などの平和活動(PKO)を実施しました。
日本はこのとき初めてPKO活動に参加しました。
国連ボランティアの中田厚仁が死亡するなどの犠牲がでましたが、
1993年5月、UNTACが監視するなか、国民総選挙が実施され、
新しい憲法が成立し、
シハヌーク殿下を国王とする『カンボジア王国』が成立しました。
カンボジアにようやく平和が訪れました。
「戦争は嫌いです。私たち子どもは平和を望んでいます。」


・・・
パリ和平後、カンボジアに平和が訪れましたが、
ポル・ポト時代の大量虐殺や内戦の影響は今も残っています。
たとえば、地雷の問題があります。
「ボクは地雷と不発弾をなくしたいです」


カンボジアでは、1970年からの約30年間に、
500万もの地雷が埋められたと推定されています。
カンボジアは世界で最も地雷埋設密度の高い国なのです。

株式会社山梨日立建機は、
地雷の撤去と農耕を同時に行える重機を開発して、
カンボジアやアンゴラなどで地雷撤去を行っています。

他方、重機が入り込めず、
手作業により地雷を撤去せざるをえない地域も多数あります。
そこで、自衛隊OBが作ったJMASというNPOは、
現地人を訓練して地雷撤去要員として雇用し、
地雷撤去と貧困削減に役立つプロジェクトを進めています。

また、カンボジアのCMACという政府系組織は
日本やアメリカからの支援を得て、
20年間で40万個の地雷を撤去しました。
CMACは「世界への恩返し」ということで、
同じく多くの地雷が埋設されているコロンビアに
地雷撤去の技術を移転しています。

カンボジアには地雷の撤去がすんでいない地域には、
ドクロのマークがついた鉄柱が建てられています。
しかし、この鉄柱が忽然と消えてしまうことがあります。
鉄柱を外し、椅子や机に加工して販売する人がいるからです。
このため、何も知らずに地雷原に踏み込んだ人が、
地雷を踏んでしまうケースが後をたちません。

そこで、NGOカンボジア・トラストは、
地雷で足を失った人のために義足を製作するとともに、
同じく地雷の多いアフガニスタン等から
研修生を呼び義足の製作技術を伝授しています。

地雷の撤去作業には、
これからも長い年月がかかると予測されます。
内戦が終わったとはいえ、
その悪影響ははかり知れないものがあります。
・・・
それでは、カンボジアの政治をみてみましょう。
まず、KRの元幹部たちを裁くKR裁判です。
ポル・ポトは1998年にジャングルで病死したものの、
大量虐殺を指揮したKRの元幹部たちが生存していたので、
1997年から、元幹部たちを裁こうとする動きがはじまりました。

しかし、ポル・ポト政権後、
カンボジアには基本的な法律がありませんでした。
新しい法律が整備されなければ、
元幹部たちを裁くことができません。
そこで、
2009年にはフランスの支援で新しい『刑法』が施行され、
2011年には日本の支援で新しい『民法』が施行されました。
また、カンボジア政府と国連が『特別法廷』を設置し、
カンボジア人と外国人の裁判官の合議体による
公平な裁判を行えるようにしました。

こうした努力の末、
S21で政治犯の処刑を指揮していたドゥイッの有罪判決が確定しました。
他にも4名の元幹部が罪を問われており、現在審議中です。
日本政府はこのKR裁判に必要な資金の約半分を拠出するとともに、
最高審判事として野口元郎を派遣するなどの支援をしています。
ただ、人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは、
KRの元幹部たちが多数在籍している人民党の圧力により、
裁判のための捜査が十分に行われていない、などの問題を指摘しています。

・・・
カンボジアでは政治的腐敗・汚職の問題が深刻です。
国際NGOトランスペアレンシー・インターナショナルの
汚職度調査(2009年版)によれば、
カンボジアは180ヵ国中159位(日本は17位)にランキングされています。
カンボジアでは法整備が進んでいますが、法整備が進んでも、
政治的腐敗・汚職がはびこっており、法律が有名無実化しています。

カンボジアの実態をみてみると、たとえば、警察は誰かを逮捕しても、
賄賂と引き替えに放免することがあります。
このため、警察官に賄賂を払うことのできる富裕層は逮捕されず、
貧困層だけが逮捕されてしまいます。
さらに、政治的腐敗・汚職による経済的損失も深刻で、
米国国際開発庁が2004年に調査した結果によれば、
その額は年間3〜5億ドルに上ります。

こうした問題が起きる原因の一つとして、
公務員の給料が低すぎるため、
給料だけでは生活していけないことがあげられます。
近年、カンボジア政府は抜本的な税制改革に乗り出しています。
日本政府は専門家を派遣して研修を実施したり、
必要な機材を投入するなどの支援をしています。
カンボジア政府の税収が増えれば、
こうした腐敗は減少すると期待されます。

・・・
カンボジアでは、内戦は終わりましたが、
近年、タイとの間で領土紛争が起きています。
タイとの国境付近に『プレアビヒア寺院』というヒンドゥー寺院があります。
これはアンコール・ワットよりも約300年前にたてられたものです。

(プレアビヒア寺院)
断崖絶壁の上にあるため、以前はアクセスするのが困難でしたが、
いまでは歩道が整備されてアクセスしやすくなり、
観光資源としての価値が見込めるようになりました。

(プレアビヒア寺院からみたカンボジアの大地)
しかし、2008年、カンボジアの申請により世界遺産に認定されると、
このプレアビヒア寺院の領有権をめぐって、
タイとの間で紛争が生じるようになりました。
タイとカンボジアが用いる地図が異なり、
互いにプレアビヒア寺院が自国の領土にあると主張しているためです。
これは、日本と韓国、中国との領土争いに似ているように思われます。

また、カンボジアからだと断崖を登らなければならないのに対し、
タイ側からは容易にアクセスできることも、問題を複雑にしています。
互いの領土問題にかかわるため、
解決に至るにはまだ時間がかかりそうです。
「武器と爆発物の取引は禁止されています。武器は世界を滅ぼします。」


・・・
次に、カンボジアの環境問題をみてみましょう。
カンボジアには東南アジア最大のトンレサップ湖があります。
約100万人がこのトンレサップ湖に船を浮かべて暮らしていて、
水上生活者の規模は世界一です。

トンレサップ湖は、
乾季は水深1m、面積2700平方kmほどしかありませんが、
雨季になるとメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流します。
その結果、トンレサップ湖は、
水深は9m、面積は6倍の16000平方kmになります。
このとき、トンレサップ川が逆流することによって、
トンレサップ湖およびその周辺に大量の養分が発生します。
その結果、トンレサップ湖では魚が大量発生し、
その周辺でも農業の生産効率が高まるという利益があります。

ところが、このトンレサップ湖周辺を脅かす問題が起きています。
中国が、メコン川の上流地域に、
水力発電ダムを3基建設したのです。
このため、下流で水位の減少や漁獲高の減少が報告されています。
また、生物が上流と下流の間を行き来することが難しくなるため、
多くの生物種が絶滅に追い込まれるとみられています。
たとえば、メコンイルカは、以前は頻繁に目撃されていましたが、
いまでは殆ど目撃されなくなりました。
「僕は自然が大切だと思います」

中国は水力発電ダムをあと12基建設する予定です。
もし建設が予定通りに進めば、メコン川の下流地域、
特にトンレサップ湖周辺とメコンデルタ地域に、
漁獲高の減少や、砂漠化、生物多様性の消失など、
深刻な環境問題をもたらすと考えられています。
流域諸国が集まって協議するメコン川委員会は、
中国に対して水力発電ダムの建設の凍結をもとめましたが、
交渉はうまくいっていません。
中国のダム開発は、
メコン川流域に住む6千万人の暮らしに影響を及ぼします。
このため、中国の動きにはこれからも要注目です。

・・・
続いて、カンボジアの経済面をみてみましょう。
カンボジアは『後発開発途上国』だったものの、
1991年のパリ和平後、先進国の支援を得て、
順調な経済成長を続けています。

カンボジアの主要産業は農業です。
国民の約6割が農業に従事しており、
コメを中心とした農業は重要です。
しかし、その生産性は概して低いため、
日本政府は、コメの優良種子を利用した
稲作に関する技術協力などを行なっています。

農業以外では、人件費が低いことを背景として縫製業が盛んです。
首都プノンペンには、
リーバイスやZARA、GAP、ユニクロなどの縫製工場があり、
農村出身の若い女性の働き口となっています。
「わたしはきれいな洋服が大好きです」

しかし、2012年5月、従業員による待遇改善を求めるストライキが起きました。
いつまでも低賃金のまま雇うわけにはいかないでしょう。

・・・
パリ和平後、人件費が安いことを魅力に
多くの外国企業がカンボジアに進出してきています。
それにより景気が良くなるのはいいのですが、
負の影響もあります。
その一つとして、土地問題があります。
カンボジア政府は広い土地を民間企業に長期間貸し付けて、
民間企業の経済活動を促進しています。
しかし、民間企業に土地が貸し付けられると、
元々そこにいた住民たちは強制退去させられ、
家と財産を瞬時になくしてしまうのです。
東京に本拠を置く国際人権NGOヒューマンライツ・ナウは、
土地政策に対して住民たちが抗議しても、
カンボジア政府は軍隊を派遣して鎮圧したり、
不当逮捕などしている、と指摘しています。

・・・
カンボジアは経済成長をしていますが、
経済発展の恩恵にあずかっているのは都市部に住む一部の人だけです。
少し郊外に行くと人々は何十年前と変わらない生活をしています。

そして、農村で安定した収入を得るのは難しいため、
都市部に流れていく人が後を絶ちません。
しかも、プノンペンに来ても、
学歴がないために稼ぎの良い仕事につけず、スラムに住むことになります。
いま、プノンペンの人口は140万人ですが、
そのうち40万人がスラムに住んでいるといわれています。
「僕の大切なものはおうちさ」


スラムに住めればまだよい方で、
ゴミ山でゴミを拾ったり、
物乞いやストリートチルドレンになる場合も多いのです。
「ボクのたいせつなものはゴミだよ」


現地で日本語教師として働いていた小島幸子は、
現地でお菓子をつくって販売する『アンコールクッキー』を開店しました。
このお店では、都市部出身者を雇わず、
あえて地方出身者を雇っています。
それにより、恵まれない地方出身者の雇用を増やしているのです。
彼女は、一方的に援助するのではなく、若い人たちが
自分の足で自立して生きていくために
働く場所を提供することが必要だと考えています。
時間と労力はかかるでしょうが、
一方的に援助をするよりもずっと効果的かもしれません。

・・・
パリ和平後、カンボジアには、多くの外国人が
世界遺産のアンコール・ワットを訪ねるようになりました。
外国人観光客が増えると外貨を得ることができますが、
そこにも負の影響があります。

その一つが、外国人観光客による買春の増加です。
カンボジアでは貧しさゆえに子どもの人身売買が後を絶ちません。
特に、女の子の場合は、売春宿という働き口があるため、
簡単に売られてしまうのです。
また、男の子も安泰ではなく、物売りや工場での労働力、
臓器移植のために売られてしまうことがあります。
「わたしの大切なものは家族です」


NPO法人かものはしプロジェクトは、
カンボジアの人身売買問題を経済面から解決すべく、
貧困地域で雑貨づくりを支援し、
作られた雑貨を日本で販売するフェアトレードをしています。
また、同団体は、
国連児童基金(UNICEF)や国際NGOワールドビジョンとともに、
警察による人身売買の取り締まりを強化するための訓練も実施しています。
この結果、一般市民の間でも「子どもの売買は悪いことだ」という認識が広がり、
人身売買の被害は減ったとみられています。

・・・
次いで、カンボジアの医療をみてみましょう。
カンボジアは、トイレなどの衛生施設の普及率が世界で最も低い国のひとつです。
トイレなどの衛生施設を使用できるのは全人口の約17パーセントにすぎません。
そして、水と衛生の問題のために、毎年何万人もの子どもが命を落としています。

そこで、UNICEFはカンボジア政府と共に衛生施設の整備を進めています。
この際、ハイテクな施設ではなく、竹やヤシの木などの簡単な材料を用い、
住民を巻き込んで整備にあたることにより、
住民が自ら進んで衛生施設を維持できるようにしています。

カンボジアでは、安全な水にアクセスできるのは
全人口の約41パーセントにすぎません。
このため、各団体は農村地帯で井戸を掘る活動をしています。

ところが、せっかくの井戸が高濃度のヒ素で汚染され、
住民が重いヒ素中毒になってしまう事態が続出しました。
これと同じことが既にバングラデシュやインド、ケニアなどでも起きており、
深刻な社会問題となっています。
井戸を掘るという行為自体は善意によるものなのですが、
水質調査をしたり、
ヒ素除去フィルターをセットで渡すなどの対処が必要でした。
人助けをしようという気持ちだけでは不十分で、
ある程度の知識も必要だという訓示のように思えます。

・・・
1991年、カンボジアではじめてHIV/エイズが発見されました。
以後、カンボジアではHIV/エイズが猛威を振るっています。
カンボジアでは男性の不倫は容認される傾向があるため、
男性が買春してHIVに感染し、
妻、さらには子どもへと感染が拡大してしまうのです。
1997年にはHIV感染率はピークの3%を記録してしまいました。
そこで、カンボジア政府がコンドームの使用を奨励する政策を実施したところ、
HIV感染率は1.6%まで下がりました。
HIV感染率は減少しているものの、
親をエイズで亡くしたエイズ孤児が大量にうまれ、
その多くがストリートチルドレンとなるため、
大きな社会問題となっています。

また、カンボジアではHIV/エイズに対する理解が乏しく、
エイズ患者が差別を受けることも大きな問題です。
エイズ患者が受ける差別としては、
たとえば、医療サービスを受けられない、
仕事を続けられない、家族からも見放される、
お墓への埋葬を拒否されるなどがあります。

カンボジア政府は、
首都プノンペン郊外にHIV感染者を集めた集落(エイズコロニー)をつくって
感染者を強制隔離しています。
しかし、国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは、
この政策がエイズ患者に対する差別を助長していると批判しています。
エイズ問題は医療だけの問題ではなく、人権問題でもあるのです。
・・・
最後に、カンボジアの教育をみてみましょう。
「私の大切なものは学校です」


カンボジアは人口の約40%を子どもが占める、子どもが多い国です。
このため、教育は復興の要となる分野です。
カンボジアの教育システムはポル・ポト時代に徹底的に破壊されました。
ポル・ポト時代には、教師の約75%、初等・中等教育を受けた生徒の67%、
高等教育を受けた生徒の80%が殺害されるか、
強制労働で死亡するか国外に亡命したといわれています。
加えて、学校施設は閉鎖され、印刷物は破棄され、教育システムが消滅しました。
このため、ポル・ポト時代から30年以上たった今でも、
教員や学校、教材が不足しています。
このような問題は地方になるほど深刻です。

また、親の教育に対する理解が低いことや、
教師の質が低いことなどもあいまって、
義務教育を終える前に退学する生徒が多いことも特徴的です。
特に1、2年生で退学することが多く、
この場合、読み書きも身につきません。

そこで、UNICEFは、
就学年齢の子どもたち全員が学校へ通え、
教師に質の高いスキルがあり、
子どもたちが清潔で安心した環境で学ぶことのできる
『子どもに優しい学校』をつくる活動をしています。
UNICEFは、学校に井戸やトイレをつくったり、
教材や遊具、給食を支給するなどの支援をしており、
この結果、UNICEFが支援する小学校では、
ほとんどの子どもが退学せずに中学校に進学しています。

他、JHP・学校をつくる会や、米百俵スクールプロジェクトなど、
さまざまなNPO法人がカンボジアで学校をつくっています。
なかには、大学生がお金を集めてカンボジアで学校をつくった例もあり、
向井理主演の映画『僕たちは世界を変えることができない』になりました。

・・・
さて、カンボジアが抱える様々な課題を取り上げてきました。
史上最悪の大虐殺と内戦があり、今も多数の地雷が埋まっています。
そして、政治的腐敗や、人権侵害、領土問題、人身売買、HIV/エイズ、など、
さまざまな問題を抱えています。
しかし、筆者がカンボジアを訪ねたときに一番印象に残ったのは、
そうした負の面ではありませんでした。
何よりも、子どもたちの屈託のない笑顔が一番印象に残りました。
目がキラキラしていて、本当に純粋な感じがします。
人は貧しくとも、幸せでいられるということを教えられた気がしました。

そして、一番の思い出は、
アンコール・ワットのあるシェムリアップでのことです。
中学生くらいの女の子から絵葉書セットを買いました。
正直、絵葉書を買いたいとは思いませんでしたが、
1ドルと安いし、女の子にお小遣いをあげるつもりで買いました。
帰国後、中を開けると、メッセージカードが入っていました。
「アンコール・ワットに来てくれてありがとうございます。
あなたとお話しできてうれしかったです。
私のことを忘れないでください。
そして、またアンコール・ワットに来てください。
あなたと家族の健康をお祈りします。
そして、お仕事がうまくいくようにお祈りします。」
カンボジアの子どもの純粋な思いに感動しました。
そして、人間として純粋な気持ちを失ってはいけないと心から感じました。
カンボジアはこれからどんどん復興していくでしょう。
これから変わっていくことも多いでしょうが、
それと同時にカンボジアの良さが、
これからも残り続けることを心から願います。

・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004、2009)
村松昌枝(2005)
矢野弘明(2009)
矢野正高(2009)
画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明
編集完了日:
2012年12月16日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 11:20| 日記
2012年12月03日
ポーランド Poland
あなたの大切なものは何ですか。
「私はポーランドが大好きです」
ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制の国です。
首都はワルシャワにあり、公用語はポーランド語です。
国教がキリスト教のカトリックであるため
ポーランドの9割の人がカトリック教徒です。
カトリック教の「総本山」といわれる
バチカンの第264代ローマ教皇であった
ヨハネ・パウロ2世もポーランド出身です。
彼のほかにも、科学者のキューリー夫人、
天文学者のコペルニクス、
ピアニストのショパンなどが有名ですね。
「ポーランド」の語源「ポーレ」は
「平野、耕地」といった意味です。
その由来のとおり国土の大部分は広い平地となだらかな丘陵で
美しい森と平原が広がっています。
ポーランドは、10世紀に建国されました。
16世紀には、ポーランド・リトアニア共和国として
欧州最強にして最大の地位を占めました。
しかし、しだいに国力が衰え、
18世紀末には、3度にわたって、ロシア、プロシア、オーストリアの
隣接三国に分割されてしまいました。
その後、1918年に独立するまでの123年間、
ポーランドという国は世界から姿を消していました。
また、独立後も第二次世界大戦において、
ソ連とドイツに分割占領されるなど、
数世紀わたって隣国による分割・統治を繰り返してきました。
そして、終戦後は、ソ連の支配下に置かれ、
社会主義国として東西冷戦の東側陣営に組み込まれます。
しかし、1989年に東欧革命が起こると、
ポーランドは、共産主義国家から民主国家へと一変しました。
1994年には欧州連合(EU)に加盟、
翌年にはWTO(世界貿易機関)、
また翌年にはOECD(経済協力開発機構)への加盟を果たし、
ポーランドは西側諸国の仲間入りを果たし、
先進国と呼んでもいい国にまで発展しました。
そんなポーランドの歴史を踏まえながら、
ポーランドについて詳しく見ていきましょう。
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「お互いに、よく知りあうことが大切です」
ポーランドが親日国として有名なことをご存知ですか?
ポーランドは、昔から日本文化を高く評価し、
日本研究を行ってきた国なのです。
2012年11月に野田総理大臣が
ポーランドのトゥスク首相と会談をした際も、
ワレサ元大統領が「ポーランドを第二の日本にしたい」と
常々言っていたとトゥスク首相は野田総理に伝えました。
このように、ポーランドが日本に関心を持ち始めたのは
日本が経済大国として国際的に知られるよりもずっと以前のことなのです。
そのきっかけは日露戦争でした。
当時、隣国に国土を分割・統治され、
国家を失っていたポーランド人たちにとって
ロシアは自分たちの国家独立を阻む最大の敵国でした。
そんな敵国ロシアに勇敢に戦いを挑み、見事に勝利した日本という国に
当時のポーランド人たちは大きな関心を寄せました。
第一次世界大戦が終了した次の年(1919年)になると、
ポーランドは悲願の国家再生を果たしますが、
その際にも、ポーランドが親日国となる出来事がありました。
第一次世界大戦後、
ロシア国内は、革命による内戦状態にあり、
混乱を逃れて東に避難したポーランド人の難民が
シベリアに集まっていました。
シベリアはもともと、政治犯などの流刑の地とされていたため、
ポーランド独立を目指して反乱を企てた政治犯やその家族も含め
当時のシベリアには、十数万人のポーランド人が
生活していたと言われています。
彼らは飢餓と疫病の中で苦しい生活を送っていましたが、
特に親を失った子どもたちは悲惨な状況に置かれていました。
1919年9月、ロシア極東部の都市、ウラジオストク在住の
アンナ・ビルケウィッチを中心とするポーランド人たちは、
「ポーランド救済委員会」を組織しました。
この委員会は、親を失った子どもたちだけでも救済し、
祖国に送り届けたいとの思いから結成されました。
救済委員会ははじめ、欧米諸国に援助を求めましたが聞き入れてもらえず、
最終的に、日本政府に援助を要請することになりました。
会長のビエルキエヴィッチが来日し、
外務省を訪れてシベリア孤児の救済を求めると、
彼女の訴えは「日本赤十字社」に伝えられました。
そして、17日後には、シベリア孤児救済が決定されたのです。
「赤十字」は、世界最大のネットワークを持つ人道機関です。
人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性という
7つの「赤十字の基本原則」を掲げています。
日本赤十字社は、1952年に制定されました。
ちなみに、世界の187カ国には、
各国ごとに赤十字グループに含まれる組織が作られています。
日本赤十字社の救済活動は、
シベリア出兵中の日本軍の協力もあり、
決定の2週間後には、救済活動が開始され、
750名以上の孤児たちが日本へ送られ、手厚い保護を受けたのち、
無事に、ポーランドへの帰還を果たすことができました。
・・・
ポーランドの日本への関心の高さは、
教育の分野からも見ることができます。
日本では、ポーランド語を専攻で学べる大学が
1つ(東京外国語大学)しかありませんが、
ポーランドでは、ワルシャワ大学やヤギェウォ大学、
ミツキェヴィチ大学などで日本語を学ぶことができ、
日本関係の教育機関もたくさんあります。
ポーランドの教育水準は高く、
8年制の義務教育が行き渡っています。
高等教育も長い伝統を持ち、
クラクフにあるヤギェウォ大学は1364年に創設されました。
これは中央ヨーロッパでは2番目に古い大学となります。
天文学史上もっとも重要な発見といわれる地動説を説いたコペルニクスや、
史上初のスラブ系教皇となったヨハネ・パウロ2世も
このヤギェウォ大学で学びました。
歴史の深いこの大学の図書館の蔵書は膨大で、
モーツァルトの自筆譜や
貴重な古写本など研究資料の宝庫となっています。
情報機器販売会社である
コニカミノルタビジネスソリュージョンズポーランド社は、
このヤギェウォ大学の財団と共同で、2007年から
ポーランドの文化遺産保護プロジェクトを開始しました。
このプロジェクトでは、
19世紀末から20世紀初頭にかけて出版された
貴重な書籍7点を、
高速複合機で印刷し、復刻出版する予定です。
2010年までに6点の復刻が完成し、
ポーランド全国の大きな図書館に配布されています。
・・・
近年のポーランドを語る上で、
1989年に起こった「体制転換」を避けて通ることはできません。
第二次世界大戦後、ポーランドは、
ソ連の影響下のもとで共産主義化が進められていましたが、
債務の増加と物価の上昇などにより経済的に行き詰まり、
国民の不満は、全国的なストライキへと発展していきました。
政府は、打開策を模索するため、ワルシャワで
「円卓会議」と呼ばれる政府と反体制勢力による話し合いを行い、
その後、自由選挙が行われました。
そして、1989年6月の総選挙の結果、
ポーランドに東ヨーロッパ初の非共産党政権が誕生しました。
この出来事の後、共産主義国家の崩壊は、
ポーランドに続いてハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニアにも及び、
同じ年の11月9日にはドイツのベルリンの壁崩壊が起こりました。
これは「東欧革命」と呼ばれます。
新しく発足したポーランドのマゾヴィエツキ政権は、
バルツェロヴィチを副首相兼大蔵大臣に据え、
市場経済への移行に向けて新しい経済プログラムを発表しました。
この経済プログラムは「バルツェロヴィチ・プラン」と呼ばれ、
インフレの抑止、物価の引き下げ、財政赤字の削減を優先課題に、
価格や貿易の自由化、強力な金融引き締め、
通貨の大幅切り下げなどを行いました。
別名、「ショック療法」と呼ばれたこの政策は、
その名の通り、失業や生活水準の低下など
深刻な副作用を伴いましたが、
それでも、90年代からは順調に経済成長を遂げることができました。
このようにポーランドの「ショック療法」が
結果的に成功した背景には、国際社会の強い支援がありました。
ポーランドの成功は、
共産主義化を防止したいという共通の目標をもつ
アメリカをはじめとする西側諸国にとっても重要でした。
ポーランドの体制転換が失敗に終われば、
東欧革命に歯止めがかかり社会主義へ逆行してしまうという
懸念が西側諸国にはあったからです。
そのため、国際通貨基金(IMF)や
世界銀行による融資、EUの構造基金の支給、
そして、異例の公的債務(借金)削減が行われ
ポーランド経済を下支えました。
日本政府も、ポーランドが市場経済や民主主義へ
円滑に移行できるよう財政や金融、産業、経済など
多岐にわたる支援を行ってきました。
OECD(経済協力開発機構)の中にある
DAC(開発援助委員会)という委員会では
先進国が援助を行うべき開発途上国のリストを作成しています。
ポーランドは、1994年にEU、96年にはOECDへの
加盟を果たしたことで先進国の仲間入りをし、
2005年をもって、この「被援助国リスト」から除外されました。
それを受け、日本の支援も、
2008年6月の技術協力プロジェクトをもって終了しました。
・・・
東欧革命において体制転換を果たした
ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアの3か国は
市場経済への移行だけでなく、西側諸国への回帰も目指していました。
1991年に、ハンガリーの都市のヴィシェグラードで
これら3国の大統領が集まり、EU(欧州連合)への加盟を目標に
お互いに協力するためのグループを形成しました。
これが「ヴィシェグラード・グループ(V4)」と呼ばれる
地域協力機構です。
1993年に、チェコスロバキアが
チェコとスロバキアに解体されたため
ヴィシェグラード・グループは4か国となり、
2004年には、4か国そろってEUへの加盟を果たしました。
V4では、文化、環境、防衛、教育、観光、エネルギー、IT等、
さまざまな分野での協力が行われています。
日本政府は、2003年に、V4と日本との間で
「V4+日本」対話・協力を推進していくことに合意し
さまざまなワークショップやセミナーを開催してきました。
2009年には、環境・気候変動ワークショップが行われ、
環境・気候変動分野に対する理解を深めるとともに
日本の環境問題に対する取り組みや環境技術が紹介されました。
2010年には、ハンガリーで開発協力セミナーが行われ、
世界経済・金融危機が開発協力に与える影響や
「ミレニアム開発目標(MDGs)」の達成状況、援助効果などについて
率直な意見交換が行われました。
ミレニアム開発目標というのは、
90年代に採択された国際開発目標や
2000年の国連ミレニアム・サミットで採択された国連ミレニアム宣言を
開発分野における国際社会共通の目標として2001年に総括したものです。
2012年4月には、
エネルギー効率化・再生可能エネルギー及び原子力分野に
関するワークショップが日本の外務省にて行われ、
エネルギーの効率化・再生可能エネルギー及び原子力安全に関する
活発な意見交換が行われました。
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「家族の健康が大切です」
体制転換は、ポーランドの医療事情にも影響を与えました。
旧ソ連ブロック時代、ポーランドは
国営の病院により無料で医療サービスを提供していました。
しかし、過度な中央集権化のため
医療費の無駄遣いが起り、資金は慢性的に不足状態になりました。
そのため、施設の管理は不十分になり、
地域によっては病院が少ないところがあるなど
地域的不平等によって、サービスを受けるのが困難であったり、
医療の質も低いものでした。
体制転換後、各地域に医療サービスが行き渡るよう
いくつかの改革が起こり、
新しい医療保険制度(傷病給付金庫)が導入されました。
これにより、医療制度の運営費を各地域に収めることが義務付けられ、
中央集権化された医療サービスが各地域へ分権化されました。
2003年には、医療の地域格差をなくすため、
「傷病給付金庫」から「国民健康基金(NFZ)」へと
再編・再集権化されました。
この制度では、国民健康基金と契約した病院であれば
無料で医療サービスを受けることができます。
しかし、この制度でも慢性的な資金不足という問題は残されており、
今後の大きな課題となっています。
・・・
1986年にソ連(現在のウクライナ)で起きた
チェルノブイリ原子力発電所の事故は
隣国のポーランドにも大きな影響を与えました。
事故当時、国境沿いをはじめとしてポーランド国内でも
かなりの放射能汚染が確認されたため、
ポーランド政府は、事故発生の初期から対策をとりました。
ポーランド政府は、
汚染ミルクを子どもや妊娠・授乳中の女性が飲むことを禁止し、
4歳以下の子どもには牛乳のかわりに粉ミルクを飲ませることを決めました。
また、全国の小児にヨウ素剤を配布しました。
これら初期の対応の結果、
隣国のウクライナやベラルーシでは小児の甲状腺ガンが増加したのに対し、
ポーランドでは甲状腺ガンの増加を防ぐことができました。
放射能汚染地域での小児甲状腺の検診や支援活動を行っている
日本の菅谷(すげのや)昭・元信州大学医学部第二外科助教授は、
ポーランド政府のこれらの対応を高く評価し、
日本の原発事故後の対策としても参考にすべきであると述べました。
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「誰にでも平等な社会が大切です」
「子どもの権利条約」をご存知ですか?
「子どもの権利条約」とは、
正式には、「児童の権利に関する条約」(1989年採択、1990発行)といい、
子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められた条約のことです。
実は、この条約が国連で創設された背景には、
一人のポーランド人が関わっていたのです。
それが、小児科医のコルチャックという人です。
コルチャックは、医師でありながら教育者として、
また作家として子どもたちと共に生きた人でした。
彼は、子どもの権利の3つの大きな柱として、
1)子どもの死についての権利
2)子どもの今日という日についての権利
3)子どものあるがままである権利
を提唱し、子どもの人格を認めることを主張しました。
「子どもは親の所有物ではない。」
「子どもにも秘密を持つ権利がある。」
「子どもは『過ち』をおかす。
それは子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。
完璧な子どもなどいない。あなたが完璧な人間でないのと同じように」
というように、コルチャックは、
子どもを「権利の主体」として尊重していました。
彼は、全生涯を孤児の救済と子どもの教育に捧げました。
多くの教育書、研究所、童話、文学作品、新聞、ラジオ放送を通じて
子どもの福祉と権利を訴えました。
また、彼は、ポーランド人とユダヤ人の2つの孤児院を
それぞれ運営していました。
コルチャックは彼らへの教育を通して
戦争のない平和な世界を実現しようと試みました。
しかし、第二次世界大戦中、、
ドイツによって行われていたユダヤ人絶滅政策によって
孤児院にいた200人のユダヤ人の子どもたちは、
絶滅収容所行きが決まってしまいます。
このとき、コルチャック(本人)には
彼が高名であることから、
特別なゆるし(死刑の免除)が与えられていました。
しかし、彼は子どもたちを見捨て、自分だけが助かることを拒否し、
「子どもたちも同じように扱われないなら、
私は子どもらと一緒に運命を共にします」といい、
子どもたちとともに収容所で殺害されました。
子どもたちに対するコルチャックの精神は、
戦後、ポーランド政府を介して
条約の草案として国連に提出されることになりました。
そして、コルチャックの理想は、
彼の死後、47年が経った1989年に国連で
「子どもの権利条約」として実現されることになりました。
日本でも、子どもの権利条約は、
1989年に採択され、翌年に発行されました。
その後、193の国と地域によって締結されています。
ポーランド政府は、コルチャック没70年であり、
彼の作った孤児施設「ドム・シュロット」の誕生100周年にあたる
2012年を「コルチャック年」とすることを決めました。
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「平和が一番、大切です」
最後に、ポーランドの「負の遺産」ともいえる
「アウシュビッツ」についてお話したいと思います。
アウシュビッツは、第二次世界大戦中、
ドイツによって国家をあげてつくられた強制収容所です。
「アウシュヴィッツ」という呼び名は、
ポーランドの都市「オシフィエンチム」のドイツ語読みからきています。
「アウシュビッツ」というとナチス・ドイツが連想されますが、
アウシュヴィッツがあるのはポーランドです。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはポーランドを中心に、
欧州のあらゆる国に強制収容所を設置しました。
特に、アウシュヴィッツは、
歴史上最も悪名高い強制収容所として有名です。
この収容所内では、
満足な食事も与えられず、強制労働をさせられたり、
「価値なし」と判断された人たちはガス室で虐殺されたり、
人体実験の対象とされました。
アウシュヴィッツは、1945年1月27日にソ連軍によって解放されるまでに
150万人のユダヤ人虐殺が行われたと言われています。
二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて
アウシュヴィッツは「負の世界遺産」として、
1979年にユネスコ世界遺産に登録されました。
また、現存する一部の施設は、
ポーランド国立オシフィエンチム博物館によって管理・公開されています。
アウシュヴィッツやユダヤ人迫害にまつわる話は数多くあります。
ポーランド人のカトリック司祭であった
マキシミリアノ・コルベ(通称:コルベ神父)は、
彼が発行した「無原罪の聖母の騎士」という小冊子が
ナチスを批判していたという理由でアウシュヴィッツに投獄されました。
ある日、脱走者が出たことが原因で、その「見せしめ」のために、
10人が選ばれ、餓死刑に処せられることになりました。
コルベ神父は、妻子がいる男性がその一人として選ばれたのを見て、
身代わりになることを自ら名乗り出ました。
餓死刑に処せられたコルベ神父は、
牢内でも最後まで、他の囚人を励まし続けたと言います。
彼は、後に「アウシュビッツの聖者」と呼ばれるようになり、
身代わりとして助けられたガイオニチェクという男性は、
奇跡的に終戦まで生き延びた後、
亡くなるまでコルベ神父に関する講演を世界各地で行いました。
同じくカトリック教徒であった
ポーランド人のイレナ・センドラーは、
ナチス・ドイツによりワルシャワのゲットー(ユダヤ人居住地区)に
収容されていた2500人のユダヤ人の子どもたちを
看護師に変装して連れ出し、助け出しました。
彼女は、1943年に
ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に逮捕され、
強制収容所に入れられてしまいます。
収容所内で彼女は度重なる拷問を受けますが
「活動内容を明かすぐらいなら迷わず死を選ぶ」と沈黙を守り、
助けた子供たちの名前を明かすことはありませんでした。
その後、彼女は、ジュゴタ(ユダヤ人救済委員会)により救出され、
戦後、その功績により多くの賞を受賞しました。
また、第二次世界大戦時リトアニア領事館に赴任していた
日本人の杉原千畝(すぎはらちうね)は、
ポーランドなどから逃げてきたユダヤ人難民に対して
大量の日本へのビザを発給し、彼らが亡命できるよう手助けをしました。
これは当時の外務省の命令に背いた行動でしたが、
これにより、ナチス・ドイツによって迫害を受けていた
約6千人のユダヤ人が救われました。
ユダヤ人の強制収容所博物館元館長のカジミエシュ・スモレンは
アウシュビッツを訪れたドイツ人の若い世代に対して次のように言います。
「君たちに戦争責任はない。でも、それを繰り返さない責任はある。
・・そしてそれは多分、私も同じなのだ。」
実は、彼自身、ユダヤ系ポーランド人として
戦時中のアウシュヴィッツ収容所から、
奇跡的に助かった中の一人でした。
・・・
ナチス・ドイツを通して、
私たちは人間の残酷な側面を垣間見てきました。
しかし、このような状況でも、
コルベ神父やセンドラー、杉原のように
勇気ある行動をとる人たちがいたことは、
人間の価値を理解する上で重要なことではないでしょうか。
アウシュヴィッツで起きた悲劇は過去の歴史となりましたが、
世界では、今でも深刻な人権侵害や迫害が存在します。
そして、これを読まれている方であれば、
いつでもそういった情報をインターネットを通じて
身近な出来事のように知ることができます。
もし私たちが今、
彼らのような正義の行動を起こすタイミングを
まさに迎えているのだとしたら、どうでしょう。
スモレンが言ったように「繰り返さない責任」が
私たちにあるのだとしたら、何ができるのでしょうか。
最後に、
ヨハネ・パウロ2世の言葉で終わりたいと思います。
わたしたちの住むこの惑星の広い地域を非人間的なものとし、
住みにくいものとしてしまった環境破壊を目の前にして、
あるいは、破壊的な世界戦争の悪夢によって繰り返し繰り返し
脅かされている平和の危機を目の前にして、
あるいは、これほど多くの人間に対する、
とりわけ子どもたちに対する基本的人権の無視を目の前にして、
わたしたちは部外者を決め込んでいることができるでしょうか。
ヨハネ・パウロ二世
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴
画像データを編集し、文章を書いた人:
菊地賢一
編集完了日:
2012年12月5日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 10:24| 日記
2012年09月17日
ガーナ共和国 Ghana

みなさんは、ガーナと聞くと何を連想しますか?
おそらく、圧倒的に「チョコレート」と
答える人が多いのではないでしょうか。
しかし、ガーナにはそれだけでなく、
沢山の特産物や観光地が存在しています。
また、皆さんが普段意識する機会のあまりない
国が抱える問題や、日本との結びつきがあります。
この記事を読むことで、
ガーナのあらゆる表情を知ってもらえればと思います。

ガーナ共和国、通称ガーナは西アフリカの赤道よりやや北にある国です。
面積は日本の3分の2程度で、日本の本州と同じくらいになります。
人口は約2000万人で、日本の5分の1程度です。
公用語には英語と複数の民族語が使われています。
宗教は半数がキリスト教、約15%がイスラム教、
残りはガーナの伝統宗教にわかれます。
首都はアクラです。

これはガーナの国旗です。
実は、国旗のこの3色にはそれぞれ
ガーナをあらわす重要な意味が込められています。
赤…独立するために戦いで流した血
黄…金(鉱山物)
緑…豊かな農耕地の森林
また、中央の黒い星はアフリカ独立運動の父と呼ばれた
ガーナ共和国・初代大統領エンクルマをあらわしています。

(エンクルマの銅像)
では、まずはそれぞれのカラーについて、
歴史・政治・経済の話もまじえ、話していくことにしましょう。
■ガーナの黄色・金・歴史■

18世紀頃、現ガーナの内陸部のほとんどの地域は
アシャンティ族によって、アシャンティ王国として支配されていました。
この民族が諸王国を取り込み、
ここまで繁栄した理由は「金」にあります。
まさしく、ガーナ国旗の黄色を象徴する金です。
ガーナの、特にアシャンティ王国では
昔から鉱山物の金が多くとれたのです。

アシャンティ王国はヨーロッパ人との交易で、
その金と引き換えにあらゆる輸入品(最新型の武器など)
を得ることで力をつけていったのです。
また、交易のためにヨーロッパ諸国は
アフリカ諸国ギニア湾周辺にエルミナ城を最初とし
拠点となる城塞や要塞をいくつもつくりました。
その沿岸一帯は金の産出地ということから、
「ゴールド・コースト」または「黄金海岸」と呼ばれていたほどです。

(エルミナ城)
しかし、この交易による繁栄の裏では、
歴史上でとても有名で悲しい犠牲がありました。
「奴隷貿易」です。
金と共に奴隷(肉体労働者)も貿易の品として輸出していたのです。
奴隷となる人は、ガーナの人たちです。
ガーナの一部の人が、自分たちの富のために、
同じ国の人びとをヨーロッパに売っていたのです。
この悲しい事実は、ガーナについて知る上でとても重要であり、
忘れてはならない歴史なのではないかと筆者は思います。

この、奴隷貿易の拠点ともなった
エルミナ城とケープ・コースト城は
1979年に世界文化遺産に登録され、「負の世界遺産」として
現在では多くの観光客が足を運ぶ場所となっており、
ガーナの経済基盤の一つにもなっています。
■ガーナの赤・独立で流した血・政治■

さて、長く続いた奴隷貿易ですが19世紀後半には
終わりを迎えることになります。
イギリスがゴールド・コーストを植民地とし、
交易相手ではなく侵略者となったのです。
また、アシャンティ王国をも
イギリス領ゴールド・コーストに編入してしまいました。
国旗の赤色は「独立するために戦いで流した血」と説明した通り
1957年まで、ガーナはイギリスに支配されることとなったのです。
国旗の赤色は、そのイギリスから独立する時に
人々が流した血の色を現しているのです。
■ガーナの緑・豊かな農耕地の森林・経済■

ガーナにとって、主要産業は農業と鉱業です。
特に農業(カカオ豆)はGDP(国内総生産)の約30%、
雇用の約60%を占めるものです。(2012年現在)
また、木材も多く輸出されており、先にあげた金を含めたこの3つが
主要輸出品の上位3位をしめています。

まさしく、国旗の緑はこれら、国を支える主要産業である
「農耕地の緑」を現したものなのです。
しかし、これらに依存した産業形態が問題視されています。
なぜなら、カカオ豆・木材・金は
すべて第一次産業(自然の恩恵を利用した産業)なので、
天候や世界の市場価格にガーナ経済は影響されやすく、
もろい経済構造と言えるからです。
また、第一次産業への依存は、産業の発達の遅れにも繋がっています。
・・・
・・・
ではここからは、そんな開発課題と共に
ガーナが抱えているあらゆる問題をあげていきましょう。
「あなたの大切なものは何ですか?」

「新しい車です」

ガーナの産業が第一産業に依存し、また、産業の発展が遅れている理由に
経済インフラ(運輸交通・電力)の未整備があげられます。
ガーナの国内運輸は95%を道路に依存しているにもかかわらず(2012年現在)
その道路の整備がきちんとなされていないことが問題視されているのです。
また、このことは地方の町や村の生活基盤を支える上でも
重要な問題になっています。
道路網の未整備が、ガーナの地域格差を生んでいる要因の
1つと言われています。

そこでJICA(日本政府の国際協力機構)は、
NPO法人・民間企業と協力して、道路網整備のノウハウを
現地の人々に教える為の準備をしています。
その1つが、NPO法人道普請人(みちぶしんびと)が提案した
「日本発「土のう」による農村道路整備ビジネス」です。
これは、他のアフリカの国でも既に成功例のある、
土のうを活用する、日本が開発した画期的な方法を教えるものです。

コンクリートで整備するのに比べ、ずっと低コストであること、
住民自らが行える作業であることから、
住民に労働(収入)を与えることができること、
全天候型ということで雨季のぬかるみ対策にもなること、
整備した部位が破損してしまっても
住民自身で修理できるため、持続可能であること、
これら多くの利点から、実施が望まれています。

また、車は日本とガーナをつなげる重要なキーワードでもあります。
現在、日本がガーナに輸出しているものの第1位が車であり、
ガーナで乗られている車の多くが
日本のTOYOTA社製であるという現状があるからです。
・・・
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」

「電気と学校の制服です。
電気があれば夜、おうちでも勉強ができるし、
明るいと、幸せな気持ちになります。」

運輸交通と共に、ガーナの産業を支える上で重要となってくるものが電力です。
ガーナ南東部には「アコソンボダム」という水力発電用の巨大なダムがあります。
このダムを作るためにせき止められたヴォルタ湖が、
人工湖として世界最大級の大きさを持つほどです。
また、このダムがガーナの総発電量の6割をまかなっています。
「あなたの大切なものは何ですか?」

「飲み水です。
水は生きていく上でとても大切なものです。」

しかしそれにもかかわらず
ガーナは電力不足による停電に悩まされています。
なぜなら、乾季になると水量が減少し、発電量が足らなくなるのです。
その上、ガーナは電力を近隣諸国に売ることで外貨収入を
得ているため、海外への電力流出によるところも大きいと言われています。
また、地方の世帯電化率は約20%(2007年度時点)
と大変低いため、都市部と地方の格差の是正も求められています。
産業・経済への打撃が大きい電力。
この整備が今、ガーナでは急務となっているのです。

そこで、2020年までに500人以上の集落のすべてに、
安定した電力を供給するという目標を掲げたガーナ政府に対し、
日本のODA(政府開発援助)では「地方電化計画」として
目標実現に必要な資金を、無償資金協力という形で提供してきました。
・・・
・・・
次は、ガーナというとこの問題を連想する人も多いでしょう。
労働に関する問題です。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「カカオの種子の部分です」

農業の中でも、大部分を占める輸出物は、先にあげたとおり
チョコレートの原材料となる「カカオ豆」です。
全世界でも、1位のコートジボワールに次いで2位の生産量です。
また、日本で消費されているチョコレートの約70%は
ガーナから輸入されているカカオ豆により作られています。
しかし、この日本に大きなかかわりのあるカカオ豆。
この生産には深刻な問題を抱えていると言われています。
「児童労働」です。

まず、みなさんは児童労働とは何かご存知ですか?
児童労働とは、国際労働機関(ILO)の「国連こどもの権利条約」の定義によれば
以下の通りとされています。
<ILOの児童労働の定義>
1、13歳(途上国では12歳)未満の子どもは、
「軽易な作業」でも、「児童労働」に含まれるので、させてはならない
2、15歳(義務教育終了年齢を下回る年齢)未満の子どもが、
「通常の仕事」をする場合、「児童労働」に含まれるので、させてはならない
3、18歳未満の子どもが、
「危険な労働」をする場合、「児童労働」に含まれるので、させてはならない
※ポイントは、年齢によっては、ある程度までの労働はしても良い、
ということです。

これに基づき、ガーナの国内法では児童労働が禁止されています。
しかしながら、ILOによると、ガーナの15歳未満の子どもの25%が、
経済的活動(仕事)をしているという調査結果が1996年に出ています。
(内、何パーセントがカカオ農家で働いているかは定かではありません)
これらをふまえ、カカオ農園での児童労働の実態を指摘する
NGO(非政府組織)、団体が世界中に多く存在します。
カカオ農園での子どもの作業は、大きな刃渡りの「なた」を使った下草刈りや
有害な農薬の散布が大半であり、危険有害労働に指定されているからです。
日本のNGO、ACE(エース)も
ガーナの児童労働問題について訴える冊子付きの
「しあわせを運ぶ てんとう虫チョコ」を販売し、その売上げの一部を
カカオ農園での児童労働撤廃活動に役立てています。

しかしその一方で、ガーナのカカオ農園=児童労働のイメージを否定する声や
ガーナでの児童労働は「昔の話である」という現地の人々の声もあるといいます。
例えば、元アジア経済研究所研究員であり、
現・東京農業大学国際食料科情報学部教授である
高根務の編著『ガーナを知るための47章』(明石書店)によれば
・ガーナ人は教育熱心であり、子どもを積極的に学校に通わせている
・学校に行かない理由があるとするならば、労働ではなく貧困によるものが大きい
・「危険で有害な労働」に該当する農薬散布は、
政府の職員が全国で無償で行っている
・なたを使いこなすことや重い荷物を運ぶことは、日常生活で欠かせないことであり
これらすべてを禁止するのは現実的ではない
以上のような点をあげています。
(ただし、素手での農薬散布や親元から離しての強制労働は禁止すべきとしている)
_a-thumbnail2.jpg)
これらの情報を元に考えた筆者の意見としては、
子ども本人とその親や現地の人々にとって、
児童労働という意識がなかったとしても、
労働という実態が少なからず存在しているのは、本当だと思います。
またそれが貧困によるものであるならば、
ガーナ産のカカオ豆をを多く消費する日本人として、
それを改善する手立てを意識しつづける必要があるのではないかと思います。
本当の意味で、「ガーナ=児童労働」というイメージを解消するためにも。
・・・
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」

「勉強することができる学校です」

次に、ガーナの教育問題について書いていこうと思います。
児童労働の問題にも大きく関係していると言われる
就学率と識字率の状況はどうでしょうか?
成人(15歳以上)識字率:66.6%(2009年)
初等教育就学率:75.9%(2009年)
実はガーナは、ほかのアフリカ諸国よりは
教育レベルが比較的高い国です。

(アコソンボの学校)
しかしながら、以前として3割近い子どもたちが
満足に小学校に通えていないのも、また事実です。
この理由の第一としては、やはり貧困です。
家庭が貧困であると、子どもも、大人のように生活費(主に食費)を
稼ぐために、働かなければならなりません。
また、近くに学校がない、あるいは学校に行くための道路やバスがないため、
子どもたちは学校に行けないのです。

そこで、日本在住のガーナ人が設立したNGO「マンフィーと青年基金」では、
ウコランザ村に身寄りのない子どもや、低所得家庭の子どもを中心にした
全寮制の小中学校の建設をおこなっています。(2014年完成予定)
この計画では、子どもを学校に行かせることで、その子が働いていた分の
収入が減るため、その分の収入を何とかしようとする試みも行っています。
その子の「親に」雇用のチャンスを提供するため、
学校の脇で共同農場の運営を行う予定です。
教育と同時に、貧困という根本的な問題を解決する取り組みが
行われようとしているのです。

また、学校へ通えても中途退学してしまう子どもも多くいます。
貧困も理由の一つですが、教育環境が整っていないのも
大きな問題となっています。
学ぶための文房具や本、施設が不足しているのです。
そこで、チョコレート菓子で有名な
「ブラックサンダー」を販売している有楽製菓株式会社では
「ガーナにおける図書館建設プロジェクト」を
公益財団法人 プラン・ジャパンを通じて、取り組んでいます。

ガーナの地方の村には、学校図書館を含め1つも図書館がない所も存在し、
子どもたちが本を読む習慣を身に着ける機会がないため
図書館を建設しようというプロジェクトです。
これにより、今後の識字率の上昇が期待されます。
また「ガーナミルクチョコレート」で有名なロッテでは、
チョコレート商品の売り上げの一部を
WFP(国連世界食糧計画)の行っている
「学校給食プログラム」に寄付し、支援しています。
この学校給食プログラムとは、学校に通う世界の子どもたちに
給食を配給するというものです。
給食を配給することは、子どもの出席率(通学率)の向上、
授業を受ける際の集中力の上昇に重要な役割を果たしているとされています。
・・・
・・・
次に、医療問題について書いていきたいと思います。
「あなたの大切なものは何ですか?」

「看護師さんです。将来は
ママのような看護師さんになりたいです。」

ガーナで深刻な問題となっているのは
妊産婦死亡率と、乳幼児及び5歳未満児の死亡率です。
<妊産婦死亡率>
日本:出生10万件あたり5人(2010年)
ガーナ:出生10万件あたり350人(2010年)
<乳児死亡率>(2011年)
日本:出生1千件あたり2人
ガーナ:出生1千件あたり52人
<5歳未満児死亡率>(2011年)
日本:出生1千件あたり人3人
ガーナ:出生1千件あたり78人

この原因とされているのはやはり、
各地域における「基礎的保健サービスの不平等さ」です。
地方・農村部では、医療施設の不足、
人々の医療・保健に関する知識や意識の低さ、
医療従事者の能力の低さが都市部に比べいちじるしいのです。
そこで、日本のODAは無償資金協力のプロジェクトとして
「アッパーウエスト州地域保健施設整備計画」を進めています。
これは、ガーナでも特に開発が遅れているアッパーウエスト州において
先にあげた3つの問題を改善するために
日本が無償でガーナに資金提供をするものです。

また、アフリカで感染者の多いHIV(エイズを発症させるウィルス)
も問題視されています。
<ガーナの成人(15歳〜49歳)の感染率>
1.8%(2009年)
他のアフリカ諸国と比べれば、まだ感染率は高い方ではありませんが
1990年の感染率0.3%と比べると、その拡大力の深刻さがわかると思います。
しかしながら、人々のHIVに対する危機感は薄く
検査に対して消極的な傾向だといいます。
そこでJICAは、若者のHIV新規感染を防ぐため
予防に関する知識向上やコンドーム使用、
安全な性行動を促す活動に取り組んでいます。
「あなたの大切なものは何ですか?」

「サッカーです。
ガーナのサッカーチーム、ブラックスターズが大好きです。」

その中でも、少し変わった取り組みが
2010年のFIFAワールド・カップ南アフリカ大会の時にありました。
JICAとソニー株式会社のPPP(官民連携)です。
ワールドカップを、大きなソニーのスクリーンで放映したり(入場無料)
その会場でHIV検査やHIVについてのクイズ大会、
HIVに対する差別・偏見をなくすための劇など、
HIV予防啓発活動を組み合わせたイベントを実施したのです。
これは、ガーナで最も人気のあるスポーツである、サッカーの
一大イベントで行ったからこそ、より大きな成果を残したといえます。
(ちなみに、このワールド・カップで、
ガーナはアフリカ勢で唯一、ベスト8に残りました)
今後このようなPPPも、国際協力を行う上で
大事になっていくのではないかと筆者は思います。

・・・
・・・
さて、ここまでガーナが抱えるあらゆる問題をあげてきましたが、
それらが持つ共通点は、どれも「都市と地方の貧困格差」
にあると言えるのではないでしょうか。
では、それらを改善する取り組みとしては
他にはどのようはものがあるのでしょうか?
「あなたの大切なものは何ですか?」

「豊かな緑、そして木です」

ガーナの特産物として、忘れてはならないもの、
それは「シアバター」、別名「神聖なる木」です。
シアバターとは、シアーバターノキの種子から作られ
食用や薬、石鹸やクリームなどに配合されている植物性脂肪です。
この輸出量が世界で最も多いのがガーナで、世界全体の約40%を占めています。
日本で有名な化粧品メーカーのロクシタンや、ザ・ボディショップの
ボディローションやボディクリームなど多くの商品にも、
シアバターが用いられており、知っている人も多いのではないでしょうか。
(有名ブランドのシアバター)
この人気が高いシアバターを、ガーナで特に貧しい地域の産業支援のために
実施されたプロジェクトがあります。
UNDP(国際連合開発計画)が日本政府の支援を受けて2007年から2年間行った
「北部ガーナにおけるシアバター産業支援を通じた
現地女性のエンパワーメントと貧困削減」です。
(エンパワーメントとは、女性などの社会的弱者が、その地域で、
自分の能力を発揮できるようにすることを言います。)
このプロジェクトは、その名の通り貧困地域の女性の自立支援と
貧困の削減を目的としたものです。
(フェアトレード商品のシアバター)
ガーナの北部地域では、女性のみが伝統的に触れることが許されている
シアバターが、女性たちの貴重な収入源であるため、
その生産を産業に発展させ、女性たちが持続的に
収入を得られるようにすることが狙いなのです。
UNDP以外にも、このシアバターを通じてガーナを支援する
企業や団体は多く存在しています。

・・・
・・・
さて、ここでガーナと日本、両国にかかわる人物を二人紹介します。
ここまであげてきたガーナの問題解決にも大きくかかわる重要な人物です。
この二人を知ることで、あなたの中のガーナと日本の距離が
グンと近づくことでしょう。
世界で最も有名なガーナ人を、みなさんはご存じですか?
そう、元国際連合事務総長であり、国連を活性化させた
手腕などが評価されたノーベル平和賞受賞者、
コフィー・アナンです。

(C)Ricardo Stuckert/ABr
彼は、1999年の世界経済フォーラムにおいて、
企業に対しとあるイニシアチブを提唱しました。
「グローバル・コンパクト(GC)」です。
これは、世界中の参加企業に対し、人権・労働・環境・腐敗防止の
10原則を実践することを求めているものです。
グローバル・コンパクトに参加している企業・団体は
2011年の段階で全世界で約6000社(132カ国)で
2012年現在、日本国内では(大企業を中心とした)155社にのぼっています。

(C)www.kremlin.ru
この10原則の中には、「児童労働を実効的に廃止する」や
「雇用と職業に関する差別を撤廃する」なども含まれており
ガーナ産のカカオ豆を使ったチョコレートなど、
ガーナと大きなかかわりを持つ日本企業にとっても、
とても重要な内容が含まれているものではないでしょうか。
進んでグローバル・コンパクトに参加することが、これまであげてきた
ガーナの問題点克服への近道になるのではないかと筆者思います。
(しかしながら、現在「ガーナミルクチョコレート」を発売する日本の大企業ロッテ
をはじめとする今回紹介した企業は、グローバル・コンパクトに不参加であることが
筆者は残念でなりません。)
次に、ガーナでもっとも有名な日本人をご存知ですか?
日本人ならば誰でも知っているでしょう。「野口英世」です。

出典:野口英世記念館
福島県出身の野口英世は1927年、アフリカの黄熱病研究のために
現ガーナのアクラを訪れ、そこで自らも黄熱病で亡くなりました。
その後、この野口英世の活躍が縁で、ガーナから日本に対して
医療協力の要請があったのです。
そうして、1969年からその支援が開始され、今現在も福島県立医科大学による、
ウイルス学の研究協力や基礎医学研究所「野口記念医学研究所」を
ガーナに設立するなど、多くの協力を日本は続けています。
このことは、カカオ豆と同じく、ガーナと日本の親交を深め続けている
大きな事実であり、両国の交流の象徴ともいえるものになっています。
ふだん、日本にいるとあまり意識しないガーナという国ですが
実は日本ととても多くのかかわりがあるのです。
・・・
・・・
最後に、現在のガーナとこれからのガーナについて
書くことにしましょう。
「あなたの大切なものは何ですか?」

「人を好きになる気持ち、愛情です」

ガーナは近年目覚ましいほどの発展を続けている国です。
2007年に大型油田が発見され、2010年には石油の商業生産が開始。
石油収入を含めた2011年の経済成長率は13.6%を記録したほどです。
ガーナは今、西アフリカをけん引していく民主主義国としても、
多くの資源を持つ国としても、世界の国々から投資先として
注目を集めているのです。
もちろん、日本の企業も次々にガーナに参入しています。
しかしながらその一方で、これまで紹介してきたように
ガーナにはまだ多くの問題が残っています。
そしてそれらは、ガーナと深いかかわりのある日本としては
児童労働をはじめとして、無視できないものばかりです。

日本とガーナの良好な二国間関係を維持・発展させるとともに、
ガーナの平和持続を実現していくためにも
日本のガーナに対する愛ある継続的な支援が
これからも必要とされているのではないでしょうか。
前述したコフィー・アナンはかつて言いました。
「今の私達にとっての敵は無関心、すなわち、世界はたくさんあり、
自分たちの世界だけに関心を持てばよいのだとする考えである。
この考えは誤っている...。
世界は一つ、人類も一つである。
そして真の公平で永続的な人間の安全は、不可分のものである。」
と。(1997年の演説より)

・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
国分 敏子(2012年)
山本 敏晴(2002年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部 加奈
編集完了日:
2012年10月23日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
また、上記に掲載された地図は
以下の無料画像サイトから提供されました。
白地図専門店
http://www.freemap.jp/
posted by お絵描きイベント at 21:50| 日記
アルゼンチン Argentina
アルゼンチンは、
南米大陸の南部に位置する国です。
日本から見て、ほぼ地球の裏側にあります。
首都はブエノスアイレスです。
アルゼンチンは
移民の受け入れを積極的に行ってきた国なので、
イタリアやスペインなど
ヨーロッパからの移民が97%を占めています。
日本との間にも1963年に移住協定が発効されました。
アルゼンチンの人たちは肉料理を主食としているため、
一人当たりの牛肉の消費量が世界第一位の国です。
肉料理と一緒に赤ワインを楽しむ習慣があるため、
ワインの生産量は世界第5位を占めています。
・・・
アルゼンチンは、豊かな自然に支えられ、
農業や牧畜業などの産業で栄えた国でした。
ところが、21世紀に入ってすぐの2001年、
アルゼンチンは国の借金を返済することができなくなり、
「デフォルト」と呼ばれる経済破綻を起こしてしまいました。
以下に、豊かだったアルゼンチンが
経済破綻してしまった理由を説明していきます。
アルゼンチンには
「パンパ」と呼ばれる広大な草原地帯があります。
そこでは、大豆やとうもろこし、小麦が生産され、
家畜となる牛や羊の放牧も行われています。
特に、東部の湿潤パンパは、平坦で土壌が肥えており、
気候も温暖で、適度に雨も降るため、
肥料や灌漑が必要ありません。
また、農業地帯の中心地であるロザリオ港に
大型輸出船が入港できるため、
輸送も効率的に行われました。
このようにパンパでは、
農畜産品を欧州へ低コストで輸出することができるため、
農業と畜産業はアルゼンチン経済を支える
大きな柱となりました。
20世紀初頭まで、
この豊かな農産物の輸出は
アルゼンチンの人たちの生活を向上させ
当時の日本人よりもずっと豊かな生活を送っていました。
あなたの大切なものは何ですか。
「僕は豊かな自然が好きです」
第二次世界大戦後、
大統領に就任したペロンは、
労働者を保護する政策を推し進めるようになります。
ペロンは、
賃金の引き下げを違法にし、
休日労働や解雇を制限し、
社会保障制度を充実させました。
これらの政策は、
労働者の福祉を充実させましたが、
同時に、労働者の既得権益にもなり、
バラマキ政策との批判の声もあがりました。
やがて、
この既得権益を維持するために
政治家や官僚への政治献金や賄賂、汚職が横行し、
労働者と政治家、官僚との間に腐敗をもたらしました。
労働者の権利が過剰に保護されたため
企業は雇用に消極的になってしまい
仕事にありつけない人たちは、
ネグロと呼ばれる違法就労者として
低賃金で働かざるを得なくなりました。
また、労働者の既得権益は、
後々、国際競争力改善を阻害する
要因ともなっていくのでした。
生産性以上に、
労働者の賃金は引き上げられ、
福祉支出が拡大されたため、
このようにばら撒かれたお金が、
アルゼンチン国内にインフレを発生させました。
1980年代末には、
最高で年間約5000%の
ハイパーインフレという「物価高」に陥ります。
これは、100円で買えたパンが、
5000円以上払わないと買えなくなったということです。
このため、消費者の生活は困窮しました。
1989年に、新しくメネム政権(〜1999年)が誕生すると、
彼は、一転して(社会主義的な)労働組合と対立し、
(資本主義的で自由市場を重視する)
「新自由主義」を掲げるようになります。
この政策によって、今度は、
国内企業は、外国の強力な企業と
競争していかなければならなくなりました。
メネム政権は、
ハイパーインフレの対策として
兌換法(だかんほう)を導入し、1ドルを1ペソに固定しました。
また、国内への資本流入を促進させるため、
アルゼンチン国内外での
資本移動を完全自由化にしました。
兌換性はインフレ対策であったのと同時に
外国の投資家が為替変動のリスクを気にせずに、
安心して投資できる環境を生み出し、
外国からの投資を増やしました。
さらに、
電力、石油、ガス、通信、郵便、年金など
あらゆる国営企業を民営化していきました。
これらの政策により、
ハイパーインフレは終息し、
外国からの投資は活発になり、
一時的に、経済成長をももたらしました。
実は、これらの政策の影には
IMF(国際通貨基金)という
国際機関による働きかけがありました。
IMFというのは、
世界経済を安定させる役割を持った組織です。
そのため、
途上国とされる国々に融資を行い、
その国の経済を安定・成長させるという
役割も担っています。
しかし、融資の条件として
IMFは、「構造調整プログラム」といわれる
一連の政策を要求しました。
これは、民営化や規制緩和、
貿易・金融自由化、財政・社会保障改革など
いわゆる「新自由主義」として知られるものでした。
そして、アルゼンチン政府が
IMFに要求されたのもこの政策でした。
このIMFの条件は、アルゼンチンに限らず、
それぞれ異なる財政状況のあらゆる国々に要求されました。
果たしてこのやり方は、
正しかったといえるのでしょうか。
同じ国際機関の一つであるユニセフは
『世界子供白書』において、
IMFによる構造調整プログラムが
貧困層の生活に深刻なダメージを与えていることを指摘しました。
その理由は、
新自由主義では、「貧富の差」が拡大していくからです。
また、アルゼンチンを含むラテンアメリカの国々では、
IMFや新自由主義への批判が高まり
後に、IMFと対立する(社会主義的な)政権が
いくつも誕生することになります。
アルゼンチンは、
外国からの資金流入により経済成長を遂げましたが、
経済成長には、それに対応した雇用の増大や
(技術革新の速度などの)国際競争力が必要でした。
しかし、自由化の波に競争力が追いつかず、
ある段階から、今度はかえって失業者が増えてしまい
やがて、国内の財政赤字も膨らみ、
このため、外国への借金も膨れ上がりました。
90年代にはアジアとロシア、
そして、同じラテンアメリカのメキシコとブラジルを
「通貨危機」が襲います。
各国が輸出産業を振興するため
「通貨切り下げ」を行い対ドル交換レートを下げる中、
アルゼンチンだけが兌換性を維持したことで、
輸出品が相対的に割高になってしまい
競争力低下に拍車をかけました。
このように不況に苦しむアルゼンチンは、
IMFの緊急支援(大量のお金を借りること)を必要としていましたが
融資を受けるためには
条件とされる緊縮財政を実行しなければならなりませんでした。
緊縮財政とは、
公務員の給与や雇用を減らしたり、
年金を減らすことで、
政府の支出を抑えることです。
デラルア政権(1999年〜2001年)は、
緊縮財政の一環として
銀行の預金が激減するのを防ぐため、
「預金引出制限」をしました。
これにより、銀行から引き出せる額は
週に250ドルまでとなり、
資本の海外流出の防止として
海外への送金も1日1000ドルまでに制限されました。
緊縮財政は国民の反発を買い、
労働組合や各種団体のストライキを起こし、
国民による暴動が全国に拡大していきました。
結局、IMFの融資の条件は
満たすことができず融資は断られしまいます。
このころまでには、
失業率は30%近くにのぼり、
デモや道路封鎖、略奪が多発するなど、
治安が悪化していきます。
2001年12月
ロドリゲス・サー暫定大統領は
「対外債務に対する支払い停止」
(借金を返さないこと)を宣言し、
経済破綻が公のものとなりました。
アルゼンチンのデフォルトに関して、
IMFの独立評価室レポートは
(アルゼンチン政府の)構造改革の不徹底が
原因であったとしています。
一方、
当時、アルゼンチンの経済大臣であったラバーニャは
IMFの構造改革自身に問題があったと主張しています。
IMFの政策は、
アメリカをはじめとする先進国のビジネス界や金融界の
利益に結びついているという批判も多く、
アルゼンチン国民の間でも、
IMFが要求した政策に問題があった
という見方が一般的になっています。
ちなみに、
IMFと世界銀行は、
1944年にアメリカのブレトンウッズという町で
創設された国際機関で
世界経済を資本主義で自由な市場経済に
導くためにつくられた組織です。
この二つの組織を「ブレトンウッズ体制」といいます。
さて、その後、2002年に成立した
ドゥアルデ暫定政権(〜2003年)は、
兌換性を廃止し、変動相場制に移行します。
これにより
ペソの為替相場が下がり、
輸出産業に活気が戻りました。
その後、
アルゼンチンはIMFと対立し、
一方的な政策をとり続けましたが、
国際金融界やエコノミストの予想とは裏腹に
その後、急速な経済回復を遂げていきます。
・・・
しかし、
アルゼンチン経済の回復とは裏腹に
国内の経済的な格差は大きく、
貧困者の生活は依然としてよくありません。
特に貧困層が多い州のひとつである
コリエンテス州コリエンテス市の
貧困率は2005年の調査で
貧困率が56%、極貧困率は24%と
最も高い値になっています。
特に、貧しい地域では
医療センターの運営も不安定なため、
適切な医療を受けることが難しい状況です。
あなたの大切なものは何ですか。
「みんなの健康が大切です」
JICAでは、NGOと協力のもと
コリエンテス州において
「草の根からの市民社会強化プロジェクト」を
実施しました。
そのひとつとして、
貧困層の人たちが医療サービスを
より多く受けられるよう改善し、
乳幼児の感染予防や、母子保健、予防医療が
改善されることを目標に掲げました。
そして、現地のNGOと連携して
医療センターの運営を安定させるための組織づくりや
人材育成などの活動を支援しました。
・・・
アルゼンチンは、
1810年の建国以来、軍部の力が強く、
クーデターが日常的に起きる国でした。
1976年には、
ホルヘ・ビデラ将軍がクーデターを起こし、
軍事政権が始まりました。
彼らはマルクス主義者を排除するため、
左翼思想を持つと見なした多くの市民を殺害しました。
あなたの大切なものは何ですか。
「私は友達が大好きです」
拘束された市民は拷問の末、銃殺されたり、
飛行機から生きたまま海に突き落とされました。
妊娠中の女性は収容所に拘束され、
生まれた子供たちは
左翼思想の影響を受けないよう
軍人や警察官の家庭に養子に出されました。
この時代に
アルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為は
「汚い戦争」と呼ばれています。
汚い戦争による
行方不明者は3万人以上とも言われています。
1983年に民政に移管の後、
旧政権による犯罪が問われました。
紆余曲折の末、
アルゼンチンの裁判所は、
元大統領ホルヘ・ビデラに対して、
2010年に人道に対する罪として終身刑、
2012年には、
女性が出産した乳児を政権が奪ったとして
禁錮50年の判決を言い渡しました。
軍事政権の最中の1977年、
子どもや孫を奪われた母親たちは、
「5月広場の祖母たち」という人権団体を設立しました。
彼女たちは、
子どもたちを取り戻すため、
毎週木曜日になると、
首都ブエノスアイレスにある「5月広場」に集まり、
抗議活動を行いました。
民政移管後は、アルゼンチン政府も
彼女たちの活動に協力し、
DNA鑑定による親子特定の動きが拡がりました。
その甲斐もあり、
現在までに100人以上の
子どもたちの身元確認ができました。
「5月広場の祖母たち」は、
2011年にユネスコ平和賞を受賞しました。
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「僕は綺麗な海が好きです」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 PeaceBoat_Argentina_Noname_M.JPG)
アルゼンチンは、イギリスとの間に、
フォークランドという諸島をめぐった
領土問題も抱えています。
フォークランドは、
アルゼンチンの東沖に位置する諸島です。
この島には、過去に、フランス、イギリス、
スペインが入植した歴史があります。
アルゼンチン政府は、スペインから独立した際に、
継承したとして領有を宣言しましたが、
1833年にイギリスが実効支配して以来、
蒸気艦船の普及と共に、
最大都市のポート・スタンリーは
重要な給炭鉱となりました。
その後、2度の世界大戦を通じて
イギリスにとってフォークランドは戦略的拠点として
重要な位置を占めるようになります。
1982年に、
アルゼンチンとイギリスとの間で
フォークランド紛争が起こりました。
アルゼンチン軍が
フォークランド諸島を占領したことをきっかけに
武力紛争化が始まります。
イギリスは、
アメリカやEC、NATO諸国の支援もあり、
フォークランドを再び奪還しました。
あなたの大切なものは何ですか。
「恐竜が好きです」
1990年には、
両国は国交回復しますが、領有権問題は棚上げされ、
国連は話し合いによる解決を呼びかけています。
フォークランド紛争から30年経った2012年には、
両国が国連本部に赴き、領有権を主張し合いました。
アルゼンチンのキルチネル大統領は
フォークランドが
イギリスから1万4000マイルも離れていて、
南大西洋に属しているので
アルゼンチンのものだと主張しました。
一方、フォークランド諸島に住んでいる人の9割は、
イギリス国籍で、現在も生活しています。
このため、問題は複雑です。
・・・
アルゼンチンのパタゴニア地方は、
世界でも希な強風地帯として有名です。
非常に風が強いため
住んでいる人はほとんどいませんが、
この風力資源を利用した
エネルギーの開発地として注目されています。
風力発電は、二酸化炭素を排出しないため
クリーンなエネルギーとして知られています。
アルゼンチンの
エネルギー消費を見てみましょう。
第1位は天然ガスで、
全エネルギーの約半分を占めています。
2位が石油、3位に水力、そして原子力という順番で続きます。
アルゼンチン国内の
天然ガスのほとんどは、
発電のために使用されていますが、
それも、あと10年ほどで枯渇すると言われています。
そのため、
将来の新しいエネルギー資源として
この地方の風力が注目されています。
試算によれば、
パタゴニア地方での風力発電による
潜在的な発電量は、
日本の年間発電量の約10倍とも言われています。
日本の企業であるリサイクルワンは
アルゼンチンの協同組合と協力して
2001年よりパタゴニア地方で
風力発電事業を行いました。
リサイクルワンは
環境問題を解決するために設立された会社で、
カーボンオフセットの提供を行っています。
カーボンオフセットとは、
私たちの生活で発生させてしまったCO2を
CO2削減プロジェクト
(植林をして、育ってゆく木にCO2を吸ってもらうことなど)に
資金提供することで埋め合わせをしようという
考えや活動をいいます。
オフセットとは
「相殺」(そうさい)することを言います。
リサイクルワンは、
「企業の社会的責任」(Corporate Social Responsibility)の
取り組みとして、この事業を行っています。
一方、カーボンオフセットは、
(後から相殺するからいいんだとして)
「自ら排出削減を行わないことへの
正当化に利用されるべきではない」との意見もあります。
このプロジェクトでは
16機の風力発電機が設置され、
年間約27,000トンのCO2を削減することができました。
これにより、
天然ガスの燃焼によって生じていた
大気汚染の軽減に貢献することができました。
・・・
現在、世界では
地域(大陸)ごとの経済共同体の構築が進んでいます。
世界の経済規模が
第1位の国はアメリカ、
2位は中国、3位が日本です。
その次に大きな「経済活動が行われている地域」として
EU(欧州連合)があります。
これらに次ぐ第5位の経済圏として
アルゼンチン、ブラジル等の
南米の4か国によって結ばれている
「メルコスール」と呼ばれる共同市場があります。
メルコスールは
1991年に創設された(隣接する国家の)地域統合体で
加盟国である4か国間での農作物や石油・天然ガス等の
輸出入の関税が撤廃されており、自由貿易が行われています。
アルゼンチンの
初等教育(小学校・中学校)では
このメルコスールに関するユニークな授業が行われています。
それは、メルコスール加盟国である
ブラジル、パラグアイ、ウルグアイの言葉や文化を
学習するという科目で、生徒たちに大変好評となっています。
・・・
アルゼンチンはサッカーでも
有名な国ですが、
サッカーのアルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手は
ユニセフ親善大使も務めています。
最後に彼のメッセージで締めくくりたいと思います。
「世界には病気の子どもたちがたくさんいること、
多くの子どもたちが教育を受けていないこと、
多くの子どもたちが栄養不良であることを知っています。
私は、自分ができることはなんでもやるつもりです。」
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
ピースボートの人々
画像データを編集し、文章を書いた人:
菊地賢一
編集完了日:
2012年10月1日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/
posted by お絵描きイベント at 11:51| 日記
2012年07月30日
ケニア Kenya

ケニアと聞いて、あなたが思い浮かべるものはなんでしょうか。
サファリ?
マサイ族?
箱根駅伝の選手?
灼熱の太陽?
日本ではまだまだ知られていないケニアの姿を、
ケニアの人々に教えてもらいましょう。

ケニアは、アフリカ大陸の東部に位置しています。

「僕の大切な国、ケニアは、こんなところです」

「北はエチオピア、東はソマリア、南東はインド洋に面していて、
南はタンザニア、西はウガンダ、北西は南スーダンに接しています。
ウガンダとタンザニアの間には、とても大きなビクトリア湖があります。」

ケニアは日本の約1.5倍の面積を持ち、
日本のおよそ3分の1ほどの3,980万人が暮らしています
(2009年、世界銀行)。
サファリの戦士として有名なマサイ族のほか、キクユ族、カレンジン族、ルオ族など、
42もの部族がともに暮らしています。
アフリカ諸国のなかでは比較的、安定した国です。
ケニアの国旗を、見たことはありますか?

中央にあるのは、交差する槍と、盾。
槍と盾はケニアの「名誉、伝統、自由を守る戦い」を示し、
背景の黒は漆黒の肌を持つ「ケニアの国民」を、
赤は独立のために流された「ケニアの人々の血」を、
緑は雄大な自然を有する「ケニアの大地」を、それぞれ表しています。
その間を結ぶ白い横線は、「平和と団結」です。

ケニアは、1963年に独立するまで、イギリス政府の支配下にありました。
1885年のベルリン会議で、イギリスやドイツ、アメリカなどの列強による
アフリカの分割支配が一方的に決められ、ケニアへの侵略が始まったのです。
ヨーロッパからの移住者に土地を奪われ、
イギリス政府の直轄植民地となったケニアを救ったのは、
ケニアの人々自身でした。
1952年、白人移住者を追い出すことを目的に起こった「マウマウの乱」は、
イギリス政府が5万人の軍を出し、ようやく制圧。
これをきっかけに、白人がケニアから撤退し始めます。
イギリス政府はケニア独立計画案を提示し、
1963年、ケニアは自らの手で独立を果たしました。

このとき日本政府は、独立国ケニアをすみやかに承認。
独立の翌年には、首都ナイロビに日本大使館を設立しています。
独立以来、ケニアはアフリカ諸国のなかでは珍しく、安定した情勢を保ってきました。
ナイロビは、アフリカでも有数の大都市となり、東アフリカ諸国の政治や経済、
文化の中心として他国を牽引しています。
ナイロビには国連環境計画(UNEP)の本部があるほか、
アフリカ最大級の日本人コミュニティがあり、JICA、JETROなど日本政府の
主要機関や、貿易商社などの地域本部が置かれています。

(大都会ナイロビ)
・・・
自立した国家となったケニアですが、国内では依然として
多くの問題を抱えています。
そのもっとも大きなものが、エイズです。
「私の大切なものは・・・」


9歳の女の子、Nyanbaraちゃんは、エイズによる知能障害のため、
マルの絵しか描けません。
ケニア人の平均寿命は、2011年時点で57.1歳です。
(2010年の日本人の平均寿命は、男79.55歳、女86.30歳)
1985年には、ケニア人の平均寿命は59.5歳でした。
しかし2000年には、52.3歳まで低下しています。
この原因が、エイズの蔓延です。

エイズは、1980年代にアメリカで初めて報告されました。
その後、検査方法が確立され、世界中に広がってしまったことが確認されました。
なお、最初、どの国からエイズが広まったかは、わかっていません。
世界には、現在、3400万人のHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染者と
エイズ発症者がいるとされ、その多くがアフリカ諸国に集中しています。
ケニアの成人(15〜49歳)のエイズ感染率は、1990年は3.9%でしたが、
2009年には、6.3%に増加しました。
ケニア政府は、爆発的に広まったエイズの感染を抑えるため、
当初、「エイズは怖い」「エイズになると死ぬ」といったマイナスイメージを
広めました。しかし、これはエイズへの偏見を強めただけで、
感染予防には(あまり)結びつきませんでした。
そこで政府は、方針を転換。
「新規感染の予防」、「治療とケアの推進」、「社会的影響の軽減」を柱に、
エイズが予防可能な病気であること、もし感染・発症しても、
治療により命をつなぐことができること、
などの知識の普及に力を入れるようになりました。

(“If you have a healthy baby, you[=mother] will be happy.”
母子感染の予防を呼びかけるポスター。HIVに感染した母親から生まれる子どもが
感染する割合は15〜45%ですが、適切な処置とケアがあれば、2%にまで
抑えられるといわれています。)
ケニア国内には、無料でHIV検査を受けられる施設(VCT)があります。
しかし、エイズに対する偏見は根強く、HIV検査の受検率はなかなか上がりません。
また、2007年の調査では、HIVに感染していることが判明した者の83%は
過去に検査経験がないか、検査経験があってもHIVの知識が不十分であることが
わかりました。

日本の国際協力機構(JICA)は、HIV検査の受検数増加をめざし、
「HIV検査数の年間10%の増加」をプロジェクト目標とした
「エイズ対策強化プロジェクト」を実施。
自発的なHIV検査と、エイズに関する知識の普及を含めたカウンセリングを
スムーズに行うためのマニュアルの策定、人材の育成などの体制づくりを
支援しています。

エイズは、一度発症すると、毎日の薬の服用が欠かせず、
一生治療が必要な病気です。
予防だけでなく、その治療にも、先進国からの支援が行われています。
近年、世界的な不況により、先進国からのエイズに関する支援が
削減される傾向にあります。
「自国が大変なのに、よその国をみる余裕はない」という意見があります。
一方で、先進国の支援で命をつなぐ人がいます。
あなたは、どう考えますか?
・・・
「僕の大切なものは、学校です。勉強ができるのはうれしいです」


エイズ対策が進まない背景には、エイズが神から与えられた罰であるとか、
同性愛者や売春などをする人だけがかかる病気だとかいった、
迷信や偏見が根強いことが大きな壁となっています。
(これには、聖書のなかにある、同性愛が広まった町に神が神罰を下した、
ソドムとゴモラの話などが影響しています。)
そうした迷信や偏見を解くためにも、科学や保健などの知識を含めた、
子どもたちへの「教育」は欠かせません。
ケニアでは、2003年に公立小学校が無償化されました。
それまでは、お金を払えず、学校に行けない子どもたちが多くいたのです。

小学校は8年間で、2009年の就学率は82.6%と高い水準です。
誰もが基本的な教育を受けられる機会が与えられましたが、
それでも、制服代や必要経費、寄付などのお金を払えず、
途中で学校を辞めてしまう子どももいます。
また、小さい教室に多くの生徒が集まり、机などの設備のほか、
先生の数も不足しています。
2009年の、教師1人当たりの生徒数は47人です。

住友化学株式会社は、国際NGO「ワールド・ビジョン」と協力し、
ケニアをはじめ、ウガンダ、タンザニアなどのアフリカ各国で
小中学校の校舎・先生の宿舎、給食設備の建設などに取り組みました。
2011年頭で、住友化学が支援した校舎は8件となり、現在は、学費支援、
備品援助などの教育支援活動が長期的に行われています。
(住友化学は、ケニアで蔓延している感染症のひとつ、マラリアを予防するための
『防虫剤入りの蚊帳(かや)』を開発しました。
その製造・販売による売り上げが、教育の支援に利用されています。)
なかには、84歳という高齢でしたが、無償教育を受けることが認められ、
小学校に通ったキマニ・マルゲというおじいさんもいました。
マルゲは、2005年の国連ミレニアム・サミットに出席し、
初等教育無償化の大切さを訴えるスピーチを行っています。
マルゲの話は、「おじいさんと草原の小学校」という映画にもなっています。
・・・
アフリカ諸国の中では比較的発展し、安定しているケニアですが、
貧富の差は拡大しており、失業率は40%にのぼるといわれています。
ケニアの成長の「影」の部分を表すかのように、
ナイロビには、アフリカで1、2を争う大規模スラム「キベラ」があります。

キベラには、およそ80〜100万人が住んでいるといわれ、
政府もその正確な数を把握していません。
地方から仕事を求めてナイロビにやってきたものの、職を得られず、
流れ着いた人々が大半とみられています。
トタン屋根の小さな小屋に、大家族が身を寄せ合って住んでいます。
上下水道の整備は不十分で、衛生状態は悪く、
下痢などの感染症やエイズで亡くなる人も多くいます。

国連大学と、東京大学大学院の「新領域創成科学研究科サステイナビリティ学
教育プログラム」は共同で調査を行い、開発途上国の人々が、一時的にでなく、
未来にわたってもずっと持続していける開発の方法を提唱しています。
(環境問題を起こさず、先進国からの援助にずっと頼りきったりせずに、
人々の生活を改善する方法を模索しています。)
たとえば、キベラの人々が共同出資し、排泄物を利用したバイオガス施設を作る。
そこで生み出されたガスを住民が買って、料理や明かりに使う。
自分たちの資源を使い、利益を生み出し、生活向上につなげる――――
こうしたビジネスモデルは、スラムの衛生設備の改善や、感染症の流行の抑止にも
有効だと考えられています。

ケニア政府は、物理的・技術的な支援のほかに、
政策に関する助言も他国から受け、
2008年から2030年までの長期経済開発戦略として
「Vision2030」を発表しています。
Vision2030は、
●経済 …毎年の経済成長率10%の維持
●社会 …衛生的かつ安全な環境で人々が住め、平等で公正、結束力のある社会
●政治 …法に従い、すべてのケニア国民の人権と自由を守る政治の上に成り立つ
民主政治システムの実現
の3本を柱に、2030年までの中所得国入りをめざす、総体的な国づくり計画です。
産業の工業化やインフラの整備、政治の透明性の確保(汚職の防止)などの
具体的目標が各分野で挙げられ、取り組みが進められています。
・・・
「僕の大切なものは、生きるために必要なものぜんぶです」


農業につかう熊手や鍬(くわ)などの道具がありますね。
ケニアの人々の生活を支えている主な産業は、農業です。
農業生産はGDPのおよそ3割を占め、国民の7割以上が農業に関わっています。

ケニアの主食はウガリという、トウモロコシの粉を練って蒸したもの。
ケニアでは、アメリカのような大規模農家ではなく、個人レベルでの
自給自足型の農家が多く、ウガリに使うトウモロコシのほかに、
じゃがいもや米なども栽培されています。

(白いかたまりがウガリ。シチューや野菜と一緒に食べます)

(トウモロコシを粉にしているところ)
ケニアでは、農村部の貧困率が高いことも問題となっています。
Vision2030では、農村部の貧困解消と経済成長のため、自給自足型の農業から、
市場向けの農業への転換も、課題に挙げられています。
・・・
「私の大切なものは、雨です。水を与えてくれるからです。
誰も、水なしでは生きられません」


「アフリカの角」と呼ばれる地域をご存じでしょうか。
エチオピア、エリトリア、ジブチ、ソマリア、ケニアを含む、
インド洋と紅海に向かって「角」のように突き出たアフリカの東側の地域のことです。
この地域は、以前からたびたび、雨季に雨がふらず、大地が干上がってしまう
干ばつに悩まされてきました。

2010年秋からの大干ばつは、過去60年のなかで最悪のものでした。
2年連続の雨不足が続き、大規模な食糧危機が発生。
2011年7月、国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長は、
「1,100万人以上が生命救助のための支援を必要している」との声明を発表し、
各国に「アフリカの角」支援を強く訴えました。
エサである草が枯れてしまったことで、国立公園の野生動物や、
家畜である牛や羊もたくさん餓死しています。
個人農家が多いケニアでは、家畜で生計を立てていた人々も
打撃を受け、飢餓の危機に襲われることになりました。

国際NGOの「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」は、2011年10月から、
干ばつ被災者の支援として、ケニア北東州での水・衛生事業を実施しています。
水の確保が困難な地域では、人々は地面の水たまりから泥水をくんで
利用することもあり、衛生面が問題となっていました。
セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは、人々が安全な水を利用できるよう、
雨水の貯水容器や水の浄化剤を配布。
また、干ばつで暮らしが苦しくなったケニアの人々は、
家の大事な財産である家畜を最後まで手放さず、
代わりに子ども(女の子)を強制的に結婚させて現金収入を得る、
ということがありました。
しかし、この方法では、根本的な解決になっていないことは明らかです。

セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは、干ばつが起きたときの防災教育(DRR)も
子どもたちに実施。
子どもを結婚させるのではなく、家畜を早めに売り、新しいビジネスを始めるなどの
方法を伝えています。
・・・

独立以来、国民一丸となって国づくりをし、
周辺国の平和調停にも積極的に関与してきたケニア。
しかし近年、ケニアの安定に不穏な影がみえるようになりました。
隣国のソマリアは、1991年に内戦が勃発。
事実上の無政府状態に陥りました。
暫定政権と反政府勢力の抗争が泥沼化し、
国としての機能が停止している状態が続いています。
ソマリアからは、多数の難民が発生。
ケニア政府はこれを受け入れ、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により、
ケニア北東部に世界最大の難民キャンプ「ダダーブ難民キャンプ」が設置されます。
当初、9万人の収容が想定されていたキャンプですが、
現在、46万人以上の難民が避難生活を送っており、
その数は今も増え続けています。

2010年からの「アフリカの角」の大干ばつでは、
ソマリアでの影響はとくに深刻なものとなりました。
これにより、ソマリアからケニア国内へ逃れてくる難民の数はさらに増加。
予想を上回る難民の数に、水や物資の不足、治安の悪化などの問題が起き、
特に子どもたちは、難民キャンプに到着後、数日以内に亡くなるケースが
多くありました。
UNHCRでは、難民キャンプの拡大、テントや毛布、栄養強化食品の提供のほか、
栄養失調を改善する緊急プログラムを実施しました。
その結果、難民の死亡率の低下に一定の効果を上げ、
5歳未満の子どもたちの栄養失調の割合は大幅に低下したといいます。
・・・
「家族がいて、家があって、神様にお祈りする、
普通の暮らしが一番大切です」


ソマリアから大量の難民を受け入れたことで、
ケニアの治安は悪化していきました。
2011年には、ダダーブ難民キャンプ近くで、
イギリス人観光客やスペイン人国際NGO関係者らが
ソマリア側へ拉致される事件が発生。
これには、ソマリアの反政府イスラム過激派組織「アル・シャバーブ」が
関与していると見られています。
ケニア政府は、アル・シャバーブによる犯罪行為を阻止するため、
ケニア軍によるソマリア進攻を決定しました。
これを受けて、アル・シャバーブは
「(ケニア軍進攻の)報復のためのテロ攻撃をする」と宣言。
2012年6月〜7月には、モンバサの居酒屋やダダーブキャンプ近くの教会に
手榴弾が投げ込まれる死傷事件が起き、ケニア国内は緊張を強いられています。


・・・

1963年、独立したばかりのケニアで、初代大統領となったジョモ・ケニアッタ。
ケニアッタは、「ハランベ」という言葉をモットーに、
「新しい国家を皆で築きあげよう」と国民に強く訴えました。
ハランベ(HARAMBEE)とは、ケニアに古くから根付いている言葉・精神で、
みんなで助けあう
みんなで支えあう
みんなで築き上げる
という意味です。
困っている人を見たら、まったく知らない人でも、
みんなで協力し合ってお金や知恵を出しあいます。

42もの部族が協力しあって、今のケニアがあります。
世界では、今も紛争が絶えません。
でも、国同士がお互いにハランベできたら。
困っていること、苦しんでいることを、みんなで補っていけたら。
ケニアがそうできたように、
みんなが笑顔で暮らせる世界に、近づいていけるかもしれません。
「笑顔の自分が、一番好き!」


・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴、丹野梓
画像データを編集し、文章を書いた人:
田島久美子
編集完了日:
2012年9月4日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 19:26| 日記
2012年07月16日
東京都 Tokyo
東京都は、関東地方の南部に位置しており、
日本における首都としての働きをもっています。

都の大きさは、およそ2000キロ平方メートルです。
これは、沖縄県より少し小さいくらいで、
日本の47都道府県内で3番目に小さい面積です。

人口は約1300万人、都道府県内で一番人が多い場所です。
日本の人口は約1億3000万人ですから、
国民の10分の1が東京都にいることとなります。
また、東京都の都内総生産(GDP)は約85兆円で、
日本国内総生産の2割ちかくを占めています。

(都のシンボルマーク:東京都のホームページより)
上の図は、東京都のシンボルマークです。
このマークは東京都の頭文字である「T」を真ん中にイメージし、
同じ円弧(部分的な円)3つによりできています。
色は、鮮やかな緑色で、
これからの東京都が、躍動し、繁栄し、潤い、安らぐように
という願いが込められています。

(都の花 ソメイヨシノ:東京都のホームページより)
上の図は、東京都の花です。
ソメイヨシノは、江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて、
東京染井村(現在は豊島区駒込)の植木屋さんがヤマザクラを品種改良して
生みだしました。

初めは、桜で有名な奈良県吉野山にちなんで、人々はこの桜を
「ヨシノ桜」と呼んでいましたが、
まちがいを避けるため、後に染井村の名と合わせて「ソメイヨシノ」
と呼ぶようになりました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「僕は、歴史が好きです。」

1868年、明治政府は江戸を東京という呼び名に変え、
東京府が誕生しました。
大正時代の1923年、関東大震災が起き、
10万人以上の死者・行方不明者が出ました。
苦難を乗り越えた東京ですが、
震災からわずか10年で人口が500万人近くに増え、
昭和時代の1932年には、人口世界2位の大都市となりました。

1941年には太平洋戦争がはじまり、
200万人以上の日本人が命を落としました。
「僕の大切なものは、平和を生む心です。」

この戦争中である1943年に、東京都が発足しました。
1945年に終戦を迎えると、
2年後の1947年、日本政府は日本国憲法を施行しました。
悲しみを胸に、1950年代から約20年間
日本は経済的に大きく飛躍しました。
この時期を「高度経済成長」期といいます。
1960年代には都の人口が1000万人を超え、
1964年には東京オリンピックが開かれました。

1989年に平成時代が始まりました。
1990年代には、新宿に新都庁が誕生して、
現在に至っています。
・・・
東京都では、災害対策が課題となっています。
ミュンヘン再保険会社(2012年時点で世界最大である、
ドイツの再保険会社)は、
2003年、「世界大都市の自然災害リスク指数」を発表しました。
これによれば、世界の主な50都市の中で、
東京における災害への危険性は他の都市を大きく引き離して1番に高く、
その危険度はロサンゼルスの7倍、ロンドンの約20倍、
北京の40倍以上です。

東京湾の下には、太平洋プレートをはじめ、
3つの厚い岩盤が重なっています。
そのため、この地点を震源とした、
直下型地震の起こる可能性が高いのです。
2016年までに、マグニチュード7クラスの地震が
約7割の可能性で起こることを、東京大学地震研究所は公表しました。

これを受けて、
東京都は防災のための政策をおこなっています。
都は、以下4つを柱にして、対策を取っています。
1.東京都でも国とは別に対策を立てること
2.首都直下地震が起きた時の東京における被害予測
3.地震により、自宅に帰ることができない人々への対応
4.地域ぐるみで助け合う、隣組づくり
「あなたの大切なものは何ですか?」
「みんなで手を差し伸べあうことです。」

また、東京都の防災ホームページでは、
家庭、地域、職場、それぞれの場所において
必要な対策を60項目以上紹介しています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「私たちが歩む、人生です。」

東京都では、未婚率が高くなっています。
総務省がおこなった2005年の国勢調査によれば、
東京都民の未婚率は、31歳男性が約61%、
28歳女性が約64%です。
(全国平均では、男性31歳、女性28歳までは未婚率が50%以上ですが、
男性32歳、女性29歳以降は結婚している人が50%以上になります)
これは全国で1番高い割合です。
内閣府が出版している国民生活白書は、
未婚でいる理由として、1位「結婚したい相手にめぐり会わない」、
2位「金銭的に余裕がない」ことを挙げています。
「私の大切なものは、心に愛をもつことです。」

高い未婚率は少子化を進めます。
朝日新聞が出した予測によれば、1990年生まれである女性の場合、
子どもをもうけない人が3割以上、孫をもたない人が5割に及びます。
少子化はやがて人口を減少をさせます。
2020年以降、生まれた赤ちゃんの2倍の人が毎年亡くなっていくと、
いわれています。
人口が減少すると、働ける人も減ります。
労働力が少なくなると、
東京、そして日本の経済は衰えてしまいます。

NPO全国結婚支援機構は、都市と地方において、
少子化への対策と地域の活性化をすることにより、
豊かな人と幸せな家庭を増やすことを目標にして、事業をおこなっています。
このNPOは、未婚者や再婚希望者に向けて、
1.結婚への悩み相談やイベント開催などの支援事業
2.結婚相手紹介事業所の指導・育成・募集
などのプロジェクトを実施しています。

民間組織が、行政や企業につづく架け橋として、
人々が積極的に参加し、支援しあえる場を提供することにより、
社会に貢献できると、このNPOは述べています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「私は、家族とずっといっしょにいたいです。」

日本では、全国ほぼすべてで
少子化が問題になっています。
その中でも、東京都で、
最も問題となっています。
厚生労働省の2011年の人口動態統計で、
都道府県の出生率は、沖縄が最も高く、
東京は最低でした。
この理由は、働きながら育児をする人にとって、
仕事と生活の両立が難しい状況だからです。

これを受けて、
働きながら子育てをする社員を応援する企業が増えています。
例えば、株式会社ベネッセコーポレーションは、
岡山県に本社がありますが、
東京都の多摩市にも、
第二の業務拠点を持っています。
この会社は、社内全体で、
仕事と家庭の良いバランスを取るための工夫をしています。

この企業は、以下のような制度を整えています。
1.育児休業を、
法律で定められている『1才6ヶ月まで』よりも、
さらに長くとれるようにしました。
2.子どもが小学3年生になるまで、
勤務時間が短くても良し、
とする制度を作りました。
3.子育てが終わった後、
社員が職場に戻り易いように
アンケート調査や研修を始めました。

こうした努力の結果、この企業は、
2007年に「くるみん」マークを取得しました。
くるみんとは、子育てを手助けするための取り組みを計画・実行し、
その成果がでた企業を認定するものです。

(「くるみん」のマーク:厚生労働省のホームページより)
くるみんは、子どもを温かく「くるむ」ことと、
会社「ぐるみ」で仕事と家庭の両立を目指す意味をあらわしています。
厚生労働省は、2008年、
仕事と育児の両立を目指す企業に贈る厚生労働大臣最優良賞に
この企業を決定しました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「涼しい自然の中で、遊ぶことです。」

東京では、温暖化が問題になっています。
特に、都市部では「ヒートアイランド」現象への対策が課題です。
ヒートアイランド現象とは、
エネルギーをたくさん消費することなどにより、
都市部の気温が周りの地域と比べて高くなる現象です。
東京都心の年間平均気温は、この100年間で4℃高くなりました。

この現象の原因には、さまざまなものがあります。
たとえば、都市部は人口が多く、高層ビルがたくさんあります。
ビルの中を冷房によって冷やすと、その分の熱を建物の外に出すため、
外の気温が上がります。
建物そのものも、昼間に受けた周りからの熱を夕方から夜にかけて外に出すため、
夜になっても気温があまり下がりません。
また、自動車やトラックなどがエンジンをかけている状態も熱を出します。
都市部には森林などの緑地や池、湖などの水辺が少ないため
自然による冷やす効果が小さいこともあげられます。

これを受けて、
NGO世界自然保護基金(WWF)ジャパンは、
温暖化防止に向けた取り組みを行なっています。
2003年、このNGOは佐川急便株式会社と協力して、
温暖化防止プログラムをはじめました。

これを「クライメート・セイバーズ・プログラム」といいます。
環境問題対策へ意欲的に取り組んでいこうとする、世界の企業が
NGO世界自然保護基金とともに温暖化防止を目指す試みです。
このプログラムは、企業とNGOが話し合って自分たちの目標を定め、
別の機関による客観的なチェックを行うので、
取り組みは信頼度の高いものとなります。
「大切なものは、地球です。」

佐川急便株式会社は、2003年からこの活動に参加しています。
「2002年度に比べて、一年間の二酸化炭素排出量を、
2012年度までに6%減らす。
そのために、石油に比べると、CO2排出量の少ない天然ガスで走るトラックを
約7000台導入する」という目標を決めました。
2002年度以降、毎年の進み具合をホームページ上で発表しながら、
この企業はプログラムを進めています。
2011年度の発表によると、これまでに7%以上の削減を果たしました。

トラックを使って長い距離を運転する運輸業界にとって、
二酸化炭素の排出量を減らすのは難しいことです。
2012年3月現在、世界で28の企業がこのプログラムに参加しています。
佐川急便株式会社は日本最初の参加企業であり、
運輸業界では世界初でただ一社の企業です。
これを受けて、
株式会社産業経済新聞社が主催した、第13回地球環境大賞は、
地球環境会議が選ぶ優秀企業賞を、佐川急便株式会社に贈りました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「健康です。」

東京都では人口10万人当たりの病床(病人が寝るベッド。)数が少なく、
そのための対策が必要です。
厚生労働省の調査によると、
東京都における2010年の病床数は、人口10万人当たり約970床で、
全国にある47都道府県の中、43番目という低さです。
その中でも、療養病床(高齢者など、介護が必要な患者に向けた
長期入院用のベッド)数は人口10万人当たり約150床で、
全国で45番目と、最下位に近いです。
「大切なものは、ぬけた歯です。」

東京都には高度な医療技術があり、全国から多くの患者が集まってきます。
各地域にいくつ病床を設けるかを決める制度がありますが、
現在、全国で統一された計算方式によって厚生労働省が決めています。
その地域に住む住人あたり何床つくると決まっており、
他県からやってきた人々の分は、この計算式に入っていません。
このため、すでにある病床が基準の数に達している場合、患者が増えても、
病院などを新しく開いたり増やしたりすることができません。
東京都では、2015年までに高齢者が急激に増え、
それ以降も増え続ける中で、
さらに病床数が足りなくなると都は予想しています。

これを受けて、石原慎太郎東京都知事は、
小宮山洋子厚生労働大臣に対して、以下のような緊急提案をしました。
今後、基準病床数を決める計算方式を相談する時には、
1.入院患者が他の地域から多くやってくることなど、
東京都における地域の特性を考慮して、計算方式に反映させること。
2.病床数の計算方式に高齢化や人口の伸び率を加えるなど、
将来見込まれる医療の状況を反映させること。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「どこで生きていても、同じ太陽にてらされて、同じ月を見てる
そういう、つながりです。」

おわりに、
2012年に、この記事を書いた私の感想を書きます。
東京には、「2020年の東京」という、
大きな目標があります。
その中の、いくつかを抜粋します。
目標1 高度な防災都市を実現し、東京の安全性を世界に示す
目標3 水と緑の回廊で包まれた、美しいまち東京を復活させる
目標4 陸と海と空を結び、東京の国際競争力を引き上げる
目標6 少子高齢社会における都市モデルを構築し、世界に範を示す
目標7 誰もがチャレンジできる社会を創り、世界に羽ばたく人材を輩出する
これらの目標を土台にして、描く都市像が東京にはあります。

東京は、2020年には、どんな姿になっているのでしょうか。
上へ上へと伸びていく都市であるとともに、
「幸せを感じられる力」、「幸せをわけあえる力」
のある東京になっていたらいいな、と私は願います。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2003,2004,2006,2007年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年9月17日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/
日本における首都としての働きをもっています。

都の大きさは、およそ2000キロ平方メートルです。
これは、沖縄県より少し小さいくらいで、
日本の47都道府県内で3番目に小さい面積です。

人口は約1300万人、都道府県内で一番人が多い場所です。
日本の人口は約1億3000万人ですから、
国民の10分の1が東京都にいることとなります。
また、東京都の都内総生産(GDP)は約85兆円で、
日本国内総生産の2割ちかくを占めています。

(都のシンボルマーク:東京都のホームページより)
上の図は、東京都のシンボルマークです。
このマークは東京都の頭文字である「T」を真ん中にイメージし、
同じ円弧(部分的な円)3つによりできています。
色は、鮮やかな緑色で、
これからの東京都が、躍動し、繁栄し、潤い、安らぐように
という願いが込められています。

(都の花 ソメイヨシノ:東京都のホームページより)
上の図は、東京都の花です。
ソメイヨシノは、江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて、
東京染井村(現在は豊島区駒込)の植木屋さんがヤマザクラを品種改良して
生みだしました。

初めは、桜で有名な奈良県吉野山にちなんで、人々はこの桜を
「ヨシノ桜」と呼んでいましたが、
まちがいを避けるため、後に染井村の名と合わせて「ソメイヨシノ」
と呼ぶようになりました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「僕は、歴史が好きです。」

1868年、明治政府は江戸を東京という呼び名に変え、
東京府が誕生しました。
大正時代の1923年、関東大震災が起き、
10万人以上の死者・行方不明者が出ました。
苦難を乗り越えた東京ですが、
震災からわずか10年で人口が500万人近くに増え、
昭和時代の1932年には、人口世界2位の大都市となりました。

1941年には太平洋戦争がはじまり、
200万人以上の日本人が命を落としました。
「僕の大切なものは、平和を生む心です。」

この戦争中である1943年に、東京都が発足しました。
1945年に終戦を迎えると、
2年後の1947年、日本政府は日本国憲法を施行しました。
悲しみを胸に、1950年代から約20年間
日本は経済的に大きく飛躍しました。
この時期を「高度経済成長」期といいます。
1960年代には都の人口が1000万人を超え、
1964年には東京オリンピックが開かれました。

1989年に平成時代が始まりました。
1990年代には、新宿に新都庁が誕生して、
現在に至っています。
・・・
東京都では、災害対策が課題となっています。
ミュンヘン再保険会社(2012年時点で世界最大である、
ドイツの再保険会社)は、
2003年、「世界大都市の自然災害リスク指数」を発表しました。
これによれば、世界の主な50都市の中で、
東京における災害への危険性は他の都市を大きく引き離して1番に高く、
その危険度はロサンゼルスの7倍、ロンドンの約20倍、
北京の40倍以上です。

東京湾の下には、太平洋プレートをはじめ、
3つの厚い岩盤が重なっています。
そのため、この地点を震源とした、
直下型地震の起こる可能性が高いのです。
2016年までに、マグニチュード7クラスの地震が
約7割の可能性で起こることを、東京大学地震研究所は公表しました。

これを受けて、
東京都は防災のための政策をおこなっています。
都は、以下4つを柱にして、対策を取っています。
1.東京都でも国とは別に対策を立てること
2.首都直下地震が起きた時の東京における被害予測
3.地震により、自宅に帰ることができない人々への対応
4.地域ぐるみで助け合う、隣組づくり
「あなたの大切なものは何ですか?」
「みんなで手を差し伸べあうことです。」

また、東京都の防災ホームページでは、
家庭、地域、職場、それぞれの場所において
必要な対策を60項目以上紹介しています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「私たちが歩む、人生です。」

東京都では、未婚率が高くなっています。
総務省がおこなった2005年の国勢調査によれば、
東京都民の未婚率は、31歳男性が約61%、
28歳女性が約64%です。
(全国平均では、男性31歳、女性28歳までは未婚率が50%以上ですが、
男性32歳、女性29歳以降は結婚している人が50%以上になります)
これは全国で1番高い割合です。
内閣府が出版している国民生活白書は、
未婚でいる理由として、1位「結婚したい相手にめぐり会わない」、
2位「金銭的に余裕がない」ことを挙げています。
「私の大切なものは、心に愛をもつことです。」

高い未婚率は少子化を進めます。
朝日新聞が出した予測によれば、1990年生まれである女性の場合、
子どもをもうけない人が3割以上、孫をもたない人が5割に及びます。
少子化はやがて人口を減少をさせます。
2020年以降、生まれた赤ちゃんの2倍の人が毎年亡くなっていくと、
いわれています。
人口が減少すると、働ける人も減ります。
労働力が少なくなると、
東京、そして日本の経済は衰えてしまいます。

NPO全国結婚支援機構は、都市と地方において、
少子化への対策と地域の活性化をすることにより、
豊かな人と幸せな家庭を増やすことを目標にして、事業をおこなっています。
このNPOは、未婚者や再婚希望者に向けて、
1.結婚への悩み相談やイベント開催などの支援事業
2.結婚相手紹介事業所の指導・育成・募集
などのプロジェクトを実施しています。

民間組織が、行政や企業につづく架け橋として、
人々が積極的に参加し、支援しあえる場を提供することにより、
社会に貢献できると、このNPOは述べています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「私は、家族とずっといっしょにいたいです。」

日本では、全国ほぼすべてで
少子化が問題になっています。
その中でも、東京都で、
最も問題となっています。
厚生労働省の2011年の人口動態統計で、
都道府県の出生率は、沖縄が最も高く、
東京は最低でした。
この理由は、働きながら育児をする人にとって、
仕事と生活の両立が難しい状況だからです。

これを受けて、
働きながら子育てをする社員を応援する企業が増えています。
例えば、株式会社ベネッセコーポレーションは、
岡山県に本社がありますが、
東京都の多摩市にも、
第二の業務拠点を持っています。
この会社は、社内全体で、
仕事と家庭の良いバランスを取るための工夫をしています。

この企業は、以下のような制度を整えています。
1.育児休業を、
法律で定められている『1才6ヶ月まで』よりも、
さらに長くとれるようにしました。
2.子どもが小学3年生になるまで、
勤務時間が短くても良し、
とする制度を作りました。
3.子育てが終わった後、
社員が職場に戻り易いように
アンケート調査や研修を始めました。

こうした努力の結果、この企業は、
2007年に「くるみん」マークを取得しました。
くるみんとは、子育てを手助けするための取り組みを計画・実行し、
その成果がでた企業を認定するものです。

(「くるみん」のマーク:厚生労働省のホームページより)
くるみんは、子どもを温かく「くるむ」ことと、
会社「ぐるみ」で仕事と家庭の両立を目指す意味をあらわしています。
厚生労働省は、2008年、
仕事と育児の両立を目指す企業に贈る厚生労働大臣最優良賞に
この企業を決定しました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「涼しい自然の中で、遊ぶことです。」

東京では、温暖化が問題になっています。
特に、都市部では「ヒートアイランド」現象への対策が課題です。
ヒートアイランド現象とは、
エネルギーをたくさん消費することなどにより、
都市部の気温が周りの地域と比べて高くなる現象です。
東京都心の年間平均気温は、この100年間で4℃高くなりました。

この現象の原因には、さまざまなものがあります。
たとえば、都市部は人口が多く、高層ビルがたくさんあります。
ビルの中を冷房によって冷やすと、その分の熱を建物の外に出すため、
外の気温が上がります。
建物そのものも、昼間に受けた周りからの熱を夕方から夜にかけて外に出すため、
夜になっても気温があまり下がりません。
また、自動車やトラックなどがエンジンをかけている状態も熱を出します。
都市部には森林などの緑地や池、湖などの水辺が少ないため
自然による冷やす効果が小さいこともあげられます。

これを受けて、
NGO世界自然保護基金(WWF)ジャパンは、
温暖化防止に向けた取り組みを行なっています。
2003年、このNGOは佐川急便株式会社と協力して、
温暖化防止プログラムをはじめました。

これを「クライメート・セイバーズ・プログラム」といいます。
環境問題対策へ意欲的に取り組んでいこうとする、世界の企業が
NGO世界自然保護基金とともに温暖化防止を目指す試みです。
このプログラムは、企業とNGOが話し合って自分たちの目標を定め、
別の機関による客観的なチェックを行うので、
取り組みは信頼度の高いものとなります。
「大切なものは、地球です。」

佐川急便株式会社は、2003年からこの活動に参加しています。
「2002年度に比べて、一年間の二酸化炭素排出量を、
2012年度までに6%減らす。
そのために、石油に比べると、CO2排出量の少ない天然ガスで走るトラックを
約7000台導入する」という目標を決めました。
2002年度以降、毎年の進み具合をホームページ上で発表しながら、
この企業はプログラムを進めています。
2011年度の発表によると、これまでに7%以上の削減を果たしました。

トラックを使って長い距離を運転する運輸業界にとって、
二酸化炭素の排出量を減らすのは難しいことです。
2012年3月現在、世界で28の企業がこのプログラムに参加しています。
佐川急便株式会社は日本最初の参加企業であり、
運輸業界では世界初でただ一社の企業です。
これを受けて、
株式会社産業経済新聞社が主催した、第13回地球環境大賞は、
地球環境会議が選ぶ優秀企業賞を、佐川急便株式会社に贈りました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「健康です。」

東京都では人口10万人当たりの病床(病人が寝るベッド。)数が少なく、
そのための対策が必要です。
厚生労働省の調査によると、
東京都における2010年の病床数は、人口10万人当たり約970床で、
全国にある47都道府県の中、43番目という低さです。
その中でも、療養病床(高齢者など、介護が必要な患者に向けた
長期入院用のベッド)数は人口10万人当たり約150床で、
全国で45番目と、最下位に近いです。
「大切なものは、ぬけた歯です。」

東京都には高度な医療技術があり、全国から多くの患者が集まってきます。
各地域にいくつ病床を設けるかを決める制度がありますが、
現在、全国で統一された計算方式によって厚生労働省が決めています。
その地域に住む住人あたり何床つくると決まっており、
他県からやってきた人々の分は、この計算式に入っていません。
このため、すでにある病床が基準の数に達している場合、患者が増えても、
病院などを新しく開いたり増やしたりすることができません。
東京都では、2015年までに高齢者が急激に増え、
それ以降も増え続ける中で、
さらに病床数が足りなくなると都は予想しています。

これを受けて、石原慎太郎東京都知事は、
小宮山洋子厚生労働大臣に対して、以下のような緊急提案をしました。
今後、基準病床数を決める計算方式を相談する時には、
1.入院患者が他の地域から多くやってくることなど、
東京都における地域の特性を考慮して、計算方式に反映させること。
2.病床数の計算方式に高齢化や人口の伸び率を加えるなど、
将来見込まれる医療の状況を反映させること。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「どこで生きていても、同じ太陽にてらされて、同じ月を見てる
そういう、つながりです。」

おわりに、
2012年に、この記事を書いた私の感想を書きます。
東京には、「2020年の東京」という、
大きな目標があります。
その中の、いくつかを抜粋します。
目標1 高度な防災都市を実現し、東京の安全性を世界に示す
目標3 水と緑の回廊で包まれた、美しいまち東京を復活させる
目標4 陸と海と空を結び、東京の国際競争力を引き上げる
目標6 少子高齢社会における都市モデルを構築し、世界に範を示す
目標7 誰もがチャレンジできる社会を創り、世界に羽ばたく人材を輩出する
これらの目標を土台にして、描く都市像が東京にはあります。

東京は、2020年には、どんな姿になっているのでしょうか。
上へ上へと伸びていく都市であるとともに、
「幸せを感じられる力」、「幸せをわけあえる力」
のある東京になっていたらいいな、と私は願います。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2003,2004,2006,2007年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年9月17日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/
posted by お絵描きイベント at 08:38| 日記
2012年06月10日
ラオス Laos
ラオスは、『メコンの宝石』と呼ばれています。
国土の西側、ほぼタイとの国境沿いをメコン川が流れています。

ラオスは、東南アジアで唯一海に面していない内陸国です。
インドシナ半島の中央に位置し、南北に長い国で、中国、ミャンマー、ベトナム、カンボジア、タイの5つの国に囲まれています。
国土の4分の3は高地または山岳部で、「山と森の国」と言われているほどです。
国土の広さは日本の本州とほぼ同じ大きさです。
人口は約600万人、 人口密度は日本の15の1です。
首都はビエンチャン。言語はラオ語。宗教は仏教です。

多民族国家で、言語や文化が異なる民族が共存しています。
最も多い民族はラオ族で、全人口の60%を占めていて、他に48民族があります。
その中で大きく3つの民族に分けられています。
ラーオ・ルム(低地ラオ)=低地に住む人。その中心となるのがラオ族でメコン川沿いの平野に住んでいます。
ラーオ・トゥン(山腹ラオ)=山の中腹に住む人。ラオスの先住民族とも言われています。ラーオ・ルムに追いやられて中腹に住むようになったとも言われます。
ラーオ・スン(高地ラオ)=山の高地に住む人。主にラオスの中部から北部に住んでいます。モン族、ミエン族など200年ほど前に中国から移り住んだと言われています。

・ ・ ・ ・ ・
ラオスは過去、隣国と世界の大国に幾度も翻弄されてきた悲劇があります。
では、ラオスの歴史をみてみましょう。
14世紀半ばに、最初の統一国家であるラーンサーン王国が誕生します。
しかし周辺国からの侵略を受け、中でもシャム(現在のタイ)は、1828年ランサーン王国が分裂してできた3国を次々と支配下におきました。
そして、フランスが1858年にベトナムに侵攻し、1899年にはベトナム、カンボジアにラオスを加え、メコン川以東の全域をフランス領インドシナ連邦として支配することになりました。
その時、フランスが、ラオスの国境を勝手に決めたのです。

フランスの統治により、ラオスの伝統的な産業であった木工、竹製品、紡績、陶器、稲作などが棄てられました。
その代わりに輸出指向の強いチーク材などの林業、ゴムやコーヒーのプランテーション(外国の大企業による単一の農作物の栽培)、スズ鉱山開発などが進められ、ラオスの自給経済の秩序は破綻しました。
また、ラオ語の出版が制限され、行政保護官としてベトナム人が置かれるなど、ラオス人のアイデンティティは軽視され続けました。

その後、第二次世界大戦中に日本軍が侵攻し、フランスの植民地支配を一時的に解放したのですが、1945年の終戦と同時に日本軍はラオスを去りました。
その後ラオスは30年にわたってフランスが再び介入し、べトナム戦争とあいまってアメリカが絡み、長期にわたる内戦が続きます。
ここでベトナム戦争について簡単に説明します。
ベトナム戦争とは、1960〜75年にラオスのすぐ東隣りの国ベトナムで起こった戦争です。
この時、ラオスは非常に大きな打撃を受けました。
ベトナム戦争は、社会主義の国、中国、ソ連などから支援された北ベトナムと、アメリカから支援された南ベトナムとの戦いでした。
1960年代べトナム戦争当時、ラオス北部は北ベトナム軍と協力関係にあったラオス愛国戦線(パテト・ラオ)の拠点がありました。
またラオス南東部には北ベトナム軍の輸送路(ホーチミン・ルート)がありました。
その為、アメリカから大量の爆撃を受けたのです。

1975年、ベトナム戦争の終結後、荒廃したラオスの国土の上に社会主義国「ラオス人民民主義共和国」が誕生しました。
ラオスが社会主義体制へ移行すると、旧体制派の人々が大量に国外へ脱出しました。
そして隣国のタイはラオスとの国境を閉ざし、また、アメリカなど西側諸国が経済援助を停止しました。
このため、ラオスの政治・経済は共に混乱し、特に経済は急激に悪化しました。

1977年にラオス・ベトナム友好協力条約が締結され、ベトナムから資金や人的な支援を受けます。
また、ラオスは外交では、主に共通の社会主義圏であるソ連や中国、ベトナムとの関係強化を図って、それらの国々との協力体制を整えました。
しかし、食糧危機が深刻になると、自由主義経済の原理を一部に取り入れざるをえなくなり、1979年より「新経済政策」を導入しました。

1986年のラオス人民革命党大会では、自由主義経済原理を大幅に取り入れ、西側諸国やタイ、中国との関係改善を目指した「チンタナカーン・マイ」(新思想)と「ラボップ・マイ」(新制度)の導入を決定しました。
これを機に、ラオスは経済建て直しと、各国との国交正常化を図る穏健な社会主義へと変貌していきました。
1998年にはASEAN自由貿易地域(AFTA)に参加しました。
この頃ラオス政府のスローガンは貧困、焼畑、アヘン栽培の3悪追放でした。
しかし、ラオスにアヘン栽培を持ち込んだのは、植民地の資金不足に悩んだ19世紀のフランスなのです。
ラオスの山に住む人々は、焼畑農業という唯一の生産手段と、アヘンという唯一の換金作物を放棄し、新しい生き方を余儀なくされています。
以上のような問題はありますが、ラオス政府は現在も社会主義を掲げながら堅実に経済発展を果たそうとしています。
・ ・ ・ ・ ・

ベトナム戦争中、北ベトナム軍の物資の輸送ルートであったホーチミン・ルートが通っているラオスに、アメリカ軍により地雷が仕掛けられ、爆弾が投下されました。
ラオスに落とされた爆弾の量は、第2次世界大戦中に日本とドイツに落とされた爆弾の量よりも多いといわれます。
ラオスの人口は当時300万人あり、アメリカが落とした爆弾は300万トンといわれ、ラオスの国民1人1トンの爆弾が落とされ、今も不発弾として残っています。
1973年の停戦交渉までに、ラオスは人類の戦争史上最も激しいアメリカの空爆を受けた国だと言われています。
世界各国の支援による地雷・不発爆弾の撤去活動が進められていますが、それでも1年に約400の爆発事故が発生し、約100人の死者および手足を失った負傷者が多く発生しています。

なぜなら、地雷や不発爆弾はラオスの人々にとって貴重な鉄製品であり、売るためにそれらを素手で集めるからです。
これをベトナムに輸出して収入を得ている住民もいるといわれています。
ラオスは穏やかでたいへんのどかな所ですが、このように今も戦争の爪跡が多く残っているのです。
NPO法人 難民を助ける会は地雷や不発弾の危険から身を守る教育活動や被害者の自立支援を、世界各地で続けています。
ラオスでの活動は、北部シェンクワン県の村で、村落保健ボランティアを対象にしたクラスター爆弾(大量の小さい爆弾をまき散らす兵器)を含む不発弾事故発生時の応急処置箱の設置や、応急処置方法の研修を実施しています。
・ ・ ・ ・ ・

戦乱時には少数民族が犠牲になる場合が多くあります。
ベトナム戦争時のラオスのモン族もそうでした。
モン族は元々ラオス・ベトナムの山岳民族です。
起源は中国の苗(ミャオ)族で、中国の漢の時代に国を追われてラオス・ベトナムにやってきたと言われています。(なお、ミャンマーには全く別の“モン族”と呼ばれる少数民族が存在し、やはり政府と衝突していますのでそちらとの区別に注意してください。)

ベトナム戦争が始まるまで、モン族はラオス北部で焼畑などをして暮らす山岳民族でした。
アメリカはラオス国内を走る「ホー・チ・ミン・ルート」をたたくため、山岳地帯を機敏に動くラオスに住むモン族の機動力に目をつけ、高い報酬でモン族を雇ったのです。
アメリカは軍事教官を派遣して、モン族の若者たちにゲリラ戦に必要な戦闘技術を徹底して指導しました。
アメリカはモン族に、北ベトナムと戦い、軍事物資の輸送を阻止するという役割を任せたのです。
そしてアメリカは、モン族がそれまで触れたことのない近代兵器と大量の弾薬を持ち込み、ラオス北部に米軍基地を作り、モン族を武装集団に変えていきました。
こうしてアメリカにより作られたモン特殊部隊はアメリカ軍の先兵として、北ベトナム軍やラオス愛国戦線(パテト・ラオ)と戦うことになりました。
しかも敵方の北ベトナム軍やラオス愛国戦線の中にもモン族が居たため、同族同士が殺し合う悲劇ともなったのです。

アメリカ側の戦況が悪化してアメリカ軍の撤退が始まると、アメリカ軍はモン特殊部隊を見捨てました。
その結果北ベトナム軍の報復攻撃も含め合計20万人ものモン族が戦死したと言われています。
アメリカ軍のベトナム戦争による戦死者はモン族の1/4の5万8千人です。
もしモン特殊部隊が居なかったらアメリカ軍の犠牲は相当数増えていたでしょう。
「ラオスはアメリカから、国民一人当たりアジア最大の『カネと爆弾』を落とされた」とされるゆえんです。
なおベトナム戦争におけるベトナム人の死者は200万人を超えたといわれています。

戦争が終わってからもモン族の悲劇は続きました。
ベトナム戦争後のラオスはラオス愛国戦線(パテト・ラオ)が支配するところとなり、モン族は「裏切り者」として報復を受けました。
多くがタイへ避難しましたが、10万人のモン族が殺害されたと言われています。
又、国外に脱出したモン族は30万人とも言われています。
その多くがタイ国境沿いの難民キャンプで生活してきました。
この状況に責任があるアメリカも約15万人を難民として受け入れてきました。
しかし1992年に国連が難民支援の打ち切りを決めたため、2004年にタイはこれ以上モン族の移住を受け入れないことを決定しました。

このため、タイに暮らすモン族は難民として保護される資格を失い国籍のない不法滞在者として扱われるようになり、その数は2万人以上と言われています。
彼等は国連からの援助もなくなり自活を強いられています。
一方で、国籍も持たない彼らが働くことは、違法労働としてタイ国内での摩擦を引きおこします。
1995年の難民キャンプ閉鎖により、何千人ものモン族がラオスに送還されましたが、今もなお彼らへの拷問や虐待が続いていると言われます。

ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ラオス政府に対し、送還されたモン族の人たちを迫害せず、国際的な基準を満たす人道的な対応をするよう求めています。
また、映画「グラン・トリノ」にアメリカに移住したモン族が登場します。
アメリカがおこした戦争の犠牲者のその後が垣間見れます。
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「あなたの大切なものは何ですか」
「メコン川の魚と家族」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 IMG_6035_c.jpg Laos_01_omote.JPG)
東南アジアの内陸国であるラオスにも、近年開発の波が押し寄せるようになりました。
政府の脱最貧国政策から鉱山開発、工業団地開発、産業植林、ダム水力発電などを中心とした開発が、急速に進んでいます。
開発の担い手の多くは、中国やベトナム、インドなどに本拠地を置く多国籍企業です。
建設資材としての木材の獲得だけではなく、ゴムやユーカリ等の産業植林を目的とした原生林の伐採がラオス全土で見られるようになりました。
この様な開発の裏側で、ラオスのエコ・システム(生態系)は崩壊の危機を迎えています。
この結果、森林を利用していた田舎の村人たちは、生活ができなくなりました。
その理由は、キノコなどの森の幸があまり採れなくなったからです。
また、昔は生態系にあまり影響がなかった焼畑農業もできなくなってしまったからです。
ここから、こうしたことが起こった理由を説明していきます。

ラオスでは今も農村部の人たちの多くが、自給的な米作と、森林にある山菜やキノコなどに依存して生活をしています。
森林はラオスの人々に生活のための糧を与えてくれます。
また、焼畑農業も生活には欠かせません。
ところが、様々な開発や政策によって、森林が破壊されたり、あるいは村人の森林へのアクセスが制限されたりと、村人たちの生活手段が失われるケースが目立ってきました。
JICAによると、ラオスでは1940年代には70%であった国土の森林率が、2002年には41.5%まで低下しています。

社会主義国ラオスでは、村の森林を伐採する開発プロジェクトや、国の政策に正面から批判の声を挙げることは困難です。
重要なのは、ラオスにある法律や制度をうまく使いながら、村人たちが森林の利用に関して自分たちの権利を行政に認めさせ、村人が主導権をもって森林を利用をできる環境を整えることではないでしょうか。
又、伝統的に使用してきた土地が失われるということは、住民の稲作と採取に頼ったこれまでの生活が維持できなくなるということです。
実際に現在食料不足に陥っている村が少なくありません。

最近、外国の大企業がラオスの森林をどんどん買ってしまい、村人が利用できなくなってしまいました。
ラオス政府は、これを制限する法律を作りました。
村の人々が、森林を「村の共有林」として保護できる制度を作ったのです。
ところが村の人々は、こうした制度や権利が自分たちにあることを知りません。
そこで、NPO法人JVC(日本国際ボランティアセンター)は、村の人たちにこうした制度や権利があることを教える研修を行っています。
また、JVCは住民が米や野菜などの食料を確実に得られるよう、農業面の支援も行っています。
米の栽培方法や肥料の作り方の改善方法や、養魚や家畜飼育による複合農業の紹介、米が不作の時のために貯めておく米(コメ)銀行の設置、井戸の補修や採掘による水支援を併せて行っています。

近年、外国の大企業による途上国の土地の買い占めが行われています。
これを、『ランドラッシュ』あるいは『ランドグラビング(農地収奪)』といいます。
ランドラッシュ は、2007年以降の世界食料価格高騰が発端となっています。
欧州諸国、中国、韓国、インドなどが国を上げて、アフリカ、南米、旧ソ連圏、東欧、南アジアなどの耕作可能な土地を大掛かりに買収している現象のことです。
企業などが途上国などにおいて、広範囲の土地を買収またはレンタルし、大規模な農業を経営し、食糧・バイオ燃料などを得るのが目的です。
これは世界人口の増加と、将来石油がなくなった後、代わりにバイオ燃料、バイオプラスチック時代になる可能性があることが大きな理由です。
それに伴い、格差による食糧分配の不公正や、買い占められた土地で現地住民が強制移住させられるといった、弱者が追いこまれるなど、いろいろな問題が出てきています。

上述のランドラッシュのように、大国の中国は政府と大企業が一緒になって、ラオスに進出してきています。
中国は、首都ビエンチャンのショッピングモールや、ダムの建設なども行っています。
さらに、スポーツのための大きなスタジアムも作ってあげたため、ラオス国民の一部は中国に好感を持つようになりました。
しかし ラオスに中国が進出する理由は、メコン川地域に豊富に眠っているとされるボーキサイトやカリウムといった資源を獲得するためだと言われているので、一部のラオス国民は中国を嫌っています。
・ ・ ・ ・ ・

ラオスの就業人口の8割は農業であり、GDPの5割は農業部門となっています。
その農業も、山岳部は焼畑農業であり、自活のための農業が主であり、、生産性は低いのです。
日本は四方を海に囲まれていますが、ラオスは全部が陸続きです。
人口においても経済規模においても、農業のあり方をみても、日本とは全く正反対の国といえるでしょう。

最近の30年間でラオスの人口は倍増しました。
しかし、現在も人口の80%が農業に従事しその大半は深い山間地域で焼き畑農業を営んでいます。
焼き畑農業というのは現在では評判はよくありません。
急速に森林を消滅させているからです。
ただし、それは人口が十分少なく、人々が焼き払う森の面積が森の総面積に対して十分に小さい場合のみ、持続可能となります。
具体的に人々は以下のような手法で焼畑農業を行っています。
十分な広さの中で一定の区画を焼き払い、陸稲の種を蒔きます。
数年その土地を利用したら、村ごと別の場所に移動します。
こうした動きを数回重ねてゆくうちに、最初に使った場所は元の森に戻っています。
ですので山全体から森がなくなることはなかったのです。

しかし、人口が増えたり、何らかの理由で移動面積が狭められたりすると、逆に焼畑面積が広くなり、その循環サイクルも早くせざるをえなくなりました。
森は消え、同時に収穫高は低下します。
自然の恵みの元も子も失ってしまうのです。
もともと上記のようなラオスの農業は「半遊牧型」であり、山中の鳥獣・野草などの狩猟・採集との組み合わせにより成立していました。
家も竹と木と椰子の葉などを使って、すぐに出来上がります。
自然と調和した、自給自足型の素朴な世界でした。
しかし、最近の急激な人口増、資本主義化の波、さらには行政や教育の効率化を目指す政府の農村の土地区分政策(焼畑農業をする時の区分制限)、チークやゴムの植林政策などにより、昔からの焼畑農業が許されなくなりつつあります。

山間地域以外では、メコン川流域は降雨量に恵まれ土壌が肥沃なため野菜の栽培が多くあります。
また高原地域では良質なコーヒー、キャベツ、ジャガイモの産地があります。
コーヒーはラオス最大の輸出農作物です。

オックスファム・ジャパンは小規模コーヒー生産者を支援事業を支えています。
小規模コーヒー農家の人々とともに、質の高いコーヒー豆作りのための技術支援、農家の人たちが生産者グループを作る手助け、フェアトレード会社など、海外との橋渡しなどを行っています。
コーヒーはラオス南部のボラベン高原に1900年代最初に、当時の宗主国・フランスによって導入されました。
ボラベン高原の気候、肥沃な土地、高度が高品質のコーヒー生産に適していたのです。
現在、ラオスのコーヒー生産のほとんどが零細な小規模農家によって担われています。

上記のようにラオスの主力産業はコーヒーです。
ところが、それが仇となることが起きました。
2001年に世界的なコーヒー価格危機により、ラオスのコーヒー農家も大打撃をこうむりました。
多くのコーヒー農家が借金をかかえ、失業し、コーヒー畑が放置され、子供たちは学校に行けなくなりました。
オックスファムは2003年から、コーヒー生産農家が高品質のコーヒーを作り、フェアトレード会社などと正当な価格の取引ができるとともに、コーヒーだけに頼らないための作物の多様化等の支援活動を行っています。
結果、農家の収入が増え、食料不足も解決してきています。
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国連開発計画(UNDP)が毎年発表する「人間開発指数」(HDI;Human Development Indicator)によると、ラオスは東南アジアの中でミャンマーに次いで開発の遅れている国です(UNDP「人間開発報告書2010」)。
さらに、UNDPは、水や安全、保健医療面などの指標を基にして「人間貧困指数」(HPI;Human Poverty Index)を示していますが、こちらもラオスは東南アジアの中でカンボジアに次いで開発が遅れています。
またラオスでは、一人の女性が生涯に子を産む数は4.8人と高い水準ですが、不十分な保健医療状態や衛生状態等から乳児死亡率が高く(出生1000人に対して82人と、日本の20倍以上の高さ)、平均寿命は54.3歳と、日本の第2次世界大戦後の数値に近いのです。

生活上のインフラの整備も遅れています。水道水・井戸水などの清潔な水にアクセスできる人々は全世帯の58%、電気を利用できる世帯の割合は45%であり、国民の半数は、電気も水道もない状態で日常生活を送っています。
教育の遅れにより保健衛生を教える先生がいないため、児童や村人に歯磨きや手を洗う理由が理解されていなく、その習慣も無いそうです。
そこで、ライオン株式会社は、2011年NGO民際センターが主催するプロジェクト「ブーンライ保健衛生事業」の一環で、「キレイキレイ泡で出る消毒液」でラオスの保健衛生教育支援を行いました。

2011年度の健康診断がラオス・カムアン県の小学校13校で1,150名の児童に、実施されました。
手を清潔にすることが病気の予防に繋がることを教える保健衛生活動が行われ、ライオンの『キレイキレイ薬用泡で出る消毒液』を使って、実際に手を消毒してもらいました。
ラオスには、上水道や下水道などの社会基盤となるインフラがありません。
また田舎には、病院や診療所もありません。
この為、子供の死亡率を下げるためには、手を洗うなどの教育を学校ですることが人々の健康にとって何よりも大切なのです。
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ミレニアム開発目標のひとつは2015年までにすべてのこどもたちが初等教育を受けることであり、ラオス政府もそれを目指していますが、様々な課題があります。
就学率は84%とされていますが、実際多くの子供たちが最終年まで通うことができません。
また一般的に、途上国では、女の子はほとんど学校に行っていません。
ラオスでも同じように僻地に住む少数民族の女の子はほとんど学校に行っていません。
歴史的に、唯一ラオ族のみが正規の教育を受けてきました。
ラオスに住む他の民族は書き言葉を持たず、仏教寺院において僧侶が男子生徒にのみ教育を施してきました。
フランスによる植民地時代には、フランス語での中等教育システムを設立し、教育をうけた限られたエリート層が生まれました。
1950年代後半に、ラオ語による指導が開始されました。
ラオ語を簡素化し、より多くの国民に使われるように政府主導で取り組みがなされました。

ラオスにおける識字率は上昇しつつありますが、手に入る読み物は不足しています。教師たちは給料が低いため、他でも収入を得なくてはならず、一日に数時間しか教える時間がないのです。
教室、教科書、教育的資源、教師向けの指導書、図書館・図書室など、すべてが不足しており、初等教育における大きな障害となっています。
初等・中等教育は男女問わず無償です。
しかし農地での仕事や家族の収入に貢献することが求められているため、女子の識字率は男子に比べ17%も低くなっています。

NPOルーム・トゥ・リードはラオスで子どもの教育を支援する活動を行っています。
この団体は、最も貧しい地域に焦点をあて、教育インフラの整備と質の高い教材の確保に重点を置いています。
2005年に学校建築、図書館・図書室、現地語出版の3つのプログラムに着手し、現在では女子教育支援、読み書き能力育成プログラムまで活動を拡大しています。
又、2011年にラオス政府と新たに今後5年間のプログラム実施及び拡大に関する計画について合意しました。
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ラオスは、経済的には貧しい国であるとされています。
国連の基準では、世界の最後発国(LDC;Least Developed Countries)に分類されています。
ラオスの一人あたりGDPは、年間360ドルであり、日本と比較をすると約100分の1の低さです。

また、UNDP(国連開発計画)によると、ラオスにおいて1日1ドル以下で生活をする人の割合は26.3%に達しています。 (UNDPでは、全世界においてこの貧困層の人口を2015年までに半減させることを目標としています。)
ラオス政府も、2003年、「国家貧困撲滅計画(ネップ:NEEP;National Poverty
Eradication Program)」 を作成し、2020年までに後発開発途上国(LDC)からの脱却を目指して、貧困対策に国をあげて取り組んでいます。
この計画では、都市部では一人あたり月額10万キープ(約10ドル)以下、農村部では月額8万2千キープ(約8.2ドル)以下の収入の人が地域人口の半数以上を貧困地区と定義しています。

ラオスは、東南アジアのバッテリーと呼ばれるほどの電力供給国です。
ラオスを流れるメコン川は全長4,500km、東南アジア最大の河川で、年間に海へ放出する水量は日本の全河川の流出総量を上回るといわれています。
そのメコン川の支流にダムをつくりタイなど隣国への電力輸出を進めてはいますが、ラオス国内では送電線等のインフラの整備が遅れているため電力不足で、タイに輸出した電気を割高な料金で逆輸入するという現状になっているのです。
このように、ラオスが経済成長するにはまだまだ問題が多いのが現状です。

一方、近年インドシナ半島において、南北と東西の双方から新たな道路網の建設が始まっていることが注目されています。
一つは「南北経済回廊」と呼ばれるルートで、中国主導の下に、中国雲南省からラオスを経てタイのバンコクに抜ける道路です。
もう一つは「東西経済回廊」と呼ばれるルートは、日本の援助も入って、タイからラオスを抜けてベトナムへ向かう道路です。
こうした道路網が整備されれば、ラオスの内陸国としてのハンディキャップもだいぶ解消されます。
アジア開発銀行では、この2つの回廊整備も含めて、メコン川を動脈にした経済圏をつくろうと「大メコン経済協力計画」を進めています。

ここ数年、「チャイナ・プラスワン」としてASEAN諸国が注目を集めてきました。
中国に生産拠点を持つ日本の製造業が、賃金上昇やストライキ頻発など労働事情の悪化を背景に、中国一国集中ではリスクが高いと認識し始めたのです。
JETROの調査(2010年)によると、中国におけるワーカーの月額賃金は北京で約380ドル、上海で約300ドル、大連で約220ドルなどとなります。
一方ASEAN諸国では、ジャカルタ(インドネシア)が約150ドル、ハノイ(ベトナム)が約100ドル、ヤンゴン(ミャンマー)が約20ドルなど、中国の主要都市に比べ低い水準にあります。
このような状況のため、日本企業は人件費の安いラオスやカンボジア、ミャンマーに工場を作ろうと思っているのです。

「無印良品」の良品計画は、エコバックの調達先を中国からラオスに切り替えました。
中国での人件費の高騰を受けてのコスト削減と、ラオスの産地育成のためです。
良品計画は、直接貿易の取り組みの中で、ラオスで雇用創出を進める現地工場に出会い、その企業活動に大きな感銘を受けたそうです。
この工場では、現金収入の非常に少ない村で手紡ぎの糸を購入し、藍染め・草木染めの染色工程を経て、その染色糸を今度は別の村に支給し、手織りしてもらいます。
そして再度手織り生地を買い取り、縫製・加工し、海外またはラオス国内に出荷するという一連のサイクルを実施しています。
こうした雇用創出により、ラオス経済の活性化・成長にはなるのでしょう。
しかし一方では、現地の人々がこのエコ・バッグ生産の為に仕事に追われ、生活が変わってしまったとも言われています。

開発の波とともに、ラオスに貨幣経済が急速に浸透し始めました。
バイクや自動車の急激な増加、携帯電話の中学生高校生までの普及、首都の物価の高騰、値段が上がりそうな土地の売買の増加などが著しいです。
首都ヴィエンチャンでは、これまで無かったストリート・チルドレンの増加、物乞い、青少年の非行、覚せい剤を中心とした麻薬への依存、隣国タイ等への児童労働、児童の売買等様々な問題が発生しています。
また、以前はほとんどなかった引ったくりや強盗といった凶悪犯罪も次第にその数を増しているようです。

ラオスの経済発展が遅れている理由のひとつに、ラオス人の労働意欲の低さをあげる人がいます。
少々失敗をしても、今日できることを明日に延ばしても、ラオス人はよく「ポーペンニャン」(気にしないで)という言葉を使います。
仕事に対してまじめに取り組む日本人やベトナム人からみると、やや無責任にも聞こえるかもしれません。
しかし、これは、人生は細かなことにこだわらず決してあせる必要はないというラオスの国民性の現れでもあります。
他人と会っても微笑を絶やさないというやさしさがあふれた良き国民性なのです。

一度ラオスに行ったことのある人は、必ずラオスに戻ってくるといいます。
それは、ものはなくても全く気にせず、人の心が豊かで幸せに感じるからだそうです。
又、NYタイムズで世界で行きたい国No.1に選ばれてもいます。
「あなたの大切なものは何ですか。」
「お父さんとお母さん」

ラオスを囲む国々の人口は、中国・雲南省だけで約4500万人、ミャンマーが約6200万人、ベトナムが8600万人、タイが6500万人と、ラオスより一桁大きいのです。
大国に囲まれながらひっそり心豊かに暮らす、ブータンに似ているのかもしれません。
最近ブータンのGNH (国民総幸福度)が話題になっています。
今まで日本は資本主義、市場経済のもと、経済成長をし続け物質的に豊かになりましたが、精神的な豊かさ、幸せについて疑問を持っている人が多いのではないでしょうか。
貧困とはいったい何なのでしょう。
幸福とは何でしょう。
人それぞれの価値観によって違ってくるのではないでしょうか。

あなたの大切なものは、何ですか。
絵と写真を集めた人:
1.坂本直佳
(2004年7月)
2.矢野弘明
(2005年)
3.山本敏晴
(2008年8月)
画像データを編集し、文章を書いた人:
澤田 輪香子
編集完了日:
2012年6月26日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 18:23| 日記
2012年05月25日
岩手県 奥州市 水沢区
日本の奥州市水沢区は、
岩手県の南部に位置する地域です。

岩手県は、日本の都道府県において2番目に大きい面積をもっています。
歌人の石川啄木(いしかわ たくぼく)や、詩人の宮沢賢治、
学者の新渡戸稲造(にとべ いなぞう)など、
多くの有名な人物が岩手県出身です。

岩手県は、わんこそば、りんごの生産地(全国2位)として有名です。
県内には日本最大の民間総合農場である小岩井農場があります。
小野義真(おの ぎしん。日本鉄道会社副社長)、
岩崎彌之助(いわさき やのすけ。三菱社社長)、
井上勝(いのうえ まさる。鉄道庁長官)が協力して、
この農場を明治時代につくりました。
3人がそれぞれの名前から頭文字をとって、
「小岩井」という名をつけました。
小岩井農場によく足を運んでいた人物の一人が、宮沢賢治です。
短編集「注文の多い料理店」のなかにある、
「狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)」をはじめ、
宮沢賢治の童話や詩には小岩井農場がたくさん登場しています。

海沿いの南側にはリアス式海岸
(海水の侵食により凹凸のある複雑な形をしている海岸)があります。
この海岸沿いに、宮古市、山田町、大槌町(おおつちちょう)、釜石市、
大船渡市、陸前高田市などの市町村と、100以上の漁港がならんでいます。
2011年3月11日の東日本大震災による大津波は、
これら海岸地域に暮らす人々をはじめ、
岩手県全体で5000人ちかくの命を奪いました。
「平和が大切だって思います。」

(この絵の太陽に使われている、円の中に縦と斜めの線がある印は、
平和を象徴する「ピースマーク」です。
1958年にイギリスで考案されました。)
その岩手県にある水沢区ですが、
以前は水沢市として、独立した市でした。
それが周辺4つの市町村と合併し、2006年2月に奥州市が誕生しました。
これにより、水沢市は奥州市水沢区として新しい歩みをはじめました。

水沢区のある奥州市は、土地の2割以上が田んぼや畑で、
稲作をはじめとした農業が盛んな地域です。
農業用以外の土地は、その半分以上が自然の山々ですが、
岩手県は自然の力を利用したエネルギー開発に力を入れています。
地球内部の熱によって電気をつくる「地熱発電」においては、
岩手県が日本で初めての発電所を有しており、その発電量は全国2位です。
「地球を守ることが大切だと思います。」


東日本大震災によっておきた、福島第一原子力発電所の事故を受け、
「今後、どのようにエネルギーをつくりだすか」ということを、
世界各国はもう一度考えています。

そのような中で、地熱発電などの自然エネルギーは
今、大きな注目を浴びています。


・・・
水沢区の地域では、約4万年前すでに人間が生活を営んでいました。
平安時代の9世紀、水沢区の周りには、
蝦夷(えみし。東北地方や北海道に住む反朝廷派の人々)が多く暮らしていました。
征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、
蝦夷との戦いに勝つと、彼はこの地域に胆沢城(いさわじょう)を築きました。
19世紀に入り、明治時代になると水沢町がうまれました。
昭和時代になると、水沢町が周囲5つの村と合わさって水沢市ができました。
さらに、2006年になると、奥州市水沢区が発足しました。
「かざぐるまです。小さい頃の思い出が大切です。」

11世紀には奥州藤原氏が活動の拠点を
(奥州市のすぐ隣り、南東に位置する)平泉(現・平泉町)におきました。
奥州藤原氏がのこした平泉の遺産は、のちに世界が誇る文化遺産となりました。
2011年6月、
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する世界遺産委員会は、
平泉を世界文化遺産に登録しました。

登録された平泉の文化遺産は以下の資産です。
1.中尊寺(ちゅうそんじ)
2.毛越寺(もうつうじ)
3.観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
4.無量光院跡(むりょうこういんあと)
5.金鶏山(きんけいさん)
平泉が世界文化遺産に登録された最大の理由は、
その理念・理想として、『争いのない平和な世界』を求めた点です。
・・・
水沢区には、国立天文台の観測所があります。
この施設の前身である水沢緯度観測所の初代所長を務めた
木村栄(きむら ひさし)は、日本を代表する天文学者の一人です。

(キャンパス内の電波望遠鏡)
天文台とは、宇宙にある星や銀河、衛星などを観測をしたり、
その研究をする施設です。
木村栄は、この施設で、地球の自転軸の傾きを調べていました。
地球の自転軸は、「南北軸」とは完全に一致していませんでした。
地球の自転を説明するための方程式を完全なものにするため、
(誤差を補正する)『Z項』という概念を、木村は生み出しました。

Z項の発見は、明治時代における日本で初めての世界的な業績でした。
この功績により、日本政府は1911年の第1回学士院恩賜賞と
1937年の第1回文化勲章を、木村栄に贈りました。

宮沢賢治は、この観測所をたびたび訪れていました。
童話「風の又三郎」のもととなった「風野又三郎」には、
この観測所でスポーツを楽しむ木村栄が描かれています。
この観測所は、宮沢賢治の代表作である「銀河鉄道の夜」
の原点になったともいわれています。
Z項の功績を称えて、水沢区には奥州市文化会館Zホール、
奥州市総合体育館Zアリーナ、水沢産直組合Zプラザアテルイなど、
Zのつく施設がたくさんあります。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「しあわせを感じられることです。」

水沢市は、高齢化や産業の変化などにより、
一つの市だけでは、行政と財政の土台をしっかりとさせることが
難しくなりました。
岩手県は2006年2月に、
水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村の5市町村を合わせて1つにし、
奥州市をつくりました。

かつて、明治時代の日本には、
70000以上の町や村がありました。
地方の政治を近代的なものにするため、町村の管理を効率よくするために、
日本政府は、市町村の大合併を行いました。
明治時代には、70000以上の町や村を5分の1にし、
昭和時代には、それからさらに3分の1の5000以下にまで減らしました。
そして、平成時代に入ると、
政府は「平成の大合併」とよばれる市町村合併を行いました。
1999年4月から2010年3月までの約10年間で、
総務省は、3000以上あった市町村の数を半分に近い約1700にしました。

一般に、市町村の合併においては、
以下のような長所と短所があります。
<長所>
1.住民の利用できるサービスや施設が増える
2.役所が1つにまとまるため、必要経費が減る
3.一定の期間中に合併をすれば、市町村が国から支援金を受けられることがある
<短所>
1.中心部から離れた地域の整備が行き届かなくなる
2.役所から住民に対するサービスのレベルが低くなる
3.合併前にあった各市町村の伝統や文化を、
今までと同じように維持することが難しくなる
良い面をのばしながら、課題を解決し、
奥州市は新しい市づくりを始めています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「絶対にあきらめない心です。」

2011年3月11日におきた東日本大震災は、
岩手県に大きな被害を及ぼしました。
5000人にのぼる人々の命を奪い、
30000棟ちかくの家々を津波によって流し、
公共の土木施設や産業においては、8000億円を超える被害を出しました。
これを受けて、国際連合世界食糧計画 (WFP)は、
震災で被災した岩手県、宮城県、福島県にある17の市町村にて、
救援物資などの倉庫として45張の大きなテントと、
事務作業などができる36棟のプレハブ(組み立て式)事務所を設けました。
「前向きな気持ちです。」

被災した地域では、屋根のある公共の場所が足りず、
国際連合世界食糧計画による大きなテントがとても役に立ちました。
テントは国内外各地から届いた支援物資や、炊き出しに使う食料を保管し、
届いた物の在庫を管理する場としての役割もはたしました。
また、このテントは物の保管だけでなく、
仮設の幼稚園や商店など、人々が生活を営む場としても活躍しました。
「部活動で使っているバッグです。
この中には、負けない心が入っています。」

震災から2か月目の2011年6月、
岩手県山田町は、この国連機関から届いたテントを使って、
仮設の商店街をつくりました。
地震が起きる前、この町には約200店の商店がありましたが、
その8割を津波が流しました。
商店街が立ち直るための第一歩として、
9つの店が仮設商店街である「なかよし公園商店街」をはじめました。
商店街の開店は人々の生活と心の支えになりました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「学校のともだちです。」


東日本大震災の津波は、教育の分野にも大きな打撃を与えました。
岩手県では、80人近くの生徒が亡くなりました。
津波は多くの命を奪い、
そして、たくさんの心を傷つけました。

これを受けて、岩手県の教育委員会は、
「いわての復興教育」プログラムを進めています。

このプログラムは、以下に挙げる4つの視点から、
教育を見直し、もう一度つくりあげ、
岩手県内の「復興教育」を行っています。
1.ひとをそだてること
2.震災の体験から学ぶ
3.学校としてのつながりある指導
4.それぞれの学校に対応したすすめ方


子どもたちの心にうけた傷が少しでもやわらぎ、
安心して学校に通えるようこのプログラムを進めていくと、
岩手県の教育委員会は述べています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「心臓です。」

岩手県では、高齢化や過疎化(地域の人口減少により、地域住民において、
生活水準などを保つことが難しくなる状況です)によって医師が不足しています。
医師不足により、医療施設から遠い場所で暮らす住民への医療サービスが、
十分に行き届かないことが問題となっていました。

奥州市のとなりにある遠野市では、
パソコンや携帯電話などのインターネットを通じて医療サービスができる
プロジェクトをはじめました。
この医療サービスで、遠野市民はそれぞれがパスワードと、
自分専用の記録ページをインターネット上に持つことができます。

市民は主に以下のことができます。
1.すこやか親子電子手帳(Web母子手帳)−0〜19歳頃が対象
:妊娠中から出産後そして子どもが大きくなるまでの成長記録、
乳幼児健康診断や予防接種の確認、
保健師や助産師に相談ができるウェブ上の交換日記などができます。
2.すこやか健康増進電子手帳(Web健康手帳)−20〜64歳頃が対象
:体重や血圧、肥満度、これまでに歩いた歩数などの記録、
特定健康診断や癌健康診断結果の確認や印刷ができます。
3.健康長寿ネット−65歳〜が対象
:高齢者が心身健やかに生きるための情報を、
長寿・医療・介護の3分野から得ることができます。
この取り組みにより、医療施設から離れていても、
市民が今までより安心して生活できるようになりました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「環境を守っていくことです。」

水沢区では、環境の変化により、
今まで生息していたカジカ(魚の一種)が少なくなってしまいました。
これを受けて、水沢区のNPOである
「古代の流れ源流「網代滝(あじろたき)」を守る会」は、
水沢区にある川とその周りの自然環境を守る活動と、
「みずさわエコキッズクラブ」事業による自然体験を提供しています。
「水沢の自然や水が大切です。」


網代滝は江戸時代に発見されました。
森林の奥深く、谷間に流れる高さ7mほどのこの滝は、
かつて「幻の滝」と人々がよんでいました。

このNPOは、主に以下の活動を行なっています。
1.網代滝近くの整備(下草を刈ること、ゴミ拾いによる川の掃除)や、
遊歩道・林道の補修
2.周辺の小中学校と協力し、総合的な学習の時間をもうけること
3.網代滝とその周りにおける自然観察や、
水の中にいる生物と水質の調査
これらの活動により、
近年ちかくの大久保川にカジカが現れるようになりました。

公益財団法人・コカ・コーラ教育・環境財団は、
「コカ・コーラ環境教育賞主催者賞」を
このNPOが取り組んだ「みずさわエコキッズクラブ」事業に贈りました。


水沢区の宝物である幻の滝と周辺の川や自然を守り、
長く受け継いでいきたいとNPOは述べています。
・・・
岩手県は、多くの伝統を今も受け継いでいます。
その一つに、水沢区が行う黒石寺蘇民祭(こくせきじ そみんさい)
という祭りがあります。

日本政府は、岩手の人々が1000年以上前からおこなっているこの祭りを、
国の無形民俗文化財(古く昔から人々の間で伝わりその価値が高いため、
国が記録を保存している文化的財産)に指定しました。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「天使のお守りです。」

薬師如来への信仰心をもととして、炎と裸の男性が主役のこの祭りは、
寒さの厳しい2月に、天台宗の黒石寺で夜にはじまり翌朝まで行われます。
祭りは、以下のように行われます。
1.裸参り(22時〜)
2.柴燈木(ひたき)登り(23時〜)
3.別当(べっとう)登り(翌2時〜)
4.鬼子(おにご)登り(4時〜)
5.蘇民袋(そみんぶくろ)争奪戦(5時〜)
東北電力株式会社は、祭りの際に参加者が着替える場所である、
「おこもり小屋」の撤収・清掃作業を行なっています。

最後に、この記事を書いた私の感想を書きます。
年月は流れても、失うものがあっても、
守りついできたものを伝え、新しい光を見つける力を、
水沢区は、そして岩手県はもっていると、私は感じました。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾(欲)ハナク
決シテ瞋ラズ(怒らず)
イツモシヅカニワラツテヰル(いつも静かに笑っている)
(中略)
サウイフモノニ(そういうものに)
ワタシハ
ナリタイ
(「雨ニモマケズ」 宮沢賢治)
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004年、2008年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年6月29日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/
岩手県の南部に位置する地域です。

岩手県は、日本の都道府県において2番目に大きい面積をもっています。
歌人の石川啄木(いしかわ たくぼく)や、詩人の宮沢賢治、
学者の新渡戸稲造(にとべ いなぞう)など、
多くの有名な人物が岩手県出身です。

岩手県は、わんこそば、りんごの生産地(全国2位)として有名です。
県内には日本最大の民間総合農場である小岩井農場があります。
小野義真(おの ぎしん。日本鉄道会社副社長)、
岩崎彌之助(いわさき やのすけ。三菱社社長)、
井上勝(いのうえ まさる。鉄道庁長官)が協力して、
この農場を明治時代につくりました。
3人がそれぞれの名前から頭文字をとって、
「小岩井」という名をつけました。
小岩井農場によく足を運んでいた人物の一人が、宮沢賢治です。
短編集「注文の多い料理店」のなかにある、
「狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)」をはじめ、
宮沢賢治の童話や詩には小岩井農場がたくさん登場しています。

海沿いの南側にはリアス式海岸
(海水の侵食により凹凸のある複雑な形をしている海岸)があります。
この海岸沿いに、宮古市、山田町、大槌町(おおつちちょう)、釜石市、
大船渡市、陸前高田市などの市町村と、100以上の漁港がならんでいます。
2011年3月11日の東日本大震災による大津波は、
これら海岸地域に暮らす人々をはじめ、
岩手県全体で5000人ちかくの命を奪いました。
「平和が大切だって思います。」

(この絵の太陽に使われている、円の中に縦と斜めの線がある印は、
平和を象徴する「ピースマーク」です。
1958年にイギリスで考案されました。)
その岩手県にある水沢区ですが、
以前は水沢市として、独立した市でした。
それが周辺4つの市町村と合併し、2006年2月に奥州市が誕生しました。
これにより、水沢市は奥州市水沢区として新しい歩みをはじめました。

水沢区のある奥州市は、土地の2割以上が田んぼや畑で、
稲作をはじめとした農業が盛んな地域です。
農業用以外の土地は、その半分以上が自然の山々ですが、
岩手県は自然の力を利用したエネルギー開発に力を入れています。
地球内部の熱によって電気をつくる「地熱発電」においては、
岩手県が日本で初めての発電所を有しており、その発電量は全国2位です。
「地球を守ることが大切だと思います。」


東日本大震災によっておきた、福島第一原子力発電所の事故を受け、
「今後、どのようにエネルギーをつくりだすか」ということを、
世界各国はもう一度考えています。

そのような中で、地熱発電などの自然エネルギーは
今、大きな注目を浴びています。


・・・
水沢区の地域では、約4万年前すでに人間が生活を営んでいました。
平安時代の9世紀、水沢区の周りには、
蝦夷(えみし。東北地方や北海道に住む反朝廷派の人々)が多く暮らしていました。
征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、
蝦夷との戦いに勝つと、彼はこの地域に胆沢城(いさわじょう)を築きました。
19世紀に入り、明治時代になると水沢町がうまれました。
昭和時代になると、水沢町が周囲5つの村と合わさって水沢市ができました。
さらに、2006年になると、奥州市水沢区が発足しました。
「かざぐるまです。小さい頃の思い出が大切です。」

11世紀には奥州藤原氏が活動の拠点を
(奥州市のすぐ隣り、南東に位置する)平泉(現・平泉町)におきました。
奥州藤原氏がのこした平泉の遺産は、のちに世界が誇る文化遺産となりました。
2011年6月、
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する世界遺産委員会は、
平泉を世界文化遺産に登録しました。

登録された平泉の文化遺産は以下の資産です。
1.中尊寺(ちゅうそんじ)
2.毛越寺(もうつうじ)
3.観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
4.無量光院跡(むりょうこういんあと)
5.金鶏山(きんけいさん)
平泉が世界文化遺産に登録された最大の理由は、
その理念・理想として、『争いのない平和な世界』を求めた点です。
・・・
水沢区には、国立天文台の観測所があります。
この施設の前身である水沢緯度観測所の初代所長を務めた
木村栄(きむら ひさし)は、日本を代表する天文学者の一人です。

(キャンパス内の電波望遠鏡)
天文台とは、宇宙にある星や銀河、衛星などを観測をしたり、
その研究をする施設です。
木村栄は、この施設で、地球の自転軸の傾きを調べていました。
地球の自転軸は、「南北軸」とは完全に一致していませんでした。
地球の自転を説明するための方程式を完全なものにするため、
(誤差を補正する)『Z項』という概念を、木村は生み出しました。

Z項の発見は、明治時代における日本で初めての世界的な業績でした。
この功績により、日本政府は1911年の第1回学士院恩賜賞と
1937年の第1回文化勲章を、木村栄に贈りました。

宮沢賢治は、この観測所をたびたび訪れていました。
童話「風の又三郎」のもととなった「風野又三郎」には、
この観測所でスポーツを楽しむ木村栄が描かれています。
この観測所は、宮沢賢治の代表作である「銀河鉄道の夜」
の原点になったともいわれています。
Z項の功績を称えて、水沢区には奥州市文化会館Zホール、
奥州市総合体育館Zアリーナ、水沢産直組合Zプラザアテルイなど、
Zのつく施設がたくさんあります。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「しあわせを感じられることです。」

水沢市は、高齢化や産業の変化などにより、
一つの市だけでは、行政と財政の土台をしっかりとさせることが
難しくなりました。
岩手県は2006年2月に、
水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村の5市町村を合わせて1つにし、
奥州市をつくりました。

かつて、明治時代の日本には、
70000以上の町や村がありました。
地方の政治を近代的なものにするため、町村の管理を効率よくするために、
日本政府は、市町村の大合併を行いました。
明治時代には、70000以上の町や村を5分の1にし、
昭和時代には、それからさらに3分の1の5000以下にまで減らしました。
そして、平成時代に入ると、
政府は「平成の大合併」とよばれる市町村合併を行いました。
1999年4月から2010年3月までの約10年間で、
総務省は、3000以上あった市町村の数を半分に近い約1700にしました。

一般に、市町村の合併においては、
以下のような長所と短所があります。
<長所>
1.住民の利用できるサービスや施設が増える
2.役所が1つにまとまるため、必要経費が減る
3.一定の期間中に合併をすれば、市町村が国から支援金を受けられることがある
<短所>
1.中心部から離れた地域の整備が行き届かなくなる
2.役所から住民に対するサービスのレベルが低くなる
3.合併前にあった各市町村の伝統や文化を、
今までと同じように維持することが難しくなる
良い面をのばしながら、課題を解決し、
奥州市は新しい市づくりを始めています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「絶対にあきらめない心です。」

2011年3月11日におきた東日本大震災は、
岩手県に大きな被害を及ぼしました。
5000人にのぼる人々の命を奪い、
30000棟ちかくの家々を津波によって流し、
公共の土木施設や産業においては、8000億円を超える被害を出しました。
これを受けて、国際連合世界食糧計画 (WFP)は、
震災で被災した岩手県、宮城県、福島県にある17の市町村にて、
救援物資などの倉庫として45張の大きなテントと、
事務作業などができる36棟のプレハブ(組み立て式)事務所を設けました。
「前向きな気持ちです。」

被災した地域では、屋根のある公共の場所が足りず、
国際連合世界食糧計画による大きなテントがとても役に立ちました。
テントは国内外各地から届いた支援物資や、炊き出しに使う食料を保管し、
届いた物の在庫を管理する場としての役割もはたしました。
また、このテントは物の保管だけでなく、
仮設の幼稚園や商店など、人々が生活を営む場としても活躍しました。
「部活動で使っているバッグです。
この中には、負けない心が入っています。」

震災から2か月目の2011年6月、
岩手県山田町は、この国連機関から届いたテントを使って、
仮設の商店街をつくりました。
地震が起きる前、この町には約200店の商店がありましたが、
その8割を津波が流しました。
商店街が立ち直るための第一歩として、
9つの店が仮設商店街である「なかよし公園商店街」をはじめました。
商店街の開店は人々の生活と心の支えになりました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「学校のともだちです。」


東日本大震災の津波は、教育の分野にも大きな打撃を与えました。
岩手県では、80人近くの生徒が亡くなりました。
津波は多くの命を奪い、
そして、たくさんの心を傷つけました。

これを受けて、岩手県の教育委員会は、
「いわての復興教育」プログラムを進めています。

このプログラムは、以下に挙げる4つの視点から、
教育を見直し、もう一度つくりあげ、
岩手県内の「復興教育」を行っています。
1.ひとをそだてること
2.震災の体験から学ぶ
3.学校としてのつながりある指導
4.それぞれの学校に対応したすすめ方


子どもたちの心にうけた傷が少しでもやわらぎ、
安心して学校に通えるようこのプログラムを進めていくと、
岩手県の教育委員会は述べています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「心臓です。」

岩手県では、高齢化や過疎化(地域の人口減少により、地域住民において、
生活水準などを保つことが難しくなる状況です)によって医師が不足しています。
医師不足により、医療施設から遠い場所で暮らす住民への医療サービスが、
十分に行き届かないことが問題となっていました。

奥州市のとなりにある遠野市では、
パソコンや携帯電話などのインターネットを通じて医療サービスができる
プロジェクトをはじめました。
この医療サービスで、遠野市民はそれぞれがパスワードと、
自分専用の記録ページをインターネット上に持つことができます。

市民は主に以下のことができます。
1.すこやか親子電子手帳(Web母子手帳)−0〜19歳頃が対象
:妊娠中から出産後そして子どもが大きくなるまでの成長記録、
乳幼児健康診断や予防接種の確認、
保健師や助産師に相談ができるウェブ上の交換日記などができます。
2.すこやか健康増進電子手帳(Web健康手帳)−20〜64歳頃が対象
:体重や血圧、肥満度、これまでに歩いた歩数などの記録、
特定健康診断や癌健康診断結果の確認や印刷ができます。
3.健康長寿ネット−65歳〜が対象
:高齢者が心身健やかに生きるための情報を、
長寿・医療・介護の3分野から得ることができます。
この取り組みにより、医療施設から離れていても、
市民が今までより安心して生活できるようになりました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「環境を守っていくことです。」

水沢区では、環境の変化により、
今まで生息していたカジカ(魚の一種)が少なくなってしまいました。
これを受けて、水沢区のNPOである
「古代の流れ源流「網代滝(あじろたき)」を守る会」は、
水沢区にある川とその周りの自然環境を守る活動と、
「みずさわエコキッズクラブ」事業による自然体験を提供しています。
「水沢の自然や水が大切です。」


網代滝は江戸時代に発見されました。
森林の奥深く、谷間に流れる高さ7mほどのこの滝は、
かつて「幻の滝」と人々がよんでいました。

このNPOは、主に以下の活動を行なっています。
1.網代滝近くの整備(下草を刈ること、ゴミ拾いによる川の掃除)や、
遊歩道・林道の補修
2.周辺の小中学校と協力し、総合的な学習の時間をもうけること
3.網代滝とその周りにおける自然観察や、
水の中にいる生物と水質の調査
これらの活動により、
近年ちかくの大久保川にカジカが現れるようになりました。

公益財団法人・コカ・コーラ教育・環境財団は、
「コカ・コーラ環境教育賞主催者賞」を
このNPOが取り組んだ「みずさわエコキッズクラブ」事業に贈りました。


水沢区の宝物である幻の滝と周辺の川や自然を守り、
長く受け継いでいきたいとNPOは述べています。
・・・
岩手県は、多くの伝統を今も受け継いでいます。
その一つに、水沢区が行う黒石寺蘇民祭(こくせきじ そみんさい)
という祭りがあります。

日本政府は、岩手の人々が1000年以上前からおこなっているこの祭りを、
国の無形民俗文化財(古く昔から人々の間で伝わりその価値が高いため、
国が記録を保存している文化的財産)に指定しました。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「天使のお守りです。」

薬師如来への信仰心をもととして、炎と裸の男性が主役のこの祭りは、
寒さの厳しい2月に、天台宗の黒石寺で夜にはじまり翌朝まで行われます。
祭りは、以下のように行われます。
1.裸参り(22時〜)
2.柴燈木(ひたき)登り(23時〜)
3.別当(べっとう)登り(翌2時〜)
4.鬼子(おにご)登り(4時〜)
5.蘇民袋(そみんぶくろ)争奪戦(5時〜)
東北電力株式会社は、祭りの際に参加者が着替える場所である、
「おこもり小屋」の撤収・清掃作業を行なっています。

最後に、この記事を書いた私の感想を書きます。
年月は流れても、失うものがあっても、
守りついできたものを伝え、新しい光を見つける力を、
水沢区は、そして岩手県はもっていると、私は感じました。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾(欲)ハナク
決シテ瞋ラズ(怒らず)
イツモシヅカニワラツテヰル(いつも静かに笑っている)
(中略)
サウイフモノニ(そういうものに)
ワタシハ
ナリタイ
(「雨ニモマケズ」 宮沢賢治)
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004年、2008年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年6月29日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/
posted by お絵描きイベント at 09:58| 日記
2012年04月19日
台湾 Taiwan

台湾とは、アジア大陸の東南沿海、太平洋の西岸に位置する
台湾本島を中心とした77の島々をさします。
面積は日本の10分の1ほどで、九州と同程度の大きさです。
人口は日本の7分の1ほどです。
また、台湾の住民は大別すると「混血民族」約80%と
「純粋な中国系」約15%に別れます。
その他に、全体の人口の約2%をしめる複数の先住民もいます。
宗教は「道教」と「仏教」が台湾の二大宗教と言われています。
ちなみに、台湾では法律上も「信仰の自由」が認められていますが、
中国大陸では、共産主義のため法律上、宗教が禁止されています。

また、小さな地域ではありますが、
経済成長が進んでおり、GDP(国内総生産)は世界上位。
経済発展が大きく進んでいる先進国といえます。
日本とそんなに変わらない生活水準と言えば
想像しやすいかと思います。
しかし、それにも関わらず台湾は「国」として認められていません。
台湾を正式に国として承認している国が少ないのです。
台湾と交流が深い我が国、日本でさえも承認していません。
では「なぜ台湾が国として認められていないのか?」
その理由をみなさんは知っていますか?
その理由を知るとともに、まずは台湾の歴史を振り返っていきましょう。

台湾は16世紀中期に、ポルトガル船により偶然発見されました。
その時の緑が多い台湾の様子を見たポルトガル人は、台湾を
「イラ・フォルモサ」(ポルトガル語で美しい島の意味)と呼びました。
このことがきっかけで、現在でも台湾の別名は「フォルモサ」とされています。

台湾に初めて本格的に進行したのはオランダの東インド会社です。
東インド会社が主に行っていたのは貿易の独占や植民地の開拓で、
台湾も貿易の拠点として占領されました。
またこの頃、中国大陸の明(みん)の軍人である
鄭成功(ていせいこう)が台湾にやってきました。
中国大陸はそれまで漢民族の王朝である明が支配していたのですが、
満州民族の清(しん)によって滅ぼされてしまい、
これに対抗するために鄭成功は台湾を拠点にしようとしたのです。

もちろん、鄭成功は台湾を占領しているオランダと
争うことになりましたが、その戦いに勝利し、
台湾で初の漢民族政権による統治が開始されました。
しかしそれもつかの間、鄭成功の子孫は清に敗れ、
中国大陸の政権による台湾への初の支配が始まったのです。

その後、清は中国大陸に残っていた明時代の官僚
(漢民族の男性)を大量に台湾へ追い出し、
そればかりか中国大陸と台湾間の移動を禁止してしまいます。
漢民族が反乱をおこさないようにするためです。
この結果、台湾へ移住した漢民族の男性と
台湾先住民の女性が結婚するようになりました。
もちろん、その間には混血である子どもが次々に生まれました。
こうして生まれた混血民族が、現在の台湾人の多くをしめる
「本省人(ほんしょうじん)」と呼ばれる人たちとなったのです。

そんな中、1894年に勃発した日清戦争で日本が清に勝利し、
日本は清から台湾の統治権を得ることになりました。
以降、約50年間の日本統治時代の幕開けとなったのです。
もちろん、台湾の住民は抵抗運動をおこないました。
しかしながら、そのような人々は日本軍との戦いで死んだり、
虐殺されたりしました。
その数は1万人をも超えると言われています。

特に1930年に台湾の霧社(むしゃ)で起こった
台湾先住民による霧社事件は最大規模の武力闘争となりました。
この事件は、2011年に『賽徳克巴莱(セデック・バレ)』
という台湾映画にもなっています。
また、台湾人は日本語を話すことを強要され、日本語教育を受けました。
現在でも台湾のお年寄りに日本語を話せる人が多いのは、
そのような歴史的背景があるからなのです。

このようにして、日本は台湾を強制的に支配し、
しかも多くの人を苦しめたのです。
このことは日本人として知っておくべき事実であり、
忘れてはならないことだと筆者は思います。
・・・
・・・
では、それでもなぜ台湾の人々が
「親日」と呼ばれることが多いのでしょうか?
実はその理由の一つに、日本統治時代の
日本による台湾への貢献が大きく関わってるといわれています。
ここからは、歴史の解説から少しそれて
台湾で活躍した日本人について書いていきたいと思います。
台湾と日本の関係、および現在の台湾を知るにあたり
とても重要な内容だと筆者は考えるからです。
「あなたの大切なものはなんですか?」
「車が走るための道路です」

当時、まともな産業がなかった台湾は、
日本統治時代を経て大きな経済成長をとげました。
数々の日本人により、インフラ(社会基盤)の向上が図られたからです。
特に民政長官だった後藤新平(ごとうしんぺい)は
鉄道・道路・港湾・電信・建築物といった社会インフラに力を入れ、
その後の台湾の産業を支える大事な柱を作りました。
今でも、日本統治時代に建てられた
木造建築がいたる所に残っています。

また、産業振興では後藤新平の後輩である
新渡戸稲造(にとべいなぞう)が『糖業改良意見書』を提出し、
砂糖キビの栽培改良や製糖工業育成に務め、
台湾における製糖業を確立しました。
これは、台湾の財政独立に大きく貢献したとされています。
「あなたの大切なものはなんですか?」
「美しい地球です」

第7代台湾総督であった明石元二郎(あかいしもとじろう)は、
台湾電力を設立し、水力発電事業を推進しました。
また、現在も台湾最大の銀行である華南銀行を設立しました。
日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正したのも
明石元二郎です。
ちなみに、この頃の台湾の電源は約99%を水力発電に
頼っていましたが、その後の高度経済成長により、
水力発電では電力をまかなえなくなりました。

そのため現在はというと、火力発電が約80%をしめています。
一時は原子力発電が電力の半分を超えた時期もありましたが、
反原子力の世論が高まり、火力発電にシフトしたのです。
しかし、火力発電のためのエネルギー資源に乏しい台湾は
エネルギー源の約99%を輸入に頼っている現状があります。
そこで、台湾政府は限られた資源を効率的に活用するため、
環境にやさしいクリーンなエネルギーを開発し、
エネルギー供給の安定化を目指し始めました。

石油の需要抑制や
(石油よりはCO2排出量の少ない)天然ガスの輸入拡大、
再生可能エネルギーの利用や省エネの推進を打ち出し、
太陽光発電にも力を入れ始めています。
教育の分野でも、環境保護の教育を義務化する法案が
2010年に成立するなど、現在の台湾はエネルギーにおける
抜本的な改革を進めているようです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「豊かな水と緑です」

当時の台湾南部の嘉南(かなん)平野では
外部から人工的に水を供給する施設がなく、
大規模な干ばつにおちいっていました。
またそれにより、たくさんの農民が飢餓で死んでいったり
苦しんでいました。
それを改善するためのダムを作ったのが
日本から台湾へ出向いていた水利技術者
八田與一(はったよいち)です。

彼は、東洋初、そして随一とされた
「大貯水池・烏山頭(うさんとう)ダム」を
企画・推進し、それを成功させ、台湾の多くの農民に
感謝される人物となりました。

その貢献は今でも台湾の人びとにより評価されており
台湾の馬英九(マー・インチウ)総統も、
2008年から毎年、慰霊祭に参加しています。
またそれだけでなく、馬英九総統は「八田與一記念公園」を建設し、
その公園の開会式では
「日本が台湾を統治した50年にインフラ建設があり、貢献は無視できない。
八田をたたえることは植民地支配を美化すると批判があるが、
恩讐を分ける態度が必要だ」
と発言したほどでです。

・・・
・・・
さて、台湾の歴史に話を戻しましょう。
1945年に太平洋戦争で日本が敗北すると、台湾の統治権は
勝利国である『中国大陸にある政権』へと再び移ることとなりました。

ちなみに、台湾が中国大陸に返還された1945年にはすでに、
孫文により「中華民国」が誕生していました。
1912年に、国力を失った清を見かねて孫文が
「辛亥革命(しんがいかくめい)」を起こし、
清を倒して君主制を廃止していたのです。
その中華民国には、2つの政党がありました。
孫文の部下2人が率いる、蒋介石(しょうかいせき)の「国民党」と、
毛沢東(もうたくとう)の「共産党」です。
この2つは、台湾が中華民国に返還される少し前から内戦
(「国共内戦」といいます)を続けており、
台湾返還時には国民党が中華民国を支配し、
蒋介石の独裁が行われていました。

しかし、蒋介石率いる国民党の政策はことごとく不評でした。
台湾の人も、台湾にやってきた国民党の人々の腐敗しきった振る舞い
(強盗や殺人など)にあきれ、日本統治時代に比べると落胆する部分も多く
「イヌのかわりにブタが来た」と言ったほどです。
(この辺りのことも、台湾の人が日本に好感を
持つようになった理由の1つかもしれません)
このようにして、これ以降、中国大陸から渡来した漢民族は
それ以前からいた本省人(真の台湾人の意味)と区別して
「外省人(がいしょうじん)」と呼ばれるようになりました。

そのような外省人のふるまいに対して、
本省人も黙っていたわけではありません。
1947年2月28日に発生した「二・二八事件(にいにいはちじけん)」で
本省人の怒りはピークに達しました。
そしてこの事件は、のちに本省人の間で「台湾大虐殺」とも呼ばれる
悲惨な歴史的大事件に発展してしまいます。

この二・二八事件は、台北市でヤミタバコを売っていた本省人の女性を、
外省人の密売取締員が殺傷したことから始まりました。
この事実を知った一部の本省人の間で大規模暴動が起こり、
これが台湾全土の本省人による外省人・国民党政府への
抗議運動につながったのです。

しかし、国民党政府はこれを武力によって制圧し続け
約 28,000 人もの本省人の人びとが殺害・処刑されたといいます。
しかも驚くべきことに、事件の際に発令された戒厳令
(かいげんれい:一時的に統治権を軍隊に移行すること、
市民の権利も制限される)は事件発生から40年後の
1987年まで解除されることはありませんでした。
そのため、この事件は台湾を知り、語る上でとっても重要な
出来事となっています。

そのようなひどい独裁をおこなってきた国民党も、
1949年には中国大陸において、毛沢東率いる共産党に敗れてしまいます。
そうして、共産党が支配する現在の中国、
つまり「中華人民共和国」が誕生したのです。
敗れた蒋介石の国民党は、唯一支配を続けていた台湾へと
逃げ込み、台北を臨時首都としました。
台湾において、中華民国の政権を維持したのです。

こうしてこれ以降、中国大陸にある共産党の「中華人民共和国」と
台湾にある国民党の「中華民国」が現在でも
二つ同時に存在しているのです。
これを「二つの中国」といいます。
もちろん、中国大陸を支配した共産党は
国民党が支配を続ける台湾を潰そうと考えました。
しかし、1950年「朝鮮戦争」の勃発により
この計画はうやむやとなりました。

北朝鮮が韓国よりも優勢であったこの戦争、
北朝鮮に肩入れをしていた中国をよく思わないアメリカが
韓国と台湾の支援を始めたのです。
このため、朝鮮戦争はこう着状態となりました。
ちなみにその後も、こういった状況は続きました。
特にアメリカと台湾は1954年に「共同防御条約」を結んでいます。
これは、アメリカは必要な時に武力を行使し、
台湾が共産党の政権下になるのを阻止するというものです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「海外旅行です いろんな国へ行きたいです」

その一方で、戦勝国として国連安保理の常任理事国であった
中華民国(台湾)は、工業の発展や自由貿易による国際化により
どんどんと経済成長を続けました。
経済面では、この時すでに中国大陸の上をいっていたのです。
しかし、中華民国はとっくに中国大陸を追われ
大陸は中華人民共和国が支配していました。
このため、国連の「中国」は中華人民共和国にすべきだという
決議が1971年に採択され、
台湾は国連の座を失うこととなったのです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「地球のみんなです」

また、これにより中国と国交を結ぶ国が増えたのですが
それらの国との国交断絶を台湾は選びました。
その中には、台湾にとって交流の多い、
日本やアメリカも含まれています。
こうして、台湾は世界的に孤立してしまいました。
これが、台湾が「国」として認められていない理由なのです。
・・・
・・・
ここからは、また歴史から少しそれて、
現在の台湾と日本の経済的関係について書きたいと思います。
日本やアメリカなど、多くの国と国交断絶した台湾。
その後、どのようにして更なる経済成長をとげたのでしょうか?
「あたの大切なものはなんですか?」

「私の大切なものはパソコンです」

先にあげたように、1960年代から台湾は外交の強化により、
高度経済成長をとげました。
そんな経済の発展の中でも、特に成長し、
世界でもトップクラスとなった産業は
パソコンや半導体などのIT分野です。
これらが伸びた理由の1つとして、独特な生産システムである
OEM(他社ブランドの委託生産)と
ODM(他社ブランドの設計と製造まで委託)があげられます。
受託加工生産を強みにし、アメリカの大手ITメーカーから
受注を一手に受けるなどして急激に成長をとげたのです。
日本でも最近では、日立製作所が2012年9月末までに
テレビの自社生産を終了し、台湾メーカーなどに
生産を委託すると発表しました。
その他にも台湾に生産を委託をしている日本メーカーは複数あり
今後も増えていくことが見込まれます。

もちろん、日本側も台湾に日本の技術を提供しています。
特に最近では2007年に「台湾高速鉄道」が
開通したことが大きな話題となりました。
これは別名「台湾新幹線」と呼ばれている通り、
日本の新幹線の車両技術を輸出・現地導入したものです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「ゲームの時間です」

日本の漫画、アニメ、ゲームや音楽、食文化も
台湾にたくさん輸出されており、台湾の街を歩くと
いたるところにその片鱗を見つけることができます。
特にこの日本文化浸透の流れは、
台湾の若者の一部が「哈日族(ハーリーズー)」
(日本文化を好む台湾人)と呼ばれる由来となっています。

このような流れを受けて、日本の外務省では
「クールジャパン戦略(日本のアニメ、ファッション等の輸出)」
として、海外に日本文化の輸出を積極的に行う
取り組みをしている程です。

また、日本と台湾は投資協定を2011年に締結し
互いの企業が互いの国で外資としての規制を受けず、
地元企業と同じ扱いで事業展開することが可能となりました。
これにより、日本の企業は台湾へ次々と進出しています。
2011年には、日本は台湾にとって最大の輸入先国となり、
日本から台湾への投資件数もトップとなりました。
台湾で大人気の果物、アップルマンゴーも、
輸入解禁になった2004年頃から急速に日本への輸出が増えています。

日本は台湾を国として認めておらず、また事実上、国交をたっていますが、
このように多くの経済的な交流により、お互いに経済成長を続けているのです。
今後もこの交流は深まり続けるのではないかと筆者は思います。
・・・
・・・
さて、ここからは「国」ではない台湾の未来について
考えていくことにしましょう。
そのためには、もう一度歴史に話を戻したいと思います。
これまでと、これからの中国との関係について。
そして、現在の台湾の政治について知ることが
大事な鍵になると思います。
経済は国民党の元で急成長しましたが、
政治の面では非民主的なままであった台湾。
蒋介石が日本色を排除する政策をとる中で
どんどんと独裁色が強まり、強引で抑圧的な政権となったのです。

そんな台湾も、1975年に蒋介石が亡くなることにより
転機を迎えました。
蒋介石の息子である蒋経国(しょう・けいこく)が
総統となったことで、少しずつ台湾は民主化の方向へ向かっていったのです。
まず、蒋経国は先にあげた戒厳令を解除します。
さらに、外省人が絶対的地位を持っていた国民党の中で
本省人である李登輝(り・とうき)を副総統に置いたのです。
そうして、蒋経国亡きあと、初めて本省人(李登輝)の
総統が誕生することとなりました。

これにより、台湾の民主化は瞬く間に進められていきました。
政治犯の釈放・報道の自由化・国民党に反対する野党を承認など。
また、何よりも大きかったのは総統選挙が
間接選挙から直接選挙に切り替わったことです。
これにより、台湾住民は史上初めて自らで統治者(李登輝)
を選ぶことができたのです。

ただし、これは中国との関係に波紋を投げかけました。
「住民自らが総統を選ぶ」という台湾の行為を
中国は「台湾がまるで独立国家のような振る舞いをしている」
と受け取り、中国は台湾にミサイルによる脅しをおこなってきたのです。
もちろん、この時もアメリカは台湾を中国から守ろうとして
台湾海峡海域に空母を派遣しました。
また、最近(2011年)では、
中国の軍事力増強に懸念をしめしたアメリカが
台湾向けに総額64億ドルもの武器売却を決定し、
中国をけん制したりしています。

このようにして、中国と複雑な関係を続けている台湾ですが
1999年に李登輝は「二国論」を提唱しています。
これはどのようなものかというと、台湾と中国は、
どちらが本当の中国か(一つの中国)を争うという姿勢ではなく
「特殊な国と国の関係」としての姿勢を示したものです。
これは、実質的な独立宣言だったといえます。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「みんなの幸せです」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 TWN_2009_078_a.jpg _MG_4705.JPG)
・・・
・・・
最後に。
2011年3月11日、日本は東日本大大震災に見舞われました。
そして、みなさんがご存知の通り、
台湾は日本へ多くの支援をしてくれました。
義捐金は総額200億円を超えると言われています。
「どうしてここまでしてくれるのだろう?」と
思った方も多いのではないでしょうか?
理由の1つとしては、台湾の現総統・馬英九総統が語った通り、
これまでの台湾の大規模自然災害(1999年の大地震や2008年の台風)
に関する日本の支援に対する恩返しというのもあると思います。

ですが、台湾の日本に対するこれほどまでの支援は、
ここまで書いてきた様な、歴史・経済・文化においての
日本との交流の深さが一番の理由ではないかと
筆者は感じております。
「国」ではない台湾。
オランダによる占領に始まり、日本の占領、
国民党による独裁、軍事政権の抑圧を受けてきた台湾。
今も独立できない台湾。
ですが、台湾は「国」と言っても良いほどに
経済成長をとげ、自立し、
そればかりか他国を支えるまでになっています。
私たちは台湾と、歴史上、経済上深い関わりがある国として、
今後の台湾も見つめ続けていくべきではないかと
筆者は思うのです。

・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本 敏晴(2009年)
渡部 加奈(2011年、2012年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部 加奈
編集完了日:
2012年5月11日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
また、上記に掲載された地図と国旗は
以下の無料画像サイトから提供されました。
白地図専門店
http://www.freemap.jp/
posted by お絵描きイベント at 21:40| 日記
2012年04月18日
セネガル Senegal

セネガルは、西アフリカに位置する国です。
日本の本州ほどの大きさに、約1200万の人々が住んでいます。
公用語は、フランス語が使用されています。
また、ウォロフ語などの各民族語が話されています。
「私の大切なものは、モスクです。」

約95%の人々がイスラム教を信仰しています。
イスラム教は、サウジアラビアで7世紀に生まれた後、
サハラ砂漠を行き来する行商人などによって広まり、
セネガルには11世紀頃に伝わりました。
首都のダカールは、「ダカールラリー」の
かつてのゴール地点として有名です。
ダカールラリーとは、30を越える国々から参加者が集まり、
世界で最も過酷なモータースポーツと呼ばれる、有名なラリーです。
・・・
「私の大切なものは国旗です。アフリカの色が使われています。」

アフリカの色とは、緑、黄色、赤の三色です。
緑は、豊かな大地と、黄色は繁栄を、
赤は『独立の際に流された血』を表現しています。
アフリカ諸国では、今も大統領選挙をきっかけとして
選挙の結果に不満を持つ人が、
内戦や暴動を起こすことがしばしばあります。
国民は、2000年からセネガルを統治していた
ワッド大統領の独裁政治に不満を持っていました。
その理由には、
大統領は2期しか務められないと決まっていた憲法を
自ら変えたことや、
自分が当選するための選挙運動に、
国家予算の半分を使ったこと(地元紙の報道)や、
自分の息子を(強引に)後継者にしようとしたことや、
大統領選挙に、国民的歌手が出馬しようとした時に、
却下したことなどが挙がります。
また、国民が、大統領に不満を持った理由の一つに、
『アフリカ・ルネッサンスの像』の建設があります。
この像は、アフリカを解き放つ象徴として、
膨大な国費を使用して建てられた巨大な像です。
アメリカ合衆国に存在する『自由の女神』よりも、
4m大きなルネッサンス像の建設費は、約19億円でした。
この工事を北朝鮮に注文しましたが、
セネガルは約19億円の建設費を支払うことが出来なかったため、
国有地を北朝鮮に売って、支払いに当てました。

ワッド大統領は、この像を見に来る観光客が増えて、
国の利益を上げることが出来ると言っています。
しかし、実際は、ルネッサンス像による観光収入のうち、
35%はワッド大統領の個人的な収入になります。
残りの65%が国の収入となります。
この状況に対して、当然国民は怒り、
ワッド大統領へ不満はさらに高まりました。
こうした中でも、
2011年6月に、
大統領が自分の息子を大統領にしようとしたときには、
国民の怒りが爆発し、
群集は、主要な道路にタイヤを並べ、
そのタイヤに火をつけて、道路を閉鎖するなどの
暴動を起こしました。
この結果、この大領選挙ではワッドは落選し、
次の新しい大統領が生まれました。
(ワッドは、国民のこれ以上の反発を恐れたのか、
実際の選挙の開票がおこなわれた際は、
比較的早く、自分の負けを認めました。)
なお一般に、アフリカでは大統領選挙をきっかけに、
暴動が起こり、
そのまま革命やクーデターが発生してしまう事が多いのです。
ですので、2012年のセネガルのケースは、
アフリカの「選挙の前後の混乱」の中では、
かなり「まし」なケースと言えると思います。
(セネガル人たちは、この時の選挙を、
「自分たちの抗議で、大統領を辞めさせた」、
「民主主義のモデルだ」と言って、
誇りに思っているようです。)
・・・
「私の大切なものは、羊です。羊のことが好きです。」

1960年にフランスから独立した後、
西アフリカ諸国の中では比較的、安定した政治を行っていましたが、
1989年に、初めての惨事を経験しました。
隣の国である、モーリタニアとの国境紛争です。
元々は、国境付近のモーリタニア人の家畜が、
セネガル人の農地を荒らしたことによる、農民同士の争いでした。
しかし、モーリタニア軍が、セネガル人を殺害したことで
国家間の問題となりました。
政府やマスコミが介入したことにより、
それぞれの国で起こっていた暴動は、
あっと言う間に過激になりました。
モーリタニアでは、反セネガル運動が、いつの間にか、
アラブ系の白人が黒人を標的とする運動へ変化しました。
黒人はモーリタニアから追い出されました。
そのため、モーリタニアから6万人の国民が、
セネガルへ逃れて難民となりました。
また逆に、
セネガル側にいたモーリタニア人の行商人も、
迫害されて自国に逃げ帰り、難民となりました。
このように、紛争、内戦では、
個人の争いがきっかけになり、
民族や宗教間の争いに変化することがしばしばあります。

この状況に対して、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、
セネガルに逃げてきた難民の生活支援を行いました。
また、難民が自発的に祖国であるモーリタニアへ
帰れるように支援をしました。
しかし、セネガルに住む難民は、
土地や公共サービスを利用できるため、
祖国に帰らず、セネガルに住むことを希望する難民も多いです。
そのため、現在も約2万4000人の難民が滞在しています。
UNHCRは、各政府と会合を行い、
難民が祖国に帰ってからも、生活に困らないように、
法的な枠組みを整える調整を行っています。
また、難民の受け入れ先となる、
貧しいコミュニティのインフラ(道路、水道、電気などの社会基盤)や、
教育や保健サービスの強化を支援しています。
・・・
「私の大切なものは家族です。お母さんやお父さんは
何でも私のためにやってくれます。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 se_2008_30a.jpg)
南部(ギニアビサウとの国境)に位置するカザマンス地方の独立が
20年間にわたり問題になっています。
現在でも、具体的な解決策はありません。
カザマンス地方は、自然環境や、歴史、社会面で、
セネガルの中心部や北部とは異なった特徴を持ちます。
乾燥している中心部や北部とは反対に、雨に恵まれているため、
密林があり、古くから稲作が行われていました。
宗教は、ポルトガルが、カザマンス地方に拠点を置いた
名残があり、
(セネガルの中では珍しく)
キリスト教(カトリック)が広まっています。
民族は、北部ではウォロフ族、
カザマンスではジョラ族が多いです。
1960年の独立以降、ウォロフ族の住む
北部を中心に都市開発が行われたため、
ジョラ族は追いやられてしまいました。

カザマンス地方の独立運動の背景には、
北部とは異なった特徴だけではなく、
初代大統領がカザマンスの人々と交わした、
密約が関わっています。
それは、1960年のフランスから独立する際に、
セネガル政府に協力をすれば、
20年後にはカザマンスの人々は、
セネガルから分離して良いという約束でした。
しかし、20年後の1980年に、
セネガル政府は約束を守らなかったため、
独立運動が始まり、政府側との武装衝突が続いています。
2004年に、内務大臣と反政府勢力は、
和平合意書にサインをしましたが、
その後も具体的な協議は進展していません。
2011年にも武装衝突があり、死傷者が出ています。
・・・
「私の大切なものは、村です。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 P1080173a.jpg se_2008_22a.jpg)
セネガルは、世界でも貧しい国々が集中する、
「サハラ砂漠より南の地域」にある国々の中では、
比較的には、まだ良い状態にある国だと言われています。
セネガルは、民間による自由貿易が経済を発展させるという
欧米の考え方を取り入れ、
1994年に、国営企業を民営化し、
輸入価格を自由化したことで、経済が成長しました。
また、最近では、民間の投資も増えて、
経済指標は、安定して成長しています。

しかし、経済指標とは逆に、
貧困状態が悪化したと感じる国民が多いです。
地方は、都市に比べて貧困率が高いです。
また、医療や教育などの社会的な指標も低いです。
地方には、職を求める若者が多く居ます。
ですが、農業などの過酷な作業を嫌う傾向にあるため、
職を求めて都市へ移動する人が多いです。
ところが、
都市にいっても、それほど多くの求人(職場)はないため、
都市は、職にあぶれた若者が、あふれかえっています。
主な産業は、農業や漁業ですが、
大量に発生したバッタやイナゴが作物を食い荒らすなどの
自然災害の影響が大きく、収入が不安定になるリスクが高いです。
持続的に経済を成長させる、安定した収入源は限られています。

この状況に対して、国際協力機構(JICA)は、
『一村一品プロジェクト』を、進めています。
このプロジェクトは、元々は大分県で生まれた地域振興運動です。
地域が主体的に、資源を選んで、将来的な特産品を作ることで、
地域づくりを促すことができます。
行政は、助成金は出さず、技術や、
マーケティング(市場調査、商品開業)の支援を行います。
セネガルでは、キャンドルや布製バッグ、
環境に配慮したマングローブの石鹸が作られています。
このプロジェクトは、アフリカの特産品となる資源を募集して、
生産者となるグループを作ります。
JICAは、プロジェクトの計画や、技術支援、マーケティング活動を
指導できる人材の派遣を支援しています。

この住民参加型の支援のように、
住民が持ってるいる活力を引き出し、
地域の結束を強化する取り組みが行われています。
・・・
「私の大切なものは学校です。学校は、色々なことを教えてくれる。
自分の国について、より知ることもできます。」

セネガルには、『ダーラ』と、呼ばれる日本の寺子屋のような
非正規の学校があります。
これは、イスラム教徒の『コーラン』を学ぶ学校です。
コーランとは、宗教の教えが書いてある聖典のことで、
キリスト教の聖書と同じです。
セネガルのイスラム教徒の人々は、正規の学校には通わなくても、
ダーラに通わない子どもはいません。
一方、正規の学校では、小学校から高等学校までの13年間は、
無料で学校に通うことができます。
小学校からフランス語で授業が行われます。
フランスの小学校は4年間ですが、
セネガルでは6年間です。
2年間長いのは、フランス語を習得するためです。

1990年以降、初等教育へ通う就学率は大幅に上昇しました。
しかし、学校を中退や落第する生徒が多くいます。
中学校以上の学校に進学するには、
試験に合格する必要があります。
合格率は、約6割と、厳しい試験です。
また、学校や教員の数が不足しています。
建物や教員の質が低いことも問題になっています。
小学校のうち、6年生まで教えることが出来る学校は、
全体の半分もありません。
特に、農村部では、ほとんどの学校が
4年生までしか教えることができません。
教員も、中等教育終了後に、短期の研修を
受けて教えている人がほとんどです。
教育環境が整わないため、
多くの学校は、2学年以上を一緒に教えたり、
2部制にして、午前と午後で、生徒を総入れ替えして、
違う生徒を教えたりしています。
2005年の調査では、セネガルの約35%の子どもが
労働に従事していることが分かりました。
中には、物乞いや売春、違法活動を行っている子どももいます。
児童労働は、子どもを教育から遠ざけます。
また、出生届が提出されていない子どもも多いです。
すると、(戸籍や住民票に登録されていないため)
(国が)義務教育を受ける対象とみなさないため、
教育へアクセスしずらい状況があります。

この状況に対して、国連世界食糧計画(WFP)は、
学校に給食を提供しています。
「給食が食べられる」と、いうことが
子どもたちにとって、学校へ行くことの
動機付けになります。
また一方で、子どもが学校に通うことで、
親にとっては食費の節約となります。
また、女子の学校教育が、その子と、
その子が将来産むであろう子どもの健康に繋がります。
学校に通う女子の結婚年齢は、通わない子よりも遅くなります。
一般に、10代前半で出産をすると、
産んだ母親も、生まれた子供も、
死亡し易いことが、統計調査で分かっています。
これを防ぐためもあり、女子に教育を行うのです。
また、女子に基礎教育をおこなうと、
「読み書き」ができるようになります。
すると、将来、母親になった時、
(政府などからもらった)母子手帳や、
栄養や衛生、予防接種などに関するパンフレットを、
「読む」ことができるようになるため、
「生まれた子どもの生存率」が上昇すると言われています。
これを裏付けるものとして、、国際食糧政策研究所の調査では、
子どもの栄養失調が世界的に改善したのは、
女性が教育へ参加する機会が増えたことによると発表しています。
・・・
「私の大切なものは、病院です。なぜなら、病院のない地区もあるからです。
それでは、病気になった時に困ってしまいます。」

セネガルでは、感染症が蔓延しています。
その中でも、マラリアは、子どもの死亡原因の1位です。
(ただし、アフリカ諸国の中で、セネガルは、
ここ10年間で、マラリアによる死亡率が、
大幅に下がった国として知られています。
ですが、それでもたくさんの人が、まだ亡くなっています。)
マラリアとは『ハマダラカ』と、いう蚊が媒介となって
人から人へ感染を拡大する病気です。
マラリアには4種類ありますが、セネガルでは、
その中で最も重篤な「熱帯熱マラリア」が98%を占めています。
5歳未満の子どもの死亡原因のトップは、
現在でも、マラリアで、
最大の保健課題となっています。
(セネガルは、アフリカ諸国では、
かなり「まし」な国であるため、
大人では、マラリアよりも、
むしろ生活習慣病(成人病。糖尿病、高血圧など)が、
問題になってきています。)

この状況に対して、(株)住友化学は蚊帳の製造技術を開発してきました。
蚊帳の素材に殺虫剤を練り込むことで、防虫効果を増すことができました。
世界保健機構(WHO)はこの蚊帳の使用を推奨し、
国際連合児童基金(UNICEF)やJICAも配っていました。
また、住友化学は、2005年に首都のダカールで行われた、
音楽イベントの主要スポンサーになりました。
この音楽イベントは、マラリアに対する意識の向上を目的としています。
8時間のコンサートには、セネガルの国民的な歌手である
ユッスー・ンドュールを始め、多くのミュージシャンが参加しました。
音楽を通して、マラリア予防の重要性を訴え予防として蚊帳の使用が促されました。

しかし、2011年に首都ダカールにあるフランスの研究機関が、
この殺虫剤を染み込ませた蚊帳が、
かえってマラリアの流行を招くという論文を発表しました。
蚊帳に染み込ませた殺虫剤に耐性を持つ蚊が増え、
使用の翌年はマラリアへの感染を減少することができても、
翌々年以降は、かえって局地的な再流行をもたらす恐れがある、としています。
イギリスの権威ある医学雑誌がこの論文を取り上げたことで、
話題となりました。
この状況を受けて、
UNICEFやJICAはマラリアに対する戦略を見直す可能性が、
(業界の中で)取りざたされました。
ですが、少なくともセネガルの場合は、
現在(2012年)の女性の大臣が、
今後も「薬剤を浸み込ませた蚊帳で寝ましょう」
という方針をとっているため、
大きな戦略の変化はないようです。
マラリアの予防には、殺虫剤や蚊帳の使用だけでなく、
人々の意識の向上が必要です。
マラリアを媒介するハマダラカは、水が溜まる場所を好みます。
JICAの調査では、水が溜まる場所ではハマダラカの生息が17倍にも
なることが分かりました。
人々が、場所を構わずゴミを捨てると、雨が降り、水が溜まる場所が
増えます。排水溝の中に、ゴミを捨てると水の流れが悪くなります。
つまり、排水溝や下水道の流れが悪くなると、
そこの『水のよどみ』ができて、蚊が発生するのです。
人々は、ゴミを指定された場所へ捨てる習慣を持ち、
また、政府は、それをきちんと回収して処分することが望まれます。
ですが、現状は、まだそれらが十分には出来ていないと、いうことです。
・・・
「私の大切なものは木です。」

2008年、首都のダカールから近い、貧しい漁村で、約20人の子どもが
原因不明で死亡しました。かれらは、アフリカ諸国に蔓延している
感染症にはかかっていませんでした。
WHOが村へ調査に入りました。
すると、亡くなった子どもの家族の血液から、
非常に高い濃度の『鉛』が検出されました。
この村では、車のバッテリーを拾い、
分解して、中身を加工し、売ることで生計を立てています。
バッテリーを扱う中で、鉛に汚染され、
鉛中毒になったと考えられています。

イスラム教の教えでは、ゴミは捨ててはいけません。
しかし、自宅の前など、決まった場所に捨ててはいけないだけで、
広場などの公共の場をきれいに保つ意識は薄いです。
そのため、ゴミをポイ捨てする習慣があります。
多くは、自然では分解されないプラスティックゴミです。
首都のダカールでは、定期的にゴミ収集車が巡回するようになりました。
そのため、道路などにゴミが放置されることは少なくなりました。
しかし、ゴミの焼却炉を持たないセネガルでは、首都で回収されたゴミは
郊外に捨てられています。
ゴミを捨てられてしまう、郊外の人々は、
いずれ地下水が汚染されるのではないかと心配しています。

このように、セネガルでは、未だ環境に対する意識が低いです。
この現状を受けて、非営利団体(NPO) ダンカダンカは、
環境へ配慮する若者を育てています。
セネガルの小学校の夏休みは約3ヶ月も続きます。
この期間に元気溢れる小学生を集めて、エコクラブを作りました。
エコクラブでは、ゴミ拾いを行ない、
木を育てる土を大切にしています。
また、村の若者へ知識の提供や、資金の運用方法を指導するなど、
自分で木を育て、環境を整える人材を育てる支援を行なっています。
・・・
セネガルの国民的スターに、
ユッスー・ンドゥールが居ます。
ユッスーは、2004年に世界的に有名な(米国の)グラミー賞を受賞しました。
また彼は、2012年4月から、観光大臣に就任しました。
セネガルには、『グリオ』と呼ばれる、歌や音楽を奏でて冠婚葬祭を
執り行う人々がいます。グリオは世襲制で受け継がれます。
ユッスーは、グリオの子に生まれ、
セネガルの伝統的な音楽を身近に感じて成長しました。
ユッスーが中心となり、セネガルの伝統的な旋律と歌唱法、
伝統楽器によるリズムに、R&Bやロックなどを融合させて、
『ンバラ』という新しい音楽のスタイルを作りました。
ンバラは、自由で活発なセネガルらしい音楽であり、
今後アフリカの音楽をリードしていくと言われています。

筆者は、今後セネガルは、ンバラのように、伝統を取り入れながら、
様々な社会的な問題に取り組んで
アフリカをリードしていって欲しいと考えています。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
鎌谷雅美(2008年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
姉崎沙緒里
編集完了日:
2012年4月23日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
上記に掲載された写真のうち、
人物が写っていない写真の一部は、
以下のサイトから提供されたものもあります。
トリップアドバイザー
http://www.tripadvisor.jp/
posted by お絵描きイベント at 21:00| 日記
2012年04月09日
長野県 栄村
日本の長野県栄村は、
長野県の一番北に位置する村です。

長野県は、面積が日本で4番目に大きく、りんごの生産量が全国2位です。
平均寿命においては、男性が全国1位、女性が3位であり、
長生きの県としても知られています。
その長野県にある栄村ですが、
村の面積は東京都の10分の1より少し小さいくらいで、
人口は約2300人、東京ドーム収容人数の20分の1ほどにあたります。

(栄村周辺の地図:栄村ホームページより)
また、栄村には日本最長の信濃川
{長野県内では、千曲川(ちくまがわ)という呼び名です}が流れています。
日本における屈指の豪雪地域で、
1945年の積雪は7m85cmと日本一を記録しました。

豊かな自然、澄みきった空気と水、良い土をもつこの地では、
米づくりも行われており、
農家の人々が、コシヒカリなどの美味しい米を育てています。
一方で、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震がおきた翌日である、
3月12日の大地震により、栄村は大変な被害を受けました。

震度6の地震が3度続き、
9割以上の家が全壊・一部損壊など被災しましたが、
地震そのものにより亡くなった人は0人でした。
本震と余震の間にできた短い時間に、村の人々ができる限りのことをして、
お互いを救助し合ったことが、たくさんの命を守りました。
・・・
長野県の歴史は、今から3万年以上も前にさかのぼります。
この頃、ナウマンゾウなどの狩人たちが県内にある野尻湖の近くで、
狩猟生活をしていました。
5000年前頃、八ヶ岳を中心に大きな集落ができはじめ、
2500年前頃には、西日本から稲作が伝わり弥生文化がひろがりました。

8世紀に、長野県の旧国名である「信濃国」の印がつくられ、
16世紀の戦国時代、のちに栄村ができる長野県北部では、
上杉氏と武田氏・後北条氏が激しい戦いをしました。

1871年の廃藩置県(江戸幕府が置いた藩を明治政府がやめて、
府と県に統一したこと)の後、
1876年に長野県が誕生しました。
その後、それまであった6つの村が合併を繰り返し、
1956年に栄村ができました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「家族みんなで、元気に過ごすことです。」


栄村は、「過疎」という問題に長く向き合ってきました。
過疎とは、地域の人口が大きく減ることにより、
その地域で生きる人々において、
生活水準や生産力を保つことが難しくなってしまう状況です。
栄村は、
1960年には6000人を超えていた人口が、
2011年には2300人ほどになり、
この50年の間に人口が3分の1に減ってしまいました。

栄村は、村民が主体になって村づくりを進める「実践的住民自治」を、
行っています。
「自分たちの状況にあった、暮らしやすい村を、
私たちでつくりあげよう」という思いのもと、
制度をつくり、アイデアを出して、企画、実行をし、
その出来具合を確かめ、さらによいものにしていくことを、
村民は積み重ねています。

栄村は、主に以下の事業を中心に取り組みを進めています。
1.田直し事業
:農家の人々が使いやすいように、田んぼを整えます。
2.道直し事業
:道路を改良して、除雪しやすい道にします。
3.げたばきヘルパー事業
:村に住む高齢者を地元のヘルパーが24時間支えます。
4.雪害対策事業
:危険な作業である雪下ろしや排雪を、救助員が手伝うことにより、
豪雪地における住民の暮らしを守ります。
人々がひたむきに築く、栄村の力強い村づくりの成功を受けて、
総務省と全国過疎地域自立促進連盟は、
2009年、全国過疎地域自立促進連盟会長賞を栄村に贈りました。

日本における「過疎市町村」の数は、
全国にある市町村の約半数にも及びます。
栄村と同じように過疎に悩んでいる地域は、たくさん存在するのです。

現在では、栄村が取り組んでいる「実践的住民自治」を学ぼうと、
多くの人々がこの村に訪れます。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「お花や葉っぱに水をあげて育てることと、
命を大切にすることです。」


栄村では、「耕作放棄地」の増加が問題になっています。
耕作放棄地とは、農業人口の減少や、村全体の過疎化、村民の高齢化など、
農業を営む人における何らかの理由で、
耕作をしていない土地のことをいいます。
このような土地が増えて、農地が荒れると、
農村地域の活力と生産力が落ちてしまいます。

これを受けて、
栄村は「田直し事業」を行なっています。
田直し事業とは、村の職員と農家の人々が直接相談をして、
農家が田んぼを使いやすくなるよう整える取り組みです。

主に、土地の形に合わせた区画の整備をしますが、
農家が希望すれば、田の排水や入口などの整備も行います。
田直し事業により、これまで使っていなかった農地を、
農家の人々がもう一度耕して活用できるようになりました。

現在では、この事業が耕作放棄地の増加を防ぐのに役立っています。
2000年には70ヘクタール(1ヘクタールは1万平方メートル)
以上あった耕作放棄地の面積が、
2005年には半分以下の30ヘクタールにまで減りました。

・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「赤ちゃんです。一生懸命生まれてきてくれました。」

栄村国民健康保険栄村診療所では、
それまで勤務していた医師が2007年3月に退任し、
村に医師がいなくなる「無医村」になる恐れがでました。
村人の2人に1人が65歳以上の高齢者であり、
そのうち多くの人が農作業とともに生活をしているこの村にとって、
健康を管理する診療所は大切なものです。

常時勤務の医師がいる診療所としては唯一である栄村診療所は、
村民の体を守るとともに、
村の人々にとっては心の拠りどころとなる場所でもあります。
「なんとかして村に医師を迎えたい・・・。」
村役場の人が必死に医師探しをした結果、
2009年4月から、新しく佐々木公一医師が赴任しました。

栄村でただ1人の医師として、
佐々木医師は村の人々を支える存在となりました。
2011年3月の震災があった際には、地震直後から避難所で処置にあたり、
翌日からは休診日にも診療を続け、休むことなく人々を助けました。
2012年2月、読売新聞社は、地域医療に力を注いだ人として、
「第40回医療功労賞」を佐々木医師に贈りました。
(その後、2012年3月、佐々木医師が退職されたため、
4月からは、本村光明医師が、勤務されています。)
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「栄村の自然です。」


長野県は、自然エネルギーの供給率が高い県です。
太陽光発電及び小水力(1000kW以下)発電における、
設備件数と総発電能力は、ともに全国5位以内に入っています。
長く守ってきた自然と昔からある文化を維持しながら、
村をさらにいきいきと元気にしていくことが課題です。

株式会社ブリヂストンは、早稲田大学と協力して、
環境問題に関する研究事業W-BRIDGEを行なっています。
W-BRIDGEは、地球環境が抱える課題に対し、
企業、大学、各地域やそこで生活する人々が一体になって取り組んでいく
新しい場をつくっています。

この研究事業の一環として、
NPO栄村ネットワークは「山村CSRプロジェクト」をはじめました。
山村CSRプロジェクトは、
CSR(企業の社会的責任)を積極的に実践する企業と、
山々に囲まれた村をつなげる取り組みです。

このプロジェクトは、
1.企業に対し、
資源を有する村との信頼関係や、
地域活動に参加する社員における心と体の健康増進を提供し、
2.村に対しては、
恵まれた自然環境とその村の良さを守りながら、
人々の営みをより活発にすることを目指しています。

この取り組みが、
企業と村のとの間に新たなつながりを生み、
村を活性化させていく、と栄村ネットワークは述べています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「学校とお友達です。」


長野県は、昔から人材を育てることに力を入れている県でした。
江戸時代には寺子屋の数が全国で一番多い県で、
人々は長野県を「教育県」と呼んでいました。
しかし、近年その様子が変わりはじめています。

長野県教育委員会によると、
県内における公立小学校の生徒数が減っており、
小学校の3割は1学年に1クラスの学級編成です。
栄村においては、小学校1クラス当たりの生徒数は7人で、
教員1人当たりの生徒数は4人です。
2010年に文部科学省が行なった「全国学力・学習状況調査」では、
47都道府県中、長野県が42位という厳しい結果となってしまいました。

長野県民新聞社は、県内で唯一の教育専門紙である『長野県民新聞』と、
子育て情報誌の『すこやか』、『おさなご』を発行しています。

長野県民新聞は1980年代から、
県内の生徒における学力の低下に警告を鳴らしています。
「子どもたちの学力を向上させたい。」
「長野県を、もう一度日本で一番の教育県にしたい。」と、
新聞社は取材と検証を重ねていきます。
・・・
おわりに。
栄村には、栄村国際絵手紙タイムカプセル館という施設があります。
この場所は、世界中から集まった絵手紙を保存しています。

1998年、長野県では、長野オリンピックとパラリンピックが開催されました。
その際には、日本絵手紙協会が企画した栄村の『絵手紙世界展』を、
長野オリンピック冬季競技大会組織委員会が
同オリンピック及びパラリンピックの文化プログラムとして決定しました。
人々が想いをこめて描いた絵手紙が世界中から届き、
それを、村の人々が自分たちの手で展示しました。

オリンピック期間の展示後は、
それぞれの作品に絵手紙世界展記念の消印を押して、
長野オリンピックの記念切手を貼り、描いてくれた人へお返ししました。
2000年には、21世紀を迎える記念として、
60万枚以上の絵手紙が国内外からこの施設へ届きました。
これらの絵手紙は「絵手紙万葉集」という7巻の本になり、
その一枚一枚を施設が保管しています。
栄村の絵手紙が、世界をつなげました。

朝日新聞社と森林文化協会は、
人の暮らしが紡いだ、生命力に溢れていて、うつくしい里に贈る
「にほんの里100選」に栄村を選びました。
山と川、風と花、
そして、そこに生活する人々が受け継いできた生き方、
栄村には、きっと人々の心をやさしく包みこむ力があるのだと
筆者は思います。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年5月11日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
長野県の一番北に位置する村です。

長野県は、面積が日本で4番目に大きく、りんごの生産量が全国2位です。
平均寿命においては、男性が全国1位、女性が3位であり、
長生きの県としても知られています。
その長野県にある栄村ですが、
村の面積は東京都の10分の1より少し小さいくらいで、
人口は約2300人、東京ドーム収容人数の20分の1ほどにあたります。

(栄村周辺の地図:栄村ホームページより)
また、栄村には日本最長の信濃川
{長野県内では、千曲川(ちくまがわ)という呼び名です}が流れています。
日本における屈指の豪雪地域で、
1945年の積雪は7m85cmと日本一を記録しました。

豊かな自然、澄みきった空気と水、良い土をもつこの地では、
米づくりも行われており、
農家の人々が、コシヒカリなどの美味しい米を育てています。
一方で、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震がおきた翌日である、
3月12日の大地震により、栄村は大変な被害を受けました。

震度6の地震が3度続き、
9割以上の家が全壊・一部損壊など被災しましたが、
地震そのものにより亡くなった人は0人でした。
本震と余震の間にできた短い時間に、村の人々ができる限りのことをして、
お互いを救助し合ったことが、たくさんの命を守りました。
・・・
長野県の歴史は、今から3万年以上も前にさかのぼります。
この頃、ナウマンゾウなどの狩人たちが県内にある野尻湖の近くで、
狩猟生活をしていました。
5000年前頃、八ヶ岳を中心に大きな集落ができはじめ、
2500年前頃には、西日本から稲作が伝わり弥生文化がひろがりました。

8世紀に、長野県の旧国名である「信濃国」の印がつくられ、
16世紀の戦国時代、のちに栄村ができる長野県北部では、
上杉氏と武田氏・後北条氏が激しい戦いをしました。

1871年の廃藩置県(江戸幕府が置いた藩を明治政府がやめて、
府と県に統一したこと)の後、
1876年に長野県が誕生しました。
その後、それまであった6つの村が合併を繰り返し、
1956年に栄村ができました。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「家族みんなで、元気に過ごすことです。」


栄村は、「過疎」という問題に長く向き合ってきました。
過疎とは、地域の人口が大きく減ることにより、
その地域で生きる人々において、
生活水準や生産力を保つことが難しくなってしまう状況です。
栄村は、
1960年には6000人を超えていた人口が、
2011年には2300人ほどになり、
この50年の間に人口が3分の1に減ってしまいました。

栄村は、村民が主体になって村づくりを進める「実践的住民自治」を、
行っています。
「自分たちの状況にあった、暮らしやすい村を、
私たちでつくりあげよう」という思いのもと、
制度をつくり、アイデアを出して、企画、実行をし、
その出来具合を確かめ、さらによいものにしていくことを、
村民は積み重ねています。

栄村は、主に以下の事業を中心に取り組みを進めています。
1.田直し事業
:農家の人々が使いやすいように、田んぼを整えます。
2.道直し事業
:道路を改良して、除雪しやすい道にします。
3.げたばきヘルパー事業
:村に住む高齢者を地元のヘルパーが24時間支えます。
4.雪害対策事業
:危険な作業である雪下ろしや排雪を、救助員が手伝うことにより、
豪雪地における住民の暮らしを守ります。
人々がひたむきに築く、栄村の力強い村づくりの成功を受けて、
総務省と全国過疎地域自立促進連盟は、
2009年、全国過疎地域自立促進連盟会長賞を栄村に贈りました。

日本における「過疎市町村」の数は、
全国にある市町村の約半数にも及びます。
栄村と同じように過疎に悩んでいる地域は、たくさん存在するのです。

現在では、栄村が取り組んでいる「実践的住民自治」を学ぼうと、
多くの人々がこの村に訪れます。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「お花や葉っぱに水をあげて育てることと、
命を大切にすることです。」


栄村では、「耕作放棄地」の増加が問題になっています。
耕作放棄地とは、農業人口の減少や、村全体の過疎化、村民の高齢化など、
農業を営む人における何らかの理由で、
耕作をしていない土地のことをいいます。
このような土地が増えて、農地が荒れると、
農村地域の活力と生産力が落ちてしまいます。

これを受けて、
栄村は「田直し事業」を行なっています。
田直し事業とは、村の職員と農家の人々が直接相談をして、
農家が田んぼを使いやすくなるよう整える取り組みです。

主に、土地の形に合わせた区画の整備をしますが、
農家が希望すれば、田の排水や入口などの整備も行います。
田直し事業により、これまで使っていなかった農地を、
農家の人々がもう一度耕して活用できるようになりました。

現在では、この事業が耕作放棄地の増加を防ぐのに役立っています。
2000年には70ヘクタール(1ヘクタールは1万平方メートル)
以上あった耕作放棄地の面積が、
2005年には半分以下の30ヘクタールにまで減りました。

・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「赤ちゃんです。一生懸命生まれてきてくれました。」

栄村国民健康保険栄村診療所では、
それまで勤務していた医師が2007年3月に退任し、
村に医師がいなくなる「無医村」になる恐れがでました。
村人の2人に1人が65歳以上の高齢者であり、
そのうち多くの人が農作業とともに生活をしているこの村にとって、
健康を管理する診療所は大切なものです。

常時勤務の医師がいる診療所としては唯一である栄村診療所は、
村民の体を守るとともに、
村の人々にとっては心の拠りどころとなる場所でもあります。
「なんとかして村に医師を迎えたい・・・。」
村役場の人が必死に医師探しをした結果、
2009年4月から、新しく佐々木公一医師が赴任しました。

栄村でただ1人の医師として、
佐々木医師は村の人々を支える存在となりました。
2011年3月の震災があった際には、地震直後から避難所で処置にあたり、
翌日からは休診日にも診療を続け、休むことなく人々を助けました。
2012年2月、読売新聞社は、地域医療に力を注いだ人として、
「第40回医療功労賞」を佐々木医師に贈りました。
(その後、2012年3月、佐々木医師が退職されたため、
4月からは、本村光明医師が、勤務されています。)
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「栄村の自然です。」


長野県は、自然エネルギーの供給率が高い県です。
太陽光発電及び小水力(1000kW以下)発電における、
設備件数と総発電能力は、ともに全国5位以内に入っています。
長く守ってきた自然と昔からある文化を維持しながら、
村をさらにいきいきと元気にしていくことが課題です。

株式会社ブリヂストンは、早稲田大学と協力して、
環境問題に関する研究事業W-BRIDGEを行なっています。
W-BRIDGEは、地球環境が抱える課題に対し、
企業、大学、各地域やそこで生活する人々が一体になって取り組んでいく
新しい場をつくっています。

この研究事業の一環として、
NPO栄村ネットワークは「山村CSRプロジェクト」をはじめました。
山村CSRプロジェクトは、
CSR(企業の社会的責任)を積極的に実践する企業と、
山々に囲まれた村をつなげる取り組みです。

このプロジェクトは、
1.企業に対し、
資源を有する村との信頼関係や、
地域活動に参加する社員における心と体の健康増進を提供し、
2.村に対しては、
恵まれた自然環境とその村の良さを守りながら、
人々の営みをより活発にすることを目指しています。

この取り組みが、
企業と村のとの間に新たなつながりを生み、
村を活性化させていく、と栄村ネットワークは述べています。
・・・
「あなたの大切なものは何ですか?」
「学校とお友達です。」


長野県は、昔から人材を育てることに力を入れている県でした。
江戸時代には寺子屋の数が全国で一番多い県で、
人々は長野県を「教育県」と呼んでいました。
しかし、近年その様子が変わりはじめています。

長野県教育委員会によると、
県内における公立小学校の生徒数が減っており、
小学校の3割は1学年に1クラスの学級編成です。
栄村においては、小学校1クラス当たりの生徒数は7人で、
教員1人当たりの生徒数は4人です。
2010年に文部科学省が行なった「全国学力・学習状況調査」では、
47都道府県中、長野県が42位という厳しい結果となってしまいました。

長野県民新聞社は、県内で唯一の教育専門紙である『長野県民新聞』と、
子育て情報誌の『すこやか』、『おさなご』を発行しています。

長野県民新聞は1980年代から、
県内の生徒における学力の低下に警告を鳴らしています。
「子どもたちの学力を向上させたい。」
「長野県を、もう一度日本で一番の教育県にしたい。」と、
新聞社は取材と検証を重ねていきます。
・・・
おわりに。
栄村には、栄村国際絵手紙タイムカプセル館という施設があります。
この場所は、世界中から集まった絵手紙を保存しています。

1998年、長野県では、長野オリンピックとパラリンピックが開催されました。
その際には、日本絵手紙協会が企画した栄村の『絵手紙世界展』を、
長野オリンピック冬季競技大会組織委員会が
同オリンピック及びパラリンピックの文化プログラムとして決定しました。
人々が想いをこめて描いた絵手紙が世界中から届き、
それを、村の人々が自分たちの手で展示しました。

オリンピック期間の展示後は、
それぞれの作品に絵手紙世界展記念の消印を押して、
長野オリンピックの記念切手を貼り、描いてくれた人へお返ししました。
2000年には、21世紀を迎える記念として、
60万枚以上の絵手紙が国内外からこの施設へ届きました。
これらの絵手紙は「絵手紙万葉集」という7巻の本になり、
その一枚一枚を施設が保管しています。
栄村の絵手紙が、世界をつなげました。

朝日新聞社と森林文化協会は、
人の暮らしが紡いだ、生命力に溢れていて、うつくしい里に贈る
「にほんの里100選」に栄村を選びました。
山と川、風と花、
そして、そこに生活する人々が受け継いできた生き方、
栄村には、きっと人々の心をやさしく包みこむ力があるのだと
筆者は思います。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織
編集完了日:
2012年5月11日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 09:28| 日記
2012年03月11日
シエラレオネ Sierra Leone

シエラレオネは、西アフリカの海岸沿いに位置し、
北海道くらいの面積のなかに約580万人の人口を擁する国です。
「僕の大切なものは、この国の地図です」

シエラレオネには、テムネ族や、メンデ族、
クレオール人(黒人と白人の混血)などの民族がいます。
公用語は英語ですが、地方に行くとメンデ語など
民族固有の言語が使用されています。
宗教は、イスラム教徒が6割、キリスト教徒が1割、
精霊信仰(アニミズム)が3割を占めます。
「私の大切なものはイスラム教の教えとモスクです」
主要産業は、ダイヤモンドなどの鉱業と、カカオやコーヒーなどの農業です。
シエラレオネで採掘されるダイヤモンドは品質がよいことで知られています。
このダイヤモンドが一因となって、
1991−2002年まで史上最悪とも言われる
凄惨な内戦がおきました。
その様子は、映画『ブラッド・ダイヤモンド』でリアルに表現されています。
この内戦により、国内のインフラは破壊され、
またインテリ層の多くが国外に亡命しました。
その影響により、シエラレオネは
世界でもっとも開発が遅れている国の一つとなっています。
国連開発計画(UNDP)は、毎年『人間開発報告書』を出版し、
人間にとっての住みやすさを示す
人間開発指数の国別ランキングを公表しています。
2008年の人間開発報告書で、シエラレオネの人間開発指数は
179か国中で最下位でした。

・・・
古くから、シエラレオネには、
テムネ族やメンデ族などの部族が暮らしていたと考えられています。
そこへ、1447年にポルトガル人航海士がシエラレオネに上陸し、
ライオンの山を意味する『シエラレオネ』と名付けました。
以後、シエラレオネはポルトガルの交易基地として発展しました。

ポルトガルが衰退すると、
かわってイギリスがシエラレオネを支配するようになりました。
イギリス人たちは1562年から
シエラレオネで奴隷を獲得するようになりました。
しかし、18世紀後半にイギリスで奴隷貿易廃止運動が巻き起こると、
1787年からイギリスは黒人奴隷たちをシエラレオネで開放するようになりました。
「僕の大切なものは船です」


1808年、シエラレオネはイギリスの直属の植民地になりました。
1833年にイギリスで奴隷貿易が廃止されると、
シエラレオネは解放奴隷の入植地となりました。
首都フリータウンは、
その名の通り解放奴隷のための居住区として開発されたものです。
1960年はアフリカで多くの独立国家が誕生し、『アフリカの年』と呼ばれました。
その流れに乗り、翌1961年、シエラレオネはイギリス連邦国家として独立しました。
「僕は国旗を描きました。
緑は農業、白は平和、青は海を表しているんですよ」


1971年、シエラレオネは共和国に移行すると、
最大部族テムネ族による一党独裁政治がつづき、
国内では腐敗が蔓延し、治安は悪化、不満を訴える国民は弾圧されました。
1985年には、軍の司令官でテムネ族出身のモモが大統領に就任し、
引き続き独裁政治を断行しました。
そして、ダイヤモンド採掘事業が国営化されると、
その利益が一部の政治家により牛耳られたこともあり、
国民の政府に対する不満が高まりました。
「僕はフォディ・サンコーの絵を描きました」
そこで、この腐敗を打倒するため、
1987年、フォディ・サンコーがエジプトの隣にあるリビアに行き、
後にシエラレオネの南隣のリベリアで武装蜂起し、
後にリベリア大統領となるチャールズ・テイラーとともに軍事訓練をうけました。
サンコーは黒人イスラム教徒を中心とした
反政府勢力の『RUF(革命統一戦線)』を創設しました。
1991年3月、フォディ・サンコー率いるRUFがシエラレオネで武装蜂起し、
シエラレオネの南部にあるダイヤモンド鉱山を支配しました。
RUFは採掘したダイヤモンドを、
隣国リベリアで武装蜂起したチャールズ・テイラーに密輸し、
その代わりにテイラーからAK−47(カラシニコフ)などの小型武器を
大量に譲り受けていたと言われています。
そして、RUFは大量の武器をつかって村々を襲い、
そこで捕えた男たちはダイヤモンド鉱山の労働力にし、婦女子は性奴隷にし、
子どもたちは麻薬漬けにして『子ども兵』として戦闘に参加させました。

・・・
1992年4月、シエラレオネでクーデターが起き、
翌5月にはRUFではない別の勢力による軍事政権が成立すると、
モモ大統領は隣国ギニアへ亡命しました。
この後、RUFは領地を広げていき、
1995年には首都フリータウン目前に迫りました。
そこで、シエラレオネ政府は南アフリカの傭兵会社から多数の傭兵を雇い、
またメンデ族の民兵組織であるCDF(市民防衛軍)とも提携しました。
この結果、RUFを国境付近に押し返すことに成功しました。

ところが、今度はRUFにかわってCDFがダイヤモンド鉱山を
支配するようになるなど、内戦はより複雑化しました。
また、その後RUFが勢いを取り戻すと、村々を襲撃して民間人を殺害し、
外国人を拘束するなどしたため、シエラレオネの治安は悪化の一途をたどりました。

そんな中、1996年3月に選挙によりカバ氏が大統領に就任しました。
しかし、その前から、RUFは選挙妨害などを目的として、
民間人の手足を切断するようになりました。
いま、シエラレオネには手や足のない人が1万人以上いて、
そうした人の多くが仕事に就くことができません。

なお、この手足を切断するという手法はRUFが独自に考えたものではなく、
ベルギー人たちが19世紀末に当時ベルギー領だったコンゴでしていたものでした。
「僕は人の手足を切断するなどという残虐行為をなくしたいです」
1997年5月、シエラレオネ政府軍の軍部がクーデターを起こしました。
これにより、カバ大統領はギニアへ亡命、
かわりにRUFが首都フリータウンに流入し、
フリータウンで殺戮や暴行、略奪が横行するようになりました。

そこで、1998年2月、
ナイジェリア軍を中心とするECOMOG(西アフリカ諸国平和維持軍)が介入し、
クーデター派を撃退し、カバ大統領が政権に復帰しました。
その後、1999年1月にはRUFが再びフリータウンを占領し、
その数週間後にはECOMOGが再びRUFを撃退するなど、
RUFとECOMOGの一進一退の戦いが続きました。
しかし、1999年7月、アメリカ(クリントン政権)の仲介により、
ついにカバ大統領とサンコーとの間の和平協定『ロメ合意』が結ばれました。

ただし、このロメ合意は、サンコーにとって極めて有利なものでした。
シエラレオネ政府は、
RUFの人権侵害を問えず、RUFの政党化を認め、
RUF首領のサンコーを副大統領に就任させ、
かつサンコーをダイヤモンドを支配できる天然資源大臣に任命する
などの条件をのんだものでした。
「わたしはシエラレオネとアメリカの関係が重要だと思います」

1999年10月、国連安保理は、PKO(国連平和維持活動)として、
『UNAMSIL(国連シエラレオネミッション)』を派遣し、
伊勢崎賢治が主導するなか
『DDR(元兵士の武装解除および社会復帰)』をすすめました。
しかし、2000年5月には、RUFにより
約500人ものUNAMSIL職員が人質にとられる事件が起きました。
また、フリータウンのサンコー宅の外で、
RUFに対する抗議デモが起きましたが、
サンコーのボディーガードが20人を射殺する事件も起きました。
こうした行為は和平協定に反するため、サンコーとその側近は逮捕されました。

その後、イギリス軍が、外国人を退避させ、治安を維持する活動を続けました。
そして、国連安保理はRUFの資金源となる
ダイヤモンドの密輸を全面的に禁止したのが決定打となり、RUFは衰退しました。
2000年11月には『ECOWAS(西アフリカ経済共同体)』諸国の仲介により、
シエラレオネ政府とRUFとの間で停戦合意し、
2001年5月には首都フリータウンで改めて停戦合意に調印しました。
2002年1月に、UNAMSILが
RUFとCDFの兵士4万7千人の武装を解除すると、
ついにカバ大統領が11年続いた内戦の終結を宣言しました。

ロメ合意によればRUFは人権侵害の罪を問われないことになっていましたが、
国連安保理の決議を受けて、
首都フリータウンに内戦中の残虐行為を裁く
『シエラレオネ国際戦犯特別法廷(SCSL)』が設立されました。
ところが2003年7月、
サンコーはSCSLの判決を待たずに獄中で病死してしまいました。
一方、同年8月には、アメリカの介入により、
隣国リベリア大統領のチャールズ・テイラーが
紛争ダイヤモンドの売買に関する疑惑により逮捕されました。
チャールズ・テイラーについてはSCSLで審議が行われており、
2012年4月に結審となる見込みです。
こうして、シエラレオネ内戦は終結し、いまのシエラレオネは平和になりました。
しかし、国民の半数にあたる200万人以上が避難民となり、
50万人以上が死んだとも言われています。
まさに史上最悪の内戦でした。

・・・
さて、RUFは内戦をひきおこして国中を大混乱に陥れましたが、
もともとは腐敗したシエラレオネ政府を打倒するために立ち上がった組織でした。
このため、内戦勃発時は、RUFを支持する国民も多かったのです。
しかし、内戦が長引いた結果、
RUFはサンコーも統率できない
殺戮と略奪を繰り返すテロ集団となってしまいました。
そして、その最大の犠牲者が子どもたちでした。
「僕は内戦のない平和な世界を望みます。
屋根のある家に住み、学校に通い、いっぱい遊びたいです」
内戦中、RUFは農村を襲撃すると、
8歳以上の子どもたちを捕獲し、子ども兵に仕立て上げました。
一時は、RUFの約半分が子ども兵だったと言われています。
RUFが子ども兵を多用した理由は、
子どもは洗脳すれば大人以上に残虐になる点と、
そして、農村を襲撃すれば簡単に捕獲できるので
死んだとしてもRUFにとって損失が少ないという点で有利だからでした。

子どもを兵士にするための手口も卑劣です。
RUFに捕獲された子どもたちは、まず、こめかみあたりに傷をつけられ、
そこから直接コカインなどの麻薬をすりこまれます。
もともと子どもは道徳的観念が希薄なので、
麻薬漬けになると、子どもの人格は簡単に崩壊します。

そこで、訓練のために民間人を殺害させられます。
なかには、生まれ育った村を襲撃させられたり、
親や兄弟を殺害させられた子どももいます。
こうすれば、子どもたちは帰る場所を失い、
RUFに忠誠を誓うようになるからです。
以後、子どもたちは、殺人や略奪、
レイプといった残虐行為を平気で繰り返す戦闘マシーンと化してしまうのです。

また、RUFでは、残虐な行為をしたものほど出世させていたため、
子ども兵たちはゲーム感覚で競うように残虐行為に走りました。
その結果、子ども兵たちは民間人の手足を切断したり、
目をえぐるなどの凶行を繰り返すようになりました。
このように子どもが残虐行為に走った理由の一つとして、
DDRの責任者だった伊勢崎賢治は『ファッション性』を指摘しています。
貧困と腐敗が蔓延し、若者が未来に希望を持てないこの国にあっては、
銃を手にして破壊行為を繰り広げる姿は、
ロックスターのように「かっこよく」見えるというのです。
「僕はミュージシャンになるのが夢です」


子ども兵は少年ばかりではありません。
少女たちも兵士として戦闘に参加させられました。
少女兵たちの場合、食事を作らせられたり、
重労働に従事させられたりするほか、
日常的に性的虐待を受けていたため、
少年兵よりも少女兵たちの方が悲惨といえるかもしれません。
「僕は子どもの権利を守りたいです。
子どもにはいかなる形態のセクハラも受けない権利があります」


また、子どもを兵士にしていたのはRUFだけではありません。
政府軍も子どもを兵士として使用していました。
政府軍の子どもの多くが戦争孤児で、
両親を殺された怒りと生活のために銃をとっていました。
しかし、政府軍に参加した子ども兵たちも、
国のためにはRUFを一人残らず殺さなければならないと教え込まれました。
こうしてみると、シエラレオネ内戦では、政府軍、RUFの双方とも正義はなく、
怒りに駆られて泥沼の戦いを繰り広げていたと言わざるをえません。

内戦が終わると、子ども兵たちは、
UNICEF(国連児童基金)やカリタス(キリスト教系団体)、
セーブ・ザ・チルドレンなどのNGOが作った更生施設に送られ、
麻薬中毒から離脱させられた後、
心の治療を受けたり、職業訓練を受けるなどしました。
しかし、元子ども兵たちは、麻薬中毒が治らなかったり、
親が見つからなかったり、また親元に帰されても
元子ども兵だからと村で差別をうけるなどの問題もあります。
また、元少女兵たちが生活のために売春をするケースも報告されています。
11年にわたる内戦の影響はかくも根深いのです。
・・・
「僕はこの国の農業、インフラ、
教育などを立て直すことが重要だと思います」


シエラレオネでは、内戦により、
国民の約半分の200万人もの難民・国内避難民がうまれました。
終戦とともに難民・国内避難民の多くが元の居住地に戻るようになりますが、
元の居住地に戻ってもインフラ(道路、電気、水道など)が破壊されていて、
以前のような暮らしをすることはできません。
「私はお父さんが大好きです。
その他、トイレ、安全な水、学校、
野菜、障がい者の支援も大切だと思います」


そこで、NPO法人ピース・ウィンズ・ジャパンは2001年4月から、
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と提携し、
シエラレオネ帰還民キャンプを運営しました。
そして、内戦の中心地となったダイヤモンド鉱山の付近で井戸掘削などを行い、
帰還民の再定住を促進しました。
この結果、多くの難民・国内避難民が元の居住地に再定住し、
2006年末にはこのプロジェクトを終了しました。

・・・・
「僕はダイヤモンドを悪用する人を取り締まりたいです」
シエラレオネでは、良質なダイヤモンドが採掘されますが、
そのダイヤモンドが国に豊かさをもたらすことはありませんでした。
内戦前はダイヤモンドがもたらす富を一部の政治家が牛耳り、
国民の不満を高める原因となりました。
また、内戦中はダイヤモンドがRUFの資金源となり、
内戦を長引かせる原因となりました。
そのダイヤモンドはデビアス社(世界最大手の企業)などの宝石メーカーが
先進国で販売していましたから、
我々先進国の人たちがダイヤモンドを購入すると、
知らないうちにRUFの活動を支援してしまうという構図ができていました。

このような事態を打破するべく、グローバル・ウィットネスや
アムネスティ・インターナショナルなどの人権NGOが主導し、
紛争ダイヤモンドの取引を禁ずる『キンバリー・プロセス』が成立しました。
これにより、ダイヤモンド業界は、
取引するダイヤモンドが紛争ダイヤモンドではないことを
証明する義務が課されるようになり、
紛争ダイヤモンドの数は大きく減少したと言われています。
しかし、第三者によるモニタリングができないなどの問題が依然として残っています。
そして、シエラレオネの内戦は終結したものの、
アンゴラなど他のアフリカ諸国で同様の問題が残っているため、
世界の紛争に加担しないためには
ダイヤモンドは購入しないのが最善といえそうです。

シエラレオネの内戦は終結しましたが、
世界に覇紛争が続いている国が未だにたくさんあります。
その紛争の当事者の多くが、石油や金、
また、携帯電話などの電子機器の製造に必要な
レアメタルなどの天然資源を資金源としています。
先進国の経済活動が、
世界の紛争を間接的に支援してしまうという問題は未解決のままです。
・・・
「僕の大切なものは学校です」


シエラレオネは、世界でもっとも教育水準が低い国の一つです。
識字率、就学率のいずれとも世界で最低の水準です。
その理由として、まず、内戦中、
子どもたちが教育を受けることができなかったということがあげられます。
また、義務教育制度の配備が遅れていることもあげられます。
さらに、シエラレオネでは、子ども(7−14歳)の就業率が高く、
働いているため学校に通えない子どももたくさんいます。

国民の教育水準が低いと様々な問題が起こります。
まず、教育を受けられる人と、そうでない人との間に雇用の機会の差が生まれ、
大きな経済格差が生じます。
また、内戦後、経済や医療などの様々な分野で国を支える人材が育たず、
諸外国からの支援に頼るようになります。
さらに、家族計画の大切さを教えなければ、
人口爆発やそれにともなう
乱開発や雇用不足に歯止めをかけることが出来ません。
そこで、NGO『手を貸す運動(キリスト教系団体)』は、
内戦前の1980年から、人材や物品をおくったり、
井戸を掘ったりするなどして、
シエラレオネの学校の支援活動をつづけています。

また、国際NGOプラン・インターナショナルは、
生活苦のために働かざるを得ない貧困層の若者を対象に
マイクロ・ファイナンス(小規模金融)を実施しています。
これにより、貧困層の若者もマイクロクレジットで生活し、
教育を受ける機会が確保されるようになりました。
・・・
「私は貧困をなくしたいです」

シエラレオネは、内戦が起きる前から
世界の最貧国の一つとして数えられてきました。
ダイヤモンドがもたらす富が一部の権力者によって独占されていたからです。
そのうえ、内戦により国内のインフラが破壊されたため、
経済成長のためにはインフラの復興が急務となっています。
たとえば、首都フリータウンでは、電気系統が破壊されてしまい、
これが経済成長をするうえでの足かせになっています。
そこで、日本政府は無償で首都フリータウンの
発電・送電システムの復興を支援しました。
「僕は農作物を生産している農夫さんたちが大切だと思います」


また、シエラレオネでは国民の約半分が農業に従事していますが、
内戦により農業関連施設が破壊されたため、
国内で生産できる食糧が不足しています。
このため、外国からの支援に頼らざるを得ない状態が続いています。
そこで、日本政府は、2006-2009年まで、日本人専門家を派遣し、
国連開発計画(UNDP)や国連食糧農業機関(FAO)とともに
農業技術支援をし、2011年度には無償の食糧援助も行ないました。
内戦によりシエラレオネの農業は衰退したため、
シエラレオネは輸出の大部分は
ダイヤモンドなどの天然資源で占められています。
そこで、株式会社立花商店は
天然資源に代わる輸出品目の一つとして
シエラレオネのカカオ産業の事業性を調査しました。
2011年、その事業は
JETRO(日本貿易振興機構)に認められました。
カカオ産業がシエラレオネの経済を支える日も近いかもしれません。

シエラレオネでは、内戦により、各地の水関連施設も破壊されました。
安全な水にアクセスできなければ、
住民は下痢や腸チフスなどの病気になってしまうほか、
水汲みにかり出される子どもの就学の機会を奪うことにもつながります。
そこで、日本政府は、2009年、シエラレオネの西部の街で
上下水道の整備を行なうための資金援助をしました。
これにより、安全な水にアクセスすることのできる人口が
3400人から28500人と大幅に増加する見込みです。

「わたしの大切なものは
バングラデシュを建国したムジブル・ラフマンです」


バングラデシュのグラミンフォン社は、
バングラデシュのグラミン銀行と、
ノルウェーの通信キャリアであるテレノール、
日本の丸紅が提携して作った携帯電話会社です。
バングラデシュで、
女性や農村部にいる人たちに携帯電話を普及させることにより、
新たなビジネスチャンスを与え、
所得を向上させることに成功しました。
その後、アフリカ諸国でも活動をしており、
このシエラレオネでも携帯電話の普及活動をしています。
シエラレオネで新たなビジネスがうまれる土台となりました。
・・・
「私は植林をしてこの国の緑を守りたいです」

シエラレオネでは、復興にむけてインフラの整備が進んでいますが、
その裏側で、自然破壊が進行していることも見逃せません。
シエラレオネでは、炊事などに必要なエネルギー資源の大半を
森林資源に頼っているため、内戦終結後、急速に森林伐採がすすんでいます。
また、首都フリータウンの近郊の森には、
チンパンジーの中でも最も絶滅が危惧されている
ニシチンパンジーが生息していますが、
このニシチンパンジーの個体数も激減しているとみられています。
森林伐採や、狩猟や売買目的の捕獲が主な原因と考えられています。

そこで、シエラレオネ政府は、
2007年にはチンパンジーの捕獲や殺害を禁ずる法律を制定しました。
また、2009年にはチンパンジーの包括的な生息調査をおこないました。
調査結果は、チンパンジーを繁殖させて自然に戻すときに役立てられます。
・・・
「僕は医学を学んで立派な医者になりたいです」


シエラレオネは、世界でもっとも平均寿命が短い国の一つで、
特に、内戦中の1995年には34歳という驚異的に短い数値を記録しました。
これは、内戦によって多くの人が死傷したのはもちろん、
もともと富裕層である医師や看護師の多くが国外に退去して
医療体制が崩壊したため、
治療を受けられずに病死する人も多かったためです。
医療体制が崩壊するとまっさきに被害にあうのが子どもたちです。
内戦中の5歳未満死亡率は約1/3と驚異的に高かったのです。

シエラレオネの医療は、内戦は終わった今でも様々な課題を抱えています。
まず、シエラレオネでは、乳幼児死亡率が世界最悪レベルです。
その理由のひとつとして、シエラレオネでは、大地から恩恵を受けるために、
生まれてきた子どものへその緒を地面にこすりつける習慣があり、
これにより子どもが破傷風に感染してしまう危険性が高まることがあげられます。
こうした習慣は、医療面に関して言うならば害ですが、
現地の人たちにとって大切な伝統文化なのです。
「わたしは伝統的な儀式を守りたいです」

そこで、UNICEF(国連児童基金)は、
シエラレオネの子どもが罹患する病気の一つである
新生児破傷風の罹患率と死亡率を減らすために、
破傷風の予防接種や錠剤の投与、
ビタミン剤を投与するなどの活動をしています。

また、UNICEFやイギリス政府などの援助により、
病院や診療所への物流網を確保し、
2010年からシエラレオネ政府は、
授乳中の母親や5歳未満の子どもを対象に医療を無償にするようになりました。
「私の大切なものは医療機器です。これらがないと医療はできません」


シエラレオネは、妊産婦死亡率も世界最悪レベルです。
シエラレオネでは助産師や産婦人科医が不足しており、
ほとんどの妊婦が自宅で出産していることが一因です。
そこで、国際NGO国境なき医師団は、シエラレオネ政府と協力し、
各地の診療所で数千人におよぶ妊婦のケアや産科治療をしています。
「わたしの大切なものは病院です」


シエラレオネでは、女性器切除(FGM)の実施率が約9割と高く、
FGMが実施された女性は難産になりやすいため、
これが妊産婦死亡率が高いことの一因だと言われています。

国連人口基金(UNFPA)などの国際協力団体は、FGMを実施しても、
産科ろう孔(フィスチュラ:女性の産道に孔が開く病気)になるなど、
女性の健康が損なわれるだけで、健康上のメリットは何一つないため、
FGMをなくすよう働きかけています。
「わたしは自然と調和した伝統文化が大切だと思います」

しかし、現地の女性たち、特にすでにFGMが実施された女性たちにとっては、
FGMを否定されることは自らの伝統文化が否定されることを意味します。
このため、国際協力団体がFGMをなくそうと働きかけても、
FGMが実施された女性たちの多くがその動きに反発します。
FGMを女性の健康を害する悪習とみるか、
あるいは現地の人たちの自尊心にかかわる伝統文化とみるかは、
これからも意見の分かれるところでしょう。

また、株式会社三和建設は、2009年、
国際NGOプラン・インターナショナルが実施している
母子保健所建設プロジェクトを支援しました。
この母子保健所が建設されることにより、
500人以上の幼児と、100人以上の妊婦、
出産年齢の女性600人以上が、
保健サービスを受けることができます。
そのほか、シエラレオネでは、
下痢、腸チフス、マラリア、ポリオ、肺炎、結核、エイズなど、
多くの病気が蔓延しています。
シエラレオネでは、内戦によりインフラが破壊され、
かつ医師や看護師が不足しているため、
こうした問題に対処するには長い時間を要するでしょう。
このため、これからも長い目で支援をする必要があります。
・・・
「私はシエラレオネが内戦から復興することが大切だと思います。
内戦により、人は殺されてハゲタカに食べられました。
また、多くの家が焼かれました。もうたくさんです」

シエラレオネは、11年間にわたる内戦により、世界にその名をとどろかせました。
この内戦は、子ども兵が大量に導入されていたことと、
民間人の手足を切断するなどの凶行が行われていた点で、衝撃的でした。
しかも、その内戦に、先進国で流通しているダイヤモンドが関係していたため、
我々のような先進国の国民にとっても対岸の火事ではありませんでした。
この悲惨な内戦から、私たちはいったい何を学んだらよいのでしょうか。

イシメール・ベアは、12歳の時に内戦で家族を失い、
シエラレオネ政府軍に加わって幾多の戦闘に参加した後、
15歳の時にUNICEFによって保護されました。
そして、2007年には、
子ども兵として戦っていたときの壮絶な体験を記した
『戦場から生きのびて−ぼくは少年兵士だった』を出版しました。
これは子ども兵が自らの体験をつづった初めての本で、
ふつうの子どもが麻薬漬けにされて子ども兵になっていく様子がつぶさに記載され、
世界的なベストセラーとなりました。
そのイシメールは、子どもの権利を守るためには、
子どもたちが、自分自身の声で発言できるようになり、
私たちがその声を響かせ続けることが必要だ、と訴えています。
「家庭は貧しく、子どもは軍隊に入れられる。
これがアフリカの現実です。
僕はこの現実を変えたいです」
シエラレオネの内戦は終わりましたが、
アフリカでは今も多くの国で紛争が続いています。
そして、世界約70カ国に子ども兵は30万人以上いるといわれています。
世界の子どもたちのために、
私たちにできることは何かということを、
これからも考え続けたいと思います。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
ボブ・バイオ・ジュニア(2009)、山本敏晴(2001-2003)
画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明
編集完了日:
2012年3月14日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 15:40| 日記
2012年03月07日
コロンビア colombia
「あなたの大切なものは何ですか。」
コロンビアに住む、ある一人の少年は
次のように言いました。
「私の大切なものは『神様に感謝すること』です.
なぜなら,神様は私達を愛してくださっているからです.
(colo_0503p_41_Pablo_a2.jpgを、他の画像と入れ替える検討中。)
(_MG_3482_a.jpgを、他の画像と入れ替える検討中。)
コロンビアで採れる
エメラルドや花,音楽,
そして人間の美しさは
神様の愛そのものです.

神様の愛に応え,日々感謝さえしていれば
良い道から逸れることはありません.」

温暖な気候と豊富な天然資源.
生まれてくる女の子は美女揃い.
隣国は世界最大の消費国アメリカ.

コロンビアほど, 自然にも経済的にも恵まれた国を
あなたはどれだけ挙げられるでしょうか.

ただし,あなたがこの楽園を訪れるときは気をつけてください.
与えられた以上を欲したとき,
あなたは武器を手にし
武装組織の一員となっているでしょう.
そしてさらなる楽園を望んだとき
麻薬があなたを快楽へと誘うでしょう.

コロンビアは、
恵まれた地理的特性を持ちながらも
内戦が続いており、
世界で最も治安が悪い国の一つなのです。
そして、世界最大の麻薬の生産地の一つとしても
知られています。
……
先ほど『神様に感謝すること』が大切だと言って
絵を描いてくれた少年のお姉さんにも、
聞いてみました。
「あなたの大切なものは何ですか。」
「私の大切なものは『悪魔の存在を感じること』です.


良い人には一生かけてもなれないかもしれません.
けれども,悪人になるのは一瞬です.
なぜなら悪魔はそこら中にいて,
心の隙につけこむチャンスを
虎視眈々と狙っているからです.
私たちは悪魔の囁きと天使の声を
聞き分けなければならないのです。」

「私の大切なものは『正しい判断』です。
善悪を正しく判断できれば、
私たちは喜びに導かれ、
判断を間違えると
悲しみの奴隷となるでしょう。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 colo_0503p_45_Pamela_a2.jpg _MG_3509_a.jpg)
・・・
「私の大切なものは『花』です.
花は日常に彩りをくれます.」


コロンビアでは、
バラ、カーネーション、菊、かすみ草など
様々な種類の花が生産されており、
そのほとんどがアメリカや日本に輸出されています。
四季の寒暖の差は無いのに、
日中の気温差は大きいという
コロンビアの特徴的な気候が
通年で農業ができる要因のひとつです。

そしてコロンビア西部を南北に分ける
マグダレナ川が土壌を肥沃にするため
カカオ,コーヒー,果樹などの栽培も盛んです.

しかし一方で、コーヒー農家は
家族経営の小規模農家が多いため、
世界的にコーヒーの価格が落ちている現在、
コロンビアのコーヒー農家は
経営の危機に瀕しています。

一方で、食料需要の増加に伴う
プランテーション
(主に外国の大企業による大規模な農場)
の拡大は、コロンビアの農民から
生来の土地を奪っています。
土地を奪われた農民のなかには
麻薬の原料となる、コカの
栽培や流通に関わってしまう人も
少なくありません。

もとよりコカは強い植物で、
どんな土地でも栽培でき、
季節を選ばず1年に何度も
収穫できるのが特徴です。
そして、コカを求めて悪い組織の買い手が
山岳地帯にも足を運んできてくれるため
市場や流通の心配がない、というのも
農家がコカ栽培を止められない理由の一つです。

コカを初めとする、麻薬の栽培は
生活が苦しい人々にとって
簡単に収入を得られる手段なのです。
このため、政府やNGOが
人々に麻薬の栽培を止めさせて、
普通の農作物で収入を得るように
指導しようとしても、
うまくいかないのです。

また大きな船舶が航行可能な
マグダレナ川の存在が
コカインの流通を活発にしています。
こうして、コカイン産業に関わる組織が
マグダレナ川流域に集まることとなり、
かつての肥沃な農地が
現在ではコカイン産業の中心地になっています。

そして、コカ産業に関わる組織の
勢力争いや土地の所有権をめぐる争いにより
この地域に武器や地雷が持ち込まれています。
長期的に見たとき、コカ栽培が
コロンビア国民の身の安全や健康を
脅かしていることは明らかですが、
コカ栽培が彼らの明日の生活を
保障していることは事実です。

それだけにコロンビアにおける
コカ栽培の問題は、
解決の糸口が未だ見えない課題です。
コロンビアからコカ栽培をなくすための努力が
今まで取られてこなかったわけではありません。

21世紀はじめには、
米軍とコロンビア政府軍によって
コカを初めとする不法作物の駆除を目的とした
除草剤の空中散布が行われました。
しかし、この試みは失敗に終わりました。
コカ以外の植物が枯らされただけでなく、
河川、土壌、動物や子どもにまで
除草剤による汚染の影響が出たのです。

除草剤の散布は
農村部や山岳地帯に住む人々の
生活基盤を全て奪ってしまう結果となりました。
この絶望に立ち向かおうとしている
コロンビア人も存在します.

コロンビアの億万長者の間には
既に社会貢献の意識が芽生えており,
コロンビアを誰よりもよく知る
彼ら自身がこの国を救おうとしています.
例えば,マリオ・サント・ドミンゴ財団は
ローカルNGOとして
職業訓練施設の整備や,
海の環境保護などに尽力しています.
・・・
「私の大切なものは『外国と繋がること』です。
貿易によって経済が豊かになるだけでなく、
多様な価値観や文化に触れると
それが刺激になって、
毎日の生活や勉強さえ楽しくなります。」


コロンビアは、その地理的好条件によって
経済力を飛躍的に伸ばしてきました。
太平洋と大西洋に接しているため
輸出入が活発に行われています。
また、世界最大の消費国である
アメリカに近いのが特徴です。
しかし、コロンビアに入ってくるものが
いつも良いものとは限らないのです。

かつてベトナム戦争に参加したアメリカ兵が
恐怖を紛らわすために用いたのが
コカインであるとも言われ、
それが、コロンビアの麻薬産業が
おこるきっかけになりました。
そしてベトナムから帰った若者が
アメリカに持ち帰った麻薬文化が
コロンビアの若者に伝わったとも言われています。

・・・
「私の大切なものは『力』です。
力さえあれば、どんな恐怖にも
屈しないで立ち向かえるからです。」


コロンビアは今日に至るまで、
軍事援助や武器の多くを
アメリカに頼ってきました。
コロンビア政府軍は、
コロンビアの共産主義化を防ぐために、
アメリカからの軍事資金や訓練の
援助を受けてきました。
また、政府軍に対抗する勢力も
アメリカから持ち込まれる武器によって
力をつけてきました。

エメラルド、麻薬、土地など
様々な利権を巡る対立は
コロンビアに40年に及ぶ
内戦をもたらしました。
緊迫した国内情勢によって
家族離散を強いられ、
生き延びるために兵士となる道を選んだ
子どもも数多くいたことでしょう。

一時は兵士の4人に1人が
子ども兵だったと言われています。

兵士となった子どもたちは
教育機会を失ったことでしょう。
また、内戦が人々の暮らす町にまで及ぶと
校舎を武装勢力に奪われ、
児童は戦闘の犠牲となることもありました。

・・・
「今の私たちのとって大切なことは
『武器をなくすこと』です。
武器は人を傷つけ、
また傷つけられた人を
新たに暴力へと
駆り立てる可能性があります。」


21世紀に入り治安は回復傾向にありますが、
現在でも地方有力者が
自警団として戦闘員を利用することがあり、
政府もこれを認めています。
しかし、他の勢力との抗争が激しくなると
一般市民が戦闘に巻き込まれることも
充分に考えられます。

また、生活に困った家庭の子どもが
自警団にリクルートされ
武器を手にすることも考えられます。

武力が武力を抑えるという構造を
根本から変えない限り
子ども兵や武器輸入の問題は
コロンビアから消えないでしょう。
・・・
「私の大切なものは『真実』です。
真実を見誤ったり、真実から目をそらしたりすると、
善悪を判断する力が鈍くなります。」


コロンビアでは、 マスメディアが
政府や反政府組織を批判することは一応、可能です。
しかし、 武装組織が
取材中の報道機関を妨害したり
世論に影響力を持つ高名なジャーナリストを
脅迫したり、 拘束したりすることが
コロンビアでは起こっています。

コロンビアで報道行為を脅かされた
ジャーナリストは、2009年には
200人以上を数えました。
武装組織に対して批判的な意見を言うことは
コロンビアでは勇気のいることなのです。

しかしだからこそ、
コロンビアのジャーナリストは
使命感に燃えるのです。
彼らは武器を用いずに、
人間に潜む悪に立ち向かっているのです。

果敢な挑戦者の一人に
エルビン・オジョスがいます。
彼は1990 年代から、
誘拐被害者が家族の存在を励みにできるように、
家族の声を放送するラジオ番組を製作してきました。
この番組は、 選挙活動中に誘拐された
大統領候補の解放にも貢献し、
誘拐が横行しているコロンビアの現状に
世界を注目させました。

数々の成果を上げたオジョスですが、
自身にも生命の危機が迫ってきたため、
彼は2009 年に亡命しました。
彼のようなジャーナリストが今も
約500 局のラジオ局と61 紙の新聞を以て
コロンビアの自由のために戦っているのです。

コロンビアで今も戦っている『武器なき兵士』
たちのために、
外国にいる私たちができることは、
勇気あるジャーナリストが
発する情報を見逃さないことではないでしょうか。
・・・
「私の大切なものは『国土』です。
なぜなら、鉱物や化石燃料をたくさん
産み出してくれるからです。
鉱物や化石燃料を必要とする人が
世界中にいるので
産出国の私たちの生活が潤います。」


コロンビアは、
金、エメラルドなどの鉱物や
石炭、石油などのエネルギー資源に
恵まれています。
なかでも、エメラルドの産出量は世界最大で
産出シェアは世界で60%を占めます。

伝説によると、エメラルドは
『不貞の罰で岩に変えられた女王フナの流した涙』
であると言われています。
伝説では、女王フナを誘惑したのは
金髪で青い目の男と伝えられており、
16世紀のスペイン植民地化や
石油利権を狙うアメリカ企業の進出を
想起させます。

また、エメラルドの採掘権をめぐる争いが
武装組織、警察、政治家を巻き込んだ抗争に
発展しており、国内の治安を悪化させています。
外国に住む私たちも、
コロンビアの資源を消費する限り、
コロンビアの治安に対して
責任を負わなければならないのです。

・・・
「私の大切なものは『エネルギー』です。
自然が与えてくれるエネルギーがなければ、
動物も植物も人間も、
生きていくことは出来ません。」


コロンビアでは、
水力発電への依存度が高いため、
気候の影響を受け易く、
電力供給が安定していません。

そこで現在、採掘が進んでいる
石炭やガスによる火力発電への
移行が進められています。
しかし、いずれの発電方法でも
武装組織による送電システムからの
『盗電』などの問題が解決されなければ、
コロンビアの電気事情は良くならないでしょう。

石炭は重要な輸出資源です。
コロンビア政府は最近、
石炭の対アジア(特に対中国)輸出
に力を入れているようです。
ただし、コロンビア政府は経済発展にばかり
気をとられているようにも見えます。

コロンビアは2010年にノーベル賞を受賞した
劉暁波の授賞式典に欠席した国の一つです。
劉暁波は、中国政府が国の民主化運動を
弾圧していることに対して
反発する活動をしています。
つまり、コロンビア政府は
民主化を弾圧している中国政府の
肩を持ったことになります。

おそらくコロンビア政府は
ひとりの民主化運動の活動家の業績よりも
対中貿易の利益を重く見たのでしょう。
コロンビア政府には、
自国の経済発展のみにとらわれず、
世界中の人が自由で快適に暮らせるように
いっそうの努力を求めたいとおもいます。

・・・
・・・
「僕の大切なものは『女性』です。
その美しさは、神様の創造物の中でも
最高傑作のひとつだと思います。」


コロンビアは、 国際的なミス・コンテストで
毎年、 多数の受賞者を輩出しています。

コロンビアに美女が生まれやすいのは、
人種の多様性に富むからだとも言われています。
また、コロンビアの女の子は、
専門のカルチャースクールに通って
美しい姿勢や歩き方を熱心に勉強します。
ミス・コンテストを開催する小学校も
多いようです。

このように、 美意識を養う環境が整っているので、
美少女として生まれた女児は
年齢と経験を重ねて、
さらなる変貌を遂げるのです。
そして、美の秘訣は
母親から娘へ、そして孫娘へ
受け継がれているのです。

「私の大切なものは、
この国の美しいもの全てです。」


美意識の高さに伴って
コロンビアの医療は、
美容メディカルの技術が発展しています。
比較的低価格で高水準の美容整形を受けられるので、
アメリカやスペインからも多くの女性が
美を求めてコロンビアに訪れます。
美しさへの執念は、
医療技術の向上や人の流れをもたらしてくれます。
しかし、コロンビアでは
美しさゆえに犯罪に加担してしまうことがあります。

2010 年には、麻薬密輸組織の主犯格として
コロンビア国籍の女性モデルが
国際指名手配され、
アルゼンチンで逮捕されました。
例えば、コロンビア特産品のPRのために
ミス・コンテストのクイーンが
頻繁に外国とコロンビアを行き来するのは
珍しくありませんが、
麻薬密輸組織はそこに目をつけたのです。

このニュースによって
女性モデルがその立場を利用して、
麻薬や武器の運び屋を
引き受けることがあるということを
外国にいる私たちも知ることとなりました。

麻薬や武器の流通は、
コロンビアだけの問題ではありません。
なぜなら、世界中の健康や安全に
関わる問題だからです。
外国にいる私たちは
コロンビアの女性に内面の美しさを
求めていく必要があるでしょう。

……
「私の大切なものは『音楽』です。
音楽は、コカインと違って、
興奮と安らぎを健康的に享受させてくれます。」


世界で活躍するロックミュージシャン、 フアネス
(本名:フアン・エステバン・アリスティサバル・バスケス)
はNGO フンダシオン・ミ・サングレを設立し、
対人地雷被害者の支援を行なっています。

彼は、 日本政府が設立した地雷被害者向け
リハビリテーションセンターの落成式に
政府関係者と共に出席しました。
シンガーのシャキーラ
(本名:シャキーラ・イザベル・メバラク・リポル)
はNGO フンダシオン・ピエス・デスカルソスを立ち上げ、
国内避難民の支援や教育支援を行なっています。

音楽はそれ自体素晴らしいものですが、
コロンビアでは音楽が
身体の安全や健康を促すための
源になっているのです。

・・・
「私の大切なものは『誠実であること』です。
誠実でなければ、人は信用されないからです。」


コロンビアから
麻薬産業や武装勢力を
一掃できない原因の一つに、
政府にも彼らの力が及んでいることがあげられます。

私が想像するに、悪徳な政治家は、
麻薬組織などから受け取る賄賂で、
私腹を肥やすと同時に
麻薬の運搬に便利なインフラの建設を
推し進めてきたのだと考えられます。

そのような取り引きに加担しない
誠実な政治家がいたとしても、
悪い組織が放っておかなかったと
私は思います。
おそらく誘拐して説得するか
あるいは殺すことで
誠実な有力者を黙らせてきたと
想像できます。
コロンビアは、現在でも
「誘拐件数世界第一位」
という汚名で世界に知られているからです。

21世紀以降、コロンビアで
政治的理由により「失踪」した人は
推定でも1500人以上にのぼります。
また、麻薬産業や武装勢力の
悪行が法廷に届いたとしても、
判事が報復を恐れて
訴訟を却下していると言われています。
麻薬と暴力の問題は、
現在でも政・官・財の世界に
深く根をはっているのです。
・・・
・・・
まだ幼い少女は、答えました。
「私の大切なものは『家族』です。」


少女の父は言いました。
「私たちは、まず家族を作り、
何組かの家族がコミュニティーを形成し、
その集合が都市となり、国となり、
世界を構成しています。」

20世紀末まで約40年続いた
政府軍、
極右系民兵組織、
反政府組織、
そして麻薬組織などによる
武力抗争は、コロンビアに多数の
国内避難民を生みました。
かつて、家族と離れ離れになった人たちが
21世紀に入ってようやく
安住の地を手に入れようとしています。

20世紀末には350万人とも言われた
国内避難民が、昨今では
徐々に元の土地に戻れたり、
あるいは
新たな生活拠点を見つけたりしているようです。

コロンビアの国民が一刻も早く、
武力に怯えることなく
家族と暮らせるよう、
私たちも外国から
働きかけていきたいものです。

・・・
「私の大切なものは『道徳』です。
最低限の道徳さえ守っていれば
争いがなくなり、
生活がもっと安全で快適になります。」


コロンビア国民のほとんどは現在でも
カトリック信者だと言われています。
しかし現在のコロンビアは、
道徳や倫理を国民が共有しているとは
言いがたい状況です。

長期にわたる内戦が終わり
治安が安定してきても
一度失われた道徳を元通りにすることは
難しいようです。
更なる発展をめざすコロンビアにとって
道徳の欠如を埋める、時代に見合った
新たな倫理の構築が急務ではないかと、
私は思います。

・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2005年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
小野 明日美
編集日:
2012年3月13日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
コロンビアに住む、ある一人の少年は
次のように言いました。
「私の大切なものは『神様に感謝すること』です.
なぜなら,神様は私達を愛してくださっているからです.
(colo_0503p_41_Pablo_a2.jpgを、他の画像と入れ替える検討中。)
(_MG_3482_a.jpgを、他の画像と入れ替える検討中。)
コロンビアで採れる
エメラルドや花,音楽,
そして人間の美しさは
神様の愛そのものです.

神様の愛に応え,日々感謝さえしていれば
良い道から逸れることはありません.」

温暖な気候と豊富な天然資源.
生まれてくる女の子は美女揃い.
隣国は世界最大の消費国アメリカ.

コロンビアほど, 自然にも経済的にも恵まれた国を
あなたはどれだけ挙げられるでしょうか.

ただし,あなたがこの楽園を訪れるときは気をつけてください.
与えられた以上を欲したとき,
あなたは武器を手にし
武装組織の一員となっているでしょう.
そしてさらなる楽園を望んだとき
麻薬があなたを快楽へと誘うでしょう.

コロンビアは、
恵まれた地理的特性を持ちながらも
内戦が続いており、
世界で最も治安が悪い国の一つなのです。
そして、世界最大の麻薬の生産地の一つとしても
知られています。
……
先ほど『神様に感謝すること』が大切だと言って
絵を描いてくれた少年のお姉さんにも、
聞いてみました。
「あなたの大切なものは何ですか。」
「私の大切なものは『悪魔の存在を感じること』です.


良い人には一生かけてもなれないかもしれません.
けれども,悪人になるのは一瞬です.
なぜなら悪魔はそこら中にいて,
心の隙につけこむチャンスを
虎視眈々と狙っているからです.
私たちは悪魔の囁きと天使の声を
聞き分けなければならないのです。」

「私の大切なものは『正しい判断』です。
善悪を正しく判断できれば、
私たちは喜びに導かれ、
判断を間違えると
悲しみの奴隷となるでしょう。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 colo_0503p_45_Pamela_a2.jpg _MG_3509_a.jpg)
・・・
「私の大切なものは『花』です.
花は日常に彩りをくれます.」


コロンビアでは、
バラ、カーネーション、菊、かすみ草など
様々な種類の花が生産されており、
そのほとんどがアメリカや日本に輸出されています。
四季の寒暖の差は無いのに、
日中の気温差は大きいという
コロンビアの特徴的な気候が
通年で農業ができる要因のひとつです。

そしてコロンビア西部を南北に分ける
マグダレナ川が土壌を肥沃にするため
カカオ,コーヒー,果樹などの栽培も盛んです.

しかし一方で、コーヒー農家は
家族経営の小規模農家が多いため、
世界的にコーヒーの価格が落ちている現在、
コロンビアのコーヒー農家は
経営の危機に瀕しています。

一方で、食料需要の増加に伴う
プランテーション
(主に外国の大企業による大規模な農場)
の拡大は、コロンビアの農民から
生来の土地を奪っています。
土地を奪われた農民のなかには
麻薬の原料となる、コカの
栽培や流通に関わってしまう人も
少なくありません。

もとよりコカは強い植物で、
どんな土地でも栽培でき、
季節を選ばず1年に何度も
収穫できるのが特徴です。
そして、コカを求めて悪い組織の買い手が
山岳地帯にも足を運んできてくれるため
市場や流通の心配がない、というのも
農家がコカ栽培を止められない理由の一つです。

コカを初めとする、麻薬の栽培は
生活が苦しい人々にとって
簡単に収入を得られる手段なのです。
このため、政府やNGOが
人々に麻薬の栽培を止めさせて、
普通の農作物で収入を得るように
指導しようとしても、
うまくいかないのです。

また大きな船舶が航行可能な
マグダレナ川の存在が
コカインの流通を活発にしています。
こうして、コカイン産業に関わる組織が
マグダレナ川流域に集まることとなり、
かつての肥沃な農地が
現在ではコカイン産業の中心地になっています。

そして、コカ産業に関わる組織の
勢力争いや土地の所有権をめぐる争いにより
この地域に武器や地雷が持ち込まれています。
長期的に見たとき、コカ栽培が
コロンビア国民の身の安全や健康を
脅かしていることは明らかですが、
コカ栽培が彼らの明日の生活を
保障していることは事実です。

それだけにコロンビアにおける
コカ栽培の問題は、
解決の糸口が未だ見えない課題です。
コロンビアからコカ栽培をなくすための努力が
今まで取られてこなかったわけではありません。

21世紀はじめには、
米軍とコロンビア政府軍によって
コカを初めとする不法作物の駆除を目的とした
除草剤の空中散布が行われました。
しかし、この試みは失敗に終わりました。
コカ以外の植物が枯らされただけでなく、
河川、土壌、動物や子どもにまで
除草剤による汚染の影響が出たのです。

除草剤の散布は
農村部や山岳地帯に住む人々の
生活基盤を全て奪ってしまう結果となりました。
この絶望に立ち向かおうとしている
コロンビア人も存在します.

コロンビアの億万長者の間には
既に社会貢献の意識が芽生えており,
コロンビアを誰よりもよく知る
彼ら自身がこの国を救おうとしています.
例えば,マリオ・サント・ドミンゴ財団は
ローカルNGOとして
職業訓練施設の整備や,
海の環境保護などに尽力しています.
・・・
「私の大切なものは『外国と繋がること』です。
貿易によって経済が豊かになるだけでなく、
多様な価値観や文化に触れると
それが刺激になって、
毎日の生活や勉強さえ楽しくなります。」


コロンビアは、その地理的好条件によって
経済力を飛躍的に伸ばしてきました。
太平洋と大西洋に接しているため
輸出入が活発に行われています。
また、世界最大の消費国である
アメリカに近いのが特徴です。
しかし、コロンビアに入ってくるものが
いつも良いものとは限らないのです。

かつてベトナム戦争に参加したアメリカ兵が
恐怖を紛らわすために用いたのが
コカインであるとも言われ、
それが、コロンビアの麻薬産業が
おこるきっかけになりました。
そしてベトナムから帰った若者が
アメリカに持ち帰った麻薬文化が
コロンビアの若者に伝わったとも言われています。

・・・
「私の大切なものは『力』です。
力さえあれば、どんな恐怖にも
屈しないで立ち向かえるからです。」


コロンビアは今日に至るまで、
軍事援助や武器の多くを
アメリカに頼ってきました。
コロンビア政府軍は、
コロンビアの共産主義化を防ぐために、
アメリカからの軍事資金や訓練の
援助を受けてきました。
また、政府軍に対抗する勢力も
アメリカから持ち込まれる武器によって
力をつけてきました。

エメラルド、麻薬、土地など
様々な利権を巡る対立は
コロンビアに40年に及ぶ
内戦をもたらしました。
緊迫した国内情勢によって
家族離散を強いられ、
生き延びるために兵士となる道を選んだ
子どもも数多くいたことでしょう。

一時は兵士の4人に1人が
子ども兵だったと言われています。

兵士となった子どもたちは
教育機会を失ったことでしょう。
また、内戦が人々の暮らす町にまで及ぶと
校舎を武装勢力に奪われ、
児童は戦闘の犠牲となることもありました。

・・・
「今の私たちのとって大切なことは
『武器をなくすこと』です。
武器は人を傷つけ、
また傷つけられた人を
新たに暴力へと
駆り立てる可能性があります。」


21世紀に入り治安は回復傾向にありますが、
現在でも地方有力者が
自警団として戦闘員を利用することがあり、
政府もこれを認めています。
しかし、他の勢力との抗争が激しくなると
一般市民が戦闘に巻き込まれることも
充分に考えられます。

また、生活に困った家庭の子どもが
自警団にリクルートされ
武器を手にすることも考えられます。

武力が武力を抑えるという構造を
根本から変えない限り
子ども兵や武器輸入の問題は
コロンビアから消えないでしょう。
・・・
「私の大切なものは『真実』です。
真実を見誤ったり、真実から目をそらしたりすると、
善悪を判断する力が鈍くなります。」


コロンビアでは、 マスメディアが
政府や反政府組織を批判することは一応、可能です。
しかし、 武装組織が
取材中の報道機関を妨害したり
世論に影響力を持つ高名なジャーナリストを
脅迫したり、 拘束したりすることが
コロンビアでは起こっています。

コロンビアで報道行為を脅かされた
ジャーナリストは、2009年には
200人以上を数えました。
武装組織に対して批判的な意見を言うことは
コロンビアでは勇気のいることなのです。

しかしだからこそ、
コロンビアのジャーナリストは
使命感に燃えるのです。
彼らは武器を用いずに、
人間に潜む悪に立ち向かっているのです。

果敢な挑戦者の一人に
エルビン・オジョスがいます。
彼は1990 年代から、
誘拐被害者が家族の存在を励みにできるように、
家族の声を放送するラジオ番組を製作してきました。
この番組は、 選挙活動中に誘拐された
大統領候補の解放にも貢献し、
誘拐が横行しているコロンビアの現状に
世界を注目させました。

数々の成果を上げたオジョスですが、
自身にも生命の危機が迫ってきたため、
彼は2009 年に亡命しました。
彼のようなジャーナリストが今も
約500 局のラジオ局と61 紙の新聞を以て
コロンビアの自由のために戦っているのです。

コロンビアで今も戦っている『武器なき兵士』
たちのために、
外国にいる私たちができることは、
勇気あるジャーナリストが
発する情報を見逃さないことではないでしょうか。
・・・
「私の大切なものは『国土』です。
なぜなら、鉱物や化石燃料をたくさん
産み出してくれるからです。
鉱物や化石燃料を必要とする人が
世界中にいるので
産出国の私たちの生活が潤います。」


コロンビアは、
金、エメラルドなどの鉱物や
石炭、石油などのエネルギー資源に
恵まれています。
なかでも、エメラルドの産出量は世界最大で
産出シェアは世界で60%を占めます。

伝説によると、エメラルドは
『不貞の罰で岩に変えられた女王フナの流した涙』
であると言われています。
伝説では、女王フナを誘惑したのは
金髪で青い目の男と伝えられており、
16世紀のスペイン植民地化や
石油利権を狙うアメリカ企業の進出を
想起させます。

また、エメラルドの採掘権をめぐる争いが
武装組織、警察、政治家を巻き込んだ抗争に
発展しており、国内の治安を悪化させています。
外国に住む私たちも、
コロンビアの資源を消費する限り、
コロンビアの治安に対して
責任を負わなければならないのです。

・・・
「私の大切なものは『エネルギー』です。
自然が与えてくれるエネルギーがなければ、
動物も植物も人間も、
生きていくことは出来ません。」


コロンビアでは、
水力発電への依存度が高いため、
気候の影響を受け易く、
電力供給が安定していません。

そこで現在、採掘が進んでいる
石炭やガスによる火力発電への
移行が進められています。
しかし、いずれの発電方法でも
武装組織による送電システムからの
『盗電』などの問題が解決されなければ、
コロンビアの電気事情は良くならないでしょう。

石炭は重要な輸出資源です。
コロンビア政府は最近、
石炭の対アジア(特に対中国)輸出
に力を入れているようです。
ただし、コロンビア政府は経済発展にばかり
気をとられているようにも見えます。

コロンビアは2010年にノーベル賞を受賞した
劉暁波の授賞式典に欠席した国の一つです。
劉暁波は、中国政府が国の民主化運動を
弾圧していることに対して
反発する活動をしています。
つまり、コロンビア政府は
民主化を弾圧している中国政府の
肩を持ったことになります。

おそらくコロンビア政府は
ひとりの民主化運動の活動家の業績よりも
対中貿易の利益を重く見たのでしょう。
コロンビア政府には、
自国の経済発展のみにとらわれず、
世界中の人が自由で快適に暮らせるように
いっそうの努力を求めたいとおもいます。

・・・
・・・
「僕の大切なものは『女性』です。
その美しさは、神様の創造物の中でも
最高傑作のひとつだと思います。」


コロンビアは、 国際的なミス・コンテストで
毎年、 多数の受賞者を輩出しています。

コロンビアに美女が生まれやすいのは、
人種の多様性に富むからだとも言われています。
また、コロンビアの女の子は、
専門のカルチャースクールに通って
美しい姿勢や歩き方を熱心に勉強します。
ミス・コンテストを開催する小学校も
多いようです。

このように、 美意識を養う環境が整っているので、
美少女として生まれた女児は
年齢と経験を重ねて、
さらなる変貌を遂げるのです。
そして、美の秘訣は
母親から娘へ、そして孫娘へ
受け継がれているのです。

「私の大切なものは、
この国の美しいもの全てです。」


美意識の高さに伴って
コロンビアの医療は、
美容メディカルの技術が発展しています。
比較的低価格で高水準の美容整形を受けられるので、
アメリカやスペインからも多くの女性が
美を求めてコロンビアに訪れます。
美しさへの執念は、
医療技術の向上や人の流れをもたらしてくれます。
しかし、コロンビアでは
美しさゆえに犯罪に加担してしまうことがあります。

2010 年には、麻薬密輸組織の主犯格として
コロンビア国籍の女性モデルが
国際指名手配され、
アルゼンチンで逮捕されました。
例えば、コロンビア特産品のPRのために
ミス・コンテストのクイーンが
頻繁に外国とコロンビアを行き来するのは
珍しくありませんが、
麻薬密輸組織はそこに目をつけたのです。

このニュースによって
女性モデルがその立場を利用して、
麻薬や武器の運び屋を
引き受けることがあるということを
外国にいる私たちも知ることとなりました。

麻薬や武器の流通は、
コロンビアだけの問題ではありません。
なぜなら、世界中の健康や安全に
関わる問題だからです。
外国にいる私たちは
コロンビアの女性に内面の美しさを
求めていく必要があるでしょう。

……
「私の大切なものは『音楽』です。
音楽は、コカインと違って、
興奮と安らぎを健康的に享受させてくれます。」


世界で活躍するロックミュージシャン、 フアネス
(本名:フアン・エステバン・アリスティサバル・バスケス)
はNGO フンダシオン・ミ・サングレを設立し、
対人地雷被害者の支援を行なっています。

彼は、 日本政府が設立した地雷被害者向け
リハビリテーションセンターの落成式に
政府関係者と共に出席しました。
シンガーのシャキーラ
(本名:シャキーラ・イザベル・メバラク・リポル)
はNGO フンダシオン・ピエス・デスカルソスを立ち上げ、
国内避難民の支援や教育支援を行なっています。

音楽はそれ自体素晴らしいものですが、
コロンビアでは音楽が
身体の安全や健康を促すための
源になっているのです。

・・・
「私の大切なものは『誠実であること』です。
誠実でなければ、人は信用されないからです。」


コロンビアから
麻薬産業や武装勢力を
一掃できない原因の一つに、
政府にも彼らの力が及んでいることがあげられます。

私が想像するに、悪徳な政治家は、
麻薬組織などから受け取る賄賂で、
私腹を肥やすと同時に
麻薬の運搬に便利なインフラの建設を
推し進めてきたのだと考えられます。

そのような取り引きに加担しない
誠実な政治家がいたとしても、
悪い組織が放っておかなかったと
私は思います。
おそらく誘拐して説得するか
あるいは殺すことで
誠実な有力者を黙らせてきたと
想像できます。
コロンビアは、現在でも
「誘拐件数世界第一位」
という汚名で世界に知られているからです。

21世紀以降、コロンビアで
政治的理由により「失踪」した人は
推定でも1500人以上にのぼります。
また、麻薬産業や武装勢力の
悪行が法廷に届いたとしても、
判事が報復を恐れて
訴訟を却下していると言われています。

麻薬と暴力の問題は、
現在でも政・官・財の世界に
深く根をはっているのです。
・・・
・・・
まだ幼い少女は、答えました。
「私の大切なものは『家族』です。」


少女の父は言いました。
「私たちは、まず家族を作り、
何組かの家族がコミュニティーを形成し、
その集合が都市となり、国となり、
世界を構成しています。」

20世紀末まで約40年続いた
政府軍、
極右系民兵組織、
反政府組織、
そして麻薬組織などによる
武力抗争は、コロンビアに多数の
国内避難民を生みました。
かつて、家族と離れ離れになった人たちが
21世紀に入ってようやく
安住の地を手に入れようとしています。

20世紀末には350万人とも言われた
国内避難民が、昨今では
徐々に元の土地に戻れたり、
あるいは
新たな生活拠点を見つけたりしているようです。

コロンビアの国民が一刻も早く、
武力に怯えることなく
家族と暮らせるよう、
私たちも外国から
働きかけていきたいものです。

・・・
「私の大切なものは『道徳』です。
最低限の道徳さえ守っていれば
争いがなくなり、
生活がもっと安全で快適になります。」


コロンビア国民のほとんどは現在でも
カトリック信者だと言われています。
しかし現在のコロンビアは、
道徳や倫理を国民が共有しているとは
言いがたい状況です。

長期にわたる内戦が終わり
治安が安定してきても
一度失われた道徳を元通りにすることは
難しいようです。
更なる発展をめざすコロンビアにとって
道徳の欠如を埋める、時代に見合った
新たな倫理の構築が急務ではないかと、
私は思います。

・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2005年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
小野 明日美
編集日:
2012年3月13日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 21:43| 日記
2012年02月19日
ペルー Peru
アンデスの山々、フォルクロ−レの音楽、
鮮やかな民族衣装をまとった先住民の人々、
神秘的な古代遺跡、アマゾンの秘境...

ペルーとは、先住民族のケチュア族の言葉で「豊かな土地」を意味します。
コロンビア、エクアドル、ブラジル、ボリビア、
チリと国境を接し、太平洋に面しています。

雨のほとんど降らない沿岸部の乾燥した砂漠や、
6,000m級の山が連なるアンデス高地
(南アメリカ大陸の西岸から北岸に連なる大山脈)、
アマゾンの密林地帯など、多彩な自然に恵まれています。
アマゾンといえばブラジルを思い浮かべるひとも多いですが、
ペルーの国土の約60%がアマゾンの熱帯雨林地域なのです。
あの流域面積世界一を誇るアマゾン河は、
ペルーのアンデスを源流としてブラジルへと注いでいるのです。
かつて南米最大の帝国を築いたインカ帝国をはじめ、
紀元前から栄えてきた数々の古代文明、
謎の空中都市と言われるマチュピチュ、
大地に刻まれたナスカの地上絵など
多くの謎に包まれた遺跡がいくつも残されています。
国土は日本の約3.4倍で、2980万人が住んでいます。首都はリマ。
公用語は主にスペイン語で、他にケチュア語やアイマラ語があります。
国民の95%以上はカトリック教徒です。

ペルー人は、大きく分けて、
先住民(47%)、先住民と移民の混血(40%)、
欧州系移民(12%)、東洋系移民(1%)、
といわれています。
先住民は、
シベリアを経由して渡ってきたと言われる
褐色の肌と蒙古斑を持つ人々です。
今でも先住民の多くは、
アンデスの高地の山間の村々で伝統的で穏やかな暮らしをしています。
この先住民が栽培し、今では世界中に広まったのが、『ジャガイモ』です。
3,000種くらいあり、料理によってジャガイモを使い分けています。

また、ペルーは日本が中南米で最初に国交を結んだ国であり、
南米で最初の日本人移民先でもあります。
現在、ペルーに暮らす日系人はおよそ9万人。
世界でもブラジル、
米国に次ぐ第3位の規模の日系人社会が形成されています。
2009年は日本人がペルーに移住してから110年に当たる記念の年でした。
・・・
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「平和です。」


(pazとは、スペイン語で『平和』のことです。)
今から3000年前、北部アンデスの山岳地域で文明が発生し、
その後ナスカなどの各地にそれぞれの文化が栄えました。
11世紀末、中部アンデス地域にインカ族が現れ新たな文化を作り出します。
当初は1部族に過ぎなかったのですが、
15世紀末頃には、南北に4000kmにわたる大帝国を作り、
首都クスコを中心に栄華を極めます。
その帝国の範囲は現在の
コロンビア、エクアドル、アルゼンチン、ボリビア、チリに至ります。
インカ帝国はいくつかの点で古代エジプトの王国に似ており、
クスコを中心にして1200万人を越える人間が
自活できるシステムが整えられていました。
・・・
・・・
インカ帝国の発見

15世紀の中頃,インカ帝国から遠く離れたヨーロッパでは、
まだ見ぬ国を探す大航海時代が始まっていました。
1521年にアステカ帝国(メキシコ中央部)を
征服したスペイン人がさらなる楽園を探す中、
フランシスコ・ピサロはアンデスの彼方に、
『黄金の都』があるという噂を聞きつけます。
1526年、ピサロは探検に挑戦し、
インカ帝国の北部の町に辿り着きます。
そしてこの町の繁栄ぶりを見て、
アステカ王国にも劣らない巨大な文明が
アンデスの地に存在することを確信するのです。
・・・
・・・
征服の世紀

この頃、インカ帝国では
2人の兄弟が皇帝の座をめぐって争っていました。
1532年、200人足らずの部下を率いて
再度アンデスを訪れたピサロは、
そんな隙を狙ってインカ帝国を一気に攻めます。
大砲や銃で攻撃するスペイン人に対し、
4000もの兵で固めた先住民の武器は石槍やこん棒。
武器で勝るスペイン人は、
人口20万人の大都市クスコを落城させてしまいました。
ピサロは海岸部に新たな首都リマを建設し、
スペイン人による植民地時代が始まります。
・・・
・・・
銀ブームの到来

ペルーのポトシという山で、1545年に銀が発見されます。
先住民は出稼ぎ労働を強いられ、
アフリカから黒人奴隷も送り込まれました。
17世紀初め、ポトシの人口は16万人にも膨れ上がり、
新大陸で最も大きい都市に成長します。
ここで産出された銀は、
世界全体の産出量の半分に達するほどといわれています。
しかしこうした銀のほとんどはスペイン本国に送られ、
新大陸に残るのはごく一部でした。
・・・
・・・
人種差別社会の発達

様々な人種が暮らし、混血の進んだアンデスでは、
やがて人種差別が生まれます。
最も高い身分は、
スペイン本国で生まれたスペイン人(ペニンスラール)、
二番目が新大陸で生まれたスペイン人(クリオーリョ)、
次が白人とインディオの混血児(メスティソ)、
さらに黒人、先住民(インディオ)と続きました。
リマなどの都市部はヨーロッパのような町並みとなり、
位の高い役人や聖職者はペニンスラールが占めました。
一方、先住民はスペイン人の定めた区域に住み、
ワインを飲むことやスペイン人の服を着ることは禁じられ、
メスティーソも
特定の地位や職業に就くことは許されていませんでした。
・・・
・・・
反乱の世紀

「反乱の世紀」と呼ばれる18世紀は、
クリオーリョ、メスティソ、インディオなどが、
(侵略してきた)スペイン人に対して次々と反乱を起こしました。
なかでも大規模だったのが、
『トゥパク・アマル』の反乱です。
トゥパク・アマルとは、
インカ帝国の最期の皇帝の名前で、
「輝ける龍」という意味です。
インカ帝国を蘇らせることを目指したこの反乱は、
ペルーを中心に広がりますが、
1年ほどで、あえなく鎮圧されてしまいます。
ですが、同じ頃、アンデス北部の各地で反乱が勃発します。
各地のこうした抵抗運動は、独立への気運を高めていくのです。
・・・
・・・
そして独立
独立運動は19世紀に入って間もなく、
北部(現ベネズエラの首都カラカス)や
南部(現チリの首都サンチアゴ)で始まります。
南部では、ホセ・デ・サンマルティンが1818年にチリの解放に成功します。
彼はさらに北上して1821年にリマに入城し、ペルーの独立を宣言します。
数々の激戦をくぐり抜けた独立解放軍は、
約300年にわたるスペインの支配からついに自分たちの国を取り戻すことに成功したのです。
しかし、独立後も平穏な日々は、すぐには訪れませんでした。
度重なるクーデター、国境争い、ハイパーインフレ...

独立後ペルーは、
ボリビアやエクアドルなどを併合しようとして
周辺国の怒りを買い、
1836年逆にボリビアに統合されてしまいます。
1839年に再び独立したペルーは、
産業やインフラの整備に力を入れ、移民政策に乗り出します。
これにより19世紀末には日本人移民も到着します。

硝石(火薬の原料)の鉱山の利権を巡った戦争で、
ペルーは、チリに敗北してしまいました。
このため国力が衰え、米英による経済支配が進んでいきます。
そんな中、1962年に軍事クーデターが起こり、
その後も度重なるクーデターで不安定な情勢が続いていきます。
1970年代から80年代は経済危機と治安の悪化に悩まされますが、
90年代に入り、
南米初の日系人大統領となったフジモリにより、
それらの問題は、一部改善されました。
しかし、徐々にフジモリ政権は独裁的になり、
その腐敗した政治体制が明るみに出て、失脚します。
その後、経済政策は成果が出ず、国民の支持は低下し、
テロ活動も復活し、治安は悪化していきます。

・・・
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「団結と正義です。」


(絵の下に書かれているSIN LA DISCIMINACION とは英語で WITHOUT DISCRIMMINATIONで、
"差別をなくそう"という意味です。)
80年代と90年代前半のペルー経済 は、最悪 の時でした。
インフレは途方もなく、1990年は、
(日常生活品の物価の上昇率が)年率約8000%にも達しました。
人々は、生活することができず、ペルー政府に絶望しました。
テロリストグループは、こうした人々の心につけこみ、
反政府活動を開始したのです。

この活動の基本は、元々は、
(軍事的なものではなく)純粋に政治的なもので、
ペルー共産党から始まった流れだったのですが、
後に「センデロルミノソ(輝ける道)」と呼ばれる武装グループに
なっていってしまいます。
そのリーダーのアビマエル・グスマンは、
中央アンデスの貧しい地域のアマン国立大学で、
教授をしていたほどの人でした。
その人は、新しい国の制度として、
マルクス、レーニン、毛沢東などの思想を基本にしようとしました。
もう一方のグループは、ヴィクトール・ポライをリーダーとする
「トゥパクアマル革命運動(MRTA)」です。
このグループは、お金や金持ちの財産を取って、
それを貧しい人々に与えるという、
「義賊的」な考え方を持っていました。

80年代半ば、センデロルミノソはアンデス山脈の小さな町で、
攻撃的な組織を設立し、暴力的な活動を開始しました。
そしてそれは、中央アンデス全体から首都へ広がっていきます。
それに対し政府は、こうした地域に軍隊を派遣し、
内戦が勃発します。
この紛争での犠牲者のほとんどは、無関係な一般住民でした。
この結果、アンデス山脈の人々が、
沿岸地域の大都市へ移住することとなりました。
ところが、
リマや主要沿岸都市でも、テロリストグループが活動を続け、
町を爆撃し、電線を破壊し、
政府の代表者や警官を殺したり誘拐したりしました。


そして、最後の大規模なテロ活動は、
「トゥパクアマル革命運動(MRTA)」によって引き起こされた、
1997年の日本大使公邸事件です。
1996年12月に14名のMRTAの構成員14人によって、
日本大使公邸が襲撃され、 621名が人質とされ、
獄中の仲間全員の釈放や革命税(身代金)の支払い、
フジモリ政権による経済政策の全面的転換などを要求しました。
四か月後の1997年4月に、
ペルー軍特殊部隊が、突入し、犯人たちを全員射殺し、
人質を開放しました。
この事件によってペルー国内だけでなく
世界各国からの非難を受けたMRTAは、
その主要メンバーの多くを失っただけでなく、
国内外からの支援も途絶えたために
事実上の活動停止状態に追い込まれました。
2007年4月、
服役中の指導者ビクトル・ポライは、敗北を認め、
武力闘争を放棄したのです。

ペルーで、武装グループに子どもが巻き込まれているという
数多くの報告を受け、
2009年6月、ユニセフ・ペルー事務所は、
子どもと若者を武力行為に関与させることを非難する声明を出しました。
国連の加盟国の大多数が賛同した「子どもの権利条約」では、
「子どもおよび青少年を武装集団に参加させたりすること」
を禁じています。

同様にILO第182条は、
18歳未満の子どもを強制的、義務的に雇用することを禁じ、
それが児童労働の最悪の形態であると定義しています。
センデロルミノソによって、
子どもと青少年がたびたび利用される問題は、
子ども権利条約への紛れもない違反です。
子どもたちは家族との普通の生活を送る権利を奪われ、
『大人の兵士のための盾』として、
あるいは料理人、荷物の運搬人、メッセンジャーなどとして利用されているのです。
・・・
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「路上での仕事です。」


(Trabajoとは、スペイン語で、『仕事』のことです。)
ペルー社会では、
(農村部からリマ首都圏への人口集中に伴う)
都市化と貧困問題が、重要な課題になっています。
これは、テロや一般犯罪の一因ともなっています。
貧困層の発生は、元はと言えば、
植民地時代からの階級支配制度に根付いた、
上流階級へ富が集中する社会構造によるものです。
このため、大きな所得格差が生じています。
アンデス山岳地帯の「耕作限界地域」
(農業ができるかどうかのギリギリの土地)
に極貧の農民が多く、
ペルーの最も貧困な10%の人口のうち、約60%は、
「シエラ」(スペイン語で「山」の意味)と呼ばれる山岳地帯の農村部に集中しています。

1970年代に入ってから、農村部の貧困問題が深刻化し、
農業失業者が首都リマなどの大都市へ職を求めて移住した結果、
都市部の移住者の人口が急激に増えました。
しかし都市には移住者を吸収するほどの働き口は無く、
農村地域からの移住者は(盗みなどの)非合法生活を余儀なくされ、
都市部のスラム(無法地帯)は拡大していきました。

最低生活すらできない貧困層は、
フジモリ大統領の政策で、一時、減少しましたが、
依然として貧困層の割合は高いままです。
そのうち、約20%は、
1日に必要なカロリーを摂取できないほどです。

地域的には、都市部では貧困層が約40.0%であるのに対し、
山岳地帯農村部では
約64.7%と地域間格差が大きいことが問題になっています。

非営利団体「ミンカ」は
ペルー全土で社会的・経済的に立場の弱い先住民や
都市の貧困地域に暮らす人びとが
手工芸品作りで収入を得られるよう支援しています。
標高3,800 メートルのアンデスで生活する
先住民族ケチュアの人びとにとって、
アルパカ・ニット製品作りは貴重な現金収入源です。
(アルパカとは南米大陸原産のラクダ科の家畜です。
海抜約3500〜5000mで放牧されています。)
しかし、通常、仲買人によって買い叩かれ、
作り手の手元にはわずかな金額しか入りませんでした。
そんなケチュアの人びとを救おうと、
1976年にミンカが設立されました。

製品の品質向上につとめ、
海外のフェアトレード団体に販売することで、
生産者が適正な利益を得られるようにしています。
アルパカの飼育から編みの工程まで、
化学飼料や機械は一切使われていません。
自然の草を食べて育ったアルパカの毛を刈って、
手紡(つむ)ぎで糸にし、手編みにしたセーターやニット小物は、
自然の力と人の手が生み出すパワーに満ちているようです。
アルパカ製品の生産に携わる約2,000人を含む、
ペルー全土の約7,000人の手工芸職人が、
ミンカの運営する技術研修や教育プログラム、
農業技術の改善プログラムに参加しています。

アルパカにはブラウンやグレイ、
黒などさまざまな毛色の種類がいますが、
今、色つきのアルパカは絶滅の危機に瀕しています。
大手メーカーが染色の容易な白い毛ばかりを買い求めるため、
商品価値の低くなった色つきアルパカは、
肉として売られるほかなくなってしまったのです。
そこで日本のフェアトレード・カンパニー
”ピープル・ツリー”は、
アルパカの自然な毛色を活かした製品をデザインすることで、
色つきアルパカの命を救おうとしています。
ピープル・ツリーの製品によって、
毎年約1,000頭の色つきアルパカが殺されずにすんでいます。
こうした製品が購入されることにより、
アルパカの命と、職人たちの暮らしを守ることにつながるのです。

・・・
・・・
ペルーは、ラテンアメリカにおける医療レベルが
最低の国の一つであるといわれています。
2002年にペルー厚生省が発表した報告書によると、
人口の25%、650万人が、
初期治療(基本的な医療)さえ受けることができていない、
となっています。
そして、
乳幼児死亡率並びに5歳未満の死亡率が高いほか
(1000人当たりそれぞれ40人、52人:97年)、
妊産婦の死亡率も高い(10万人当たり280人:90−97年平均)です。
これらを改善するため、
栄養摂取不足や基本的な母子保健サービスが受けられない地域における、
コミュニティレベルの母子保健活動が重要となっています。

そこで、NPO法人・AMDA(アジア医師連絡協議会)は、
味の素「食と健康」国際協力支援プログラムの支援を受け、
首都リマ市の貧困地域で、
栄養・母子保健に関する地域住民の、
エンパワーメント(能力発揮)を目指した支援活動を展開しています。
具体的には、同地区の保健所やNGOとの協力の下、
栄養と母子保健に焦点を当てた保健プロモーター(推進者)の育成や、
地域の出産前後の女性への保健教育などを行っています。
・・・
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「学校です。」


また、6歳から16歳までが義務教育期間ですが、
ペルーの公教育は余り普及しているとはいえません。
ペルー の識字率 85.5%(男性91%、女性80%)
日本の識字率 99.8%(男性99.9%、女性99.7%)

ペルーでは所得格差だけでなく、教育格差はそれ以上に大きいといわれています。
(なお、男女間の格差もあります。)
就学率という意味ではそこそこの数字ですが、問題は教育の質の問題です。
学校に行っても十分な授業が行われておらず、遊び時間が半分を占めるとか、教師の数・質・やる気とも問題があるとの指摘もあります。
開発の基礎である教育分野への政府の積極的な役割が期待されています。
・・・
・・・
ペルーは米国を中心に多くの移民労働者を送り出しており、
200万人にも上るといわれています。
こうした移民労働者が本国に送金する金額は、
IDB(米州開発銀行)の調査では、
2005年は25億ドルにも上り、
10人の成人ペルー人のうち1人は外国からの送金を受けている計算になります。

2004年の対ペルー直接投資が約130億ドルであることを踏まえれば、
(25億ドルという金額は)あながち無視することのできない規模です。
ペルーの開発にとって重要な資金源といえます。
こうした移民送金の重要性はペルーのみならず、
米州(南北アメリカ)諸国全体で認識されていることです。
移民送金が手数料によって目減りする事を少しでも防ぐために、
米州サミットでも2015年までに移民送金手数料を半減することを目標に
取り組みが行われています。

旧東京銀行の銀行マンだった枋迫篤昌(とちさこ あつまさ)は
2003年6月にワシントンDCで、
マイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーション(MFIC)を設立しました。
主要顧客は米国で働くラテンアメリカ系移民をはじめとする低所得者層で、
アメリカでは5000万人の中南米移民が母国に年6兆円もの送金をしています。
彼らの多くは銀行口座を持たず、専門業者を使いますが、
小切手の換金や送金などで家族の手に届くまでに、
元金の『3割』が消えます。
そこでMFICは、手数料を業界平均の半分以下にしました。
また、送金直後に現地でお金を受け取れるようにしました。
これを可能にしたのは、
インターネットを使った、
この会社独自の送金・決済システムだそうです。
送金網は近く100カ国をカバーするそうです。

さらに最近は、
故郷での起業や、住宅建設のための費用を貸してあげる、
「国境越えローン」も始めています。
マイクロファイナンス(小規模金融)を、うまく活用することで、
ラテンアメリカで個人起業家を育成し、
現地の経済を発展させることができるのです。
・・・
・・・
日本とペルーの間では、環境・気候変動分野において
「クールアース・パートナーシップ」に基づき
相互協力を一層進めていくことになっています。
2007年に日本の阿部首相が提言した地球温暖化対策です。
具体的には、途上国の火力発電所を効率よくし、
CO2の排出を削減することなどです。

日本は、ペルーに対し
平成21年度 太陽光を活用したクリーンエネルギー導入計画のため、
4億円を提供しました。
日本は、ペルーの首都リマにある下水処理施設内などに
太陽光発電装置を設置しました。
それにより、ペルー国内における火力発電用の化石燃料の消費量を低減し、
二酸化炭素の排出量を削減しようと試みたのです。
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「自然とともに生きることです。」


近年、もっとも顕著に増加しているのは、
鉱山会社と地域住民の間に生じる、
環境悪化や企業による利潤の社会還元をめぐる紛争です。
ペルー北部鉱山地帯にあるコンガ鉱山は、
世界2位の産金会社米ニューモント・マイニングが保有し、
開発にはペルー国内で過去最大となる
48億ドル(約3700億円)の資金が投じられ、
国や地元周辺産業への大きな経済効果が見込まれています。

一方、地元住民や環境団体は、
鉱山開発による水質汚染など、
環境に与える被害が大きいことなどを理由に、
開発の中止を求めた抗議デモを展開しました。
このデモ隊の一部が暴徒化し、
ウマラ大統領は60日間の非常事態宣言をし、
軍隊を投入し治安の維持を行いました。
鉱業の発展と、その輸出による経済効果は期待できますが、
一方、環境汚染への懸念と、
それに反対する住民運動が課題となるでしょう。
・・・
・・・

ペルーの森林面積は世界で9番目の規模です。
しかし,違法森林伐採や、自然火災等のため、
過去40年間の間に850万ヘクタールの森林が消失しています。
ペルー政府は,各国からの援助を受けたことにより,
2020年までにアマゾン地域の森林面積の減少をゼロにすることを表明しています。
そこで日本政府は、2010年度に、
森林保全のため、9億円の援助をしました。
・・・
・・・
あなたの大切なものは何ですか。
「農業です。」


NPO法人 arcoirisは、
アグロフォレストリーという技術を用いて環境問題に取り組んでいます。
アグロフォレストリーとは、農地に樹木を植栽し、
木と木の間で農作物を栽培する、農業と林業を組み合わせた技術です。
農地に樹木を植えることにより、
フルーツやナッツ等の農産品や、材木などの林産品に加え、
森(樹木)が担う様々な生態系サービスの活用が可能となります。
アグロフォレストリーの技術開発が進めば、
経済活動の結果、森林が破壊されるのではなく、
反対に森林の再生に貢献できる可能性があります。
このため、
アグロフォレストリーの技術を取り入れて作られた農作物などを、
私たちが買うことで、
アマゾンの熱帯雨林が減っていくことを防ぎ、
また逆に、森を増やしていくことに貢献できる
可能性がある、ということになります。

16世紀初めに侵入したスペイン人は、
産出される金と銀を基に植民地帝国を築き上げました。
現在でも、ペルーは鉱物資源が豊富で、
銀、銅、鉛、亜鉛の産出量で世界の上位を占めます。
石油も、昔から採掘されています。

ウマラ大統領は「資源ナショナリズム」的な政策を表明しました。
資源ナショナリズムとは、
国内の資源を、(民間の企業ではなく)
国家が直接管理することによって、
国内にある豊富な資源を
「外交カード」(他国との有利な取引)
に使おうという考え方です。
「エネルギーはペルーの財産であり、
国家が経営に参画し、その利益は国民に還元すべきだ」
と言って、原油や天然ガスの管理を国有化しました。
さらに天然ガスや銅、亜鉛などの
鉱山開発にかかわった外資系企業過去に対し、
過去にさかのぼって課税までしました。

また、大統領は、
採掘権料を徴収して歳入を増やし、
そのお金を、「貧困対策のために使う」と約束しました。

ウマラ大統領のこうした『急進左派』的な
(共産主義的・反資本主義的な)政策は、
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領や、
ボリビアのエボ・モラレス大統領などの、
南米の『反米左派』指導者の考え方に似ているとも言われています。

現在ペルーは、
確実な経済成長が見込まれる国として注目を集めています。
2002年以降は、内需の拡大と輸出向け鉱産物の価格上昇によって、
年平均5%以上の成長率を記録しています。
又、ブラジルを始めとする中南米の近隣諸国との関係を強化する一方、
諸外国との(関税を撤廃する)自由貿易協定(FTA)の締結を
積極的に進めています。
こうした流れの中で、
2009年2月には、最大の貿易相手国である米国との間にFTAが発効されました。
また、2008年には、
APEC(アジア太平洋経済協力、21ヶ国・地域)の議長国を務め、
国際社会の中で自信と発言力を増してきています。

このように、ペルーは現在、
(経済的には)『新興国』として成長しています。
一方で、(先住民などの)人種差別の問題や、
都市部と山間部の経済格差などがいまだ解決されていません。
さて、今後ペルーはどのように発展していくのでしょうか?
経済的な発展をしながら、
不平等や格差を、解消してゆくことは、できるのでそうか?
ペルーの子どもたちが描いた、「大切なもの」の絵を見ながら、
その子たちにとって、理想の未来は、どんな姿かを、
想像してみましょう。
また、そうした理想のペルーの姿にするために、
私たちにできることはないかを、いっしょに考えてみませんか?
あなた自身の「大切なもの」も、考えながら。

・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
澤田 輪香子
山本敏晴(2003年、2004年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
澤田 輪香子
山本敏晴
編集完了日:
2012年4月2日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 18:22| 日記
2012年02月12日
ブルキナファソ Burkina Faso

ブルキナファソは西アフリカに位置する内陸国です。
国名は、現地語のモレ語、ディウラ語を合わせて
「高潔な人々」を意味しています。
日本の約70%の面積の国土に、
東京都よりもやや多い約1500万人の人々が暮らしています。
「私の大切なものは自転車です。
自転車に乗って色々な所に遊びに行きます。」


ブルキナファソの歴史を辿ると、元々はモシ族の王国でしたが、
1896年に、『アフリカ分割』に伴いフランス領となりました。
アフリカ分割とは、ヨーロッパの列強による、
アフリカ諸国の支配権争奪と植民地化の過程のことです。
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて行われました。

ヨーロッパ人は、アフリカ諸国を植民地化することを正当化していました。
なぜなら、ヨーロッパ式の政治、文化、教育を押し付けることは、
未開拓な人々を文明化すると考えられていたためです。

その後、第二次世界大戦が終わると、
世界中の植民地にされていた国々が、
独立しようと運動を行いました。
そして、ブルキナファソは、
1960年に『オートボルタ共和国』として、
フランスから独立しました。
1960年は、アフリカのいくつかの国が独立したため、
『アフリカの年』と、呼ばれています。
その後、何度もクーデターが生じ、1983年にトーマス・サンカラが、
現在の大統領であるコンパオレ大尉の支援を受けて、
再びクーデターを起こして、政権に付きます。
サンカラは国民からの高い支持を受け、
『アフリカのチェ・ゲバラ』と、呼ばれています。

サンカラは33歳という若さで大統領になりました。
就任一年後には、植民地時代との区別を明らかにするために、
国名をブルキナファソに改名し、新しい国旗、国歌を取り入れました。
彼は、貧困からの脱出には社会的公平が必要と考えました。
そのために、前政権までの政治家や役人の腐敗の是正や、
開拓可能な土地を国有化して農民に再分配、
大規模な予防接種の実施などを行いました。
また、アフリカ諸国の中で初めて、
アフリカが最大のHIV/AIDS蔓延地域であることを公式に認めました。

さらに、特に女性の地位の向上に取り組み、
西アフリカでは、初となる女性器切除(FGM)や
一夫多妻制を禁止しました。
政府の中枢に女性を起用したことでも知られています。
サンカラが作った、国の結束を重んじる文化は
現在でもブルキナファソの政治経済の特徴となっています。
・・・・
「私の大切なものは、お店です。」


ブルキナファソは世界でも貧困が著しい国です。
国連開発計画(UNDP)が発表する、
2010年度の人間開発指数では、統計が可能な169国のうち、161位です。
人間開発指数とは、人々の生活の質や、開発の度合いを示す指標です。
理由の一つは、ブルキナファソでは、
周辺諸国のように経済を潤す石油資源の輸出が出来ないことです。
マンガンや、金などの資源の存在は確認されていますが、
開発されていなく、輸出が出来ずにいます。
輸出をするために港まで運ぶ鉄道が未整備であり、
輸送費がネックとなっているためです。
この状況に対して、経済産業省は、(株)三井物産、
(株)オリエンタルコンサルタンツと、共に、
ブルキナファソの既存の鉄道を、
北にあるマンガン鉱山まで延長する計画を立てています。
また、内陸国であり周辺諸国の影響を受け易いことも理由の一つです。
ブルキナファソは、南に位置するコートジボワールの港を経由して、
生活必需品を輸入をしてきました。
しかし、2010年にコートジボワールで生じた政治対立により、
物流が円滑に行われなくなりました。

そのため、物価が急上昇し、
都市に住む人たちの生活が困窮しました。
2011年4月に、物価高騰に講義する大規模デモが起きて、
大統領警護隊と衝突し、
コンパオレ大統領は安全のために首都を脱出しました。
また、コートジボワールのカカオやコーヒー園で働く人が多いため、
コートジボワールの経済の不安定は、
直接にブルキナファソの人々の生活に影響します。
・・・
様々な問題に直面する中、ブルキナファソは、
「自分の国の貧困の問題を、自ら解決するための戦略」
を作りました。
これを、「貧困削減戦略文書」といいます。

最近、国際協力の世界では、これに代表されるように、
先進国が途上国を援助してあげるのではなく、
途上国が、どのように自分の国を良くしていくかという方法を、
自ら考えていくべきだ、という方針が、主流になってきています。

こうして途上国の側で作られた、
「貧困から脱出するための戦略」に、
先進国たちも、国連などの国際機関も、民間の人々も、
みんなが協力していく流れに、
国際協力の世界はなってきています。
・・・
「私の大切なものは、学校です。
英語を勉強して貧しい子どもに英語を教えたいです。


ブルキナファソの教育事情は、世界で最悪の部類に入るため、
政府の最重要課題となっています。
国連人口基金(UNICEF)によると、15歳以上の女性のうち
約80%が文字の読み書きができません。

初等教育への就学率は改善されつつありますが、
増え続ける生徒に対し、教室や教員、教材が不足し、
学校での学習環境は厳しさが続いています。

この状況に対し、UNICEFは1995年より、
サテライト小学校の建設、運営を支援しています。
サテライト小学校とは、教育の機会を奪われがちな農村部の子どもたちが
通い易いよう、村の近くに建てられた小学校です。
ブルキナファソでは、正規の学校として認められています。

サテライト小学校の生徒は、
従来の学校の生徒よりも成績が良いことが分かっています。
また、途中退学者が少なく、
90%以上の生徒が、翌年も在籍し続けています。
サテライト小学校の運営がうまくいく理由の一つに、
両親が学校の運営に関わっていることが挙がります。
日々の学校活動の運営に両親が関わることで、
教育の大切さへの理解が進み、子どもを通学させ続け易くなります。

・・・
「私は畑仕事が好きです。
家族みんなが食べるために作物を育てることは大切です。」


ブルキナファソの主な産業は農業です。
労働人口の90%が農業に携さわり、
国内総生産(GDP)の35%を農業が占めています。
主な輸出品である、綿花、シアバターの需要が飛躍的に伸びています。
シアバターとは、シアの木から作られます。
石鹸や、保湿クリームに配合され、
先進国では、高級化粧品として販売されています。

綿花生産量はアフリカ諸国の中で第1位となっています。
アメリカ合衆国の女性下着メーカーのビクトリアズ・シークレットは、
ブルキナファソで有機栽培されて、
フェアトレード認証を受けた綿花を、大量に買い付けています。
2007年度は生産高の約60%の量を発注し、
ブルキナファソの綿花市場に貢献しています。
しかし、アメリカ合衆国の通信社ブルームバーグは、
この綿花の栽培には児童労働が関与していると報じました。

このため、
ビクトリアズ・シークレットがブルキナファソで行っている
綿花産業の振興が、良いことかどうかが、議論になっています。
ちなみに、「フェアトレード」とは、一般に、
発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じて、
立場の弱い労働者の生活を支援する取り組みのことを言います。
しかし、現地の通常の人の給料よりも、
高額の月給をもらえることがあるため、
子どもたちも、労働のために駆り出され、
学校にいく時間がなくなり、教育の機会が奪われる、
という皮肉な結果になることがあります。
・・・
株式会社 ア・ダンセは、石鹸を中心としたシアバターの
製品の企画、技術支援、販売を行っています。
現地で、石鹸製造女性研修センターを運営し、
現地の利益を出来るだけ生むために、
仕上げ以外の工程は、出来るだけ現地で行っています。

HIV(エイズを発症させるウィルス)に感染した女性を雇用し、
女性の経済状況を改善することに貢献しています。
また、女性に、清潔・衛生の概念を教えています。
日常生活でも気を付けるよう指導して、
女性とその家族の衛生状態の改善に貢献しています。
・・・
「私の大切なものは、家の近くに立つ木です。」


人口の約90%が農業に携わるブルキナファソにとって、
森林の減少は深刻な問題です。
ブルキナファソはサハラ砂漠の南に位置します、
サヘル(サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域)に属し、
地球温暖化による気候変動により、
降雨量が激減し、砂漠化が深刻化しています。

砂漠化が進行したため、川が干上がり、
安全な水を得ることが難しくなりました。

また、ブルキナファソに限らず、発展途上国の人々は、
木を切って薪を作り、料理を作る時などの、エネルギー源にしています。
実は、砂漠化は、地球温暖化よりも、現地住民による森林の伐採が原因で、
進行していると言われています。
それに加えて、ブルキナファソは国内に発電所が無く、、
隣国から電力供給を受けているため、世界で最も電気料金の高い国の一つです。
そのため、田舎に電荷が普及せず、人々はさらに木を切り倒しています。

さらに、ブルキナファソの人口増加率は世界第6位です。
この国では、人口が、どんどん増えています。

例えば、
ブルキナファソの女性が一生に生む子どもの人数の平均値は、
5.8人です。
(ちなみに、日本の女性の場合は、1.4人程度です。)

砂漠化の進行で農業が行えないことと、
急激な人口増加のため、
人々の食べるものが不足するようになりました。

この状況に対して、JICAは非政府組織『緑のサヘル』と共に
「ブルキナファソの砂漠化防止の防波堤」と呼ばれる活動を、
中央北部州に位置するバム湖周辺行っています。
一つ目は、農地の土が雨によって流れることを防ぐ防波堤の作成です。
干ばつにより森林が減少して土地の保水機能が弱まり、
雨が降ると農地の土は流れてしまいます。
作物が育ちにくくなるため、住民はその土地を破棄して、
新たな農地を求め森林伐採を行い開墾します。
この悪循環を防ぐために、『石堤(せきてい)』(石積みの堤防)で防波堤を作り、
土が流れてしまうことを防止しています。

次に、石堤の周辺にイネ科の植物の種を蒔きます。
植物が成長すると、石堤の代用となるため、
最初に使用した石を別の場所で再利用することが出来ます。
また、農地の生産力を高めるために、降雨量が少なくても、
効率よく雨水を溜めることができる耕作技術を指導しています。
・・・
アフリカの病院は、医師や看護師などの人材や、
薬品や器材などの物品、また予算自体がしばしば不足しています。
ブルキナファソでも、登録医師数は約700人です。
これは、約2千人の住民に対して医師が1人となる人数です。
この状況に対して、国際協力機構(JICA)は南南協力を支援し、
「きれいな病院プログラム」を、進めています。
ブルキナファソでは、2009年から実施されています。

南南協力とは、医療などのある分野において
比較的に技術が進んだ途上国が、
他の途上国へ行う支援をすることです。
先進国から人材を派遣するよりも、
大幅に人件費を削減できることがメリットです。
きれいな病院プログラムとは、
5S(整理、整頓、清掃、清潔、しつけ)を導入し、
病院の環境を整えて、働く人の意欲を向上することが目的です。
スリランカにあるキャッスルストリート病院が、5Sを導入したところ、
新生児死亡率と、帝王切開後の感染率が半減しました。
5Sとは、元々は日本の工場で発展した、品質管理の手法です。
キャッスルストリート病院の看護師が、
日本企業の人々から教わって、自らスリランカに普及させました。

この成功例を参考に、アジアとアフリカが知識と技術を共有し
途上国に適した問題解決策を見出す試みが行われています。
・・・
アフリカでは、女性器切除(FGM)の慣習が残っています。
FGMとは、女性が成人するための現地の儀式です。
陰核等の外性器を取り去り性感を減じさせることが行われています。
処女性を保つためと信じられており、
結婚の条件とされることがあります。

国連人口基金(UNFPA)が発表する世界人口白書では、
ブルキナファソの約70%の女性が
FGMを受けているとされています。
親が娘にFGMを受けさせる大きな理由は、
娘が将来結婚し、社会に適応できるように育てたいという、親の想いです。
しかし、実際はFGMを行うことで、大量の出血、排尿障害、
出産時の障害、それによる新生児の死亡を起こす可能性があります。
国際保健機関(WHO)は、医学的な必要性や女性へのメリットは無く、
人権侵害であるとしています。

ブルキナファソは、法律でFGMを禁止していますが、
手術を受けるために隣国に移動することが多く、
取り締まりが難しい現状があります。

この状況に対して、コンパオレ大統領夫人の、シャンタル・コンパオレは、
アフリカ28か国で活動する
非政府組織『女性と子どもの健康に影響を与える伝統的慣習に取り組むアフリカ委員会(IAC)』の
親善大使を務め、FGMの廃絶運動を行っています。
夫人は、後遺症が多いことを伝えることで廃絶に繋がると考え、
FGMの廃絶には女子への教育が必要と述べています。
また、非営利団体クリトレイドは、
ブルキナファソの第二の都市に、性器再生手術専門病院を建設しています。
2012年に開院予定のこの病院では、手術を無料、又は最少コストで
提供する予定になっています。
・・・
「私の大切なことは、木と草と家を訪問することです。
会って、その人が元気でいるか、確かめることです。
僕が会いに行けば、元気でいてもらえるでしょ。」


ブルキナファソをフランスから独立させた『建国の父』トーマス・サンカラは
1984年に国連総会で演説を行いました。
その中で、
「わたしは、世界の片隅で、もがき苦しんでいる、
全ての人々を代表して語りたい。
わたしたちの望みは、他の人々(白人)を排除するような
黒人の世界を作ることではない。
黒人として、わたしたちは、みなさんに伝えたい。
『どのように、おたがいを愛するのかということを』
(As black people, we want to teach other people how to love each other)」
と、語っています。
私は、この文章を編集するにあたり、
ブルキナファソでは、
「自分や家族以外の誰かのために何かを行いたい」と、
絵を通して表現する子どもが多いことに驚きました。
世界の最貧国の一つに数えられる国の
子どもたちの想いに、
私は、今の自分を見直し、
人を想う気持ちを改めて考える
良い機会をもらったと、思っております。
・・・
絵と写真を集めた人:
高橋良枝(2010年)
山本敏晴(2006年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
姉崎沙緒里
編集完了日:
2013年2月28日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
上記に掲載された写真のうち、
人物が写っていない写真の一部は、
以下のサイトから提供されたものもあります。
トリップアドバイザー
http://www.tripadvisor.jp/
posted by お絵描きイベント at 15:14| 日記
2012年02月11日
タイ Thailand
タイ王国は日本の約1.4倍の国土と約6500万人の人口を有し、
カンボジア、ミャンマー、ラオス、マレーシアと国境を接しています。

人口の3分の1以上が都市部に住んでおり、中でも首都圏のバンコクには
タイの人口の約13%を占める約800万人が住んでいます。
東南アジアの中央に位置するタイ王国は、
世界遺産やプーケット島など世界有数のリゾートに恵まれ、
世界中からたくさんの旅行者が訪れています。
また、友好的な国民性から「微笑みの国」と言われています。

・・・
![a20[1].gif](http://ets-org.sakura.ne.jp/sblo_files/painting/image/a205B15D-thumbnail2.gif)
(タイの国旗 外務省ホームページより)
ブルーは王室、白は宗教(仏教)、
赤は王室と仏教を敬愛する
国民の信頼・信仰を表わしています。
タイの人々は王室と国旗に敬愛を持っています。

町では国旗と黄色が溢れています。
なぜ、黄色かというと 国王が月曜日生まれだからです。

タイでは曜日によって色が決まっています。
日曜日 赤
月曜日 黄色
火曜日 桃色
水曜日 緑
木曜日 オレンジ色
金曜日 青
土曜日 紫色
・・・・・
「私の大切なものは 海で仕事をすることです」
![IMG_7443[1].jpg](http://ets-org.sakura.ne.jp/sblo_files/painting/image/IMG_74435B15D-thumbnail2.jpg)
独特なハーブの香りとスパイシーな味付けのタイ料理は
日本でも人気があります。
「トムヤムクン」は世界三大スープの一つと言われています。
「トム」は煮る、「ヤム」は和(あ)える、「クン」はエビ。

日本は、毎年タイから約4500億円の
農林水産物を輸入しています。
日本人は世界で一番エビを食べる国民と言われていますが、
日本で消費されるエビの約90%が外国から輸入されたものです。
そのうち、タイから輸入されているエビは約20%で、第一位です。
あなたが食べたエビも、タイから輸入されたものかもしれません。
エビの養殖は、タイの主要な産業のひとつです。
しかし、エビの養殖のために脂肪分や栄養剤を含む飼料や、
病気を防ぐための抗生物質を投入するため、水と土地がひどく汚染されてしまい、
田んぼや畑で農作物が育たなくなってしまいます。
ブラックタイガー(エビの品種)の養殖に最適な環境は、
海水と淡水の混ざり合う場所です。
そこには、マングローブ林が生い茂っています。
マングローブは、魚たちにとって
産卵するためなどの生活に必要な場所なのですが、
人々はエビを養殖するために、
マングローブを伐採しているのです。
エビの養殖によって、土壌汚染、森林伐採などの
環境問題を起こす側面もあります。
・・・
2011年に記録的な大洪水が起こり、たくさんの人が亡くなりました。
例年8月末で終わるはずの雨季が11月まで続き、大きな台風が幾つも上陸しました。
これは、地球温暖化による異常気象と言われています。
しかし、それだけではありません。
森林破壊による熱帯雨林の急速な減少も、大洪水の原因となっています。

タイは世界有数の木材輸出国です。
さらに、焼畑農業やエビの養殖、住宅や工場の建設などのために、
急速に森林伐採が進み、深刻な問題になっています。
徐々に雨水を吸収する木がなくなることで、
川に一度に流れる水が増えてしまいます。
そして、一度にたくさんの雨が降ると・・・
川の水が溢れてしまい、洪水が起こるのです。
洪水による被害総面積は、四国の面積とほぼ同じくらいです。
JICAは洪水で被害にあった人々のために日本から医師や看護師を派遣しました。
また、タイの人々が森を管理していけるように教育支援も行っています。
・・・・
「私の大切なものは車です。」
タイでは、近年急速に経済成長が進んでおり、
特に自動車産業が盛んで、
トヨタ、ホンダ、スズキをはじめ、たくさんの日本企業の工場があります。
洪水による生産停止は、日本経済に大きな打撃を与えました。
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 IMG_7959.JPG Thailand_Draw_009_Pikun.JPG
・・・
「私の大切なものは 友達です。」
タイは多民族国家です。
約80%を占めるタイ族(シャム族など)、
華僑約10%、マレー系・カレン族など
約20種少数民族(約10%)から構成されています。
この多民族国家であることが、タイに多くの問題を生じさせています。
ます、第一に挙げられるのは、
タイの深南部(南にある細長い半島)に住む
マレー系の人々が独立しようとしている問題です。
深南部は14世紀から19世紀まで、パタニ王国という独立した国でした。
タイは仏教の国ですが、マレー系の人々はイスラム教を信仰しています。
マレー系の人々は、独立のために過激な暴動を起こし、政府と対立しています。
タイ政府も武力によって弾圧しようとしますが、
それよって亡くなった人や逮捕された人たちがいます。
米NGO「ヒューマン・ライツ・ファースト」は、
タイ政府のとった行動は、「人権侵害」だと批判しています。
以上のように、独立しようとするマレー系の人も、
それを防ごうとするタイ政府も、
ともに人道的に問題のある行動を起こしています。

ここで、お隣の国ミャンマーの話も絡んできますが、
ミャンマーでは、1949年以降ミャンマー政府軍とカレン族などの山岳民族の間で
紛争が続いているため、多くの人たちが難民となって
タイ側へ逃れてきています。
ミャンマーでは、
1949年以来ミャンマー政府軍と山岳民族の間で
紛争が続いているため、
多くの人たちが難民キャンプで長期にわたり
避難生活を続けています。

さて、タイ北西部・ミャンマーとの国境に暮らすカレン族は、
銀細工やバッグなどの工芸品を作って生活しています。
カレン族の銀細工は、非常にファッション性が高く、
日本でも大都市などで売られています。
フェアトレードの会社の1つである、COCOWAでは、
カレン族のシルバーアクセサリーを
インターネットで販売しています。
このように
社会的に弱い立場にある人々の生産した商品を、
適切な価格で取り引きし、
途上国の人々の生活を支援する仕組みを
フェアトレード(公平貿易)といいます。
フェアトレードによって生活に必要な収入を得ることができれば、
人々は安定した生活を送ることができるかもしれません。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によって難民と認定された人々は
タイ政府や他の国際機関、
現地NGO(非政府組織、民間の国際協力団体)、一般の企業から、
食糧、水、医療、教育、安全などの支援を受けています。
ユニクロも、難民の人々に衣料品を提供しています。
山岳民族の伝統的な生活基盤は自給自足の焼畑農業です。
しかし、1980年代後半から
政府が環境破壊にあたるとして、焼畑農業を禁止してしまいました。
焼き畑農業ができなくなった人々は、
仕事を求めて都会に行きますが、
言葉の壁や差別から仕事を見つけることは困難でした。
そうした人々の中には、生活のために売春をして、
HIV(エイズを発症させるウィルス)に感染してしまった人もいます。
タイでは、90年代にHIV/エイズが大流行しましたが、
それに巻き込まれてしまうことになってしまったのです。
なお、バンコクには、アジア最大の歓楽街と言われる『パッポン通り』があります。
タイはベトナム戦争中にアメリカ兵の保養地として観光業が栄え、
風俗産業も発達したと言われています。
このような場所にいるセックスワーカー(売春婦など)の多くが、
HIV/エイズに感染してしまったのです。
医療人類学者の大森絹子さんがタイのチェンマイに創った養護施設
「希望の家」では、
エイズや麻薬中毒、貧困で親を亡くした山岳民族の子どもたちが暮らしています。
また、そこで教育も行っています。
・・・
日本では、
毎年HIV/エイズの新規感染者数が増え続けていますが、
タイは、HIV/エイズの新規感染者の削減に成功した数少ない国です。
売春施設にコンドームを設置する「100%コンドームキャンペーン」や、
同性愛者やセックスワーカーなど「感染するリスクの高い人々」への予防教育を
行いました。
しかし、未だにHIV感染者への偏見・差別は残っています。
そして、たくさんの人がエイズを発症して亡くなりました。
親がエイズで亡くなってしまったエイズ孤児たちのために作られた施設があります。
その施設の一つがカメリアン社会センター(The Camillian Social Center Rayong)です。
ここでは、大人のHIV陽性者が農業をしたり、
工芸品を製作して生活の糧(かて)にしています。
また、エイズ患者のためのホスピスもあります。
HIVは、次のような方法で感染します。
@同じ注射器の針を使い回して予防接種をする、輸血をする等 「血液による感染」
Aコンドームを使わずに性行為をする。
B出産の前後に母から子へ感染する「母子感染」
なお、唾液や涙、汗などから感染することはないので、
日常生活を共にしても、正しい知識を持っていれば感染することはありません。

また、現在では、HIVに感染しても薬を飲み続けることで、
エイズの発症を遅らせ、普通の生活を送ることが出来ます。
・・・
このように、タイには経済発展の裏に隠された環境破壊や、
少数民族の問題、HIV/エイズの問題などがありますが、
そうした問題が少しでも解決できるよう
私もこれから協力していきたいと思っています。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
福田佳代子
森田幸子
羽金杏子
藤井達也
二見茜
画像データを編集し、文章を書いた人:
二見茜
編集完了日:
2012年2月12日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 14:15| 日記
2012年01月29日
ミャンマー Myanmar

ミャンマー(ビルマ)は、日本の約1.8倍の国土と、約5200万人の人口を擁し、インド、バングラデシュ、タイ、中国と隣接し、地政学上で要衝となる国です。
また、長年にわたって鎖国をしていたり、軍事政権下では諸外国から経済制裁を受けていたため、東南アジアでもっとも開発が遅れている国です。

ミャンマーは古くから日本と強い結びつきをもちます。
たとえば、イギリスによる植民地支配を終わらせるのに日本軍が一役買いました。
また、日本が最初に政府開発援助(ODA)を開始したのがミャンマーでした。
さらに、ミャンマーでは日本の中古車や、日本の歌のカバーが大人気です。
このため、東南アジアでは珍しく親日的な国です。
この国の子どもたちが描いた大切なものの絵を見せてもらいましょう。

・・・
民族構成は、ビルマ族が70%を占めますが、その他にもシャン族やカレン族など135の民族が居住しています。
公用語はミャンマー語(ビルマ語)です。
宗教は、ブッダの教えに忠実で、出家して修行を積むことによって涅槃にいたろうとする上座部仏教(南方伝来仏教)の信者が90%を占めますが、他にもキリスト教やイスラム教の信者もいます。
なお、日本の仏教は中国を経由して伝わった大乗仏教で、たとえば念仏を唱えることにより誰でも救済されると考えるなど、より大衆向けの教えになっています。
「僕は高僧を尊敬しています」

日本では、竹山道雄著『ビルマの竪琴』という物語がよく知られています。
これは、太平洋戦争後、ビルマに駐留していた水島上等兵が出家してビルマに居残り、竪琴を片手に亡くなった日本兵を供養するという物語です。
しかし、この物語はフィクションで、上座部仏教は音楽などの娯楽を戒律で禁じています。

・・・
古くから、ミャンマーにはピュー族やモン族などの民族が住んでいました。
そこに9世紀ごろからビルマ族が進出し、11世紀にはミャンマーではじめての統一王朝(パガン王朝)を作りました。
このとき、ビルマ族は、モン族の文化と上座部仏教を取り入れました。

上座部仏教では、喜捨(寺や僧侶に寄付をすること)はよりよい来生をもたらすための功徳と考えられており、なかでもパゴダ(仏塔)を建設することが最大の功徳と考えられています。
このため、パガン王朝時代、ビルマ族はバガンで約2300にも及ぶパゴダを建設しました。
現在、バガンは、カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボルブドゥールとともに、仏教三大遺跡と呼ばれており、ミャンマーで最大の観光地となっています。
「私の大切なものはお寺です」


13世紀末、元(フビライ・ハーン)の攻撃を受けてパガン王朝は滅亡しました。
以後、ミャンマーでは、ビルマ族、シャン族、モン族による勢力争いが繰り返されました。
1752年、ビルマ族最後の王朝であるコンバウン王朝が建国されました。
このコンバウン王朝は、モン族の本拠地バゴーを占領し、タイのアユタヤ王朝を滅ぼすなどして、一時はビルマ史上最大の勢力図を獲得しました。
しかし、1886年に、コンバウン王朝はインドを支配していたイギリスとの戦いに敗れ、滅亡しました。
この結果、ビルマはイギリス領インド帝国に併合されました。

イギリスは、インドや中国からの移民を大量に受け入れて主要産業に従事させたのに対し、ビルマ族を小作人にさせました。
そのうえ、イギリス人をトップとし、インド人に行政を任せるとともに、キリスト教を布教したカレン族などの少数民族を警察・軍人として採用して大多数を占めるビルマ族を弾圧させました。
イギリスは、スリランカなど他の植民地でも少数民族を重用し、大多数を占める民族を弾圧させました。
これは、国民の怒りの矛先をイギリスではなく、少数民族に向けさせるのが狙いでした。
イギリスのこうした政策が、今も根深く残る民族紛争の原因となりました。
「僕は軍人になって国を守りたいです」

第一次世界大戦が始めると、ビルマ族による対イギリス独立運動が活性化しました。
1942年、アウンサン将軍(アウンサンスーチー女史の父)率いるビルマ独立義勇軍が日本軍とともにイギリス軍を駆除しました。
そして、1943年にビルマ国を建国しましたが、これは日本の傀儡(かいらい)国家でした。
日本軍はインド北東部を攻略するインパール作戦を実施しましたが、歴史的な大敗を喫し、日本軍は衰退しました。
そこで、1945年、アウンサン将軍は、今度はイギリス軍と組んで日本軍を駆除しました。

ところが、イギリスは、ビルマの独立を認めるという約束を反故にして、ビルマを再びイギリス領としました。
1948年、第二次世界大戦後イギリスの国力が低下したこともあり、ようやくビルマは独立を果たしました。
初代首相にはアウンサン将軍が就任する予定でしたが、独立の直前に暗殺されてしまいました。
そこで、アウンサン将軍を引き継ぐ形で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の総裁に就任したウー・ヌー氏がビルマの初代首相に就任しました。

ビルマは独立しても、その政情は当初から不安定でした。
まず、中国国民党軍の残党がシャン州でゲリラ活動を繰り広げました。
また、ビルマ政府は上座部仏教を優遇したため、キリスト教徒の多いカレン族やカチン族、チン族などの少数民族が独立運動を繰り広げました。
そして、少数民族や中国国民党との戦いをするうちに、軍部が強大な政治的権力をもつようになりました。
そして、1962年、軍部の最大権力者であるネー・ウィン将軍がクーデターを起こして政権を握りました。
「ぼくは軍人になって国がバラバラに分裂するのを防ぎたいです」

ネー・ウィン政権(1962−1988年)は、ビルマ式社会主義政策を標榜し、農業を除く主要産業の国有化を推進しました。
しかし、その経済政策は失敗の連続でした。
外貨が枯渇し、生産は停滞し、対外債務がかさむなどし、ミャンマーの経済は停滞しました。
1987年には、ミャンマーは国連によって世界の最貧国の一つと認定されてしまいました。

そして、経済が悪化して国民の生活が苦しくなると、1988年に全国的な民主化要求デモが起きました。
このとき、民主化運動のシンボルとなったのがアウンサンスーチー女史(アウンサン将軍の長女)でした。
アウンサンスーチー女史が母親の看病のためにたまたまイギリスから帰国していたところ、建国の父アウンサン将軍の長女ということで民主化を求める国民から熱狂的に迎えられたのでした。
「私の大切なものは花の髪飾り(アウンサンスーチー女史がいつもつけている)です」


民主化デモにより、ネー・ウィン政権は崩壊し、軍事政権が暫定的に政権をにぎりました。
軍事政権は、1989年、対外的な国名をそれまでの「ビルマ」から「ミャンマー」に変えました。
独立当時から、国内では「ミャンマー」という国名が使われていたのですが、対外的な国名を従来から使われていた国名に合わせたのです。
しかし、軍事政権に批判的な欧米のメディアは「ミャンマー」という国名を認めず、いまでも「ビルマ」という国名を使っています。

1990年の総選挙では、民主化を求めるアウンサンスーチー女史が率いる国民民主連盟(NLD)が議会の過半数を占め、大勝しました。
しかし、軍事政権は民政移管のためには新しい憲法が必要となることを理由に、政権をNLDに委譲することを拒みました。
アウンサンスーチー女史は、総選挙後に軍事政権によって自宅に軟禁されましたが、自宅軟禁中の1991年、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の功績が称えられてノーベル平和賞を受賞しました。

以後、軍事政権は、民主化要求デモが起きるたびにこれを弾圧し、アウンサンスーチー女史を軟禁するなどの人権侵害を繰り返しました。
これに対し、アメリカや日本などの諸外国はミャンマーに対してODAの新規案件を凍結するなどの経済制裁措置をとりました。

2007年9月には、ガソリン代が高騰したのを引き金に国民の怒りが爆発し、僧侶を中心とした大規模なデモ(サフラン革命)が起きました。
このデモは、軍事政権により鎮圧され、日本人ジャーナリスト1人を含む多数の犠牲者をだしました。
この軍事政権の行動に対し、欧米諸国は経済制裁の強化を断行したため、ミャンマーの経済状態はますます悪化しました。

そこに追い打ちをかけるように、2008年5月には、サイクロン「ナルギス」がミャンマーを直撃しました。
これは、東日本大震災の約7倍にあたる約14万人にのぼる死者・行方不明者の数を出し、そして240万人が被災するという大惨事となりました。

そこで、軍事政権は、国内の経済を立て直すためには民主化が必要と判断し、ようやく民主化に向けて動き出しました。
大災害の後、すぐに新憲法が承認され、2010年には新憲法にもとづいた総選挙が実施されました。
2011年1月31日、23年ぶりに国会が召集され、軍事政権における最高決定機関である国家平和開発評議会(SPDC)が解散されました。
そして、2011年3月30日、ついに新政府が発足しました。
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「私は軍事政権下で国が一つにまとまることが大切だと思います」


ミャンマーの軍事政権が長年にわたって民主化を拒み続けていたのは、少数民族の反政府活動が勢いを増す恐れがあるからでした。
特に、カレン族は、ミャンマーが独立した翌年の1949年から『カレン民族同盟(KNU)』という軍事組織をつくってミャンマー政府と激しく対立してきました。
世界で最も長く続く内戦です。
ミャンマー政府は、カレン族の村を焼き討ちしたり、集団強姦などの民族浄化(少数民族を消滅させること)をすすめてきました。
このため、カレン族のなかには土地を追われて、難民となってタイ西部に移住する人が後を絶ちません。
いま、タイ西部には9つの難民キャンプがあり、これらの難民キャンプに暮らす難民の数は約15万人に達します。
「僕は祖国が恋しいです」


ところが、その難民キャンプにもさまざまな問題があります。
難民はタイの法律上難民キャンプを出ることができず、ストレスに満ちた生活をすることになります。
そこで、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、難民キャンプで仮設住居や食糧、水を提供するとともに、タイ政府に対して政策提言をするなどして、難民キャンプでの生活レベルを向上させています。
また、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会は、難民キャンプに図書館を作り、読書を通じて難民たちの心を豊かにする活動をつづけています。
さらに、株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)は、不要になった衣類を集め、UNHCRを介して難民キャンプに届けています。

2005年から、難民キャンプで暮らす難民たちをアメリカやヨーロッパ諸国などで受け入れる『第三国定住』が進められるようになりました。
日本は難民に対して閉鎖的な国と言われてきましたが、2010年度からカレン族難民の受け容れを試験的に始めています。
しかしながら、日本には難民同士のコミュニティが少ないうえに、言葉の問題や法的な不備も多いため、難民にとって日本で暮らすのは容易ではありません。
そこで、NPO法人・難民支援協会は、日本にきた難民の法的支援活動や、生活支援活動、難民のための政策提言活動などをしています。

近年、ミャンマーで軍事政権から民政移譲したのにともない、民族紛争にも大きな変化がおきています。
2012年1月、カレン族とミャンマーの新政府は60年以上も続いた紛争の停止について合意しました。
そして、ミャンマーの新政府はカレン族の難民に対して故郷に戻るよう呼びかけています。

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とはいえ、ミャンマーの難民問題はカレン族だけではありません。
バングラデシュとの国境付近に住むイスラム教徒のロヒンギャ族の問題も深刻です。
ミャンマーの軍事政権は1990年代に民族の同化政策を強め、イスラム教徒であるロヒンギャ族を迫害しました。
この結果、多くのロヒンギャ族がバングラデシュにある難民キャンプに逃れました。
しかし、その一部は難民キャンプの劣悪な環境に耐えられず、ボートに乗ってタイやマレーシア、インドネシアなどに逃れていきます。
ところが、ロヒンギャ族は政治的な理由によって難民になったのではなく、経済的な理由によって難民となったとみなされているため、移住先でも受け入れられずに本国に強制送還されてしまいます。
そこで、認定NPO法人ブリッジ・エーシア・ジャパンは、帰還民が再び難民となって国外に流出しないように、村のインフラを整備したり、帰還民の女性に職業訓練を施す活動をしています。

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ミャンマーは麻薬の生産量がアフガニスタンに次いで世界二位です。
特に、タイとラオスとの国境付近の地域(黄金の三角地帯)では、大量のケシが栽培されており、そのケシを原料としてアヘンやヘロインなどの麻薬が生産されています。
こうした麻薬ビジネスは、シャン族の独立運動の活動資金となっていました。
「ぼくの大切なものはシャン族の民族衣装です」

ミャンマー政府は、1996年、黄金の三角地帯を制圧しました。
そして、2002年にケシの栽培を禁止する法律をつくり、サトウキビ畑などへの転換を呼びかけました。
また、日本政府は、1997年より、ケシの代替作物としてソバを栽培して、できたソバを買い取るプロジェクトをすすめました。
この結果、ミャンマーにおけるケシの作付け面積は、2006年に過去15年間で最小値を記録しました。

しかし、代替作物を栽培してもケシを栽培したときほど儲からないため、再びケシの栽培をはじめる農家が増加しています。
国連薬物犯罪事務所(UNODC)は、2010年のミャンマーにおけるケシの作付け面積が2006年に比べて77%増加していると報告しています。
麻薬を減らすためには、少数民族の貧困問題を解消することが鍵となります。
そこで、サンバード環境システム株式会社は、ケシの代替として栽培されたソバを日本で販売するフェアトレードを通じて、少数民族の貧困問題を解消しようとしています。

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「ぼくの大切なものは寺子屋です」


ミャンマーは世界でもっとも開発の遅れている国の一つであるにもかかわらず、その成人識字率は約92%と高い数値を誇ります。
しかも、発展途上国では女性の成人識字率は男性の成人識字率より低くなる傾向がありますが、ミャンマーでは成人識字率に男女差がほとんどありません。
こうしたミャンマーの教育を支えているのが、各地の僧院にある寺子屋です。

ミャンマーにも公立の小中学校などがありますが、机代や椅子代、給食代などの費用がかかり、貧しい家庭の子どもは学校に通うことができません。
これに対し、寺子屋は一般の人からお寺への寄付で成り立っているため、子どもは一切無料で勉強をすることができるのです。
NPO法人・メコン総合研究所は、日本で寄付金をつのり、こうした貧しい子どもたちが通うことのできる寺子屋をミャンマー各地で建設しています。
「あたしは先生かデザイナーになるのが夢です」


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ミャンマーは医療面で問題が山積しており、特に、エイズ・結核・マラリアが深刻です。
しかし、ミャンマーでは医師・看護師が極端に不足しており、しかも保険制度などの社会保障制度の整備も遅れているため、自国の力で解決するのは困難です。

そこで、エイズ対策に対しては、日本政府は、献血によるエイズの拡大を防ぐために、献血者の登録システムを開発し、国内の主要な病院に導入しました。
また、NPO法人ジャパンハートは、ヤンゴン市内に子どもの養育施設をつくり、HIV感染の原因となるタイへの出稼ぎ売春・人身売買がさかんな村から、これらの問題の犠牲となる可能性のある子どもたちをひきとっています。
また、結核対策に関しては、日本政府は、ミャンマー政府と協力して新たな治療活動の導入や住民への健康教育活動をしました。
さらに、マラリア対策に関しては、日本政府は、マラリア感染率の高い地域で蚊帳を普及させたり、簡易診断キットや抗マラリア剤の導入を行いました。
「あたしの夢は看護婦になることなの」

ミャンマーでは乳幼児死亡率も高くなっており、その理由の一つとしてポリオ(小児マヒ)があげられます。
そこで、日本政府や「認定NPO法人・世界の子どもにワクチンを(JCV)」は、UNICEF(国連児童基金)を通じてミャンマーの5歳以下の子どもたちに継続的にワクチンを提供しています。
また、株式会社ガリバーインターナショナルは、中古車が一台売れるたびにワクチン1本分の寄付をJCVにしています。
この結果、2001年からしばらくポリオの発症が見られず、一度はポリオ撲滅宣言をしました。
ただし、近年、近隣諸国から輸入されたものとみられる発症例が報告されており、今後も経過観察が必要となりそうです。

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ミャンマーは、欧米諸国から経済制裁を科されたこともあり、世界経済から取り残されていました。
しかし、民政移譲を機に、欧米諸国による経済制裁は解除される見込みです。

ミャンマーが国際社会に復帰したいま、ミャンマーは様々な魅力を秘めています。
まず、ミャンマーでは、米などの農作物や、チーク材などの天然資源、石油・天然ガス、宝石などの地下資源が豊富にとれます。
また、ミャンマーでは安い人件費で優秀な人材を雇うことができます。
このため、今後欧米諸国の企業がこぞってミャンマーに進出すると思われます。
ミャンマーの雇用は増加し、経済は活性化する見込みです。

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民政移譲を機にミャンマーの経済は成長すると見込まれますが、その一方でミャンマーの豊かな自然が破壊される懸念があります。
ミャンマーは東南アジアのなかで手つかずの森林を最も豊富に擁する国で、その森林にはトラやゾウなどの絶滅危惧種が多く生息しています。
しかし、近年、タイの伐採業者による森林伐採や、人口増加による過剰な焼き畑により、森林面積が急速に減少しています。

そこで、日本政府は、森林保全をするためのレンジャーを養成したり、村落での有機作物の収穫を効率的にする活動をしています。
また、NPO法人・地球市民の会は、森林伐採によって木がなくなった地区の森林を再生させたり、土着菌を用いた循環型農業のデモファームを運営するなどして持続可能な村づくりを試みています。
「私の大切なものは自然とミャンマーの文化です」


一方で、民政移譲を機に自然環境が保護される兆しもみられます。
ミャンマー政府は中国と共同でイラワディ川に水力発電ダムを建設する予定でした。
しかし、発電した電力の9割が中国に供給されることや、生態系が破壊されること、さらに5千人が移転を強いられることから、アウンサンスーチー女史らが建設に反対していました。
すると、新政府のテイン・セイン大統領は、「国民の反対」を理由にダム建設の中止を決定しました。
軍事政権下ではとても考えられなかったことで、国内外に驚きの声があがりました。
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「わたしは軍事政権を敬います」

ミャンマーというと軍事政権を連想し、「怖い」というイメージをもつ人が多いのではないでしょうか。
しかし、実際にミャンマーに行ってみると、日本よりも安全なくらいで、紛争地域に行かない限り、テロの危険だってほとんどありません。
また、国民はみな素朴で親切、そして、とても幸せそうな笑顔をみせてくれます。
その点、同じ軍事政権とはいえ北朝鮮や戦争前のイラクとは異なります。

そして、ミャンマーは、民政移譲を機に大きく変貌を遂げようとしています。
たとえば、ミャンマーは、2014年にはASEAN(東南アジア諸国連合)の議長国となることが承認されました。
民政移譲を機に国際社会に復帰したことがASEANから認められたのです。

これまでミャンマーは国際社会から孤立し、世界でもっとも開発の遅れている国の一つに数えられてきました。
しかし、民政移譲を機に、今後ミャンマーで急速に開発が進むと思われます。
あなたもミャンマーで国際協力をしてみませんか?
きっと、とびきりの笑顔が迎えてくれますよ。

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絵と写真を集めた人:
山本敏晴
画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明
編集完了日:
2012年2月5日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 13:22| 日記