
野菜『かぼちゃ』の名前は、国名『カンボジア』に由来します。
かぼちゃは戦国時代にカンボジアから伝わったのです。
当時、カンボジアには日本人街がありましたし、
じつは日本と古くからつながりをもつ国なのです。
そのカンボジアで、子どもたちに尋ねました。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「ボクの大切なものはカンボジアです」


カンボジアは、日本の約半分の国土、約1300万人の人口を擁し、
ベトナム、タイ、ラオスと隣接しています。
内戦があった影響から、
東南アジアでもっとも開発が遅れている国の一つです。
国民の9割がクメール人(カンボジア人)で、
公用語はカンボジア語です。
国民の大半は、修行をすることによって
『涅槃(静寂の境地)』に至ろうとする
『上座仏教』を信仰していますが、
イスラム教など他の宗教を信仰している人もいます。

・・・
それでは、カンボジアの歴史を振り返りましょう。
1〜7世紀前半まで、『扶南(ふなん)』という国が
いまのメコン川の下流地帯を支配していました。
扶南はインド文化を吸収し、海上交易によって栄えましたが、
交易ルートが変わったこともあり、7世紀初頭から衰退していきました。
そこで、ラオス南部を支配する、
クメール人の王国『真臘(しんろう)』が台頭してきました。
この真臘は、一時ラオス南部およびカンボジア全土を支配したものの、
その後は衰退して、ジャワ王国の支配を受けるようになります。

しかし、9世紀初頭、『ジャヤバルマン2世』が
アンコール地域を支配するジャワ王国を撃退し、独立を宣言しました。
これが『アンコール王朝』の始まりです。

(アンコール遺跡群の一つ、ベンメリア)
11〜12世紀にかけて即位した『スールヤバルマン2世』は、
積極的に遠征をおこない、
その勢力をタイ東北部、ベトナム南部にまで拡大しました。
「僕はアンコール・ワットが大好きです。カンボジアの誇りです。」

有名なアンコール・ワットは、この時代に建設されました。
ヒンドゥー寺院であるとともに、スールヤバルマン2世のお墓でもあります。
アンコール・ワットを建設するために、1113年頃から30年あまり、
毎日約1万人の労働力をつぎこまれ、
エジプトのピラミッドと同様、
強権の象徴であると考えられています。

(アンコール・ワット)
スールヤバルマン2世没後、
ベトナムのチャンパ王国による侵攻を受け、
アンコールは一時陥落しました。
しかし、『ジャヤバルマン7世』の指揮のもと、
1181年にはチャンパを撃退し、
アンコール王朝の繁栄を取り戻しました。
『アンコール・トム』はこの頃つくられたもので、
壁にはチャンパとの戦いが描かれています。

アンコール王朝はこのときに最盛期を迎え、
その支配地域は、カンボジア、タイ、ラオス、ベトナム南部にまで及びました。
しかし、13世紀後半になると、モンゴルの元(げん)、
タイのシャム王国(アユタヤ王朝)が侵略し、
国は衰退していきました。
そして、1413年、シャム王国の攻撃を受けて、アンコール地域から撤退しました。

(アンコール・トム)
以後、タイやベトナム、ラオス、
ヨーロッパなどの各勢力がカンボジアに介入するようになります。
17世紀後半からは、カンボジア王室が分裂し、
一方がベトナムから、他方がタイから支援を受けるなどしました。
この結果、互いにカンボジアを属国と考える、
タイとベトナムの間で戦争が起きました。
カンボジアをめぐるこのような複雑な勢力争いが、
後の内戦につながったと言われています…。

(アンコール遺跡群の一つ、タ・プローム)
19世紀になると、フランスがインドシナ半島の支配に乗り出します。
そこで、カンボジア王国はタイとベトナムからの支配から逃れるために、
フランスに保護を要請し、
1884年にフランス保護領となりました。
カンボジアはフランスの保護を受けている期間中、
鉄道などのインフラの整備がすすみ、
目覚ましい経済発展を遂げました。

しかし、フランスが第一次世界大戦に参戦した際、
その戦費をインドシナ半島に求めたため、
カンボジアの国民は重税に苦しみました。
このため、フランスによる統治にもほころびがでるようになりました。
1940年、第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏し、
フランスの代わりに日本軍がカンボジアに進駐しました。
そこで、1941年に即位したシハヌーク殿下(2012年10月没)は、
国民のフランスに対する不満の声を背景として、
日本と協力してカンボジアの独立を宣言しました。
しかし、日本が連合国に降伏したため、
カンボジアの独立は取り消されました。
シハヌーク殿下はそのあとも欧米諸国に積極的に働きかけ、
1954年にようやくカンボジアは独立を勝ち取りました。

(独立記念塔)
シハヌーク殿下は中立政策を掲げ、
東西両陣営から援助を引出し、
農業開発や工業化を促進しました。
首都プノンペンは、これらの支援の恩恵を受け、
『東洋のパリ』と呼ばれるほど発展しました。
カンボジアが唯一平和な時期でした。

1960年、隣のベトナムで東西両陣営による代理戦争が始まると、
シハヌーク殿下は中立を掲げながらも、国の存続のために
北ベトナム軍がカンボジア領内を通って物資を輸送したり、
北ベトナム軍がカンボジア領内に逃げ込むのを認めていました。
ところが、南ベトナムを支援していたアメリカはこれに業を煮やしました。
1970年、反中親米派のロン・ノルにクーデターを起こさせ、
シハヌーク政権を転覆しました。
これにより、『クメール共和国』が樹立しました。
ロン・ノル政権はアメリカと共同でカンボジア領内の
北ベトナム軍や解放戦線を次々と攻撃しました。
加えて、アメリカは北ベトナム軍を攻撃するために、
カンボジア東部で爆撃を繰り返しました。

これに対し、シハヌーク殿下は北京に亡命し、
反米反ロン・ノルを掲げる
『カンボジア民族統一戦線』を結成しました。
これに、ポル・ポト率いる『KR(クメール・ルージュ)』が呼応し、
ロン・ノルに対抗することで合意しました。
こうして、ベトナム同様、親米勢力VS反米勢力
の内戦が勃発しました。
「わたしは戦争をなくしたいです。
戦争のせいで家族や家、健康を失います。
武器の取引はそもそも違法なはずです」


内戦時、報道カメラマンの一ノ瀬泰造は、
アンコール・ワットへの潜入を試みたものの、
クメール・ルージュに捕らえられて殺害されてしまいました。
映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』では、
一ノ瀬泰造が奮闘する様子が描かれています。

(一ノ瀬泰造のお墓)
その後、アメリカ軍がベトナムから撤退すると、
ロン・ノル政権は弱体化しました。
そして、1975年4月、
カンプチア民族統一戦線の軍隊が
首都プノンペンを占領し、ロン・ノル政権は崩壊しました。
内戦は終結しましたが、
それまでに50万人以上が死亡しました。
また、100万人以上が難民となって首都プノンペンに流入し、
プノンペンの人口は200万人に達しました。
「ボクは戦争をなくしたいです」


カンボジア民族統一戦線がプノンペンを占領したとき、
国民の多くはカンボジアが平和になると思いました。
しかし、国民にとって本当の受難はそこから始まりました。

(ポル・ポトの肖像)
ポル・ポトは、
全国民が自給自足の生活をし、
さながら原始時代のように血縁同士で富を分かち合う
『原始共産主義社会』を理想としていました。
これを実現するためには、
都市や、病院、学校、貨幣、宗教などの
旧体制を徹底的に破壊する必要がありました。

ポル・ポトは、まず、首都プノンペンの市民200万人を、
着の身着のままで自宅から追い出し、
農村部に強制移住させました。
この強制移住は徒歩で行なわれ、子どもや老人、病人など、
多くの人たちが途中で命を落としました。
死体であふれかえった国道を国民が行進する様子は、
まさに地獄絵図だったと言われています。

そして、古くから農村部にいる住民を『旧住民』、
都市部から農村部に移動した住民を『新住民』と呼び、
新住民にはいかなる権利も与えられませんでした。
ポル・ポトは、旧体制になじんだ都市部の住民が許せなかったのです。
新住民のなかには、過酷な労働に従事させられ、
病気や飢餓で死んでいく人も多数いました。

ポル・ポトは、内戦中はシハヌーク殿下と協力関係にあることを利用して、
国民の支持を集めることに成功しました。
ところが、内戦が終結するとシハヌーク殿下の存在が邪魔になりました。
そこで、ポル・ポトはシハヌーク殿下を幽閉し、自ら首相に就任しました。
以後、ポル・ポトの暴政に拍車がかかります。

(王宮の中にあるアンコール・ワットの模型)
ポル・ポトは農村部で大規模な粛清を開始しました。
具体的には、医者や教師、技術者などの知識人を徹底的に抹殺しました。
海外に留学している者も「国の再建のため」という名目で帰国させ、
次々と抹殺しました。
なかには、メガネをかけているだけで知識人とみられ、
抹殺された人もいました…。
政策に対して異を唱える可能性がある知識人たちは邪魔だったのです。

また、ポル・ポトは側近などにも疑いの目を向け、
粛清をしていきました。
首都プノンペンにある『S21(現トゥールスレン博物館)』は
政治犯を収容したところで、
約2万人が収容され、そのうち生きのびたのはわずか『7名』でした。

ポル・ポトは、通貨や法律、市場、企業などすべて廃止しました。
休日はなくなり、音楽や映画などの娯楽も禁止となりました。
また、国民の心のよりどころとなる仏教も弾圧しました。
仏教寺院を破壊し、6万人いた僧侶のうち2万5千人を殺害し、
残りを還俗させました。

加えて、夫婦を引きはなし、
子どもたちは5〜6歳で親から引き離して
『国家の子ども』として教育を受けさせました。
恋愛も禁止され、
国民は党が決めた相手との結婚を強要され、
逆らうと、本人もしくは家族が処刑されました。
カンボジアの国民は、
農作業や土木作業をすることだけが許されるという、
まるで奴隷のような生活を強いられることになりました。

さらに、ポル・ポトは中国の『大躍進政策』という農業政策をまねしました。
これは中国で失敗して大飢饉を招いたにもかかわらず、
隠ぺいされていたため、
ポル・ポトは失敗の歴史を学ぶことができませんでした。
結果、カンボジアでも中国と同じように大飢饉が起こりました。
しかし、ポル・ポトは、この失敗を国内にいる反乱分子のためと考え、
子どもをスパイにし、
反乱の恐れがある者を次々と摘発して抹殺していきました。
このように、恐怖の政治を次々と断行していったのです。

恐怖政治を断行したポル・ポト政権も崩壊するときがきます。
ポル・ポトはベトナムを敵視しており、
国が疲弊しているにもかかわらず、ベトナムに度々侵攻しました。
これに対し、1978年12月、ベトナム軍がカンボジアに反撃すると、
わずか2週間で首都プノンペンを占領することに成功しました。
こうして、3年8か月に及ぶポル・ポト政権が終わりました。
そして、ベトナム軍はKRの地方小幹部だった
ヘン・サムリンを元首とする政権を擁立しました。

カンボジアを占領したベトナム軍は、
そこで、カンボジアの荒廃した姿を目にしました。
まず、首都プノンペンはゴーストタウンと化しており、
約70人しかいなかったと言われています。
また、カンボジアの都市の郊外にはキリング・フィールド(処刑場)があり、
そこからは夥しい数の白骨死体が見つかりました。
この衝撃は、映画『キリング・フィールド』で描かれています。

ポル・ポト政権下での死者数は100〜200万人と言われています。
これは当時の国民の約1/6〜1/3にあたる数で、
まさに史上最悪の虐殺です。
知識人が殺されたという点も特徴的です。
この影響により、
カンボジアではポル・ポト政権下の1974〜1979年
生まれの人口が極端に少なく、
人口ピラミッドは一部が窪んだひょうたん型となっています。
また、内戦前に生まれた男性の比率が少ないことも特徴的です。
男性のほうが知識人と見られやすく、多く殺害されたためです。

ベトナム軍の侵攻後、
ポル・ポトはタイ国境付近のジャングルに逃げ込みました。
以後、5〜10月の雨季には
KR、王党派、共和派からなる三派連合が
タイ国境付近からゲリラ活動を展開し、
4月の乾季にはヘン・サムリン政権が重火器で応戦するという
内戦が10年間続きました。
これにより、100万人以上の難民が発生し、国際問題となりました。
しかし、カンボジアの混乱は国際社会から放置されました。
ヘム・サムリン政権はベトナムの傀儡政権だったので、
アメリカなど、反ベトナム・反ソ連の西側諸国は
国として承認しなかったからです。

しかし、1989年9月、ベトナム軍がカンボジアから撤退すると、
和平への機運が高まりました。
日本政府はカンボジアの平和構築に積極的に関わり、
1990年には東京で国際会議を開催しました。
そこで、プノンペン政権と三派連合政府が対等参加する
最高国民評議会を設置することなどで合意しました。
1991年10月、『パリ和平協定』が結ばれ、内戦は終結しました。

1992年3月、
国連が設立した『カンボジア暫定統治機構(UNTAC)』が活動を開始し、
明石康が特別代表に就任しました。

UNTACは、
難民の帰還、地雷撤去、武装解除などの平和活動(PKO)を実施しました。
日本はこのとき初めてPKO活動に参加しました。
国連ボランティアの中田厚仁が死亡するなどの犠牲がでましたが、
1993年5月、UNTACが監視するなか、国民総選挙が実施され、
新しい憲法が成立し、
シハヌーク殿下を国王とする『カンボジア王国』が成立しました。
カンボジアにようやく平和が訪れました。
「戦争は嫌いです。私たち子どもは平和を望んでいます。」


・・・
パリ和平後、カンボジアに平和が訪れましたが、
ポル・ポト時代の大量虐殺や内戦の影響は今も残っています。
たとえば、地雷の問題があります。
「ボクは地雷と不発弾をなくしたいです」


カンボジアでは、1970年からの約30年間に、
500万もの地雷が埋められたと推定されています。
カンボジアは世界で最も地雷埋設密度の高い国なのです。

株式会社山梨日立建機は、
地雷の撤去と農耕を同時に行える重機を開発して、
カンボジアやアンゴラなどで地雷撤去を行っています。

他方、重機が入り込めず、
手作業により地雷を撤去せざるをえない地域も多数あります。
そこで、自衛隊OBが作ったJMASというNPOは、
現地人を訓練して地雷撤去要員として雇用し、
地雷撤去と貧困削減に役立つプロジェクトを進めています。

また、カンボジアのCMACという政府系組織は
日本やアメリカからの支援を得て、
20年間で40万個の地雷を撤去しました。
CMACは「世界への恩返し」ということで、
同じく多くの地雷が埋設されているコロンビアに
地雷撤去の技術を移転しています。

カンボジアには地雷の撤去がすんでいない地域には、
ドクロのマークがついた鉄柱が建てられています。
しかし、この鉄柱が忽然と消えてしまうことがあります。
鉄柱を外し、椅子や机に加工して販売する人がいるからです。
このため、何も知らずに地雷原に踏み込んだ人が、
地雷を踏んでしまうケースが後をたちません。

そこで、NGOカンボジア・トラストは、
地雷で足を失った人のために義足を製作するとともに、
同じく地雷の多いアフガニスタン等から
研修生を呼び義足の製作技術を伝授しています。

地雷の撤去作業には、
これからも長い年月がかかると予測されます。
内戦が終わったとはいえ、
その悪影響ははかり知れないものがあります。
・・・
それでは、カンボジアの政治をみてみましょう。
まず、KRの元幹部たちを裁くKR裁判です。
ポル・ポトは1998年にジャングルで病死したものの、
大量虐殺を指揮したKRの元幹部たちが生存していたので、
1997年から、元幹部たちを裁こうとする動きがはじまりました。

しかし、ポル・ポト政権後、
カンボジアには基本的な法律がありませんでした。
新しい法律が整備されなければ、
元幹部たちを裁くことができません。
そこで、
2009年にはフランスの支援で新しい『刑法』が施行され、
2011年には日本の支援で新しい『民法』が施行されました。
また、カンボジア政府と国連が『特別法廷』を設置し、
カンボジア人と外国人の裁判官の合議体による
公平な裁判を行えるようにしました。

こうした努力の末、
S21で政治犯の処刑を指揮していたドゥイッの有罪判決が確定しました。
他にも4名の元幹部が罪を問われており、現在審議中です。
日本政府はこのKR裁判に必要な資金の約半分を拠出するとともに、
最高審判事として野口元郎を派遣するなどの支援をしています。
ただ、人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは、
KRの元幹部たちが多数在籍している人民党の圧力により、
裁判のための捜査が十分に行われていない、などの問題を指摘しています。

・・・
カンボジアでは政治的腐敗・汚職の問題が深刻です。
国際NGOトランスペアレンシー・インターナショナルの
汚職度調査(2009年版)によれば、
カンボジアは180ヵ国中159位(日本は17位)にランキングされています。
カンボジアでは法整備が進んでいますが、法整備が進んでも、
政治的腐敗・汚職がはびこっており、法律が有名無実化しています。

カンボジアの実態をみてみると、たとえば、警察は誰かを逮捕しても、
賄賂と引き替えに放免することがあります。
このため、警察官に賄賂を払うことのできる富裕層は逮捕されず、
貧困層だけが逮捕されてしまいます。
さらに、政治的腐敗・汚職による経済的損失も深刻で、
米国国際開発庁が2004年に調査した結果によれば、
その額は年間3〜5億ドルに上ります。

こうした問題が起きる原因の一つとして、
公務員の給料が低すぎるため、
給料だけでは生活していけないことがあげられます。
近年、カンボジア政府は抜本的な税制改革に乗り出しています。
日本政府は専門家を派遣して研修を実施したり、
必要な機材を投入するなどの支援をしています。
カンボジア政府の税収が増えれば、
こうした腐敗は減少すると期待されます。

・・・
カンボジアでは、内戦は終わりましたが、
近年、タイとの間で領土紛争が起きています。
タイとの国境付近に『プレアビヒア寺院』というヒンドゥー寺院があります。
これはアンコール・ワットよりも約300年前にたてられたものです。

(プレアビヒア寺院)
断崖絶壁の上にあるため、以前はアクセスするのが困難でしたが、
いまでは歩道が整備されてアクセスしやすくなり、
観光資源としての価値が見込めるようになりました。

(プレアビヒア寺院からみたカンボジアの大地)
しかし、2008年、カンボジアの申請により世界遺産に認定されると、
このプレアビヒア寺院の領有権をめぐって、
タイとの間で紛争が生じるようになりました。
タイとカンボジアが用いる地図が異なり、
互いにプレアビヒア寺院が自国の領土にあると主張しているためです。
これは、日本と韓国、中国との領土争いに似ているように思われます。

また、カンボジアからだと断崖を登らなければならないのに対し、
タイ側からは容易にアクセスできることも、問題を複雑にしています。
互いの領土問題にかかわるため、
解決に至るにはまだ時間がかかりそうです。
「武器と爆発物の取引は禁止されています。武器は世界を滅ぼします。」


・・・
次に、カンボジアの環境問題をみてみましょう。
カンボジアには東南アジア最大のトンレサップ湖があります。
約100万人がこのトンレサップ湖に船を浮かべて暮らしていて、
水上生活者の規模は世界一です。

トンレサップ湖は、
乾季は水深1m、面積2700平方kmほどしかありませんが、
雨季になるとメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流します。
その結果、トンレサップ湖は、
水深は9m、面積は6倍の16000平方kmになります。
このとき、トンレサップ川が逆流することによって、
トンレサップ湖およびその周辺に大量の養分が発生します。
その結果、トンレサップ湖では魚が大量発生し、
その周辺でも農業の生産効率が高まるという利益があります。

ところが、このトンレサップ湖周辺を脅かす問題が起きています。
中国が、メコン川の上流地域に、
水力発電ダムを3基建設したのです。
このため、下流で水位の減少や漁獲高の減少が報告されています。
また、生物が上流と下流の間を行き来することが難しくなるため、
多くの生物種が絶滅に追い込まれるとみられています。
たとえば、メコンイルカは、以前は頻繁に目撃されていましたが、
いまでは殆ど目撃されなくなりました。
「僕は自然が大切だと思います」

中国は水力発電ダムをあと12基建設する予定です。
もし建設が予定通りに進めば、メコン川の下流地域、
特にトンレサップ湖周辺とメコンデルタ地域に、
漁獲高の減少や、砂漠化、生物多様性の消失など、
深刻な環境問題をもたらすと考えられています。
流域諸国が集まって協議するメコン川委員会は、
中国に対して水力発電ダムの建設の凍結をもとめましたが、
交渉はうまくいっていません。
中国のダム開発は、
メコン川流域に住む6千万人の暮らしに影響を及ぼします。
このため、中国の動きにはこれからも要注目です。

・・・
続いて、カンボジアの経済面をみてみましょう。
カンボジアは『後発開発途上国』だったものの、
1991年のパリ和平後、先進国の支援を得て、
順調な経済成長を続けています。

カンボジアの主要産業は農業です。
国民の約6割が農業に従事しており、
コメを中心とした農業は重要です。
しかし、その生産性は概して低いため、
日本政府は、コメの優良種子を利用した
稲作に関する技術協力などを行なっています。

農業以外では、人件費が低いことを背景として縫製業が盛んです。
首都プノンペンには、
リーバイスやZARA、GAP、ユニクロなどの縫製工場があり、
農村出身の若い女性の働き口となっています。
「わたしはきれいな洋服が大好きです」

しかし、2012年5月、従業員による待遇改善を求めるストライキが起きました。
いつまでも低賃金のまま雇うわけにはいかないでしょう。

・・・
パリ和平後、人件費が安いことを魅力に
多くの外国企業がカンボジアに進出してきています。
それにより景気が良くなるのはいいのですが、
負の影響もあります。
その一つとして、土地問題があります。
カンボジア政府は広い土地を民間企業に長期間貸し付けて、
民間企業の経済活動を促進しています。
しかし、民間企業に土地が貸し付けられると、
元々そこにいた住民たちは強制退去させられ、
家と財産を瞬時になくしてしまうのです。
東京に本拠を置く国際人権NGOヒューマンライツ・ナウは、
土地政策に対して住民たちが抗議しても、
カンボジア政府は軍隊を派遣して鎮圧したり、
不当逮捕などしている、と指摘しています。

・・・
カンボジアは経済成長をしていますが、
経済発展の恩恵にあずかっているのは都市部に住む一部の人だけです。
少し郊外に行くと人々は何十年前と変わらない生活をしています。

そして、農村で安定した収入を得るのは難しいため、
都市部に流れていく人が後を絶ちません。
しかも、プノンペンに来ても、
学歴がないために稼ぎの良い仕事につけず、スラムに住むことになります。
いま、プノンペンの人口は140万人ですが、
そのうち40万人がスラムに住んでいるといわれています。
「僕の大切なものはおうちさ」


スラムに住めればまだよい方で、
ゴミ山でゴミを拾ったり、
物乞いやストリートチルドレンになる場合も多いのです。
「ボクのたいせつなものはゴミだよ」


現地で日本語教師として働いていた小島幸子は、
現地でお菓子をつくって販売する『アンコールクッキー』を開店しました。
このお店では、都市部出身者を雇わず、
あえて地方出身者を雇っています。
それにより、恵まれない地方出身者の雇用を増やしているのです。
彼女は、一方的に援助するのではなく、若い人たちが
自分の足で自立して生きていくために
働く場所を提供することが必要だと考えています。
時間と労力はかかるでしょうが、
一方的に援助をするよりもずっと効果的かもしれません。

・・・
パリ和平後、カンボジアには、多くの外国人が
世界遺産のアンコール・ワットを訪ねるようになりました。
外国人観光客が増えると外貨を得ることができますが、
そこにも負の影響があります。

その一つが、外国人観光客による買春の増加です。
カンボジアでは貧しさゆえに子どもの人身売買が後を絶ちません。
特に、女の子の場合は、売春宿という働き口があるため、
簡単に売られてしまうのです。
また、男の子も安泰ではなく、物売りや工場での労働力、
臓器移植のために売られてしまうことがあります。
「わたしの大切なものは家族です」


NPO法人かものはしプロジェクトは、
カンボジアの人身売買問題を経済面から解決すべく、
貧困地域で雑貨づくりを支援し、
作られた雑貨を日本で販売するフェアトレードをしています。
また、同団体は、
国連児童基金(UNICEF)や国際NGOワールドビジョンとともに、
警察による人身売買の取り締まりを強化するための訓練も実施しています。
この結果、一般市民の間でも「子どもの売買は悪いことだ」という認識が広がり、
人身売買の被害は減ったとみられています。

・・・
次いで、カンボジアの医療をみてみましょう。
カンボジアは、トイレなどの衛生施設の普及率が世界で最も低い国のひとつです。
トイレなどの衛生施設を使用できるのは全人口の約17パーセントにすぎません。
そして、水と衛生の問題のために、毎年何万人もの子どもが命を落としています。

そこで、UNICEFはカンボジア政府と共に衛生施設の整備を進めています。
この際、ハイテクな施設ではなく、竹やヤシの木などの簡単な材料を用い、
住民を巻き込んで整備にあたることにより、
住民が自ら進んで衛生施設を維持できるようにしています。

カンボジアでは、安全な水にアクセスできるのは
全人口の約41パーセントにすぎません。
このため、各団体は農村地帯で井戸を掘る活動をしています。

ところが、せっかくの井戸が高濃度のヒ素で汚染され、
住民が重いヒ素中毒になってしまう事態が続出しました。
これと同じことが既にバングラデシュやインド、ケニアなどでも起きており、
深刻な社会問題となっています。
井戸を掘るという行為自体は善意によるものなのですが、
水質調査をしたり、
ヒ素除去フィルターをセットで渡すなどの対処が必要でした。
人助けをしようという気持ちだけでは不十分で、
ある程度の知識も必要だという訓示のように思えます。

・・・
1991年、カンボジアではじめてHIV/エイズが発見されました。
以後、カンボジアではHIV/エイズが猛威を振るっています。
カンボジアでは男性の不倫は容認される傾向があるため、
男性が買春してHIVに感染し、
妻、さらには子どもへと感染が拡大してしまうのです。
1997年にはHIV感染率はピークの3%を記録してしまいました。
そこで、カンボジア政府がコンドームの使用を奨励する政策を実施したところ、
HIV感染率は1.6%まで下がりました。
HIV感染率は減少しているものの、
親をエイズで亡くしたエイズ孤児が大量にうまれ、
その多くがストリートチルドレンとなるため、
大きな社会問題となっています。

また、カンボジアではHIV/エイズに対する理解が乏しく、
エイズ患者が差別を受けることも大きな問題です。
エイズ患者が受ける差別としては、
たとえば、医療サービスを受けられない、
仕事を続けられない、家族からも見放される、
お墓への埋葬を拒否されるなどがあります。

カンボジア政府は、
首都プノンペン郊外にHIV感染者を集めた集落(エイズコロニー)をつくって
感染者を強制隔離しています。
しかし、国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは、
この政策がエイズ患者に対する差別を助長していると批判しています。
エイズ問題は医療だけの問題ではなく、人権問題でもあるのです。
・・・
最後に、カンボジアの教育をみてみましょう。
「私の大切なものは学校です」


カンボジアは人口の約40%を子どもが占める、子どもが多い国です。
このため、教育は復興の要となる分野です。
カンボジアの教育システムはポル・ポト時代に徹底的に破壊されました。
ポル・ポト時代には、教師の約75%、初等・中等教育を受けた生徒の67%、
高等教育を受けた生徒の80%が殺害されるか、
強制労働で死亡するか国外に亡命したといわれています。
加えて、学校施設は閉鎖され、印刷物は破棄され、教育システムが消滅しました。
このため、ポル・ポト時代から30年以上たった今でも、
教員や学校、教材が不足しています。
このような問題は地方になるほど深刻です。

また、親の教育に対する理解が低いことや、
教師の質が低いことなどもあいまって、
義務教育を終える前に退学する生徒が多いことも特徴的です。
特に1、2年生で退学することが多く、
この場合、読み書きも身につきません。

そこで、UNICEFは、
就学年齢の子どもたち全員が学校へ通え、
教師に質の高いスキルがあり、
子どもたちが清潔で安心した環境で学ぶことのできる
『子どもに優しい学校』をつくる活動をしています。
UNICEFは、学校に井戸やトイレをつくったり、
教材や遊具、給食を支給するなどの支援をしており、
この結果、UNICEFが支援する小学校では、
ほとんどの子どもが退学せずに中学校に進学しています。

他、JHP・学校をつくる会や、米百俵スクールプロジェクトなど、
さまざまなNPO法人がカンボジアで学校をつくっています。
なかには、大学生がお金を集めてカンボジアで学校をつくった例もあり、
向井理主演の映画『僕たちは世界を変えることができない』になりました。

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さて、カンボジアが抱える様々な課題を取り上げてきました。
史上最悪の大虐殺と内戦があり、今も多数の地雷が埋まっています。
そして、政治的腐敗や、人権侵害、領土問題、人身売買、HIV/エイズ、など、
さまざまな問題を抱えています。
しかし、筆者がカンボジアを訪ねたときに一番印象に残ったのは、
そうした負の面ではありませんでした。
何よりも、子どもたちの屈託のない笑顔が一番印象に残りました。
目がキラキラしていて、本当に純粋な感じがします。
人は貧しくとも、幸せでいられるということを教えられた気がしました。

そして、一番の思い出は、
アンコール・ワットのあるシェムリアップでのことです。
中学生くらいの女の子から絵葉書セットを買いました。
正直、絵葉書を買いたいとは思いませんでしたが、
1ドルと安いし、女の子にお小遣いをあげるつもりで買いました。
帰国後、中を開けると、メッセージカードが入っていました。
「アンコール・ワットに来てくれてありがとうございます。
あなたとお話しできてうれしかったです。
私のことを忘れないでください。
そして、またアンコール・ワットに来てください。
あなたと家族の健康をお祈りします。
そして、お仕事がうまくいくようにお祈りします。」
カンボジアの子どもの純粋な思いに感動しました。
そして、人間として純粋な気持ちを失ってはいけないと心から感じました。
カンボジアはこれからどんどん復興していくでしょう。
これから変わっていくことも多いでしょうが、
それと同時にカンボジアの良さが、
これからも残り続けることを心から願います。

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絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004、2009)
村松昌枝(2005)
矢野弘明(2009)
矢野正高(2009)
画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明
編集完了日:
2012年12月16日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/