
シエラレオネは、西アフリカの海岸沿いに位置し、
北海道くらいの面積のなかに約580万人の人口を擁する国です。
「僕の大切なものは、この国の地図です」

シエラレオネには、テムネ族や、メンデ族、
クレオール人(黒人と白人の混血)などの民族がいます。
公用語は英語ですが、地方に行くとメンデ語など
民族固有の言語が使用されています。
宗教は、イスラム教徒が6割、キリスト教徒が1割、
精霊信仰(アニミズム)が3割を占めます。
「私の大切なものはイスラム教の教えとモスクです」
主要産業は、ダイヤモンドなどの鉱業と、カカオやコーヒーなどの農業です。
シエラレオネで採掘されるダイヤモンドは品質がよいことで知られています。
このダイヤモンドが一因となって、
1991−2002年まで史上最悪とも言われる
凄惨な内戦がおきました。
その様子は、映画『ブラッド・ダイヤモンド』でリアルに表現されています。
この内戦により、国内のインフラは破壊され、
またインテリ層の多くが国外に亡命しました。
その影響により、シエラレオネは
世界でもっとも開発が遅れている国の一つとなっています。
国連開発計画(UNDP)は、毎年『人間開発報告書』を出版し、
人間にとっての住みやすさを示す
人間開発指数の国別ランキングを公表しています。
2008年の人間開発報告書で、シエラレオネの人間開発指数は
179か国中で最下位でした。

・・・
古くから、シエラレオネには、
テムネ族やメンデ族などの部族が暮らしていたと考えられています。
そこへ、1447年にポルトガル人航海士がシエラレオネに上陸し、
ライオンの山を意味する『シエラレオネ』と名付けました。
以後、シエラレオネはポルトガルの交易基地として発展しました。

ポルトガルが衰退すると、
かわってイギリスがシエラレオネを支配するようになりました。
イギリス人たちは1562年から
シエラレオネで奴隷を獲得するようになりました。
しかし、18世紀後半にイギリスで奴隷貿易廃止運動が巻き起こると、
1787年からイギリスは黒人奴隷たちをシエラレオネで開放するようになりました。
「僕の大切なものは船です」


1808年、シエラレオネはイギリスの直属の植民地になりました。
1833年にイギリスで奴隷貿易が廃止されると、
シエラレオネは解放奴隷の入植地となりました。
首都フリータウンは、
その名の通り解放奴隷のための居住区として開発されたものです。
1960年はアフリカで多くの独立国家が誕生し、『アフリカの年』と呼ばれました。
その流れに乗り、翌1961年、シエラレオネはイギリス連邦国家として独立しました。
「僕は国旗を描きました。
緑は農業、白は平和、青は海を表しているんですよ」


1971年、シエラレオネは共和国に移行すると、
最大部族テムネ族による一党独裁政治がつづき、
国内では腐敗が蔓延し、治安は悪化、不満を訴える国民は弾圧されました。
1985年には、軍の司令官でテムネ族出身のモモが大統領に就任し、
引き続き独裁政治を断行しました。
そして、ダイヤモンド採掘事業が国営化されると、
その利益が一部の政治家により牛耳られたこともあり、
国民の政府に対する不満が高まりました。
「僕はフォディ・サンコーの絵を描きました」
そこで、この腐敗を打倒するため、
1987年、フォディ・サンコーがエジプトの隣にあるリビアに行き、
後にシエラレオネの南隣のリベリアで武装蜂起し、
後にリベリア大統領となるチャールズ・テイラーとともに軍事訓練をうけました。
サンコーは黒人イスラム教徒を中心とした
反政府勢力の『RUF(革命統一戦線)』を創設しました。
1991年3月、フォディ・サンコー率いるRUFがシエラレオネで武装蜂起し、
シエラレオネの南部にあるダイヤモンド鉱山を支配しました。
RUFは採掘したダイヤモンドを、
隣国リベリアで武装蜂起したチャールズ・テイラーに密輸し、
その代わりにテイラーからAK−47(カラシニコフ)などの小型武器を
大量に譲り受けていたと言われています。
そして、RUFは大量の武器をつかって村々を襲い、
そこで捕えた男たちはダイヤモンド鉱山の労働力にし、婦女子は性奴隷にし、
子どもたちは麻薬漬けにして『子ども兵』として戦闘に参加させました。

・・・
1992年4月、シエラレオネでクーデターが起き、
翌5月にはRUFではない別の勢力による軍事政権が成立すると、
モモ大統領は隣国ギニアへ亡命しました。
この後、RUFは領地を広げていき、
1995年には首都フリータウン目前に迫りました。
そこで、シエラレオネ政府は南アフリカの傭兵会社から多数の傭兵を雇い、
またメンデ族の民兵組織であるCDF(市民防衛軍)とも提携しました。
この結果、RUFを国境付近に押し返すことに成功しました。

ところが、今度はRUFにかわってCDFがダイヤモンド鉱山を
支配するようになるなど、内戦はより複雑化しました。
また、その後RUFが勢いを取り戻すと、村々を襲撃して民間人を殺害し、
外国人を拘束するなどしたため、シエラレオネの治安は悪化の一途をたどりました。

そんな中、1996年3月に選挙によりカバ氏が大統領に就任しました。
しかし、その前から、RUFは選挙妨害などを目的として、
民間人の手足を切断するようになりました。
いま、シエラレオネには手や足のない人が1万人以上いて、
そうした人の多くが仕事に就くことができません。

なお、この手足を切断するという手法はRUFが独自に考えたものではなく、
ベルギー人たちが19世紀末に当時ベルギー領だったコンゴでしていたものでした。
「僕は人の手足を切断するなどという残虐行為をなくしたいです」
1997年5月、シエラレオネ政府軍の軍部がクーデターを起こしました。
これにより、カバ大統領はギニアへ亡命、
かわりにRUFが首都フリータウンに流入し、
フリータウンで殺戮や暴行、略奪が横行するようになりました。

そこで、1998年2月、
ナイジェリア軍を中心とするECOMOG(西アフリカ諸国平和維持軍)が介入し、
クーデター派を撃退し、カバ大統領が政権に復帰しました。
その後、1999年1月にはRUFが再びフリータウンを占領し、
その数週間後にはECOMOGが再びRUFを撃退するなど、
RUFとECOMOGの一進一退の戦いが続きました。
しかし、1999年7月、アメリカ(クリントン政権)の仲介により、
ついにカバ大統領とサンコーとの間の和平協定『ロメ合意』が結ばれました。

ただし、このロメ合意は、サンコーにとって極めて有利なものでした。
シエラレオネ政府は、
RUFの人権侵害を問えず、RUFの政党化を認め、
RUF首領のサンコーを副大統領に就任させ、
かつサンコーをダイヤモンドを支配できる天然資源大臣に任命する
などの条件をのんだものでした。
「わたしはシエラレオネとアメリカの関係が重要だと思います」

1999年10月、国連安保理は、PKO(国連平和維持活動)として、
『UNAMSIL(国連シエラレオネミッション)』を派遣し、
伊勢崎賢治が主導するなか
『DDR(元兵士の武装解除および社会復帰)』をすすめました。
しかし、2000年5月には、RUFにより
約500人ものUNAMSIL職員が人質にとられる事件が起きました。
また、フリータウンのサンコー宅の外で、
RUFに対する抗議デモが起きましたが、
サンコーのボディーガードが20人を射殺する事件も起きました。
こうした行為は和平協定に反するため、サンコーとその側近は逮捕されました。

その後、イギリス軍が、外国人を退避させ、治安を維持する活動を続けました。
そして、国連安保理はRUFの資金源となる
ダイヤモンドの密輸を全面的に禁止したのが決定打となり、RUFは衰退しました。
2000年11月には『ECOWAS(西アフリカ経済共同体)』諸国の仲介により、
シエラレオネ政府とRUFとの間で停戦合意し、
2001年5月には首都フリータウンで改めて停戦合意に調印しました。
2002年1月に、UNAMSILが
RUFとCDFの兵士4万7千人の武装を解除すると、
ついにカバ大統領が11年続いた内戦の終結を宣言しました。

ロメ合意によればRUFは人権侵害の罪を問われないことになっていましたが、
国連安保理の決議を受けて、
首都フリータウンに内戦中の残虐行為を裁く
『シエラレオネ国際戦犯特別法廷(SCSL)』が設立されました。
ところが2003年7月、
サンコーはSCSLの判決を待たずに獄中で病死してしまいました。
一方、同年8月には、アメリカの介入により、
隣国リベリア大統領のチャールズ・テイラーが
紛争ダイヤモンドの売買に関する疑惑により逮捕されました。
チャールズ・テイラーについてはSCSLで審議が行われており、
2012年4月に結審となる見込みです。
こうして、シエラレオネ内戦は終結し、いまのシエラレオネは平和になりました。
しかし、国民の半数にあたる200万人以上が避難民となり、
50万人以上が死んだとも言われています。
まさに史上最悪の内戦でした。

・・・
さて、RUFは内戦をひきおこして国中を大混乱に陥れましたが、
もともとは腐敗したシエラレオネ政府を打倒するために立ち上がった組織でした。
このため、内戦勃発時は、RUFを支持する国民も多かったのです。
しかし、内戦が長引いた結果、
RUFはサンコーも統率できない
殺戮と略奪を繰り返すテロ集団となってしまいました。
そして、その最大の犠牲者が子どもたちでした。
「僕は内戦のない平和な世界を望みます。
屋根のある家に住み、学校に通い、いっぱい遊びたいです」
内戦中、RUFは農村を襲撃すると、
8歳以上の子どもたちを捕獲し、子ども兵に仕立て上げました。
一時は、RUFの約半分が子ども兵だったと言われています。
RUFが子ども兵を多用した理由は、
子どもは洗脳すれば大人以上に残虐になる点と、
そして、農村を襲撃すれば簡単に捕獲できるので
死んだとしてもRUFにとって損失が少ないという点で有利だからでした。

子どもを兵士にするための手口も卑劣です。
RUFに捕獲された子どもたちは、まず、こめかみあたりに傷をつけられ、
そこから直接コカインなどの麻薬をすりこまれます。
もともと子どもは道徳的観念が希薄なので、
麻薬漬けになると、子どもの人格は簡単に崩壊します。

そこで、訓練のために民間人を殺害させられます。
なかには、生まれ育った村を襲撃させられたり、
親や兄弟を殺害させられた子どももいます。
こうすれば、子どもたちは帰る場所を失い、
RUFに忠誠を誓うようになるからです。
以後、子どもたちは、殺人や略奪、
レイプといった残虐行為を平気で繰り返す戦闘マシーンと化してしまうのです。

また、RUFでは、残虐な行為をしたものほど出世させていたため、
子ども兵たちはゲーム感覚で競うように残虐行為に走りました。
その結果、子ども兵たちは民間人の手足を切断したり、
目をえぐるなどの凶行を繰り返すようになりました。
このように子どもが残虐行為に走った理由の一つとして、
DDRの責任者だった伊勢崎賢治は『ファッション性』を指摘しています。
貧困と腐敗が蔓延し、若者が未来に希望を持てないこの国にあっては、
銃を手にして破壊行為を繰り広げる姿は、
ロックスターのように「かっこよく」見えるというのです。
「僕はミュージシャンになるのが夢です」


子ども兵は少年ばかりではありません。
少女たちも兵士として戦闘に参加させられました。
少女兵たちの場合、食事を作らせられたり、
重労働に従事させられたりするほか、
日常的に性的虐待を受けていたため、
少年兵よりも少女兵たちの方が悲惨といえるかもしれません。
「僕は子どもの権利を守りたいです。
子どもにはいかなる形態のセクハラも受けない権利があります」


また、子どもを兵士にしていたのはRUFだけではありません。
政府軍も子どもを兵士として使用していました。
政府軍の子どもの多くが戦争孤児で、
両親を殺された怒りと生活のために銃をとっていました。
しかし、政府軍に参加した子ども兵たちも、
国のためにはRUFを一人残らず殺さなければならないと教え込まれました。
こうしてみると、シエラレオネ内戦では、政府軍、RUFの双方とも正義はなく、
怒りに駆られて泥沼の戦いを繰り広げていたと言わざるをえません。

内戦が終わると、子ども兵たちは、
UNICEF(国連児童基金)やカリタス(キリスト教系団体)、
セーブ・ザ・チルドレンなどのNGOが作った更生施設に送られ、
麻薬中毒から離脱させられた後、
心の治療を受けたり、職業訓練を受けるなどしました。
しかし、元子ども兵たちは、麻薬中毒が治らなかったり、
親が見つからなかったり、また親元に帰されても
元子ども兵だからと村で差別をうけるなどの問題もあります。
また、元少女兵たちが生活のために売春をするケースも報告されています。
11年にわたる内戦の影響はかくも根深いのです。
・・・
「僕はこの国の農業、インフラ、
教育などを立て直すことが重要だと思います」


シエラレオネでは、内戦により、
国民の約半分の200万人もの難民・国内避難民がうまれました。
終戦とともに難民・国内避難民の多くが元の居住地に戻るようになりますが、
元の居住地に戻ってもインフラ(道路、電気、水道など)が破壊されていて、
以前のような暮らしをすることはできません。
「私はお父さんが大好きです。
その他、トイレ、安全な水、学校、
野菜、障がい者の支援も大切だと思います」


そこで、NPO法人ピース・ウィンズ・ジャパンは2001年4月から、
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と提携し、
シエラレオネ帰還民キャンプを運営しました。
そして、内戦の中心地となったダイヤモンド鉱山の付近で井戸掘削などを行い、
帰還民の再定住を促進しました。
この結果、多くの難民・国内避難民が元の居住地に再定住し、
2006年末にはこのプロジェクトを終了しました。

・・・・
「僕はダイヤモンドを悪用する人を取り締まりたいです」
シエラレオネでは、良質なダイヤモンドが採掘されますが、
そのダイヤモンドが国に豊かさをもたらすことはありませんでした。
内戦前はダイヤモンドがもたらす富を一部の政治家が牛耳り、
国民の不満を高める原因となりました。
また、内戦中はダイヤモンドがRUFの資金源となり、
内戦を長引かせる原因となりました。
そのダイヤモンドはデビアス社(世界最大手の企業)などの宝石メーカーが
先進国で販売していましたから、
我々先進国の人たちがダイヤモンドを購入すると、
知らないうちにRUFの活動を支援してしまうという構図ができていました。

このような事態を打破するべく、グローバル・ウィットネスや
アムネスティ・インターナショナルなどの人権NGOが主導し、
紛争ダイヤモンドの取引を禁ずる『キンバリー・プロセス』が成立しました。
これにより、ダイヤモンド業界は、
取引するダイヤモンドが紛争ダイヤモンドではないことを
証明する義務が課されるようになり、
紛争ダイヤモンドの数は大きく減少したと言われています。
しかし、第三者によるモニタリングができないなどの問題が依然として残っています。
そして、シエラレオネの内戦は終結したものの、
アンゴラなど他のアフリカ諸国で同様の問題が残っているため、
世界の紛争に加担しないためには
ダイヤモンドは購入しないのが最善といえそうです。

シエラレオネの内戦は終結しましたが、
世界に覇紛争が続いている国が未だにたくさんあります。
その紛争の当事者の多くが、石油や金、
また、携帯電話などの電子機器の製造に必要な
レアメタルなどの天然資源を資金源としています。
先進国の経済活動が、
世界の紛争を間接的に支援してしまうという問題は未解決のままです。
・・・
「僕の大切なものは学校です」


シエラレオネは、世界でもっとも教育水準が低い国の一つです。
識字率、就学率のいずれとも世界で最低の水準です。
その理由として、まず、内戦中、
子どもたちが教育を受けることができなかったということがあげられます。
また、義務教育制度の配備が遅れていることもあげられます。
さらに、シエラレオネでは、子ども(7−14歳)の就業率が高く、
働いているため学校に通えない子どももたくさんいます。

国民の教育水準が低いと様々な問題が起こります。
まず、教育を受けられる人と、そうでない人との間に雇用の機会の差が生まれ、
大きな経済格差が生じます。
また、内戦後、経済や医療などの様々な分野で国を支える人材が育たず、
諸外国からの支援に頼るようになります。
さらに、家族計画の大切さを教えなければ、
人口爆発やそれにともなう
乱開発や雇用不足に歯止めをかけることが出来ません。
そこで、NGO『手を貸す運動(キリスト教系団体)』は、
内戦前の1980年から、人材や物品をおくったり、
井戸を掘ったりするなどして、
シエラレオネの学校の支援活動をつづけています。

また、国際NGOプラン・インターナショナルは、
生活苦のために働かざるを得ない貧困層の若者を対象に
マイクロ・ファイナンス(小規模金融)を実施しています。
これにより、貧困層の若者もマイクロクレジットで生活し、
教育を受ける機会が確保されるようになりました。
・・・
「私は貧困をなくしたいです」

シエラレオネは、内戦が起きる前から
世界の最貧国の一つとして数えられてきました。
ダイヤモンドがもたらす富が一部の権力者によって独占されていたからです。
そのうえ、内戦により国内のインフラが破壊されたため、
経済成長のためにはインフラの復興が急務となっています。
たとえば、首都フリータウンでは、電気系統が破壊されてしまい、
これが経済成長をするうえでの足かせになっています。
そこで、日本政府は無償で首都フリータウンの
発電・送電システムの復興を支援しました。
「僕は農作物を生産している農夫さんたちが大切だと思います」


また、シエラレオネでは国民の約半分が農業に従事していますが、
内戦により農業関連施設が破壊されたため、
国内で生産できる食糧が不足しています。
このため、外国からの支援に頼らざるを得ない状態が続いています。
そこで、日本政府は、2006-2009年まで、日本人専門家を派遣し、
国連開発計画(UNDP)や国連食糧農業機関(FAO)とともに
農業技術支援をし、2011年度には無償の食糧援助も行ないました。
内戦によりシエラレオネの農業は衰退したため、
シエラレオネは輸出の大部分は
ダイヤモンドなどの天然資源で占められています。
そこで、株式会社立花商店は
天然資源に代わる輸出品目の一つとして
シエラレオネのカカオ産業の事業性を調査しました。
2011年、その事業は
JETRO(日本貿易振興機構)に認められました。
カカオ産業がシエラレオネの経済を支える日も近いかもしれません。

シエラレオネでは、内戦により、各地の水関連施設も破壊されました。
安全な水にアクセスできなければ、
住民は下痢や腸チフスなどの病気になってしまうほか、
水汲みにかり出される子どもの就学の機会を奪うことにもつながります。
そこで、日本政府は、2009年、シエラレオネの西部の街で
上下水道の整備を行なうための資金援助をしました。
これにより、安全な水にアクセスすることのできる人口が
3400人から28500人と大幅に増加する見込みです。

「わたしの大切なものは
バングラデシュを建国したムジブル・ラフマンです」


バングラデシュのグラミンフォン社は、
バングラデシュのグラミン銀行と、
ノルウェーの通信キャリアであるテレノール、
日本の丸紅が提携して作った携帯電話会社です。
バングラデシュで、
女性や農村部にいる人たちに携帯電話を普及させることにより、
新たなビジネスチャンスを与え、
所得を向上させることに成功しました。
その後、アフリカ諸国でも活動をしており、
このシエラレオネでも携帯電話の普及活動をしています。
シエラレオネで新たなビジネスがうまれる土台となりました。
・・・
「私は植林をしてこの国の緑を守りたいです」

シエラレオネでは、復興にむけてインフラの整備が進んでいますが、
その裏側で、自然破壊が進行していることも見逃せません。
シエラレオネでは、炊事などに必要なエネルギー資源の大半を
森林資源に頼っているため、内戦終結後、急速に森林伐採がすすんでいます。
また、首都フリータウンの近郊の森には、
チンパンジーの中でも最も絶滅が危惧されている
ニシチンパンジーが生息していますが、
このニシチンパンジーの個体数も激減しているとみられています。
森林伐採や、狩猟や売買目的の捕獲が主な原因と考えられています。

そこで、シエラレオネ政府は、
2007年にはチンパンジーの捕獲や殺害を禁ずる法律を制定しました。
また、2009年にはチンパンジーの包括的な生息調査をおこないました。
調査結果は、チンパンジーを繁殖させて自然に戻すときに役立てられます。
・・・
「僕は医学を学んで立派な医者になりたいです」


シエラレオネは、世界でもっとも平均寿命が短い国の一つで、
特に、内戦中の1995年には34歳という驚異的に短い数値を記録しました。
これは、内戦によって多くの人が死傷したのはもちろん、
もともと富裕層である医師や看護師の多くが国外に退去して
医療体制が崩壊したため、
治療を受けられずに病死する人も多かったためです。
医療体制が崩壊するとまっさきに被害にあうのが子どもたちです。
内戦中の5歳未満死亡率は約1/3と驚異的に高かったのです。

シエラレオネの医療は、内戦は終わった今でも様々な課題を抱えています。
まず、シエラレオネでは、乳幼児死亡率が世界最悪レベルです。
その理由のひとつとして、シエラレオネでは、大地から恩恵を受けるために、
生まれてきた子どものへその緒を地面にこすりつける習慣があり、
これにより子どもが破傷風に感染してしまう危険性が高まることがあげられます。
こうした習慣は、医療面に関して言うならば害ですが、
現地の人たちにとって大切な伝統文化なのです。
「わたしは伝統的な儀式を守りたいです」

そこで、UNICEF(国連児童基金)は、
シエラレオネの子どもが罹患する病気の一つである
新生児破傷風の罹患率と死亡率を減らすために、
破傷風の予防接種や錠剤の投与、
ビタミン剤を投与するなどの活動をしています。

また、UNICEFやイギリス政府などの援助により、
病院や診療所への物流網を確保し、
2010年からシエラレオネ政府は、
授乳中の母親や5歳未満の子どもを対象に医療を無償にするようになりました。
「私の大切なものは医療機器です。これらがないと医療はできません」


シエラレオネは、妊産婦死亡率も世界最悪レベルです。
シエラレオネでは助産師や産婦人科医が不足しており、
ほとんどの妊婦が自宅で出産していることが一因です。
そこで、国際NGO国境なき医師団は、シエラレオネ政府と協力し、
各地の診療所で数千人におよぶ妊婦のケアや産科治療をしています。
「わたしの大切なものは病院です」


シエラレオネでは、女性器切除(FGM)の実施率が約9割と高く、
FGMが実施された女性は難産になりやすいため、
これが妊産婦死亡率が高いことの一因だと言われています。

国連人口基金(UNFPA)などの国際協力団体は、FGMを実施しても、
産科ろう孔(フィスチュラ:女性の産道に孔が開く病気)になるなど、
女性の健康が損なわれるだけで、健康上のメリットは何一つないため、
FGMをなくすよう働きかけています。
「わたしは自然と調和した伝統文化が大切だと思います」

しかし、現地の女性たち、特にすでにFGMが実施された女性たちにとっては、
FGMを否定されることは自らの伝統文化が否定されることを意味します。
このため、国際協力団体がFGMをなくそうと働きかけても、
FGMが実施された女性たちの多くがその動きに反発します。
FGMを女性の健康を害する悪習とみるか、
あるいは現地の人たちの自尊心にかかわる伝統文化とみるかは、
これからも意見の分かれるところでしょう。

また、株式会社三和建設は、2009年、
国際NGOプラン・インターナショナルが実施している
母子保健所建設プロジェクトを支援しました。
この母子保健所が建設されることにより、
500人以上の幼児と、100人以上の妊婦、
出産年齢の女性600人以上が、
保健サービスを受けることができます。
そのほか、シエラレオネでは、
下痢、腸チフス、マラリア、ポリオ、肺炎、結核、エイズなど、
多くの病気が蔓延しています。
シエラレオネでは、内戦によりインフラが破壊され、
かつ医師や看護師が不足しているため、
こうした問題に対処するには長い時間を要するでしょう。
このため、これからも長い目で支援をする必要があります。
・・・
「私はシエラレオネが内戦から復興することが大切だと思います。
内戦により、人は殺されてハゲタカに食べられました。
また、多くの家が焼かれました。もうたくさんです」

シエラレオネは、11年間にわたる内戦により、世界にその名をとどろかせました。
この内戦は、子ども兵が大量に導入されていたことと、
民間人の手足を切断するなどの凶行が行われていた点で、衝撃的でした。
しかも、その内戦に、先進国で流通しているダイヤモンドが関係していたため、
我々のような先進国の国民にとっても対岸の火事ではありませんでした。
この悲惨な内戦から、私たちはいったい何を学んだらよいのでしょうか。

イシメール・ベアは、12歳の時に内戦で家族を失い、
シエラレオネ政府軍に加わって幾多の戦闘に参加した後、
15歳の時にUNICEFによって保護されました。
そして、2007年には、
子ども兵として戦っていたときの壮絶な体験を記した
『戦場から生きのびて−ぼくは少年兵士だった』を出版しました。
これは子ども兵が自らの体験をつづった初めての本で、
ふつうの子どもが麻薬漬けにされて子ども兵になっていく様子がつぶさに記載され、
世界的なベストセラーとなりました。
そのイシメールは、子どもの権利を守るためには、
子どもたちが、自分自身の声で発言できるようになり、
私たちがその声を響かせ続けることが必要だ、と訴えています。
「家庭は貧しく、子どもは軍隊に入れられる。
これがアフリカの現実です。
僕はこの現実を変えたいです」
シエラレオネの内戦は終わりましたが、
アフリカでは今も多くの国で紛争が続いています。
そして、世界約70カ国に子ども兵は30万人以上いるといわれています。
世界の子どもたちのために、
私たちにできることは何かということを、
これからも考え続けたいと思います。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
ボブ・バイオ・ジュニア(2009)、山本敏晴(2001-2003)
画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明
編集完了日:
2012年3月14日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/