
ミャンマー(ビルマ)は、日本の約1.8倍の国土と、約5200万人の人口を擁し、インド、バングラデシュ、タイ、中国と隣接し、地政学上で要衝となる国です。
また、長年にわたって鎖国をしていたり、軍事政権下では諸外国から経済制裁を受けていたため、東南アジアでもっとも開発が遅れている国です。

ミャンマーは古くから日本と強い結びつきをもちます。
たとえば、イギリスによる植民地支配を終わらせるのに日本軍が一役買いました。
また、日本が最初に政府開発援助(ODA)を開始したのがミャンマーでした。
さらに、ミャンマーでは日本の中古車や、日本の歌のカバーが大人気です。
このため、東南アジアでは珍しく親日的な国です。
この国の子どもたちが描いた大切なものの絵を見せてもらいましょう。

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民族構成は、ビルマ族が70%を占めますが、その他にもシャン族やカレン族など135の民族が居住しています。
公用語はミャンマー語(ビルマ語)です。
宗教は、ブッダの教えに忠実で、出家して修行を積むことによって涅槃にいたろうとする上座部仏教(南方伝来仏教)の信者が90%を占めますが、他にもキリスト教やイスラム教の信者もいます。
なお、日本の仏教は中国を経由して伝わった大乗仏教で、たとえば念仏を唱えることにより誰でも救済されると考えるなど、より大衆向けの教えになっています。
「僕は高僧を尊敬しています」

日本では、竹山道雄著『ビルマの竪琴』という物語がよく知られています。
これは、太平洋戦争後、ビルマに駐留していた水島上等兵が出家してビルマに居残り、竪琴を片手に亡くなった日本兵を供養するという物語です。
しかし、この物語はフィクションで、上座部仏教は音楽などの娯楽を戒律で禁じています。

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古くから、ミャンマーにはピュー族やモン族などの民族が住んでいました。
そこに9世紀ごろからビルマ族が進出し、11世紀にはミャンマーではじめての統一王朝(パガン王朝)を作りました。
このとき、ビルマ族は、モン族の文化と上座部仏教を取り入れました。

上座部仏教では、喜捨(寺や僧侶に寄付をすること)はよりよい来生をもたらすための功徳と考えられており、なかでもパゴダ(仏塔)を建設することが最大の功徳と考えられています。
このため、パガン王朝時代、ビルマ族はバガンで約2300にも及ぶパゴダを建設しました。
現在、バガンは、カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボルブドゥールとともに、仏教三大遺跡と呼ばれており、ミャンマーで最大の観光地となっています。
「私の大切なものはお寺です」


13世紀末、元(フビライ・ハーン)の攻撃を受けてパガン王朝は滅亡しました。
以後、ミャンマーでは、ビルマ族、シャン族、モン族による勢力争いが繰り返されました。
1752年、ビルマ族最後の王朝であるコンバウン王朝が建国されました。
このコンバウン王朝は、モン族の本拠地バゴーを占領し、タイのアユタヤ王朝を滅ぼすなどして、一時はビルマ史上最大の勢力図を獲得しました。
しかし、1886年に、コンバウン王朝はインドを支配していたイギリスとの戦いに敗れ、滅亡しました。
この結果、ビルマはイギリス領インド帝国に併合されました。

イギリスは、インドや中国からの移民を大量に受け入れて主要産業に従事させたのに対し、ビルマ族を小作人にさせました。
そのうえ、イギリス人をトップとし、インド人に行政を任せるとともに、キリスト教を布教したカレン族などの少数民族を警察・軍人として採用して大多数を占めるビルマ族を弾圧させました。
イギリスは、スリランカなど他の植民地でも少数民族を重用し、大多数を占める民族を弾圧させました。
これは、国民の怒りの矛先をイギリスではなく、少数民族に向けさせるのが狙いでした。
イギリスのこうした政策が、今も根深く残る民族紛争の原因となりました。
「僕は軍人になって国を守りたいです」

第一次世界大戦が始めると、ビルマ族による対イギリス独立運動が活性化しました。
1942年、アウンサン将軍(アウンサンスーチー女史の父)率いるビルマ独立義勇軍が日本軍とともにイギリス軍を駆除しました。
そして、1943年にビルマ国を建国しましたが、これは日本の傀儡(かいらい)国家でした。
日本軍はインド北東部を攻略するインパール作戦を実施しましたが、歴史的な大敗を喫し、日本軍は衰退しました。
そこで、1945年、アウンサン将軍は、今度はイギリス軍と組んで日本軍を駆除しました。

ところが、イギリスは、ビルマの独立を認めるという約束を反故にして、ビルマを再びイギリス領としました。
1948年、第二次世界大戦後イギリスの国力が低下したこともあり、ようやくビルマは独立を果たしました。
初代首相にはアウンサン将軍が就任する予定でしたが、独立の直前に暗殺されてしまいました。
そこで、アウンサン将軍を引き継ぐ形で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の総裁に就任したウー・ヌー氏がビルマの初代首相に就任しました。

ビルマは独立しても、その政情は当初から不安定でした。
まず、中国国民党軍の残党がシャン州でゲリラ活動を繰り広げました。
また、ビルマ政府は上座部仏教を優遇したため、キリスト教徒の多いカレン族やカチン族、チン族などの少数民族が独立運動を繰り広げました。
そして、少数民族や中国国民党との戦いをするうちに、軍部が強大な政治的権力をもつようになりました。
そして、1962年、軍部の最大権力者であるネー・ウィン将軍がクーデターを起こして政権を握りました。
「ぼくは軍人になって国がバラバラに分裂するのを防ぎたいです」

ネー・ウィン政権(1962−1988年)は、ビルマ式社会主義政策を標榜し、農業を除く主要産業の国有化を推進しました。
しかし、その経済政策は失敗の連続でした。
外貨が枯渇し、生産は停滞し、対外債務がかさむなどし、ミャンマーの経済は停滞しました。
1987年には、ミャンマーは国連によって世界の最貧国の一つと認定されてしまいました。

そして、経済が悪化して国民の生活が苦しくなると、1988年に全国的な民主化要求デモが起きました。
このとき、民主化運動のシンボルとなったのがアウンサンスーチー女史(アウンサン将軍の長女)でした。
アウンサンスーチー女史が母親の看病のためにたまたまイギリスから帰国していたところ、建国の父アウンサン将軍の長女ということで民主化を求める国民から熱狂的に迎えられたのでした。
「私の大切なものは花の髪飾り(アウンサンスーチー女史がいつもつけている)です」


民主化デモにより、ネー・ウィン政権は崩壊し、軍事政権が暫定的に政権をにぎりました。
軍事政権は、1989年、対外的な国名をそれまでの「ビルマ」から「ミャンマー」に変えました。
独立当時から、国内では「ミャンマー」という国名が使われていたのですが、対外的な国名を従来から使われていた国名に合わせたのです。
しかし、軍事政権に批判的な欧米のメディアは「ミャンマー」という国名を認めず、いまでも「ビルマ」という国名を使っています。

1990年の総選挙では、民主化を求めるアウンサンスーチー女史が率いる国民民主連盟(NLD)が議会の過半数を占め、大勝しました。
しかし、軍事政権は民政移管のためには新しい憲法が必要となることを理由に、政権をNLDに委譲することを拒みました。
アウンサンスーチー女史は、総選挙後に軍事政権によって自宅に軟禁されましたが、自宅軟禁中の1991年、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の功績が称えられてノーベル平和賞を受賞しました。

以後、軍事政権は、民主化要求デモが起きるたびにこれを弾圧し、アウンサンスーチー女史を軟禁するなどの人権侵害を繰り返しました。
これに対し、アメリカや日本などの諸外国はミャンマーに対してODAの新規案件を凍結するなどの経済制裁措置をとりました。

2007年9月には、ガソリン代が高騰したのを引き金に国民の怒りが爆発し、僧侶を中心とした大規模なデモ(サフラン革命)が起きました。
このデモは、軍事政権により鎮圧され、日本人ジャーナリスト1人を含む多数の犠牲者をだしました。
この軍事政権の行動に対し、欧米諸国は経済制裁の強化を断行したため、ミャンマーの経済状態はますます悪化しました。

そこに追い打ちをかけるように、2008年5月には、サイクロン「ナルギス」がミャンマーを直撃しました。
これは、東日本大震災の約7倍にあたる約14万人にのぼる死者・行方不明者の数を出し、そして240万人が被災するという大惨事となりました。

そこで、軍事政権は、国内の経済を立て直すためには民主化が必要と判断し、ようやく民主化に向けて動き出しました。
大災害の後、すぐに新憲法が承認され、2010年には新憲法にもとづいた総選挙が実施されました。
2011年1月31日、23年ぶりに国会が召集され、軍事政権における最高決定機関である国家平和開発評議会(SPDC)が解散されました。
そして、2011年3月30日、ついに新政府が発足しました。
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「私は軍事政権下で国が一つにまとまることが大切だと思います」


ミャンマーの軍事政権が長年にわたって民主化を拒み続けていたのは、少数民族の反政府活動が勢いを増す恐れがあるからでした。
特に、カレン族は、ミャンマーが独立した翌年の1949年から『カレン民族同盟(KNU)』という軍事組織をつくってミャンマー政府と激しく対立してきました。
世界で最も長く続く内戦です。
ミャンマー政府は、カレン族の村を焼き討ちしたり、集団強姦などの民族浄化(少数民族を消滅させること)をすすめてきました。
このため、カレン族のなかには土地を追われて、難民となってタイ西部に移住する人が後を絶ちません。
いま、タイ西部には9つの難民キャンプがあり、これらの難民キャンプに暮らす難民の数は約15万人に達します。
「僕は祖国が恋しいです」


ところが、その難民キャンプにもさまざまな問題があります。
難民はタイの法律上難民キャンプを出ることができず、ストレスに満ちた生活をすることになります。
そこで、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、難民キャンプで仮設住居や食糧、水を提供するとともに、タイ政府に対して政策提言をするなどして、難民キャンプでの生活レベルを向上させています。
また、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会は、難民キャンプに図書館を作り、読書を通じて難民たちの心を豊かにする活動をつづけています。
さらに、株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)は、不要になった衣類を集め、UNHCRを介して難民キャンプに届けています。

2005年から、難民キャンプで暮らす難民たちをアメリカやヨーロッパ諸国などで受け入れる『第三国定住』が進められるようになりました。
日本は難民に対して閉鎖的な国と言われてきましたが、2010年度からカレン族難民の受け容れを試験的に始めています。
しかしながら、日本には難民同士のコミュニティが少ないうえに、言葉の問題や法的な不備も多いため、難民にとって日本で暮らすのは容易ではありません。
そこで、NPO法人・難民支援協会は、日本にきた難民の法的支援活動や、生活支援活動、難民のための政策提言活動などをしています。

近年、ミャンマーで軍事政権から民政移譲したのにともない、民族紛争にも大きな変化がおきています。
2012年1月、カレン族とミャンマーの新政府は60年以上も続いた紛争の停止について合意しました。
そして、ミャンマーの新政府はカレン族の難民に対して故郷に戻るよう呼びかけています。

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とはいえ、ミャンマーの難民問題はカレン族だけではありません。
バングラデシュとの国境付近に住むイスラム教徒のロヒンギャ族の問題も深刻です。
ミャンマーの軍事政権は1990年代に民族の同化政策を強め、イスラム教徒であるロヒンギャ族を迫害しました。
この結果、多くのロヒンギャ族がバングラデシュにある難民キャンプに逃れました。
しかし、その一部は難民キャンプの劣悪な環境に耐えられず、ボートに乗ってタイやマレーシア、インドネシアなどに逃れていきます。
ところが、ロヒンギャ族は政治的な理由によって難民になったのではなく、経済的な理由によって難民となったとみなされているため、移住先でも受け入れられずに本国に強制送還されてしまいます。
そこで、認定NPO法人ブリッジ・エーシア・ジャパンは、帰還民が再び難民となって国外に流出しないように、村のインフラを整備したり、帰還民の女性に職業訓練を施す活動をしています。

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ミャンマーは麻薬の生産量がアフガニスタンに次いで世界二位です。
特に、タイとラオスとの国境付近の地域(黄金の三角地帯)では、大量のケシが栽培されており、そのケシを原料としてアヘンやヘロインなどの麻薬が生産されています。
こうした麻薬ビジネスは、シャン族の独立運動の活動資金となっていました。
「ぼくの大切なものはシャン族の民族衣装です」

ミャンマー政府は、1996年、黄金の三角地帯を制圧しました。
そして、2002年にケシの栽培を禁止する法律をつくり、サトウキビ畑などへの転換を呼びかけました。
また、日本政府は、1997年より、ケシの代替作物としてソバを栽培して、できたソバを買い取るプロジェクトをすすめました。
この結果、ミャンマーにおけるケシの作付け面積は、2006年に過去15年間で最小値を記録しました。

しかし、代替作物を栽培してもケシを栽培したときほど儲からないため、再びケシの栽培をはじめる農家が増加しています。
国連薬物犯罪事務所(UNODC)は、2010年のミャンマーにおけるケシの作付け面積が2006年に比べて77%増加していると報告しています。
麻薬を減らすためには、少数民族の貧困問題を解消することが鍵となります。
そこで、サンバード環境システム株式会社は、ケシの代替として栽培されたソバを日本で販売するフェアトレードを通じて、少数民族の貧困問題を解消しようとしています。

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「ぼくの大切なものは寺子屋です」


ミャンマーは世界でもっとも開発の遅れている国の一つであるにもかかわらず、その成人識字率は約92%と高い数値を誇ります。
しかも、発展途上国では女性の成人識字率は男性の成人識字率より低くなる傾向がありますが、ミャンマーでは成人識字率に男女差がほとんどありません。
こうしたミャンマーの教育を支えているのが、各地の僧院にある寺子屋です。

ミャンマーにも公立の小中学校などがありますが、机代や椅子代、給食代などの費用がかかり、貧しい家庭の子どもは学校に通うことができません。
これに対し、寺子屋は一般の人からお寺への寄付で成り立っているため、子どもは一切無料で勉強をすることができるのです。
NPO法人・メコン総合研究所は、日本で寄付金をつのり、こうした貧しい子どもたちが通うことのできる寺子屋をミャンマー各地で建設しています。
「あたしは先生かデザイナーになるのが夢です」


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ミャンマーは医療面で問題が山積しており、特に、エイズ・結核・マラリアが深刻です。
しかし、ミャンマーでは医師・看護師が極端に不足しており、しかも保険制度などの社会保障制度の整備も遅れているため、自国の力で解決するのは困難です。

そこで、エイズ対策に対しては、日本政府は、献血によるエイズの拡大を防ぐために、献血者の登録システムを開発し、国内の主要な病院に導入しました。
また、NPO法人ジャパンハートは、ヤンゴン市内に子どもの養育施設をつくり、HIV感染の原因となるタイへの出稼ぎ売春・人身売買がさかんな村から、これらの問題の犠牲となる可能性のある子どもたちをひきとっています。
また、結核対策に関しては、日本政府は、ミャンマー政府と協力して新たな治療活動の導入や住民への健康教育活動をしました。
さらに、マラリア対策に関しては、日本政府は、マラリア感染率の高い地域で蚊帳を普及させたり、簡易診断キットや抗マラリア剤の導入を行いました。
「あたしの夢は看護婦になることなの」

ミャンマーでは乳幼児死亡率も高くなっており、その理由の一つとしてポリオ(小児マヒ)があげられます。
そこで、日本政府や「認定NPO法人・世界の子どもにワクチンを(JCV)」は、UNICEF(国連児童基金)を通じてミャンマーの5歳以下の子どもたちに継続的にワクチンを提供しています。
また、株式会社ガリバーインターナショナルは、中古車が一台売れるたびにワクチン1本分の寄付をJCVにしています。
この結果、2001年からしばらくポリオの発症が見られず、一度はポリオ撲滅宣言をしました。
ただし、近年、近隣諸国から輸入されたものとみられる発症例が報告されており、今後も経過観察が必要となりそうです。

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ミャンマーは、欧米諸国から経済制裁を科されたこともあり、世界経済から取り残されていました。
しかし、民政移譲を機に、欧米諸国による経済制裁は解除される見込みです。

ミャンマーが国際社会に復帰したいま、ミャンマーは様々な魅力を秘めています。
まず、ミャンマーでは、米などの農作物や、チーク材などの天然資源、石油・天然ガス、宝石などの地下資源が豊富にとれます。
また、ミャンマーでは安い人件費で優秀な人材を雇うことができます。
このため、今後欧米諸国の企業がこぞってミャンマーに進出すると思われます。
ミャンマーの雇用は増加し、経済は活性化する見込みです。

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民政移譲を機にミャンマーの経済は成長すると見込まれますが、その一方でミャンマーの豊かな自然が破壊される懸念があります。
ミャンマーは東南アジアのなかで手つかずの森林を最も豊富に擁する国で、その森林にはトラやゾウなどの絶滅危惧種が多く生息しています。
しかし、近年、タイの伐採業者による森林伐採や、人口増加による過剰な焼き畑により、森林面積が急速に減少しています。

そこで、日本政府は、森林保全をするためのレンジャーを養成したり、村落での有機作物の収穫を効率的にする活動をしています。
また、NPO法人・地球市民の会は、森林伐採によって木がなくなった地区の森林を再生させたり、土着菌を用いた循環型農業のデモファームを運営するなどして持続可能な村づくりを試みています。
「私の大切なものは自然とミャンマーの文化です」


一方で、民政移譲を機に自然環境が保護される兆しもみられます。
ミャンマー政府は中国と共同でイラワディ川に水力発電ダムを建設する予定でした。
しかし、発電した電力の9割が中国に供給されることや、生態系が破壊されること、さらに5千人が移転を強いられることから、アウンサンスーチー女史らが建設に反対していました。
すると、新政府のテイン・セイン大統領は、「国民の反対」を理由にダム建設の中止を決定しました。
軍事政権下ではとても考えられなかったことで、国内外に驚きの声があがりました。
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「わたしは軍事政権を敬います」

ミャンマーというと軍事政権を連想し、「怖い」というイメージをもつ人が多いのではないでしょうか。
しかし、実際にミャンマーに行ってみると、日本よりも安全なくらいで、紛争地域に行かない限り、テロの危険だってほとんどありません。
また、国民はみな素朴で親切、そして、とても幸せそうな笑顔をみせてくれます。
その点、同じ軍事政権とはいえ北朝鮮や戦争前のイラクとは異なります。

そして、ミャンマーは、民政移譲を機に大きく変貌を遂げようとしています。
たとえば、ミャンマーは、2014年にはASEAN(東南アジア諸国連合)の議長国となることが承認されました。
民政移譲を機に国際社会に復帰したことがASEANから認められたのです。

これまでミャンマーは国際社会から孤立し、世界でもっとも開発の遅れている国の一つに数えられてきました。
しかし、民政移譲を機に、今後ミャンマーで急速に開発が進むと思われます。
あなたもミャンマーで国際協力をしてみませんか?
きっと、とびきりの笑顔が迎えてくれますよ。

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絵と写真を集めた人:
山本敏晴
画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明
編集完了日:
2012年2月5日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/