2012年12月31日

お絵描きイベントの目次

.
お絵描きイベントは、2種類に、まとめられています。

@インターネット上の、『ウェブ版』
http://www.ets-org.jp/artevent_age10/

A小学5年生以上向けの、『写真絵本版』

以上の二つです。

・・・

その1.インターネット上の、『ウェブ版』

このサイトは、
まず、中学生前後の方々にも、わかりやすいように、
各国から、1枚ずつ特徴的な絵を選び出した、
簡略化したホームページを、
比較的、浅い階層に作りました。
(クリックしてリンク先に飛んでいく回数が少ない場所に設置しました。)

また、
大学生以上向けに、
「大切なもの」の絵を通して、
各国にある社会問題を導き出し、
また、
そうした問題に対して、実施されている
各国際協力団体によるプロジェクトも階層しました。
これらは、
比較的、深い階層に設置しました。
(クリックしてリンク先に飛んでいく回数が多い場所に設置しました。)

以下は、その18歳以上向けの記事へのリックです。
簡単なウェブサイトの方を、ご覧になりたい方は、
上記のリンクをクリックして下さいませ。

・・・

アジア


インド India 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/48384151.html
この記事は、10067字。記事内で使用された絵は、20枚。写真48枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、188枚。写真は、8884枚。

カンボジア Cambodia 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/60534221.html
この記事は、10067字。記事内で使用された絵は、80枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、301枚。写真は、16876枚。

スリランカ Sri Lanka 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/48001163.html
この記事は、10451字。記事内で使用された絵は、15枚。写真46枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、120枚。写真は、10330枚。

タイ Thailand 担当:二見茜
http://painting.sblo.jp/article/53821500.html
この記事は、3623字。記事内で使用された絵は、7枚。写真31枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、40枚。写真は、9388枚。

台湾 Taiwan 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/55387030.html
この記事は、7656字。記事内で使用された絵は、8枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、121枚。写真は、1262枚。

中国 China 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/43553532.html
この記事は、5252字。記事内で使用された絵は、8枚。写真8枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、58枚。写真は、225枚。

ネパール Nepal 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/46792715.html
この記事は、4484字。記事内で使用された絵は、8枚。写真23枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、110枚。写真は、12208枚。

バングラデシュ Bangladesh 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/42207533.html
この記事は、3485字。記事内で使用された絵は、6枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、436枚。写真は、762枚。

フィリピン Philippines 担当:佐渡愛子
http://painting.sblo.jp/article/51437406.html
この記事は、5540字。記事内で使用された絵は、12枚。写真22枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、203枚。写真は、9943枚。

ベトナム Viet Nam 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/47022786.html
この記事は、4355字。記事内で使用された絵は、5枚。写真9枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、10枚。写真は、360枚。

ミャンマー Myanmar 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/53350487.html
この記事は、8156字。記事内で使用された絵は、13枚。写真42枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、326枚。写真は、10034枚。

マレーシア Malaysia 担当:大川絵美
http://painting.sblo.jp/article/47292725.html
この記事は、3211字。記事内で使用された絵は、8枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、24枚。写真は、121枚。

モンゴル Mongolia 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/46914890.html
この記事は、6730字。記事内で使用された絵は、14枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、172枚。写真は、16367枚。

ラオス Laos 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/56367578.html
この記事は、11747字。記事内で使用された絵は、2枚。写真45枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、2枚。写真は、2209枚。




アフリカ


エジプト Egypt 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/51436260.html
この記事は、4395字。記事内で使用された絵は、5枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、36枚。写真は、1455枚。

ガーナ Ghana 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、9451字。記事内で使用された絵は、10枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、50枚。写真は、2132枚。

カメルーン Cameroons 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、4499字。記事内で使用された絵は、9枚。写真27枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、55枚。写真は、71枚。

ケニア Kenya 担当:田島久美子
http://painting.sblo.jp/article/48146687.html
この記事は、6664字。記事内で使用された絵は、7枚。写真33枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、167枚。写真は、11248枚。

シエラレオネ Sierra Leone 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/54392160.html
この記事は、10783字。記事内で使用された絵は、24枚。写真54枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、672枚。写真は、18155枚。

ジブチ Djibouti 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/53030820.html
この記事は、4607字。記事内で使用された絵は、10枚。写真28枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、60枚。写真は、169枚。

セネガル Senegal 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/55368318.html
この記事は、7468字。記事内で使用された絵は、8枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、33枚。写真は、51枚。

チュニジア Tunisia 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/47064135.html
この記事は、4551字。記事内で使用された絵は、5枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、107枚。写真は、247枚。

ニジェール Niger 担当:周東明美
http://painting.sblo.jp/article/41940150.html
この記事は、2959字。記事内で使用された絵は、5枚。写真10枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、201枚。写真は、782枚。

ブルキナファソ Burkina Faso 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/53867977.html
この記事は、5886字。記事内で使用された絵は、6枚。写真32枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、167枚。写真は、7781枚。

ベナン Benin 担当:田島久美子
http://painting.sblo.jp/article/60534249.html
この記事は、8308字。記事内で使用された絵は、30枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、110枚。写真は、455枚。

ボツワナ Botswana 担当:三雲千穂
http://painting.sblo.jp/article/46245999.html
この記事は、3644字。記事内で使用された絵は、4枚。写真12枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、95枚。写真は、393枚。

マダガスカル Madagascar 担当:寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/47656421.html
この記事は、3058字。記事内で使用された絵は、6枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、138枚。写真は、394枚。

モザンビーク Mozambique 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/47635002.html
この記事は、3772字。記事内で使用された絵は、9枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、165枚。写真は、113枚。

モロッコ Morocco 担当:渡部加奈
http://painting.sblo.jp/article/53273739.html
この記事は、4545字。記事内で使用された絵は、9枚。写真28枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、17枚。写真は、68枚。



アメリカ、ラテンアメリカ


アメリカ合衆国 USA(United States of America) 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/53125565.html
この記事は、9823字。記事内で使用された絵は、17枚。写真43枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、610枚。写真は、9782枚。

アルゼンチン (Argentina) 担当:菊地賢一
http://painting.sblo.jp/article/58310136.html
この記事は、6631字。記事内で使用された絵は、5枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、5枚。写真は、26枚。


コロンビア Columbia 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/54336575.html
この記事は、6801字。記事内で使用された絵は、16枚。写真74枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、229枚。写真は、6788枚。

セントルシア Saint Lucia 担当:寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/47928967.html
この記事は、2447字。記事内で使用された絵は、5枚。写真14枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、102枚。写真は、335枚。

パラグアイ Paraguay 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/48362655.html
この記事は、4974字。記事内で使用された絵は、8枚。写真18枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、152枚。写真は、705枚。

ブラジル Brazil 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/47599210.html
この記事は、4708字。記事内で使用された絵は、10枚。写真20枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、166枚。写真は、4231枚。

ペルー Peru 担当:澤田輪香子
http://painting.sblo.jp/article/54057213.html
この記事は、10564字。記事内で使用された絵は、6枚。写真46枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、60枚。写真は、9291枚。

ボリビア Bolivia 担当:佐渡愛子
http://painting.sblo.jp/article/47373711.html
この記事は、3442字。記事内で使用された絵は、12枚。写真21枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、652枚。写真は、1813枚。



太平洋


パプアニューギニア Papua New Guinea 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/47999666.html
この記事は、4956字。記事内で使用された絵は、15枚。写真13枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、566枚。写真は、57枚。

フィジー Fiji 担当:姉崎沙緒里
http://painting.sblo.jp/article/53049100.html
この記事は、4406字。記事内で使用された絵は、4枚。写真17枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、4枚。写真は、1356枚。



ヨーロッパ


イタリア Italy 担当:小野明日美
http://painting.sblo.jp/article/47998340.html
この記事は、2060字。記事内で使用された絵は、8枚。写真15枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、81枚。写真は、3572枚。

グリーンランド Greenland 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/49110184.html
この記事は、5834字。記事内で使用された絵は、11枚。写真26枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、124枚。写真は、1526枚。

コソボ Kosovo 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/53321180.html
この記事は、5365字。記事内で使用された絵は、7枚。写真32枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、96枚。写真は、356枚。

デンマーク Denmark 寺町華子
http://painting.sblo.jp/article/49362662.html
この記事は、2950字。記事内で使用された絵は、4枚。写真12枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、22枚。写真は、39枚。

ポーランド Poland 担当:菊地賢一
http://painting.sblo.jp/article/60481801.html?1354500081
この記事は、8679字。記事内で使用された絵は、5枚。写真56枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、5枚。写真は、2562枚。

ロシア Russia 担当:矢野弘明
http://painting.sblo.jp/article/52096010.html
この記事は、9136字。記事内で使用された絵は、13枚。写真39枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、49枚。写真は、1425枚。



日本


岩手県奥州市水沢区 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/56062309.html
この記事は、5777字。記事内で使用された絵は、17枚。写真23枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、48枚。写真は、693枚。

東京都 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/57070226.html
この記事は、5164字。記事内で使用された絵は、11枚。写真19枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、781枚。写真は、1628枚。

長野県栄村 担当:渡部香織
http://painting.sblo.jp/article/54995430.html
この記事は、4256字。記事内で使用された絵は、5枚。写真21枚。
実際に現地で収集された総数は、絵が、58枚。写真は、1931枚。




まだ制作中のもの


ベナン Benin 担当:田島久美子

カンボジア Cambodia 担当:矢野弘明



・・・
・・・

その2.写真絵本版(小学5年生以上向け)

(カンボジア編が基本です。
 お絵描きイベントの根本的なメッセージが描かれています。
 ご興味のある方は、まずそれから、ご一読下さい。)


あなたのたいせつなものはなんですか?―カンボジアより (小学館、2005年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097278916/

地球温暖化、しずみゆく楽園ツバル (小学館、2008年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097262955

ルーマニア どこからきてどこへいくの (小学館、2009年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4097263730

HIV/エイズとともに生きる子どもたち ケニア (小学館、2009年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409726401X


・・・


補足:

18歳前後向けの、『ウェブ版』は、
「国際協力に興味はあるけれど、
 何をしたらいいいのか、さっぱりわからない」
という状態の、大学1年生ぐらいの方のために、
国際協力をする上で、まず知っておくべき、
基本的な情報を提供する、という企画です。

世界各国の人々が描いた「大切なもの」の絵を通し、
その国の背景にある社会問題を説明し、
それに対して、各国際協力団体が、
どのようなプロジェクトを行っているか、までを、
簡潔に説明しています。

とりあげる社会問題としては、
政治(紛争・差別・難民など)、
経済(貧困、貧富の差の拡大など)、
教育(初等教育就学率、女児が学校にいけないなど)、
医療(乳幼児死亡率、妊産婦死亡率など)、
環境(気候変動、生物多様性など)、
などですが、なんでも取り上げます。

当法人は、政治・宗教的に完全に中立のため、
紹介する国際協力団体として、
国際機関(国連など)、政府機関(JICAなど)、
民間組織(NGO・NPOなど)、企業(社会企業、フェアトレードなど)を、
それぞれ、公平な視点で、まんべんなく紹介しております。


・・・

補足2:
お絵描きイベントは、
2000年頃から、山本敏晴が個人として始め、
2004年からNPO法人・宇宙船地球号を創設して
続行しているイベントです。

これまで、
60か国以上の国々で実施してきました。
上記の本や記事たちは、
そこから生まれたものです。


NPO法人・宇宙船地球号の活動については、以下をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65628221.html




posted by お絵描きイベント at 20:10| 日記

2012年12月05日

ベナン Benin

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西アフリカにあるナイジェリアとトーゴに挟まれた、
南北に長い、不思議な形をした小さな国。
それがベナンです。

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ベナンのセカンダリースクール(日本の中学校と高校に相当します)
に通う子どもたちが、それぞれの「大切なもの」の絵を描いてくれました。

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「私の大好きな国、ベナンです。12の県に分かれているの」

ベナンの面積は、11万2,622平方キロメートル(日本の約3分の1)。
そこに、910万人(日本の約7%)、46の部族が住んでいます
(2011年、UNFPA)。

女の子が描いてくれた上の地図、
よく見ると県の順番がバラバラですが、
そこはご愛嬌。
みなさん、本物はご自分で調べてみてください。

ベナンは日本ではなじみが薄い国ですが、
かつて人気を集めたテレビ番組『ここがヘンだよ日本人』に
出演していたタレント、ゾマホン・ルフィンさんの出身国、
といえば、うなずく方も少なくないでしょう。

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(コトヌー)

法律上の首都はポルト・ノボですが、
ギニア湾に面し、西アフリカで一番大きな港を有する
コトヌーがもっとも発展しており、実質的な首都となっています。

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「みんなが集まるおうちのテーブルには、きれいなお花があるの」

ベナンの治安は比較的落ち着いていますが、
国の発展度合いを示すHDI(人間開発指数)は0.427と、
187カ国中167位です。

この国は、小さいながらも「西アフリカの玄関」ともいわれ、
貿易の一大中継地として、大きな役割を果たしてきました。
そこには、深く黒い歴史があります。
ベナンの港でかつて一大輸出品となったもの、
それは「奴隷」でした。


・・・

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ベナンの元の国名は、ダホメー王国といいます。
上は、ダホメー王国時代の国旗です。
とてもかわいらしい国旗ですが、この旗の下に、
黒い歴史がつむがれてきました。

16世紀以前、ベナンには、フォン族、ヨルバ族、
アジャ族など、多くの部族が住んでいました。

このうち、もっとも人口の多かったフォン族の居住地に、
17世紀、ダホメー王国が成立しました。
この王国の繁栄を支えたのが、奴隷貿易です。

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ダホメー王国は、近隣の国々を攻め滅ぼし、
敵国の捕虜を奴隷として、ヨーロッパ商人の
火薬や鉄砲と交換し、国力を増強しました。

17〜18世紀にかけて、奴隷貿易は世界の一大産業でした。
ヨーロッパの商人たちは、アフリカから「仕入れ」た奴隷を、
船でアメリカ大陸まで連れて行きます。
なるべく多く奴隷を運ぶため、船中には身動きが取れないほど
奴隷たちが詰め込まれました。
3〜9か月の船旅の間に、ひどいときで3人に1人の奴隷が死亡したといいます。

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当時は、ヨーロッパなどで砂糖や紅茶の需要が急増。
アメリカでは大規模な砂糖や紅茶の農場(プランテーション)が
多く作られていました。
家族から引き離され、アフリカから運ばれた奴隷たちは、
プランテーションで一日中、過酷な労働を強いられました。

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ベナン沿岸部を中心とするギニア湾岸は、
こうした奴隷貿易の一大中継地として栄え、奴隷海岸と呼ばれました。

ダホメー王国は奴隷たちの苦しみの上に財を築き、
19世紀にかけて絶大な勢力を誇ります。
当時の王宮は、ベナン唯一の世界遺産として保存されています。

(ダホメー王国では、王の近衛兵部隊として、
女性だけの軍団も創設されました。
最強の軍団として、近隣諸国に恐れられたと伝えられます。)


・・・


ベナンの奴隷貿易は、その後の世界の歴史にも
少なからず影響を与えました。

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世界で最初の、黒人による共和国となったハイチ。
建国のきっかけとなったハイチ革命を率いた指導者の1人は、
ダホメー王国の奴隷の子孫であるトゥーサン・ルーヴェルチュールでした。

また、現在、西アフリカを中心に、キューバやブラジルなどでも
広く信仰されている「ブードゥー教」。
これは、もともとフォン族の土着宗教だったものです。
ハイチに連れて行かれたフォン族の奴隷の間で発展し、
カトリック教会から徹底的な弾圧を受けながらも、
奴隷貿易の拡大とともに、キューバやブラジル、
北アメリカなどへ広がりました。

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(ブードゥー教の儀式)

現在のベナンでは、ブードゥー教(ヴォドゥンといわれる)は
国教となっています。


・・・

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栄華を極めたダホメー王国ですが、19世紀、
ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化が進み、
奴隷貿易が廃止されはじめると、財政が弱体化します。
そこにヨーロッパの列強による植民地化の波が押し寄せ、
1894年、ベナンはフランスの植民地となりました。

奴隷貿易で一大勢力を誇った時代から一転、
フランスの従属としての植民地時代が、60年余り続きます。
そして第二次世界大戦が終わった後しばらくしてからの1960年、
ベナンは再び、「ダホメー共和国」として独立を取り戻しました。
現在の国旗は、そのときに制定されたものです。

「国旗は、私たちの誇りです。
緑は希望と復活、赤が先祖の勇気、黄色が富への願望を
表しているの」

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独立したダホメー共和国ですが、安定は一筋縄では
得られませんでした。
民族間の抗争や激しい政権争いが続き、独立後、12年の間に、
5度もクーデターが起こります。
1972年、5度目のクーデターで、マチュー・ケレク政権が誕生。

ケレク政権は、ベナンに面する「ベニン湾」にちなみ、
国名を「ベナン人民共和国」と変え、
中国寄りの社会主義国家を目指しました。

しかし、社会主義路線はうまくいかず、ケレク政権の経済政策も失敗。
1989年、ソ連が崩壊間近となり、社会主義国家が次々と消滅して
いったこともあり、国民からは独裁的な政権をやめるようにという声が
強くなりました。
この流れを受け、ケレク政権は1990年、国名を「ベナン共和国」に改称し、
複数政党制、三権分立、大統領制を採用。
資本主義国家としての新たな一歩を踏み出しました。

現在はボニ・ヤイ大統領の下、安定した政権運営が行われています。
長い政情不安の末にたどりついた平穏を、国民は歓迎しています。

「ふだんの暮らしが大切です。失いたくありません」

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・・・

ベナンの人々の暮らしをみてみましょう。

「実りは私たちの宝です。自然が、私たちの生活を支えています」


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今回のお絵描きイベントでは、多くの子どもたちが、
美しい植物の絵を描いてくれました。

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ベナンは、国民の大半が農業に従事する農業国です。
主要な輸出品は綿花で、他にもパームオイル、トウモロコシなどが
栽培されています。

産業が多角化していないため、
市場価格の影響を受けやすいのが弱みです。
(一般に、農産物をまったく加工せず、そのまま輸出する産業形態は、
世界的な食料価格の影響を受けやすいため、利益が急に減ったり
増えたりするリスクがあるといわれています。)

近年、欧米諸国が国内の綿花農家に対して補助金を出したことにより、
綿花の価格が変動し、ベナンの綿花産業に大きな打撃となりました。

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ベナンは、同じく綿花を主要産業とするブルキナファソ、チャド、マリの
4カ国と、「欧米諸国の綿花補助金の段階的な撤廃」と、
「撤廃までの期間の補償措置」を求める『綿花イニシアティブ』を推進し、
日本のODAもこれを支持しました。

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ベナンに産業を生み出すため、日本のNPO法人「IFE」は、
株式会社スタジオグラフィコなどとともに、
「フィール・ピース・プロジェクト」を行っています。

このプロジェクトは、単なる物的、金的支援ではなく、
長期的な収入源となる産業を作り、現地の自立を支援することを
目的としています。

フィール・ピース・プロジェクトの一環として、スタジオグラフィコは、
ベナン産のシアバター※を原料に使用したスキンケア化粧品
「スキンピース」シリーズを開発。
日本国内での需要拡大をめざしています。

※シアバター:シアバターノキという木から取れる脂(あぶら)で、
食用や保湿用クリームなどに使われています。


・・・

「水辺の生活が大切です。漁は、生活の一部なんです」
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農業に次いで、ベナンの人々の生活を支えるのは、水産業です。

ベナンの国民の動物たんぱく質摂取量の40%は、水産物から得られている、
というデータがあります。
コトヌー港での交易業は、ベナンの経済において重要な役割を担っていますが、
漁業地としては、海岸線が120kmと短く、漁場にはあまり適しません。
では、ベナンの人々は、どこから水産物を得ているのでしょう?
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ベナンの沿岸部には、ラグーン(湾口がふさがってできた湖沼)が
広がっており、国土にも総延長700km超におよぶ河川が流れています。
ベナンの人々は、この内陸部の水産業を、大切な資源としているのです。
海の漁業の漁獲量が年間約1万トン弱なのに対し、
内陸漁業(養殖含む)の漁獲量は、3万5千トンに達します。

しかし現在、この漁獲量だけでは国内の需要をまかないきれず、
年間で4万5千トンもの水産物を、他国からの輸入に頼っています。

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ベナンの人口は年々、高い割合で増え続けており、
それにともなって、食糧も確保していかねばなりません。
ベナン国政府は、国内でまだ十分発達しておらず、
今後、増産が期待される「内陸地での養殖」について、
日本に支援を要請しました。

これを受けて、日本の国際協力機構(JICA)は
「内水面養殖普及プロジェクト」を実施。
養殖の専門家を派遣し、ベナンの農業・畜産・水産省と協力して
養殖家戸数を増やす試みに取り組んでいます。
このプロジェクトには、雇用を増やし、農民の収入を向上させることも
期待されています。

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(ベナンの標準的な食事。白いのは、トウモロコシの粉から作られる「ウォー」。
 手でちぎり、野菜や魚介の入ったスープと一緒に食べます)


・・・


農業と水産業で生計を立てるベナンの人々。
この国が抱えている大きな問題は、出産するお母さんと新生児の
死亡率がとても高いことです。

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ベナン国民の平均寿命は56歳。
(日本は83歳)(ユニセフ、世界子供白書2012)

5歳未満の子どもが死亡する率は、1000人中115人です。
これは世界の中で20番目に高い数値です。
(日本は1000人中3人、186番)

家の近くに病院がないため、介助がないまま自宅で出産し、
命を落とすお母さんがいます。
その理由は、出産後の出血が止まらないことなどです。

また、生まれた子どもも頻繁に亡くなります。
肺炎や下痢などの感染症が、おもな原因です。
病院がなく、医師や看護師がいないため、こうしたことが
起こるのです。

前述のゾマホンさんも、10人いた兄弟のうち、
7人が幼くして亡くなっているそうです。

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こうした状況を受け、JICAは、地域の中心的な役割を担っている
コトヌー市のラギューン母子保健病院の施設・設備の拡充を支援。
保健の専門家や青年海外協力隊を派遣し、現地の医療従事者のための
研修なども行っています。

また、NPO法人「ハンガー・フリー・ワールド」は
コトヌー市近くのベト村に母子保健センターを建設。
いずれは地域の行政と住民が自分たちの手でセンターを運営していけるよう、
活動を続けています。

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・・・

まだ大きな問題となっていませんが、ひとつ、
懸念されていることがあります。
エイズの拡大です。

ベナンの成人のHIV感染率は1.2%と、
アフリカ諸国の中では比較的、低いほうです。
(トーゴ3.2%、ケニア6.3%、ザンビア13.5%、日本0.1%)
(ユニセフ「世界子供白書」2012。データは2009年のもの)

しかし、マイクロソフトの創業者であり、世界最大規模の慈善団体
「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」の会長であるビル・ゲイツ氏は、
「ベナンでは今後、都市部のセックス産業に関わる人々の間で
HIV新規感染者が増大するだろう」と懸念を表明しました。
同時に彼は、コンドームの使用の奨励など予防ツールの拡大で、
感染者を大幅に減らせるとの解決策を提示しています。

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世界人口白書2011によれば、コンドームやピルといった
近代的避妊法を行っている15〜49歳の女性は、
ベナンではわずか6%です。
(日本は44%)

ひとたび感染が拡大すれば、それをくい止めるのは困難です。
早い段階でのエイズ予防知識の普及が求められています。

・・・


「ぼくの大切なものはアニメのナルトです。
友達の間でも流行っていて、大好きです」

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ベナンの人々は親日家です。
外務省の一般文化無償資金協力により、
2010年から国営ラジオ・テレビ局に、日本の番組も入るようになりました。

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一方、日本でベナンといえば、前述の
テレビ番組『ここがヘンだよ日本人』で人気を集めた、
タレント、ゾマホン・ルフィンさんが有名です。

ゾマホンさんは、ベナン国立大学を卒業後、
中国・北京語文化大学に留学。
その後、来日し、上智大学大学院に入学。
現在は、2012年より、駐日ベナン共和国大使に就任しています。

ベナンにいたころ、街灯や月明かりの下で勉強し、苦労して学校に通った
ゾマホンさんは、母国が抱える最大の問題に、「教育」を挙げています。

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(ベナンの学校)

ベナンでは、2007年から小学校の授業料が無償化され、
初等教育の就学率は男子99%、女子86%にまで上昇しました
(2011年、世界子供白書)。
しかし、学校の数や教員は慢性的に不足しています。

また、中等教育の就学率は男子26%、女子13%と非常に低く、
15‐24歳の若者の識字率は男子64%、女子42%と、
男女間の差もあります。

植民地時代の影響も色濃く残ります。
ベナンの公用語はフランス語で、学校でも、
多くの授業がフランス語で行われています。

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(授業風景)

「ベナンの教育内容はフランス植民地時代と同じで、土着の教育とは言えません。
私もベナンで受けてきた教育はフランス人になるための教育です。
このような教育では誰も国のために頑張ろうとする人はいません。
みんなフランス寄りになってしまいました。かく言う私も、
最初に行きたかった国はフランスでした。」
(2005年、ゾマホンさんと衆議院議員竹本直一との対談より)

ゾマホンさんは、『ゾマホンのほん』『ゾマホン、大いに泣く』の2冊の本を出版し、
その印税をすべて使って、ベナンに3つの小学校と、日本語学校を建設しました。

ゾマホンさんの活動を個人のものにとどめず、将来的にも支援を行っていくために
設立されたのが、前述のNPO法人「IFE」(ベナンの言葉で「愛・分かち合い」の意)
です。
IFEは、ベナン共和国のIFE財団とともに、日本とベナンを中心とした
教育・文化などの協力提携や、相互理解の推進活動を行っています。

・・・

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2001年、ベナンが面するギニア湾で、一艘の船が行方不明になる事件が
起こりました。
この船には、ベナンとその近隣の国から連れてこられた
10〜14歳の139人の子どもたちが乗っていました。
子どもたちは、児童労働に従事させられるため、
ベナンから近隣のガボン共和国へ連れて行かれるところでした。

この事件により、ベナンで子どもの人身売買が深刻な問題であることが
公になります。
はるか昔に終わったと思われていた奴隷貿易ですが、
同じようなことが、現在も続いていたのです。

「海に出て行ったまま、帰ってこない友達・・・」
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子どもたちは、誘拐されたり、貧しさのために親が手放したり、
「教育の機会を与えてあげる」とだまされて連れてこられることが多く、
人身売買の結果、児童労働に従事したり、性的な搾取の対象になることが
ほとんどです。
こうした人身売買は秘密裏に行われているため、
なかなかその実態がつかめません。

国際機関のユニセフは、現地NGOへの支援や、
首都のポルトノボで修道院など子どもたちの避難所となる場所への
支援を行い、子どもたちを保護し、その権利を守るための支援を続けています。

・・・

「僕の大事なものはパソコン。
世界のいろんなことを教えてくれるから」

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ベナンのインターネット普及率は、1.85%
(国際電気通信連合(ITU)の統計・2008年)。
日本の75.40%に比べたら、とても低い率ですが、
ベナンにも少しずつ、近代化の波は押し寄せています。
それにともない、以前にはなかった、
環境汚染の問題が顕在化してきました。

「自然のなかで好きなものを5つ描きました。
サッカーは、自然のなかで遊べるから好き。
車が多いと、排気ガスがたくさんでます。
男の人は警察官で、“排気ガスを出すのをやめて”と
言っているところです」

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日本のように「ゴミはゴミ箱に」という意識がないベナンでは、
人々は道路や空き地など、いろんなところにゴミをそのまま
捨てていきます。
近年は、ビニールやプラスチックなど、自然に還りにくいゴミが増え、
今後、ゴミ問題が深刻化することが予想されています。
学校では、環境に関する授業も行われるようになりました。


「授業で、ゴミが私たちの住むところを汚して、
水も空気も汚れていくことを勉強しました。
清潔なことは大切です」

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この女の子は、ゴミが湖を汚し、その汚れた水をみんなが使わなくては
いけない様子を描きました。
女の子のお父さんは、「野生の動物が多く見られたこの地域も、
開発が進むにつれ、住民自身がゴミを捨てたり、道端で排泄するなどし、
地域が汚れてしまった」と、話してくれました。

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日本の国際協力機構(JICA)は、環境教育を支援する
青年海外協力隊を派遣し、「みんなが住むところなのだから、
きれいに保っていかなくては」という意識を広げていこうと
しています。

・・・

ここで、現在、アフリカ諸国に訪れている変化をみてみましょう。

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未開発の天然資源が多くあるアフリカ大陸は今、世界の注目を集め、
各国がこぞって進出を図っています。

その中でも、近年、中国の進出はめざましいものがあります。
中国はこれまで、アフリカ諸国の道路などのインフラ整備を無償で行ったり、
融資を低金利の好条件で行うなど、数十億円規模の資金を投資してきました。
これは、アフリカ大陸の天然資源や成長市場へのアクセスを得るための施策だと
いわれています。

現地に進出しても中国人労働者を起用し、
現地の雇用を拡大するわけではなく「中国式」をつらぬくやり方は、
アフリカの一般の人々の反感を買っています。
その一方で、支援に対し人権問題や独裁政権の改善を求める
欧米諸国と異なり、なんでもタダでやってくれ、交換条件を求めない
中国は、アフリカ政府の偉い人からは歓迎されています。

ベナンにおいてもこの流れは同様で、2011年には、
中国からの申し出により、コトヌーとベナンの中部を結ぶ
およそ100キロの道路の舗装を、中国が無償で行うことになりました。
他にも中国は、さまざまなインフラ整備を贈呈方式で実施しています。
こうした外部からの力は、よくも悪くも、
これからのベナンの人々の生活に影響を与えていくでしょう。


・・・


「人の心のなかに、喜びは簡単には見つけられません。
でも、自分のなかに種を見つけて、喜びの花を育てること。
それが、とても大切だと思います」

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7人兄弟のこの女の子の家は、いつもにぎやか。
大変なことも多い生活ですが、うれしいこと、楽しいことを
大切に、笑顔で暮らしています。

日本ではまだまだ知られていない国ですが、
貧しいながらも、元気で、前向きなのがベナンの人々です。

明るい色で、美しい花などの絵を描いてくれた子どもたち。
その絵を見ていると、この小さな国の明るい未来が、
はっきりと想像できます。


・・・


絵と写真を集めた人

青年海外協力隊・看護師・佐藤しおり(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・助産師・中村悦子(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・看護師・鈴木詩子(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・徳星達仁(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・統計・渡邊潤(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・家政・大谷恵美(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・大畑紗弥和(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・狩野麻里絵(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・白神綾菜(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・三橋利佳(2010年6月〜2012年6月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・武藤悠紀(2010年6月〜2010年12月)
青年海外協力隊・村落開発普及員・吉岡由佳梨(2010年6月〜2012年6月)

画像データを編集し、文章を書いた人:
田島久美子

編集完了日:
2012年12月17日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/


posted by お絵描きイベント at 11:21| 日記

カンボジア Cambodia

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野菜『かぼちゃ』の名前は、国名『カンボジア』に由来します。
かぼちゃは戦国時代にカンボジアから伝わったのです。
当時、カンボジアには日本人街がありましたし、
じつは日本と古くからつながりをもつ国なのです。

そのカンボジアで、子どもたちに尋ねました。
「あなたの大切なものは何ですか?」

「ボクの大切なものはカンボジアです」

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カンボジアは、日本の約半分の国土、約1300万人の人口を擁し、
ベトナム、タイ、ラオスと隣接しています。

内戦があった影響から、
東南アジアでもっとも開発が遅れている国の一つです。

国民の9割がクメール人(カンボジア人)で、
公用語はカンボジア語です。

国民の大半は、修行をすることによって
『涅槃(静寂の境地)』に至ろうとする
『上座仏教』を信仰していますが、
イスラム教など他の宗教を信仰している人もいます。

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・・・

それでは、カンボジアの歴史を振り返りましょう。

1〜7世紀前半まで、『扶南(ふなん)』という国が
いまのメコン川の下流地帯を支配していました。
扶南はインド文化を吸収し、海上交易によって栄えましたが、
交易ルートが変わったこともあり、7世紀初頭から衰退していきました。
そこで、ラオス南部を支配する、
クメール人の王国『真臘(しんろう)』が台頭してきました。
この真臘は、一時ラオス南部およびカンボジア全土を支配したものの、
その後は衰退して、ジャワ王国の支配を受けるようになります。

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しかし、9世紀初頭、『ジャヤバルマン2世』が
アンコール地域を支配するジャワ王国を撃退し、独立を宣言しました。
これが『アンコール王朝』の始まりです。

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(アンコール遺跡群の一つ、ベンメリア)

11〜12世紀にかけて即位した『スールヤバルマン2世』は、
積極的に遠征をおこない、
その勢力をタイ東北部、ベトナム南部にまで拡大しました。


「僕はアンコール・ワットが大好きです。カンボジアの誇りです。」

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有名なアンコール・ワットは、この時代に建設されました。
ヒンドゥー寺院であるとともに、スールヤバルマン2世のお墓でもあります。
アンコール・ワットを建設するために、1113年頃から30年あまり、
毎日約1万人の労働力をつぎこまれ、
エジプトのピラミッドと同様、
強権の象徴であると考えられています。

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(アンコール・ワット)

スールヤバルマン2世没後、
ベトナムのチャンパ王国による侵攻を受け、
アンコールは一時陥落しました。
しかし、『ジャヤバルマン7世』の指揮のもと、
1181年にはチャンパを撃退し、
アンコール王朝の繁栄を取り戻しました。

『アンコール・トム』はこの頃つくられたもので、
壁にはチャンパとの戦いが描かれています。

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アンコール王朝はこのときに最盛期を迎え、
その支配地域は、カンボジア、タイ、ラオス、ベトナム南部にまで及びました。

しかし、13世紀後半になると、モンゴルの元(げん)、
タイのシャム王国(アユタヤ王朝)が侵略し、
国は衰退していきました。
そして、1413年、シャム王国の攻撃を受けて、アンコール地域から撤退しました。

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(アンコール・トム)

以後、タイやベトナム、ラオス、
ヨーロッパなどの各勢力がカンボジアに介入するようになります。

17世紀後半からは、カンボジア王室が分裂し、
一方がベトナムから、他方がタイから支援を受けるなどしました。

この結果、互いにカンボジアを属国と考える、
タイとベトナムの間で戦争が起きました。
カンボジアをめぐるこのような複雑な勢力争いが、
後の内戦につながったと言われています…。

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(アンコール遺跡群の一つ、タ・プローム)

19世紀になると、フランスがインドシナ半島の支配に乗り出します。
そこで、カンボジア王国はタイとベトナムからの支配から逃れるために、
フランスに保護を要請し、
1884年にフランス保護領となりました。

カンボジアはフランスの保護を受けている期間中、
鉄道などのインフラの整備がすすみ、
目覚ましい経済発展を遂げました。

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しかし、フランスが第一次世界大戦に参戦した際、
その戦費をインドシナ半島に求めたため、
カンボジアの国民は重税に苦しみました。
このため、フランスによる統治にもほころびがでるようになりました。

1940年、第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏し、
フランスの代わりに日本軍がカンボジアに進駐しました。
そこで、1941年に即位したシハヌーク殿下(2012年10月没)は、
国民のフランスに対する不満の声を背景として、
日本と協力してカンボジアの独立を宣言しました。
しかし、日本が連合国に降伏したため、
カンボジアの独立は取り消されました。
シハヌーク殿下はそのあとも欧米諸国に積極的に働きかけ、
1954年にようやくカンボジアは独立を勝ち取りました。

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(独立記念塔)


シハヌーク殿下は中立政策を掲げ、
東西両陣営から援助を引出し、
農業開発や工業化を促進しました。
首都プノンペンは、これらの支援の恩恵を受け、
『東洋のパリ』と呼ばれるほど発展しました。
カンボジアが唯一平和な時期でした。

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1960年、隣のベトナムで東西両陣営による代理戦争が始まると、
シハヌーク殿下は中立を掲げながらも、国の存続のために
北ベトナム軍がカンボジア領内を通って物資を輸送したり、
北ベトナム軍がカンボジア領内に逃げ込むのを認めていました。

ところが、南ベトナムを支援していたアメリカはこれに業を煮やしました。
1970年、反中親米派のロン・ノルにクーデターを起こさせ、
シハヌーク政権を転覆しました。
これにより、『クメール共和国』が樹立しました。

ロン・ノル政権はアメリカと共同でカンボジア領内の
北ベトナム軍や解放戦線を次々と攻撃しました。
加えて、アメリカは北ベトナム軍を攻撃するために、
カンボジア東部で爆撃を繰り返しました。

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これに対し、シハヌーク殿下は北京に亡命し、
反米反ロン・ノルを掲げる
『カンボジア民族統一戦線』を結成しました。
これに、ポル・ポト率いる『KR(クメール・ルージュ)』が呼応し、
ロン・ノルに対抗することで合意しました。
こうして、ベトナム同様、親米勢力VS反米勢力
の内戦が勃発しました。

「わたしは戦争をなくしたいです。
 戦争のせいで家族や家、健康を失います。
 武器の取引はそもそも違法なはずです」

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内戦時、報道カメラマンの一ノ瀬泰造は、
アンコール・ワットへの潜入を試みたものの、
クメール・ルージュに捕らえられて殺害されてしまいました。
映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』では、
一ノ瀬泰造が奮闘する様子が描かれています。

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(一ノ瀬泰造のお墓)


その後、アメリカ軍がベトナムから撤退すると、
ロン・ノル政権は弱体化しました。
そして、1975年4月、
カンプチア民族統一戦線の軍隊が
首都プノンペンを占領し、ロン・ノル政権は崩壊しました。

内戦は終結しましたが、
それまでに50万人以上が死亡しました。
また、100万人以上が難民となって首都プノンペンに流入し、
プノンペンの人口は200万人に達しました。


「ボクは戦争をなくしたいです」

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カンボジア民族統一戦線がプノンペンを占領したとき、
国民の多くはカンボジアが平和になると思いました。
しかし、国民にとって本当の受難はそこから始まりました。

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(ポル・ポトの肖像)

ポル・ポトは、
全国民が自給自足の生活をし、
さながら原始時代のように血縁同士で富を分かち合う
『原始共産主義社会』を理想としていました。
これを実現するためには、
都市や、病院、学校、貨幣、宗教などの
旧体制を徹底的に破壊する必要がありました。

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ポル・ポトは、まず、首都プノンペンの市民200万人を、
着の身着のままで自宅から追い出し、
農村部に強制移住させました。
この強制移住は徒歩で行なわれ、子どもや老人、病人など、
多くの人たちが途中で命を落としました。
死体であふれかえった国道を国民が行進する様子は、
まさに地獄絵図だったと言われています。

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そして、古くから農村部にいる住民を『旧住民』、
都市部から農村部に移動した住民を『新住民』と呼び、
新住民にはいかなる権利も与えられませんでした。
ポル・ポトは、旧体制になじんだ都市部の住民が許せなかったのです。
新住民のなかには、過酷な労働に従事させられ、
病気や飢餓で死んでいく人も多数いました。

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ポル・ポトは、内戦中はシハヌーク殿下と協力関係にあることを利用して、
国民の支持を集めることに成功しました。
ところが、内戦が終結するとシハヌーク殿下の存在が邪魔になりました。
そこで、ポル・ポトはシハヌーク殿下を幽閉し、自ら首相に就任しました。
以後、ポル・ポトの暴政に拍車がかかります。

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(王宮の中にあるアンコール・ワットの模型)

ポル・ポトは農村部で大規模な粛清を開始しました。
具体的には、医者や教師、技術者などの知識人を徹底的に抹殺しました。
海外に留学している者も「国の再建のため」という名目で帰国させ、
次々と抹殺しました。
なかには、メガネをかけているだけで知識人とみられ、
抹殺された人もいました…。
政策に対して異を唱える可能性がある知識人たちは邪魔だったのです。

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また、ポル・ポトは側近などにも疑いの目を向け、
粛清をしていきました。
首都プノンペンにある『S21(現トゥールスレン博物館)』は
政治犯を収容したところで、
約2万人が収容され、そのうち生きのびたのはわずか『7名』でした。

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ポル・ポトは、通貨や法律、市場、企業などすべて廃止しました。
休日はなくなり、音楽や映画などの娯楽も禁止となりました。

また、国民の心のよりどころとなる仏教も弾圧しました。
仏教寺院を破壊し、6万人いた僧侶のうち2万5千人を殺害し、
残りを還俗させました。

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加えて、夫婦を引きはなし、
子どもたちは5〜6歳で親から引き離して
『国家の子ども』として教育を受けさせました。

恋愛も禁止され、
国民は党が決めた相手との結婚を強要され、
逆らうと、本人もしくは家族が処刑されました。

カンボジアの国民は、
農作業や土木作業をすることだけが許されるという、
まるで奴隷のような生活を強いられることになりました。

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さらに、ポル・ポトは中国の『大躍進政策』という農業政策をまねしました。
これは中国で失敗して大飢饉を招いたにもかかわらず、
隠ぺいされていたため、
ポル・ポトは失敗の歴史を学ぶことができませんでした。
結果、カンボジアでも中国と同じように大飢饉が起こりました。
しかし、ポル・ポトは、この失敗を国内にいる反乱分子のためと考え、
子どもをスパイにし、
反乱の恐れがある者を次々と摘発して抹殺していきました。
このように、恐怖の政治を次々と断行していったのです。

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恐怖政治を断行したポル・ポト政権も崩壊するときがきます。
ポル・ポトはベトナムを敵視しており、
国が疲弊しているにもかかわらず、ベトナムに度々侵攻しました。
これに対し、1978年12月、ベトナム軍がカンボジアに反撃すると、
わずか2週間で首都プノンペンを占領することに成功しました。
こうして、3年8か月に及ぶポル・ポト政権が終わりました。
そして、ベトナム軍はKRの地方小幹部だった
ヘン・サムリンを元首とする政権を擁立しました。

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カンボジアを占領したベトナム軍は、
そこで、カンボジアの荒廃した姿を目にしました。
まず、首都プノンペンはゴーストタウンと化しており、
約70人しかいなかったと言われています。
また、カンボジアの都市の郊外にはキリング・フィールド(処刑場)があり、
そこからは夥しい数の白骨死体が見つかりました。
この衝撃は、映画『キリング・フィールド』で描かれています。

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ポル・ポト政権下での死者数は100〜200万人と言われています。
これは当時の国民の約1/6〜1/3にあたる数で、
まさに史上最悪の虐殺です。
知識人が殺されたという点も特徴的です。

この影響により、
カンボジアではポル・ポト政権下の1974〜1979年
生まれの人口が極端に少なく、
人口ピラミッドは一部が窪んだひょうたん型となっています。

また、内戦前に生まれた男性の比率が少ないことも特徴的です。
男性のほうが知識人と見られやすく、多く殺害されたためです。

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ベトナム軍の侵攻後、
ポル・ポトはタイ国境付近のジャングルに逃げ込みました。

以後、5〜10月の雨季には
KR、王党派、共和派からなる三派連合が
タイ国境付近からゲリラ活動を展開し、
4月の乾季にはヘン・サムリン政権が重火器で応戦するという
内戦が10年間続きました。
これにより、100万人以上の難民が発生し、国際問題となりました。

しかし、カンボジアの混乱は国際社会から放置されました。
ヘム・サムリン政権はベトナムの傀儡政権だったので、
アメリカなど、反ベトナム・反ソ連の西側諸国は
国として承認しなかったからです。

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しかし、1989年9月、ベトナム軍がカンボジアから撤退すると、
和平への機運が高まりました。

日本政府はカンボジアの平和構築に積極的に関わり、
1990年には東京で国際会議を開催しました。
そこで、プノンペン政権と三派連合政府が対等参加する
最高国民評議会を設置することなどで合意しました。
1991年10月、『パリ和平協定』が結ばれ、内戦は終結しました。

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1992年3月、
国連が設立した『カンボジア暫定統治機構(UNTAC)』が活動を開始し、
明石康が特別代表に就任しました。

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UNTACは、
難民の帰還、地雷撤去、武装解除などの平和活動(PKO)を実施しました。
日本はこのとき初めてPKO活動に参加しました。
国連ボランティアの中田厚仁が死亡するなどの犠牲がでましたが、
1993年5月、UNTACが監視するなか、国民総選挙が実施され、
新しい憲法が成立し、
シハヌーク殿下を国王とする『カンボジア王国』が成立しました。
カンボジアにようやく平和が訪れました。


「戦争は嫌いです。私たち子どもは平和を望んでいます。」

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・・・

パリ和平後、カンボジアに平和が訪れましたが、
ポル・ポト時代の大量虐殺や内戦の影響は今も残っています。
たとえば、地雷の問題があります。

「ボクは地雷と不発弾をなくしたいです」

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カンボジアでは、1970年からの約30年間に、
500万もの地雷が埋められたと推定されています。
カンボジアは世界で最も地雷埋設密度の高い国なのです。

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株式会社山梨日立建機は、
地雷の撤去と農耕を同時に行える重機を開発して、
カンボジアやアンゴラなどで地雷撤去を行っています。

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他方、重機が入り込めず、
手作業により地雷を撤去せざるをえない地域も多数あります。
そこで、自衛隊OBが作ったJMASというNPOは、
現地人を訓練して地雷撤去要員として雇用し、
地雷撤去と貧困削減に役立つプロジェクトを進めています。

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また、カンボジアのCMACという政府系組織は
日本やアメリカからの支援を得て、
20年間で40万個の地雷を撤去しました。
CMACは「世界への恩返し」ということで、
同じく多くの地雷が埋設されているコロンビアに
地雷撤去の技術を移転しています。

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カンボジアには地雷の撤去がすんでいない地域には、
ドクロのマークがついた鉄柱が建てられています。
しかし、この鉄柱が忽然と消えてしまうことがあります。
鉄柱を外し、椅子や机に加工して販売する人がいるからです。
このため、何も知らずに地雷原に踏み込んだ人が、
地雷を踏んでしまうケースが後をたちません。

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そこで、NGOカンボジア・トラストは、
地雷で足を失った人のために義足を製作するとともに、
同じく地雷の多いアフガニスタン等から
研修生を呼び義足の製作技術を伝授しています。

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地雷の撤去作業には、
これからも長い年月がかかると予測されます。
内戦が終わったとはいえ、
その悪影響ははかり知れないものがあります。

・・・

それでは、カンボジアの政治をみてみましょう。

まず、KRの元幹部たちを裁くKR裁判です。
ポル・ポトは1998年にジャングルで病死したものの、
大量虐殺を指揮したKRの元幹部たちが生存していたので、
1997年から、元幹部たちを裁こうとする動きがはじまりました。

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しかし、ポル・ポト政権後、
カンボジアには基本的な法律がありませんでした。
新しい法律が整備されなければ、
元幹部たちを裁くことができません。

そこで、
2009年にはフランスの支援で新しい『刑法』が施行され、
2011年には日本の支援で新しい『民法』が施行されました。
また、カンボジア政府と国連が『特別法廷』を設置し、
カンボジア人と外国人の裁判官の合議体による
公平な裁判を行えるようにしました。

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こうした努力の末、
S21で政治犯の処刑を指揮していたドゥイッの有罪判決が確定しました。
他にも4名の元幹部が罪を問われており、現在審議中です。

日本政府はこのKR裁判に必要な資金の約半分を拠出するとともに、
最高審判事として野口元郎を派遣するなどの支援をしています。

ただ、人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは、
KRの元幹部たちが多数在籍している人民党の圧力により、
裁判のための捜査が十分に行われていない、などの問題を指摘しています。

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・・・

カンボジアでは政治的腐敗・汚職の問題が深刻です。
国際NGOトランスペアレンシー・インターナショナルの
汚職度調査(2009年版)によれば、
カンボジアは180ヵ国中159位(日本は17位)にランキングされています。

カンボジアでは法整備が進んでいますが、法整備が進んでも、
政治的腐敗・汚職がはびこっており、法律が有名無実化しています。

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カンボジアの実態をみてみると、たとえば、警察は誰かを逮捕しても、
賄賂と引き替えに放免することがあります。
このため、警察官に賄賂を払うことのできる富裕層は逮捕されず、
貧困層だけが逮捕されてしまいます。

さらに、政治的腐敗・汚職による経済的損失も深刻で、
米国国際開発庁が2004年に調査した結果によれば、
その額は年間3〜5億ドルに上ります。

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こうした問題が起きる原因の一つとして、
公務員の給料が低すぎるため、
給料だけでは生活していけないことがあげられます。

近年、カンボジア政府は抜本的な税制改革に乗り出しています。
日本政府は専門家を派遣して研修を実施したり、
必要な機材を投入するなどの支援をしています。
カンボジア政府の税収が増えれば、
こうした腐敗は減少すると期待されます。

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・・・

カンボジアでは、内戦は終わりましたが、
近年、タイとの間で領土紛争が起きています。

タイとの国境付近に『プレアビヒア寺院』というヒンドゥー寺院があります。
これはアンコール・ワットよりも約300年前にたてられたものです。

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(プレアビヒア寺院)

断崖絶壁の上にあるため、以前はアクセスするのが困難でしたが、
いまでは歩道が整備されてアクセスしやすくなり、
観光資源としての価値が見込めるようになりました。

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(プレアビヒア寺院からみたカンボジアの大地)

しかし、2008年、カンボジアの申請により世界遺産に認定されると、
このプレアビヒア寺院の領有権をめぐって、
タイとの間で紛争が生じるようになりました。
タイとカンボジアが用いる地図が異なり、
互いにプレアビヒア寺院が自国の領土にあると主張しているためです。
これは、日本と韓国、中国との領土争いに似ているように思われます。

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また、カンボジアからだと断崖を登らなければならないのに対し、
タイ側からは容易にアクセスできることも、問題を複雑にしています。
互いの領土問題にかかわるため、
解決に至るにはまだ時間がかかりそうです。


「武器と爆発物の取引は禁止されています。武器は世界を滅ぼします。」

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・・・

次に、カンボジアの環境問題をみてみましょう。

カンボジアには東南アジア最大のトンレサップ湖があります。
約100万人がこのトンレサップ湖に船を浮かべて暮らしていて、
水上生活者の規模は世界一です。

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トンレサップ湖は、
乾季は水深1m、面積2700平方kmほどしかありませんが、
雨季になるとメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流します。
その結果、トンレサップ湖は、
水深は9m、面積は6倍の16000平方kmになります。
このとき、トンレサップ川が逆流することによって、
トンレサップ湖およびその周辺に大量の養分が発生します。
その結果、トンレサップ湖では魚が大量発生し、
その周辺でも農業の生産効率が高まるという利益があります。

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ところが、このトンレサップ湖周辺を脅かす問題が起きています。
中国が、メコン川の上流地域に、
水力発電ダムを3基建設したのです。
このため、下流で水位の減少や漁獲高の減少が報告されています。
また、生物が上流と下流の間を行き来することが難しくなるため、
多くの生物種が絶滅に追い込まれるとみられています。
たとえば、メコンイルカは、以前は頻繁に目撃されていましたが、
いまでは殆ど目撃されなくなりました。


「僕は自然が大切だと思います」

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中国は水力発電ダムをあと12基建設する予定です。
もし建設が予定通りに進めば、メコン川の下流地域、
特にトンレサップ湖周辺とメコンデルタ地域に、
漁獲高の減少や、砂漠化、生物多様性の消失など、
深刻な環境問題をもたらすと考えられています。

流域諸国が集まって協議するメコン川委員会は、
中国に対して水力発電ダムの建設の凍結をもとめましたが、
交渉はうまくいっていません。

中国のダム開発は、
メコン川流域に住む6千万人の暮らしに影響を及ぼします。
このため、中国の動きにはこれからも要注目です。

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・・・

続いて、カンボジアの経済面をみてみましょう。

カンボジアは『後発開発途上国』だったものの、
1991年のパリ和平後、先進国の支援を得て、
順調な経済成長を続けています。

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カンボジアの主要産業は農業です。
国民の約6割が農業に従事しており、
コメを中心とした農業は重要です。
しかし、その生産性は概して低いため、
日本政府は、コメの優良種子を利用した
稲作に関する技術協力などを行なっています。

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農業以外では、人件費が低いことを背景として縫製業が盛んです。
首都プノンペンには、
リーバイスやZARA、GAP、ユニクロなどの縫製工場があり、
農村出身の若い女性の働き口となっています。

「わたしはきれいな洋服が大好きです」

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しかし、2012年5月、従業員による待遇改善を求めるストライキが起きました。
いつまでも低賃金のまま雇うわけにはいかないでしょう。

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・・・

パリ和平後、人件費が安いことを魅力に
多くの外国企業がカンボジアに進出してきています。
それにより景気が良くなるのはいいのですが、
負の影響もあります。

その一つとして、土地問題があります。
カンボジア政府は広い土地を民間企業に長期間貸し付けて、
民間企業の経済活動を促進しています。
しかし、民間企業に土地が貸し付けられると、
元々そこにいた住民たちは強制退去させられ、
家と財産を瞬時になくしてしまうのです。
東京に本拠を置く国際人権NGOヒューマンライツ・ナウは、
土地政策に対して住民たちが抗議しても、
カンボジア政府は軍隊を派遣して鎮圧したり、
不当逮捕などしている、と指摘しています。

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・・・

カンボジアは経済成長をしていますが、
経済発展の恩恵にあずかっているのは都市部に住む一部の人だけです。
少し郊外に行くと人々は何十年前と変わらない生活をしています。

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そして、農村で安定した収入を得るのは難しいため、
都市部に流れていく人が後を絶ちません。
しかも、プノンペンに来ても、
学歴がないために稼ぎの良い仕事につけず、スラムに住むことになります。
いま、プノンペンの人口は140万人ですが、
そのうち40万人がスラムに住んでいるといわれています。

「僕の大切なものはおうちさ」

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スラムに住めればまだよい方で、
ゴミ山でゴミを拾ったり、
物乞いやストリートチルドレンになる場合も多いのです。


「ボクのたいせつなものはゴミだよ」

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現地で日本語教師として働いていた小島幸子は、
現地でお菓子をつくって販売する『アンコールクッキー』を開店しました。
このお店では、都市部出身者を雇わず、
あえて地方出身者を雇っています。
それにより、恵まれない地方出身者の雇用を増やしているのです。
彼女は、一方的に援助するのではなく、若い人たちが
自分の足で自立して生きていくために
働く場所を提供することが必要だと考えています。
時間と労力はかかるでしょうが、
一方的に援助をするよりもずっと効果的かもしれません。

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・・・

パリ和平後、カンボジアには、多くの外国人が
世界遺産のアンコール・ワットを訪ねるようになりました。
外国人観光客が増えると外貨を得ることができますが、
そこにも負の影響があります。

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その一つが、外国人観光客による買春の増加です。
カンボジアでは貧しさゆえに子どもの人身売買が後を絶ちません。
特に、女の子の場合は、売春宿という働き口があるため、
簡単に売られてしまうのです。
また、男の子も安泰ではなく、物売りや工場での労働力、
臓器移植のために売られてしまうことがあります。

「わたしの大切なものは家族です」

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NPO法人かものはしプロジェクトは、
カンボジアの人身売買問題を経済面から解決すべく、
貧困地域で雑貨づくりを支援し、
作られた雑貨を日本で販売するフェアトレードをしています。
また、同団体は、
国連児童基金(UNICEF)や国際NGOワールドビジョンとともに、
警察による人身売買の取り締まりを強化するための訓練も実施しています。
この結果、一般市民の間でも「子どもの売買は悪いことだ」という認識が広がり、
人身売買の被害は減ったとみられています。

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・・・

次いで、カンボジアの医療をみてみましょう。

カンボジアは、トイレなどの衛生施設の普及率が世界で最も低い国のひとつです。
トイレなどの衛生施設を使用できるのは全人口の約17パーセントにすぎません。
そして、水と衛生の問題のために、毎年何万人もの子どもが命を落としています。

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そこで、UNICEFはカンボジア政府と共に衛生施設の整備を進めています。
この際、ハイテクな施設ではなく、竹やヤシの木などの簡単な材料を用い、
住民を巻き込んで整備にあたることにより、
住民が自ら進んで衛生施設を維持できるようにしています。

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カンボジアでは、安全な水にアクセスできるのは
全人口の約41パーセントにすぎません。
このため、各団体は農村地帯で井戸を掘る活動をしています。

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ところが、せっかくの井戸が高濃度のヒ素で汚染され、
住民が重いヒ素中毒になってしまう事態が続出しました。
これと同じことが既にバングラデシュやインド、ケニアなどでも起きており、
深刻な社会問題となっています。
井戸を掘るという行為自体は善意によるものなのですが、
水質調査をしたり、
ヒ素除去フィルターをセットで渡すなどの対処が必要でした。
人助けをしようという気持ちだけでは不十分で、
ある程度の知識も必要だという訓示のように思えます。

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・・・

1991年、カンボジアではじめてHIV/エイズが発見されました。
以後、カンボジアではHIV/エイズが猛威を振るっています。
カンボジアでは男性の不倫は容認される傾向があるため、
男性が買春してHIVに感染し、
妻、さらには子どもへと感染が拡大してしまうのです。
1997年にはHIV感染率はピークの3%を記録してしまいました。
そこで、カンボジア政府がコンドームの使用を奨励する政策を実施したところ、
HIV感染率は1.6%まで下がりました。

HIV感染率は減少しているものの、
親をエイズで亡くしたエイズ孤児が大量にうまれ、
その多くがストリートチルドレンとなるため、
大きな社会問題となっています。

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また、カンボジアではHIV/エイズに対する理解が乏しく、
エイズ患者が差別を受けることも大きな問題です。
エイズ患者が受ける差別としては、
たとえば、医療サービスを受けられない、
仕事を続けられない、家族からも見放される、
お墓への埋葬を拒否されるなどがあります。

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カンボジア政府は、
首都プノンペン郊外にHIV感染者を集めた集落(エイズコロニー)をつくって
感染者を強制隔離しています。
しかし、国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは、
この政策がエイズ患者に対する差別を助長していると批判しています。
エイズ問題は医療だけの問題ではなく、人権問題でもあるのです。

・・・

最後に、カンボジアの教育をみてみましょう。

「私の大切なものは学校です」

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カンボジアは人口の約40%を子どもが占める、子どもが多い国です。
このため、教育は復興の要となる分野です。

カンボジアの教育システムはポル・ポト時代に徹底的に破壊されました。
ポル・ポト時代には、教師の約75%、初等・中等教育を受けた生徒の67%、
高等教育を受けた生徒の80%が殺害されるか、
強制労働で死亡するか国外に亡命したといわれています。
加えて、学校施設は閉鎖され、印刷物は破棄され、教育システムが消滅しました。
このため、ポル・ポト時代から30年以上たった今でも、
教員や学校、教材が不足しています。
このような問題は地方になるほど深刻です。

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また、親の教育に対する理解が低いことや、
教師の質が低いことなどもあいまって、
義務教育を終える前に退学する生徒が多いことも特徴的です。
特に1、2年生で退学することが多く、
この場合、読み書きも身につきません。

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そこで、UNICEFは、
就学年齢の子どもたち全員が学校へ通え、
教師に質の高いスキルがあり、
子どもたちが清潔で安心した環境で学ぶことのできる
『子どもに優しい学校』をつくる活動をしています。

UNICEFは、学校に井戸やトイレをつくったり、
教材や遊具、給食を支給するなどの支援をしており、
この結果、UNICEFが支援する小学校では、
ほとんどの子どもが退学せずに中学校に進学しています。

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他、JHP・学校をつくる会や、米百俵スクールプロジェクトなど、
さまざまなNPO法人がカンボジアで学校をつくっています。

なかには、大学生がお金を集めてカンボジアで学校をつくった例もあり、
向井理主演の映画『僕たちは世界を変えることができない』になりました。

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・・・

さて、カンボジアが抱える様々な課題を取り上げてきました。
史上最悪の大虐殺と内戦があり、今も多数の地雷が埋まっています。
そして、政治的腐敗や、人権侵害、領土問題、人身売買、HIV/エイズ、など、
さまざまな問題を抱えています。

しかし、筆者がカンボジアを訪ねたときに一番印象に残ったのは、
そうした負の面ではありませんでした。

何よりも、子どもたちの屈託のない笑顔が一番印象に残りました。
目がキラキラしていて、本当に純粋な感じがします。
人は貧しくとも、幸せでいられるということを教えられた気がしました。

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そして、一番の思い出は、
アンコール・ワットのあるシェムリアップでのことです。
中学生くらいの女の子から絵葉書セットを買いました。
正直、絵葉書を買いたいとは思いませんでしたが、
1ドルと安いし、女の子にお小遣いをあげるつもりで買いました。
帰国後、中を開けると、メッセージカードが入っていました。

「アンコール・ワットに来てくれてありがとうございます。
 あなたとお話しできてうれしかったです。
 私のことを忘れないでください。
 そして、またアンコール・ワットに来てください。
 あなたと家族の健康をお祈りします。
 そして、お仕事がうまくいくようにお祈りします。」

カンボジアの子どもの純粋な思いに感動しました。
そして、人間として純粋な気持ちを失ってはいけないと心から感じました。

カンボジアはこれからどんどん復興していくでしょう。
これから変わっていくことも多いでしょうが、
それと同時にカンボジアの良さが、
これからも残り続けることを心から願います。

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・・・
・・・

絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004、2009)
村松昌枝(2005)
矢野弘明(2009)
矢野正高(2009)

画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明

編集完了日:
2012年12月16日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 11:20| 日記

2012年12月03日

ポーランド Poland

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あなたの大切なものは何ですか。

「私はポーランドが大好きです」

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ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制の国です。

首都はワルシャワにあり、公用語はポーランド語です。
国教がキリスト教のカトリックであるため
ポーランドの9割の人がカトリック教徒です。

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カトリック教の「総本山」といわれる
バチカンの第264代ローマ教皇であった
ヨハネ・パウロ2世もポーランド出身です。

彼のほかにも、科学者のキューリー夫人、
天文学者のコペルニクス、
ピアニストのショパンなどが有名ですね。

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「ポーランド」の語源「ポーレ」は
「平野、耕地」といった意味です。
その由来のとおり国土の大部分は広い平地となだらかな丘陵で
美しい森と平原が広がっています。

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ポーランドは、10世紀に建国されました。
16世紀には、ポーランド・リトアニア共和国として
欧州最強にして最大の地位を占めました。

しかし、しだいに国力が衰え、
18世紀末には、3度にわたって、ロシア、プロシア、オーストリアの
隣接三国に分割されてしまいました。

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その後、1918年に独立するまでの123年間、
ポーランドという国は世界から姿を消していました。

また、独立後も第二次世界大戦において、
ソ連とドイツに分割占領されるなど、
数世紀わたって隣国による分割・統治を繰り返してきました。

そして、終戦後は、ソ連の支配下に置かれ、
社会主義国として東西冷戦の東側陣営に組み込まれます。

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しかし、1989年に東欧革命が起こると、
ポーランドは、共産主義国家から民主国家へと一変しました。

1994年には欧州連合(EU)に加盟、
翌年にはWTO(世界貿易機関)、
また翌年にはOECD(経済協力開発機構)への加盟を果たし、
ポーランドは西側諸国の仲間入りを果たし、
先進国と呼んでもいい国にまで発展しました。

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そんなポーランドの歴史を踏まえながら、
ポーランドについて詳しく見ていきましょう。


・・・


あなたの大切なものは何ですか。

「お互いに、よく知りあうことが大切です」

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ポーランドが親日国として有名なことをご存知ですか?

ポーランドは、昔から日本文化を高く評価し、
日本研究を行ってきた国なのです。

2012年11月に野田総理大臣が
ポーランドのトゥスク首相と会談をした際も、
ワレサ元大統領が「ポーランドを第二の日本にしたい」と
常々言っていたとトゥスク首相は野田総理に伝えました。

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このように、ポーランドが日本に関心を持ち始めたのは
日本が経済大国として国際的に知られるよりもずっと以前のことなのです。

そのきっかけは日露戦争でした。
当時、隣国に国土を分割・統治され、
国家を失っていたポーランド人たちにとって
ロシアは自分たちの国家独立を阻む最大の敵国でした。
そんな敵国ロシアに勇敢に戦いを挑み、見事に勝利した日本という国に
当時のポーランド人たちは大きな関心を寄せました。

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第一次世界大戦が終了した次の年(1919年)になると、
ポーランドは悲願の国家再生を果たしますが、
その際にも、ポーランドが親日国となる出来事がありました。

第一次世界大戦後、
ロシア国内は、革命による内戦状態にあり、
混乱を逃れて東に避難したポーランド人の難民が
シベリアに集まっていました。

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シベリアはもともと、政治犯などの流刑の地とされていたため、
ポーランド独立を目指して反乱を企てた政治犯やその家族も含め
当時のシベリアには、十数万人のポーランド人が
生活していたと言われています。
彼らは飢餓と疫病の中で苦しい生活を送っていましたが、
特に親を失った子どもたちは悲惨な状況に置かれていました。

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1919年9月、ロシア極東部の都市、ウラジオストク在住の
アンナ・ビルケウィッチを中心とするポーランド人たちは、
「ポーランド救済委員会」を組織しました。

この委員会は、親を失った子どもたちだけでも救済し、
祖国に送り届けたいとの思いから結成されました。

救済委員会ははじめ、欧米諸国に援助を求めましたが聞き入れてもらえず、
最終的に、日本政府に援助を要請することになりました。
会長のビエルキエヴィッチが来日し、
外務省を訪れてシベリア孤児の救済を求めると、
彼女の訴えは「日本赤十字社」に伝えられました。
そして、17日後には、シベリア孤児救済が決定されたのです。

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「赤十字」は、世界最大のネットワークを持つ人道機関です。
人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性という
7つの「赤十字の基本原則」を掲げています。
日本赤十字社は、1952年に制定されました。
ちなみに、世界の187カ国には、
各国ごとに赤十字グループに含まれる組織が作られています。

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日本赤十字社の救済活動は、
シベリア出兵中の日本軍の協力もあり、
決定の2週間後には、救済活動が開始され、
750名以上の孤児たちが日本へ送られ、手厚い保護を受けたのち、
無事に、ポーランドへの帰還を果たすことができました。

・・・

ポーランドの日本への関心の高さは、
教育の分野からも見ることができます。

日本では、ポーランド語を専攻で学べる大学が
1つ(東京外国語大学)しかありませんが、
ポーランドでは、ワルシャワ大学やヤギェウォ大学、
ミツキェヴィチ大学などで日本語を学ぶことができ、
日本関係の教育機関もたくさんあります。

ポーランドの教育水準は高く、
8年制の義務教育が行き渡っています。
高等教育も長い伝統を持ち、
クラクフにあるヤギェウォ大学は1364年に創設されました。
これは中央ヨーロッパでは2番目に古い大学となります。

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天文学史上もっとも重要な発見といわれる地動説を説いたコペルニクスや、
史上初のスラブ系教皇となったヨハネ・パウロ2世も
このヤギェウォ大学で学びました。

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歴史の深いこの大学の図書館の蔵書は膨大で、
モーツァルトの自筆譜や
貴重な古写本など研究資料の宝庫となっています。

情報機器販売会社である
コニカミノルタビジネスソリュージョンズポーランド社は、
このヤギェウォ大学の財団と共同で、2007年から
ポーランドの文化遺産保護プロジェクトを開始しました。

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このプロジェクトでは、
19世紀末から20世紀初頭にかけて出版された
貴重な書籍7点を、
高速複合機で印刷し、復刻出版する予定です。
2010年までに6点の復刻が完成し、
ポーランド全国の大きな図書館に配布されています。

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・・・


近年のポーランドを語る上で、
1989年に起こった「体制転換」を避けて通ることはできません。

第二次世界大戦後、ポーランドは、
ソ連の影響下のもとで共産主義化が進められていましたが、
債務の増加と物価の上昇などにより経済的に行き詰まり、
国民の不満は、全国的なストライキへと発展していきました。

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政府は、打開策を模索するため、ワルシャワで
「円卓会議」と呼ばれる政府と反体制勢力による話し合いを行い、
その後、自由選挙が行われました。

そして、1989年6月の総選挙の結果、
ポーランドに東ヨーロッパ初の非共産党政権が誕生しました。

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この出来事の後、共産主義国家の崩壊は、
ポーランドに続いてハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニアにも及び、
同じ年の11月9日にはドイツのベルリンの壁崩壊が起こりました。
これは「東欧革命」と呼ばれます。

新しく発足したポーランドのマゾヴィエツキ政権は、
バルツェロヴィチを副首相兼大蔵大臣に据え、
市場経済への移行に向けて新しい経済プログラムを発表しました。

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この経済プログラムは「バルツェロヴィチ・プラン」と呼ばれ、
インフレの抑止、物価の引き下げ、財政赤字の削減を優先課題に、
価格や貿易の自由化、強力な金融引き締め、
通貨の大幅切り下げなどを行いました。

別名、「ショック療法」と呼ばれたこの政策は、
その名の通り、失業や生活水準の低下など
深刻な副作用を伴いましたが、
それでも、90年代からは順調に経済成長を遂げることができました。

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このようにポーランドの「ショック療法」が
結果的に成功した背景には、国際社会の強い支援がありました。

ポーランドの成功は、
共産主義化を防止したいという共通の目標をもつ
アメリカをはじめとする西側諸国にとっても重要でした。

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ポーランドの体制転換が失敗に終われば、
東欧革命に歯止めがかかり社会主義へ逆行してしまうという
懸念が西側諸国にはあったからです。

そのため、国際通貨基金(IMF)や
世界銀行による融資、EUの構造基金の支給、
そして、異例の公的債務(借金)削減が行われ
ポーランド経済を下支えました。

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日本政府も、ポーランドが市場経済や民主主義へ
円滑に移行できるよう財政や金融、産業、経済など
多岐にわたる支援を行ってきました。

OECD(経済協力開発機構)の中にある
DAC(開発援助委員会)という委員会では
先進国が援助を行うべき開発途上国のリストを作成しています。

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ポーランドは、1994年にEU、96年にはOECDへの
加盟を果たしたことで先進国の仲間入りをし、
2005年をもって、この「被援助国リスト」から除外されました。

それを受け、日本の支援も、
2008年6月の技術協力プロジェクトをもって終了しました。


・・・


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東欧革命において体制転換を果たした
ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアの3か国は
市場経済への移行だけでなく、西側諸国への回帰も目指していました。

1991年に、ハンガリーの都市のヴィシェグラードで
これら3国の大統領が集まり、EU(欧州連合)への加盟を目標に
お互いに協力するためのグループを形成しました。

これが「ヴィシェグラード・グループ(V4)」と呼ばれる
地域協力機構です。

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1993年に、チェコスロバキアが
チェコとスロバキアに解体されたため
ヴィシェグラード・グループは4か国となり、
2004年には、4か国そろってEUへの加盟を果たしました。

V4では、文化、環境、防衛、教育、観光、エネルギー、IT等、
さまざまな分野での協力が行われています。

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日本政府は、2003年に、V4と日本との間で
「V4+日本」対話・協力を推進していくことに合意し
さまざまなワークショップやセミナーを開催してきました。

2009年には、環境・気候変動ワークショップが行われ、
環境・気候変動分野に対する理解を深めるとともに
日本の環境問題に対する取り組みや環境技術が紹介されました。

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2010年には、ハンガリーで開発協力セミナーが行われ、
世界経済・金融危機が開発協力に与える影響や
「ミレニアム開発目標(MDGs)」の達成状況、援助効果などについて
率直な意見交換が行われました。

ミレニアム開発目標というのは、
90年代に採択された国際開発目標や
2000年の国連ミレニアム・サミットで採択された国連ミレニアム宣言を
開発分野における国際社会共通の目標として2001年に総括したものです。

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2012年4月には、
エネルギー効率化・再生可能エネルギー及び原子力分野に
関するワークショップが日本の外務省にて行われ、
エネルギーの効率化・再生可能エネルギー及び原子力安全に関する
活発な意見交換が行われました。


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あなたの大切なものは何ですか。

「家族の健康が大切です」

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体制転換は、ポーランドの医療事情にも影響を与えました。

旧ソ連ブロック時代、ポーランドは
国営の病院により無料で医療サービスを提供していました。

しかし、過度な中央集権化のため
医療費の無駄遣いが起り、資金は慢性的に不足状態になりました。
そのため、施設の管理は不十分になり、
地域によっては病院が少ないところがあるなど
地域的不平等によって、サービスを受けるのが困難であったり、
医療の質も低いものでした。

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体制転換後、各地域に医療サービスが行き渡るよう
いくつかの改革が起こり、
新しい医療保険制度(傷病給付金庫)が導入されました。

これにより、医療制度の運営費を各地域に収めることが義務付けられ、
中央集権化された医療サービスが各地域へ分権化されました。

2003年には、医療の地域格差をなくすため、
「傷病給付金庫」から「国民健康基金(NFZ)」へと
再編・再集権化されました。

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この制度では、国民健康基金と契約した病院であれば
無料で医療サービスを受けることができます。

しかし、この制度でも慢性的な資金不足という問題は残されており、
今後の大きな課題となっています。


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1986年にソ連(現在のウクライナ)で起きた
チェルノブイリ原子力発電所の事故は
隣国のポーランドにも大きな影響を与えました。

事故当時、国境沿いをはじめとしてポーランド国内でも
かなりの放射能汚染が確認されたため、
ポーランド政府は、事故発生の初期から対策をとりました。

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ポーランド政府は、
汚染ミルクを子どもや妊娠・授乳中の女性が飲むことを禁止し、
4歳以下の子どもには牛乳のかわりに粉ミルクを飲ませることを決めました。
また、全国の小児にヨウ素剤を配布しました。

これら初期の対応の結果、
隣国のウクライナやベラルーシでは小児の甲状腺ガンが増加したのに対し、
ポーランドでは甲状腺ガンの増加を防ぐことができました。

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放射能汚染地域での小児甲状腺の検診や支援活動を行っている
日本の菅谷(すげのや)昭・元信州大学医学部第二外科助教授は、
ポーランド政府のこれらの対応を高く評価し、
日本の原発事故後の対策としても参考にすべきであると述べました。


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あなたの大切なものは何ですか。

「誰にでも平等な社会が大切です」

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「子どもの権利条約」をご存知ですか?

「子どもの権利条約」とは、
正式には、「児童の権利に関する条約」(1989年採択、1990発行)といい、
子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められた条約のことです。

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実は、この条約が国連で創設された背景には、
一人のポーランド人が関わっていたのです。

それが、小児科医のコルチャックという人です。
コルチャックは、医師でありながら教育者として、
また作家として子どもたちと共に生きた人でした。

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彼は、子どもの権利の3つの大きな柱として、

1)子どもの死についての権利
2)子どもの今日という日についての権利
3)子どものあるがままである権利

を提唱し、子どもの人格を認めることを主張しました。

「子どもは親の所有物ではない。」
「子どもにも秘密を持つ権利がある。」
「子どもは『過ち』をおかす。
それは子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。
完璧な子どもなどいない。あなたが完璧な人間でないのと同じように」
というように、コルチャックは、
子どもを「権利の主体」として尊重していました。

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彼は、全生涯を孤児の救済と子どもの教育に捧げました。
多くの教育書、研究所、童話、文学作品、新聞、ラジオ放送を通じて
子どもの福祉と権利を訴えました。

また、彼は、ポーランド人とユダヤ人の2つの孤児院を
それぞれ運営していました。
コルチャックは彼らへの教育を通して
戦争のない平和な世界を実現しようと試みました。

しかし、第二次世界大戦中、、
ドイツによって行われていたユダヤ人絶滅政策によって
孤児院にいた200人のユダヤ人の子どもたちは、
絶滅収容所行きが決まってしまいます。

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このとき、コルチャック(本人)には
彼が高名であることから、
特別なゆるし(死刑の免除)が与えられていました。
しかし、彼は子どもたちを見捨て、自分だけが助かることを拒否し、
「子どもたちも同じように扱われないなら、
私は子どもらと一緒に運命を共にします」といい、
子どもたちとともに収容所で殺害されました。

子どもたちに対するコルチャックの精神は、
戦後、ポーランド政府を介して
条約の草案として国連に提出されることになりました。

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そして、コルチャックの理想は、
彼の死後、47年が経った1989年に国連で
「子どもの権利条約」として実現されることになりました。

日本でも、子どもの権利条約は、
1989年に採択され、翌年に発行されました。
その後、193の国と地域によって締結されています。

ポーランド政府は、コルチャック没70年であり、
彼の作った孤児施設「ドム・シュロット」の誕生100周年にあたる
2012年を「コルチャック年」とすることを決めました。

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あなたの大切なものは何ですか。

「平和が一番、大切です」

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最後に、ポーランドの「負の遺産」ともいえる
「アウシュビッツ」についてお話したいと思います。

アウシュビッツは、第二次世界大戦中、
ドイツによって国家をあげてつくられた強制収容所です。

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「アウシュヴィッツ」という呼び名は、
ポーランドの都市「オシフィエンチム」のドイツ語読みからきています。
「アウシュビッツ」というとナチス・ドイツが連想されますが、
アウシュヴィッツがあるのはポーランドです。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはポーランドを中心に、
欧州のあらゆる国に強制収容所を設置しました。

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特に、アウシュヴィッツは、
歴史上最も悪名高い強制収容所として有名です。
この収容所内では、
満足な食事も与えられず、強制労働をさせられたり、
「価値なし」と判断された人たちはガス室で虐殺されたり、
人体実験の対象とされました。

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アウシュヴィッツは、1945年1月27日にソ連軍によって解放されるまでに
150万人のユダヤ人虐殺が行われたと言われています。

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二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて
アウシュヴィッツは「負の世界遺産」として、
1979年にユネスコ世界遺産に登録されました。
また、現存する一部の施設は、
ポーランド国立オシフィエンチム博物館によって管理・公開されています。

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アウシュヴィッツやユダヤ人迫害にまつわる話は数多くあります。

ポーランド人のカトリック司祭であった
マキシミリアノ・コルベ(通称:コルベ神父)は、
彼が発行した「無原罪の聖母の騎士」という小冊子が
ナチスを批判していたという理由でアウシュヴィッツに投獄されました。

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ある日、脱走者が出たことが原因で、その「見せしめ」のために、
10人が選ばれ、餓死刑に処せられることになりました。
コルベ神父は、妻子がいる男性がその一人として選ばれたのを見て、
身代わりになることを自ら名乗り出ました。
餓死刑に処せられたコルベ神父は、
牢内でも最後まで、他の囚人を励まし続けたと言います。

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彼は、後に「アウシュビッツの聖者」と呼ばれるようになり、
身代わりとして助けられたガイオニチェクという男性は、
奇跡的に終戦まで生き延びた後、
亡くなるまでコルベ神父に関する講演を世界各地で行いました。

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同じくカトリック教徒であった
ポーランド人のイレナ・センドラーは、
ナチス・ドイツによりワルシャワのゲットー(ユダヤ人居住地区)に
収容されていた2500人のユダヤ人の子どもたちを
看護師に変装して連れ出し、助け出しました。

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彼女は、1943年に
ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に逮捕され、
強制収容所に入れられてしまいます。

収容所内で彼女は度重なる拷問を受けますが
「活動内容を明かすぐらいなら迷わず死を選ぶ」と沈黙を守り、
助けた子供たちの名前を明かすことはありませんでした。

その後、彼女は、ジュゴタ(ユダヤ人救済委員会)により救出され、
戦後、その功績により多くの賞を受賞しました。

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また、第二次世界大戦時リトアニア領事館に赴任していた
日本人の杉原千畝(すぎはらちうね)は、
ポーランドなどから逃げてきたユダヤ人難民に対して
大量の日本へのビザを発給し、彼らが亡命できるよう手助けをしました。

これは当時の外務省の命令に背いた行動でしたが、
これにより、ナチス・ドイツによって迫害を受けていた
約6千人のユダヤ人が救われました。

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ユダヤ人の強制収容所博物館元館長のカジミエシュ・スモレンは
アウシュビッツを訪れたドイツ人の若い世代に対して次のように言います。

「君たちに戦争責任はない。でも、それを繰り返さない責任はある。
・・そしてそれは多分、私も同じなのだ。」

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実は、彼自身、ユダヤ系ポーランド人として
戦時中のアウシュヴィッツ収容所から、
奇跡的に助かった中の一人でした。


・・・


ナチス・ドイツを通して、
私たちは人間の残酷な側面を垣間見てきました。
しかし、このような状況でも、
コルベ神父やセンドラー、杉原のように
勇気ある行動をとる人たちがいたことは、
人間の価値を理解する上で重要なことではないでしょうか。

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アウシュヴィッツで起きた悲劇は過去の歴史となりましたが、
世界では、今でも深刻な人権侵害や迫害が存在します。

そして、これを読まれている方であれば、
いつでもそういった情報をインターネットを通じて
身近な出来事のように知ることができます。

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もし私たちが今、
彼らのような正義の行動を起こすタイミングを
まさに迎えているのだとしたら、どうでしょう。

スモレンが言ったように「繰り返さない責任」が
私たちにあるのだとしたら、何ができるのでしょうか。

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最後に、
ヨハネ・パウロ2世の言葉で終わりたいと思います。

わたしたちの住むこの惑星の広い地域を非人間的なものとし、
住みにくいものとしてしまった環境破壊を目の前にして、
あるいは、破壊的な世界戦争の悪夢によって繰り返し繰り返し
脅かされている平和の危機を目の前にして、
あるいは、これほど多くの人間に対する、
とりわけ子どもたちに対する基本的人権の無視を目の前にして、
わたしたちは部外者を決め込んでいることができるでしょうか。
ヨハネ・パウロ二世

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・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
山本敏晴

画像データを編集し、文章を書いた人:
菊地賢一

編集完了日:
2012年12月5日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
posted by お絵描きイベント at 10:24| 日記