
台湾とは、アジア大陸の東南沿海、太平洋の西岸に位置する
台湾本島を中心とした77の島々をさします。
面積は日本の10分の1ほどで、九州と同程度の大きさです。
人口は日本の7分の1ほどです。
また、台湾の住民は大別すると「混血民族」約80%と
「純粋な中国系」約15%に別れます。
その他に、全体の人口の約2%をしめる複数の先住民もいます。
宗教は「道教」と「仏教」が台湾の二大宗教と言われています。
ちなみに、台湾では法律上も「信仰の自由」が認められていますが、
中国大陸では、共産主義のため法律上、宗教が禁止されています。

また、小さな地域ではありますが、
経済成長が進んでおり、GDP(国内総生産)は世界上位。
経済発展が大きく進んでいる先進国といえます。
日本とそんなに変わらない生活水準と言えば
想像しやすいかと思います。
しかし、それにも関わらず台湾は「国」として認められていません。
台湾を正式に国として承認している国が少ないのです。
台湾と交流が深い我が国、日本でさえも承認していません。
では「なぜ台湾が国として認められていないのか?」
その理由をみなさんは知っていますか?
その理由を知るとともに、まずは台湾の歴史を振り返っていきましょう。

台湾は16世紀中期に、ポルトガル船により偶然発見されました。
その時の緑が多い台湾の様子を見たポルトガル人は、台湾を
「イラ・フォルモサ」(ポルトガル語で美しい島の意味)と呼びました。
このことがきっかけで、現在でも台湾の別名は「フォルモサ」とされています。

台湾に初めて本格的に進行したのはオランダの東インド会社です。
東インド会社が主に行っていたのは貿易の独占や植民地の開拓で、
台湾も貿易の拠点として占領されました。
またこの頃、中国大陸の明(みん)の軍人である
鄭成功(ていせいこう)が台湾にやってきました。
中国大陸はそれまで漢民族の王朝である明が支配していたのですが、
満州民族の清(しん)によって滅ぼされてしまい、
これに対抗するために鄭成功は台湾を拠点にしようとしたのです。

もちろん、鄭成功は台湾を占領しているオランダと
争うことになりましたが、その戦いに勝利し、
台湾で初の漢民族政権による統治が開始されました。
しかしそれもつかの間、鄭成功の子孫は清に敗れ、
中国大陸の政権による台湾への初の支配が始まったのです。

その後、清は中国大陸に残っていた明時代の官僚
(漢民族の男性)を大量に台湾へ追い出し、
そればかりか中国大陸と台湾間の移動を禁止してしまいます。
漢民族が反乱をおこさないようにするためです。
この結果、台湾へ移住した漢民族の男性と
台湾先住民の女性が結婚するようになりました。
もちろん、その間には混血である子どもが次々に生まれました。
こうして生まれた混血民族が、現在の台湾人の多くをしめる
「本省人(ほんしょうじん)」と呼ばれる人たちとなったのです。

そんな中、1894年に勃発した日清戦争で日本が清に勝利し、
日本は清から台湾の統治権を得ることになりました。
以降、約50年間の日本統治時代の幕開けとなったのです。
もちろん、台湾の住民は抵抗運動をおこないました。
しかしながら、そのような人々は日本軍との戦いで死んだり、
虐殺されたりしました。
その数は1万人をも超えると言われています。

特に1930年に台湾の霧社(むしゃ)で起こった
台湾先住民による霧社事件は最大規模の武力闘争となりました。
この事件は、2011年に『賽徳克巴莱(セデック・バレ)』
という台湾映画にもなっています。
また、台湾人は日本語を話すことを強要され、日本語教育を受けました。
現在でも台湾のお年寄りに日本語を話せる人が多いのは、
そのような歴史的背景があるからなのです。

このようにして、日本は台湾を強制的に支配し、
しかも多くの人を苦しめたのです。
このことは日本人として知っておくべき事実であり、
忘れてはならないことだと筆者は思います。
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では、それでもなぜ台湾の人々が
「親日」と呼ばれることが多いのでしょうか?
実はその理由の一つに、日本統治時代の
日本による台湾への貢献が大きく関わってるといわれています。
ここからは、歴史の解説から少しそれて
台湾で活躍した日本人について書いていきたいと思います。
台湾と日本の関係、および現在の台湾を知るにあたり
とても重要な内容だと筆者は考えるからです。
「あなたの大切なものはなんですか?」
「車が走るための道路です」

当時、まともな産業がなかった台湾は、
日本統治時代を経て大きな経済成長をとげました。
数々の日本人により、インフラ(社会基盤)の向上が図られたからです。
特に民政長官だった後藤新平(ごとうしんぺい)は
鉄道・道路・港湾・電信・建築物といった社会インフラに力を入れ、
その後の台湾の産業を支える大事な柱を作りました。
今でも、日本統治時代に建てられた
木造建築がいたる所に残っています。

また、産業振興では後藤新平の後輩である
新渡戸稲造(にとべいなぞう)が『糖業改良意見書』を提出し、
砂糖キビの栽培改良や製糖工業育成に務め、
台湾における製糖業を確立しました。
これは、台湾の財政独立に大きく貢献したとされています。
「あなたの大切なものはなんですか?」
「美しい地球です」

第7代台湾総督であった明石元二郎(あかいしもとじろう)は、
台湾電力を設立し、水力発電事業を推進しました。
また、現在も台湾最大の銀行である華南銀行を設立しました。
日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正したのも
明石元二郎です。
ちなみに、この頃の台湾の電源は約99%を水力発電に
頼っていましたが、その後の高度経済成長により、
水力発電では電力をまかなえなくなりました。

そのため現在はというと、火力発電が約80%をしめています。
一時は原子力発電が電力の半分を超えた時期もありましたが、
反原子力の世論が高まり、火力発電にシフトしたのです。
しかし、火力発電のためのエネルギー資源に乏しい台湾は
エネルギー源の約99%を輸入に頼っている現状があります。
そこで、台湾政府は限られた資源を効率的に活用するため、
環境にやさしいクリーンなエネルギーを開発し、
エネルギー供給の安定化を目指し始めました。

石油の需要抑制や
(石油よりはCO2排出量の少ない)天然ガスの輸入拡大、
再生可能エネルギーの利用や省エネの推進を打ち出し、
太陽光発電にも力を入れ始めています。
教育の分野でも、環境保護の教育を義務化する法案が
2010年に成立するなど、現在の台湾はエネルギーにおける
抜本的な改革を進めているようです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「豊かな水と緑です」

当時の台湾南部の嘉南(かなん)平野では
外部から人工的に水を供給する施設がなく、
大規模な干ばつにおちいっていました。
またそれにより、たくさんの農民が飢餓で死んでいったり
苦しんでいました。
それを改善するためのダムを作ったのが
日本から台湾へ出向いていた水利技術者
八田與一(はったよいち)です。

彼は、東洋初、そして随一とされた
「大貯水池・烏山頭(うさんとう)ダム」を
企画・推進し、それを成功させ、台湾の多くの農民に
感謝される人物となりました。

その貢献は今でも台湾の人びとにより評価されており
台湾の馬英九(マー・インチウ)総統も、
2008年から毎年、慰霊祭に参加しています。
またそれだけでなく、馬英九総統は「八田與一記念公園」を建設し、
その公園の開会式では
「日本が台湾を統治した50年にインフラ建設があり、貢献は無視できない。
八田をたたえることは植民地支配を美化すると批判があるが、
恩讐を分ける態度が必要だ」
と発言したほどでです。

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さて、台湾の歴史に話を戻しましょう。
1945年に太平洋戦争で日本が敗北すると、台湾の統治権は
勝利国である『中国大陸にある政権』へと再び移ることとなりました。

ちなみに、台湾が中国大陸に返還された1945年にはすでに、
孫文により「中華民国」が誕生していました。
1912年に、国力を失った清を見かねて孫文が
「辛亥革命(しんがいかくめい)」を起こし、
清を倒して君主制を廃止していたのです。
その中華民国には、2つの政党がありました。
孫文の部下2人が率いる、蒋介石(しょうかいせき)の「国民党」と、
毛沢東(もうたくとう)の「共産党」です。
この2つは、台湾が中華民国に返還される少し前から内戦
(「国共内戦」といいます)を続けており、
台湾返還時には国民党が中華民国を支配し、
蒋介石の独裁が行われていました。

しかし、蒋介石率いる国民党の政策はことごとく不評でした。
台湾の人も、台湾にやってきた国民党の人々の腐敗しきった振る舞い
(強盗や殺人など)にあきれ、日本統治時代に比べると落胆する部分も多く
「イヌのかわりにブタが来た」と言ったほどです。
(この辺りのことも、台湾の人が日本に好感を
持つようになった理由の1つかもしれません)
このようにして、これ以降、中国大陸から渡来した漢民族は
それ以前からいた本省人(真の台湾人の意味)と区別して
「外省人(がいしょうじん)」と呼ばれるようになりました。

そのような外省人のふるまいに対して、
本省人も黙っていたわけではありません。
1947年2月28日に発生した「二・二八事件(にいにいはちじけん)」で
本省人の怒りはピークに達しました。
そしてこの事件は、のちに本省人の間で「台湾大虐殺」とも呼ばれる
悲惨な歴史的大事件に発展してしまいます。

この二・二八事件は、台北市でヤミタバコを売っていた本省人の女性を、
外省人の密売取締員が殺傷したことから始まりました。
この事実を知った一部の本省人の間で大規模暴動が起こり、
これが台湾全土の本省人による外省人・国民党政府への
抗議運動につながったのです。

しかし、国民党政府はこれを武力によって制圧し続け
約 28,000 人もの本省人の人びとが殺害・処刑されたといいます。
しかも驚くべきことに、事件の際に発令された戒厳令
(かいげんれい:一時的に統治権を軍隊に移行すること、
市民の権利も制限される)は事件発生から40年後の
1987年まで解除されることはありませんでした。
そのため、この事件は台湾を知り、語る上でとっても重要な
出来事となっています。

そのようなひどい独裁をおこなってきた国民党も、
1949年には中国大陸において、毛沢東率いる共産党に敗れてしまいます。
そうして、共産党が支配する現在の中国、
つまり「中華人民共和国」が誕生したのです。
敗れた蒋介石の国民党は、唯一支配を続けていた台湾へと
逃げ込み、台北を臨時首都としました。
台湾において、中華民国の政権を維持したのです。

こうしてこれ以降、中国大陸にある共産党の「中華人民共和国」と
台湾にある国民党の「中華民国」が現在でも
二つ同時に存在しているのです。
これを「二つの中国」といいます。
もちろん、中国大陸を支配した共産党は
国民党が支配を続ける台湾を潰そうと考えました。
しかし、1950年「朝鮮戦争」の勃発により
この計画はうやむやとなりました。

北朝鮮が韓国よりも優勢であったこの戦争、
北朝鮮に肩入れをしていた中国をよく思わないアメリカが
韓国と台湾の支援を始めたのです。
このため、朝鮮戦争はこう着状態となりました。
ちなみにその後も、こういった状況は続きました。
特にアメリカと台湾は1954年に「共同防御条約」を結んでいます。
これは、アメリカは必要な時に武力を行使し、
台湾が共産党の政権下になるのを阻止するというものです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「海外旅行です いろんな国へ行きたいです」

その一方で、戦勝国として国連安保理の常任理事国であった
中華民国(台湾)は、工業の発展や自由貿易による国際化により
どんどんと経済成長を続けました。
経済面では、この時すでに中国大陸の上をいっていたのです。
しかし、中華民国はとっくに中国大陸を追われ
大陸は中華人民共和国が支配していました。
このため、国連の「中国」は中華人民共和国にすべきだという
決議が1971年に採択され、
台湾は国連の座を失うこととなったのです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「地球のみんなです」

また、これにより中国と国交を結ぶ国が増えたのですが
それらの国との国交断絶を台湾は選びました。
その中には、台湾にとって交流の多い、
日本やアメリカも含まれています。
こうして、台湾は世界的に孤立してしまいました。
これが、台湾が「国」として認められていない理由なのです。
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ここからは、また歴史から少しそれて、
現在の台湾と日本の経済的関係について書きたいと思います。
日本やアメリカなど、多くの国と国交断絶した台湾。
その後、どのようにして更なる経済成長をとげたのでしょうか?
「あたの大切なものはなんですか?」

「私の大切なものはパソコンです」

先にあげたように、1960年代から台湾は外交の強化により、
高度経済成長をとげました。
そんな経済の発展の中でも、特に成長し、
世界でもトップクラスとなった産業は
パソコンや半導体などのIT分野です。
これらが伸びた理由の1つとして、独特な生産システムである
OEM(他社ブランドの委託生産)と
ODM(他社ブランドの設計と製造まで委託)があげられます。
受託加工生産を強みにし、アメリカの大手ITメーカーから
受注を一手に受けるなどして急激に成長をとげたのです。
日本でも最近では、日立製作所が2012年9月末までに
テレビの自社生産を終了し、台湾メーカーなどに
生産を委託すると発表しました。
その他にも台湾に生産を委託をしている日本メーカーは複数あり
今後も増えていくことが見込まれます。

もちろん、日本側も台湾に日本の技術を提供しています。
特に最近では2007年に「台湾高速鉄道」が
開通したことが大きな話題となりました。
これは別名「台湾新幹線」と呼ばれている通り、
日本の新幹線の車両技術を輸出・現地導入したものです。
「あなたの大切なものはなんですか?」

「ゲームの時間です」

日本の漫画、アニメ、ゲームや音楽、食文化も
台湾にたくさん輸出されており、台湾の街を歩くと
いたるところにその片鱗を見つけることができます。
特にこの日本文化浸透の流れは、
台湾の若者の一部が「哈日族(ハーリーズー)」
(日本文化を好む台湾人)と呼ばれる由来となっています。

このような流れを受けて、日本の外務省では
「クールジャパン戦略(日本のアニメ、ファッション等の輸出)」
として、海外に日本文化の輸出を積極的に行う
取り組みをしている程です。

また、日本と台湾は投資協定を2011年に締結し
互いの企業が互いの国で外資としての規制を受けず、
地元企業と同じ扱いで事業展開することが可能となりました。
これにより、日本の企業は台湾へ次々と進出しています。
2011年には、日本は台湾にとって最大の輸入先国となり、
日本から台湾への投資件数もトップとなりました。
台湾で大人気の果物、アップルマンゴーも、
輸入解禁になった2004年頃から急速に日本への輸出が増えています。

日本は台湾を国として認めておらず、また事実上、国交をたっていますが、
このように多くの経済的な交流により、お互いに経済成長を続けているのです。
今後もこの交流は深まり続けるのではないかと筆者は思います。
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・・・
さて、ここからは「国」ではない台湾の未来について
考えていくことにしましょう。
そのためには、もう一度歴史に話を戻したいと思います。
これまでと、これからの中国との関係について。
そして、現在の台湾の政治について知ることが
大事な鍵になると思います。
経済は国民党の元で急成長しましたが、
政治の面では非民主的なままであった台湾。
蒋介石が日本色を排除する政策をとる中で
どんどんと独裁色が強まり、強引で抑圧的な政権となったのです。

そんな台湾も、1975年に蒋介石が亡くなることにより
転機を迎えました。
蒋介石の息子である蒋経国(しょう・けいこく)が
総統となったことで、少しずつ台湾は民主化の方向へ向かっていったのです。
まず、蒋経国は先にあげた戒厳令を解除します。
さらに、外省人が絶対的地位を持っていた国民党の中で
本省人である李登輝(り・とうき)を副総統に置いたのです。
そうして、蒋経国亡きあと、初めて本省人(李登輝)の
総統が誕生することとなりました。

これにより、台湾の民主化は瞬く間に進められていきました。
政治犯の釈放・報道の自由化・国民党に反対する野党を承認など。
また、何よりも大きかったのは総統選挙が
間接選挙から直接選挙に切り替わったことです。
これにより、台湾住民は史上初めて自らで統治者(李登輝)
を選ぶことができたのです。

ただし、これは中国との関係に波紋を投げかけました。
「住民自らが総統を選ぶ」という台湾の行為を
中国は「台湾がまるで独立国家のような振る舞いをしている」
と受け取り、中国は台湾にミサイルによる脅しをおこなってきたのです。
もちろん、この時もアメリカは台湾を中国から守ろうとして
台湾海峡海域に空母を派遣しました。
また、最近(2011年)では、
中国の軍事力増強に懸念をしめしたアメリカが
台湾向けに総額64億ドルもの武器売却を決定し、
中国をけん制したりしています。

このようにして、中国と複雑な関係を続けている台湾ですが
1999年に李登輝は「二国論」を提唱しています。
これはどのようなものかというと、台湾と中国は、
どちらが本当の中国か(一つの中国)を争うという姿勢ではなく
「特殊な国と国の関係」としての姿勢を示したものです。
これは、実質的な独立宣言だったといえます。
「あなたの大切なものは何ですか?」
「みんなの幸せです」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 TWN_2009_078_a.jpg _MG_4705.JPG)
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最後に。
2011年3月11日、日本は東日本大大震災に見舞われました。
そして、みなさんがご存知の通り、
台湾は日本へ多くの支援をしてくれました。
義捐金は総額200億円を超えると言われています。
「どうしてここまでしてくれるのだろう?」と
思った方も多いのではないでしょうか?
理由の1つとしては、台湾の現総統・馬英九総統が語った通り、
これまでの台湾の大規模自然災害(1999年の大地震や2008年の台風)
に関する日本の支援に対する恩返しというのもあると思います。

ですが、台湾の日本に対するこれほどまでの支援は、
ここまで書いてきた様な、歴史・経済・文化においての
日本との交流の深さが一番の理由ではないかと
筆者は感じております。
「国」ではない台湾。
オランダによる占領に始まり、日本の占領、
国民党による独裁、軍事政権の抑圧を受けてきた台湾。
今も独立できない台湾。
ですが、台湾は「国」と言っても良いほどに
経済成長をとげ、自立し、
そればかりか他国を支えるまでになっています。
私たちは台湾と、歴史上、経済上深い関わりがある国として、
今後の台湾も見つめ続けていくべきではないかと
筆者は思うのです。

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絵と写真を集めた人:
山本 敏晴(2009年)
渡部 加奈(2011年、2012年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部 加奈
編集完了日:
2012年5月11日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
また、上記に掲載された地図と国旗は
以下の無料画像サイトから提供されました。
白地図専門店
http://www.freemap.jp/