
セネガルは、西アフリカに位置する国です。
日本の本州ほどの大きさに、約1200万の人々が住んでいます。
公用語は、フランス語が使用されています。
また、ウォロフ語などの各民族語が話されています。
「私の大切なものは、モスクです。」

約95%の人々がイスラム教を信仰しています。
イスラム教は、サウジアラビアで7世紀に生まれた後、
サハラ砂漠を行き来する行商人などによって広まり、
セネガルには11世紀頃に伝わりました。
首都のダカールは、「ダカールラリー」の
かつてのゴール地点として有名です。
ダカールラリーとは、30を越える国々から参加者が集まり、
世界で最も過酷なモータースポーツと呼ばれる、有名なラリーです。
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「私の大切なものは国旗です。アフリカの色が使われています。」

アフリカの色とは、緑、黄色、赤の三色です。
緑は、豊かな大地と、黄色は繁栄を、
赤は『独立の際に流された血』を表現しています。
アフリカ諸国では、今も大統領選挙をきっかけとして
選挙の結果に不満を持つ人が、
内戦や暴動を起こすことがしばしばあります。
国民は、2000年からセネガルを統治していた
ワッド大統領の独裁政治に不満を持っていました。
その理由には、
大統領は2期しか務められないと決まっていた憲法を
自ら変えたことや、
自分が当選するための選挙運動に、
国家予算の半分を使ったこと(地元紙の報道)や、
自分の息子を(強引に)後継者にしようとしたことや、
大統領選挙に、国民的歌手が出馬しようとした時に、
却下したことなどが挙がります。
また、国民が、大統領に不満を持った理由の一つに、
『アフリカ・ルネッサンスの像』の建設があります。
この像は、アフリカを解き放つ象徴として、
膨大な国費を使用して建てられた巨大な像です。
アメリカ合衆国に存在する『自由の女神』よりも、
4m大きなルネッサンス像の建設費は、約19億円でした。
この工事を北朝鮮に注文しましたが、
セネガルは約19億円の建設費を支払うことが出来なかったため、
国有地を北朝鮮に売って、支払いに当てました。

ワッド大統領は、この像を見に来る観光客が増えて、
国の利益を上げることが出来ると言っています。
しかし、実際は、ルネッサンス像による観光収入のうち、
35%はワッド大統領の個人的な収入になります。
残りの65%が国の収入となります。
この状況に対して、当然国民は怒り、
ワッド大統領へ不満はさらに高まりました。
こうした中でも、
2011年6月に、
大統領が自分の息子を大統領にしようとしたときには、
国民の怒りが爆発し、
群集は、主要な道路にタイヤを並べ、
そのタイヤに火をつけて、道路を閉鎖するなどの
暴動を起こしました。
この結果、この大領選挙ではワッドは落選し、
次の新しい大統領が生まれました。
(ワッドは、国民のこれ以上の反発を恐れたのか、
実際の選挙の開票がおこなわれた際は、
比較的早く、自分の負けを認めました。)
なお一般に、アフリカでは大統領選挙をきっかけに、
暴動が起こり、
そのまま革命やクーデターが発生してしまう事が多いのです。
ですので、2012年のセネガルのケースは、
アフリカの「選挙の前後の混乱」の中では、
かなり「まし」なケースと言えると思います。
(セネガル人たちは、この時の選挙を、
「自分たちの抗議で、大統領を辞めさせた」、
「民主主義のモデルだ」と言って、
誇りに思っているようです。)
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「私の大切なものは、羊です。羊のことが好きです。」

1960年にフランスから独立した後、
西アフリカ諸国の中では比較的、安定した政治を行っていましたが、
1989年に、初めての惨事を経験しました。
隣の国である、モーリタニアとの国境紛争です。
元々は、国境付近のモーリタニア人の家畜が、
セネガル人の農地を荒らしたことによる、農民同士の争いでした。
しかし、モーリタニア軍が、セネガル人を殺害したことで
国家間の問題となりました。
政府やマスコミが介入したことにより、
それぞれの国で起こっていた暴動は、
あっと言う間に過激になりました。
モーリタニアでは、反セネガル運動が、いつの間にか、
アラブ系の白人が黒人を標的とする運動へ変化しました。
黒人はモーリタニアから追い出されました。
そのため、モーリタニアから6万人の国民が、
セネガルへ逃れて難民となりました。
また逆に、
セネガル側にいたモーリタニア人の行商人も、
迫害されて自国に逃げ帰り、難民となりました。
このように、紛争、内戦では、
個人の争いがきっかけになり、
民族や宗教間の争いに変化することがしばしばあります。

この状況に対して、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、
セネガルに逃げてきた難民の生活支援を行いました。
また、難民が自発的に祖国であるモーリタニアへ
帰れるように支援をしました。
しかし、セネガルに住む難民は、
土地や公共サービスを利用できるため、
祖国に帰らず、セネガルに住むことを希望する難民も多いです。
そのため、現在も約2万4000人の難民が滞在しています。
UNHCRは、各政府と会合を行い、
難民が祖国に帰ってからも、生活に困らないように、
法的な枠組みを整える調整を行っています。
また、難民の受け入れ先となる、
貧しいコミュニティのインフラ(道路、水道、電気などの社会基盤)や、
教育や保健サービスの強化を支援しています。
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「私の大切なものは家族です。お母さんやお父さんは
何でも私のためにやってくれます。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 se_2008_30a.jpg)
南部(ギニアビサウとの国境)に位置するカザマンス地方の独立が
20年間にわたり問題になっています。
現在でも、具体的な解決策はありません。
カザマンス地方は、自然環境や、歴史、社会面で、
セネガルの中心部や北部とは異なった特徴を持ちます。
乾燥している中心部や北部とは反対に、雨に恵まれているため、
密林があり、古くから稲作が行われていました。
宗教は、ポルトガルが、カザマンス地方に拠点を置いた
名残があり、
(セネガルの中では珍しく)
キリスト教(カトリック)が広まっています。
民族は、北部ではウォロフ族、
カザマンスではジョラ族が多いです。
1960年の独立以降、ウォロフ族の住む
北部を中心に都市開発が行われたため、
ジョラ族は追いやられてしまいました。

カザマンス地方の独立運動の背景には、
北部とは異なった特徴だけではなく、
初代大統領がカザマンスの人々と交わした、
密約が関わっています。
それは、1960年のフランスから独立する際に、
セネガル政府に協力をすれば、
20年後にはカザマンスの人々は、
セネガルから分離して良いという約束でした。
しかし、20年後の1980年に、
セネガル政府は約束を守らなかったため、
独立運動が始まり、政府側との武装衝突が続いています。
2004年に、内務大臣と反政府勢力は、
和平合意書にサインをしましたが、
その後も具体的な協議は進展していません。
2011年にも武装衝突があり、死傷者が出ています。
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「私の大切なものは、村です。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 P1080173a.jpg se_2008_22a.jpg)
セネガルは、世界でも貧しい国々が集中する、
「サハラ砂漠より南の地域」にある国々の中では、
比較的には、まだ良い状態にある国だと言われています。
セネガルは、民間による自由貿易が経済を発展させるという
欧米の考え方を取り入れ、
1994年に、国営企業を民営化し、
輸入価格を自由化したことで、経済が成長しました。
また、最近では、民間の投資も増えて、
経済指標は、安定して成長しています。

しかし、経済指標とは逆に、
貧困状態が悪化したと感じる国民が多いです。
地方は、都市に比べて貧困率が高いです。
また、医療や教育などの社会的な指標も低いです。
地方には、職を求める若者が多く居ます。
ですが、農業などの過酷な作業を嫌う傾向にあるため、
職を求めて都市へ移動する人が多いです。
ところが、
都市にいっても、それほど多くの求人(職場)はないため、
都市は、職にあぶれた若者が、あふれかえっています。
主な産業は、農業や漁業ですが、
大量に発生したバッタやイナゴが作物を食い荒らすなどの
自然災害の影響が大きく、収入が不安定になるリスクが高いです。
持続的に経済を成長させる、安定した収入源は限られています。

この状況に対して、国際協力機構(JICA)は、
『一村一品プロジェクト』を、進めています。
このプロジェクトは、元々は大分県で生まれた地域振興運動です。
地域が主体的に、資源を選んで、将来的な特産品を作ることで、
地域づくりを促すことができます。
行政は、助成金は出さず、技術や、
マーケティング(市場調査、商品開業)の支援を行います。
セネガルでは、キャンドルや布製バッグ、
環境に配慮したマングローブの石鹸が作られています。
このプロジェクトは、アフリカの特産品となる資源を募集して、
生産者となるグループを作ります。
JICAは、プロジェクトの計画や、技術支援、マーケティング活動を
指導できる人材の派遣を支援しています。

この住民参加型の支援のように、
住民が持ってるいる活力を引き出し、
地域の結束を強化する取り組みが行われています。
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「私の大切なものは学校です。学校は、色々なことを教えてくれる。
自分の国について、より知ることもできます。」

セネガルには、『ダーラ』と、呼ばれる日本の寺子屋のような
非正規の学校があります。
これは、イスラム教徒の『コーラン』を学ぶ学校です。
コーランとは、宗教の教えが書いてある聖典のことで、
キリスト教の聖書と同じです。
セネガルのイスラム教徒の人々は、正規の学校には通わなくても、
ダーラに通わない子どもはいません。
一方、正規の学校では、小学校から高等学校までの13年間は、
無料で学校に通うことができます。
小学校からフランス語で授業が行われます。
フランスの小学校は4年間ですが、
セネガルでは6年間です。
2年間長いのは、フランス語を習得するためです。

1990年以降、初等教育へ通う就学率は大幅に上昇しました。
しかし、学校を中退や落第する生徒が多くいます。
中学校以上の学校に進学するには、
試験に合格する必要があります。
合格率は、約6割と、厳しい試験です。
また、学校や教員の数が不足しています。
建物や教員の質が低いことも問題になっています。
小学校のうち、6年生まで教えることが出来る学校は、
全体の半分もありません。
特に、農村部では、ほとんどの学校が
4年生までしか教えることができません。
教員も、中等教育終了後に、短期の研修を
受けて教えている人がほとんどです。
教育環境が整わないため、
多くの学校は、2学年以上を一緒に教えたり、
2部制にして、午前と午後で、生徒を総入れ替えして、
違う生徒を教えたりしています。
2005年の調査では、セネガルの約35%の子どもが
労働に従事していることが分かりました。
中には、物乞いや売春、違法活動を行っている子どももいます。
児童労働は、子どもを教育から遠ざけます。
また、出生届が提出されていない子どもも多いです。
すると、(戸籍や住民票に登録されていないため)
(国が)義務教育を受ける対象とみなさないため、
教育へアクセスしずらい状況があります。

この状況に対して、国連世界食糧計画(WFP)は、
学校に給食を提供しています。
「給食が食べられる」と、いうことが
子どもたちにとって、学校へ行くことの
動機付けになります。
また一方で、子どもが学校に通うことで、
親にとっては食費の節約となります。
また、女子の学校教育が、その子と、
その子が将来産むであろう子どもの健康に繋がります。
学校に通う女子の結婚年齢は、通わない子よりも遅くなります。
一般に、10代前半で出産をすると、
産んだ母親も、生まれた子供も、
死亡し易いことが、統計調査で分かっています。
これを防ぐためもあり、女子に教育を行うのです。
また、女子に基礎教育をおこなうと、
「読み書き」ができるようになります。
すると、将来、母親になった時、
(政府などからもらった)母子手帳や、
栄養や衛生、予防接種などに関するパンフレットを、
「読む」ことができるようになるため、
「生まれた子どもの生存率」が上昇すると言われています。
これを裏付けるものとして、、国際食糧政策研究所の調査では、
子どもの栄養失調が世界的に改善したのは、
女性が教育へ参加する機会が増えたことによると発表しています。
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「私の大切なものは、病院です。なぜなら、病院のない地区もあるからです。
それでは、病気になった時に困ってしまいます。」

セネガルでは、感染症が蔓延しています。
その中でも、マラリアは、子どもの死亡原因の1位です。
(ただし、アフリカ諸国の中で、セネガルは、
ここ10年間で、マラリアによる死亡率が、
大幅に下がった国として知られています。
ですが、それでもたくさんの人が、まだ亡くなっています。)
マラリアとは『ハマダラカ』と、いう蚊が媒介となって
人から人へ感染を拡大する病気です。
マラリアには4種類ありますが、セネガルでは、
その中で最も重篤な「熱帯熱マラリア」が98%を占めています。
5歳未満の子どもの死亡原因のトップは、
現在でも、マラリアで、
最大の保健課題となっています。
(セネガルは、アフリカ諸国では、
かなり「まし」な国であるため、
大人では、マラリアよりも、
むしろ生活習慣病(成人病。糖尿病、高血圧など)が、
問題になってきています。)

この状況に対して、(株)住友化学は蚊帳の製造技術を開発してきました。
蚊帳の素材に殺虫剤を練り込むことで、防虫効果を増すことができました。
世界保健機構(WHO)はこの蚊帳の使用を推奨し、
国際連合児童基金(UNICEF)やJICAも配っていました。
また、住友化学は、2005年に首都のダカールで行われた、
音楽イベントの主要スポンサーになりました。
この音楽イベントは、マラリアに対する意識の向上を目的としています。
8時間のコンサートには、セネガルの国民的な歌手である
ユッスー・ンドュールを始め、多くのミュージシャンが参加しました。
音楽を通して、マラリア予防の重要性を訴え予防として蚊帳の使用が促されました。

しかし、2011年に首都ダカールにあるフランスの研究機関が、
この殺虫剤を染み込ませた蚊帳が、
かえってマラリアの流行を招くという論文を発表しました。
蚊帳に染み込ませた殺虫剤に耐性を持つ蚊が増え、
使用の翌年はマラリアへの感染を減少することができても、
翌々年以降は、かえって局地的な再流行をもたらす恐れがある、としています。
イギリスの権威ある医学雑誌がこの論文を取り上げたことで、
話題となりました。
この状況を受けて、
UNICEFやJICAはマラリアに対する戦略を見直す可能性が、
(業界の中で)取りざたされました。
ですが、少なくともセネガルの場合は、
現在(2012年)の女性の大臣が、
今後も「薬剤を浸み込ませた蚊帳で寝ましょう」
という方針をとっているため、
大きな戦略の変化はないようです。
マラリアの予防には、殺虫剤や蚊帳の使用だけでなく、
人々の意識の向上が必要です。
マラリアを媒介するハマダラカは、水が溜まる場所を好みます。
JICAの調査では、水が溜まる場所ではハマダラカの生息が17倍にも
なることが分かりました。
人々が、場所を構わずゴミを捨てると、雨が降り、水が溜まる場所が
増えます。排水溝の中に、ゴミを捨てると水の流れが悪くなります。
つまり、排水溝や下水道の流れが悪くなると、
そこの『水のよどみ』ができて、蚊が発生するのです。
人々は、ゴミを指定された場所へ捨てる習慣を持ち、
また、政府は、それをきちんと回収して処分することが望まれます。
ですが、現状は、まだそれらが十分には出来ていないと、いうことです。
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「私の大切なものは木です。」

2008年、首都のダカールから近い、貧しい漁村で、約20人の子どもが
原因不明で死亡しました。かれらは、アフリカ諸国に蔓延している
感染症にはかかっていませんでした。
WHOが村へ調査に入りました。
すると、亡くなった子どもの家族の血液から、
非常に高い濃度の『鉛』が検出されました。
この村では、車のバッテリーを拾い、
分解して、中身を加工し、売ることで生計を立てています。
バッテリーを扱う中で、鉛に汚染され、
鉛中毒になったと考えられています。

イスラム教の教えでは、ゴミは捨ててはいけません。
しかし、自宅の前など、決まった場所に捨ててはいけないだけで、
広場などの公共の場をきれいに保つ意識は薄いです。
そのため、ゴミをポイ捨てする習慣があります。
多くは、自然では分解されないプラスティックゴミです。
首都のダカールでは、定期的にゴミ収集車が巡回するようになりました。
そのため、道路などにゴミが放置されることは少なくなりました。
しかし、ゴミの焼却炉を持たないセネガルでは、首都で回収されたゴミは
郊外に捨てられています。
ゴミを捨てられてしまう、郊外の人々は、
いずれ地下水が汚染されるのではないかと心配しています。

このように、セネガルでは、未だ環境に対する意識が低いです。
この現状を受けて、非営利団体(NPO) ダンカダンカは、
環境へ配慮する若者を育てています。
セネガルの小学校の夏休みは約3ヶ月も続きます。
この期間に元気溢れる小学生を集めて、エコクラブを作りました。
エコクラブでは、ゴミ拾いを行ない、
木を育てる土を大切にしています。
また、村の若者へ知識の提供や、資金の運用方法を指導するなど、
自分で木を育て、環境を整える人材を育てる支援を行なっています。
・・・
セネガルの国民的スターに、
ユッスー・ンドゥールが居ます。
ユッスーは、2004年に世界的に有名な(米国の)グラミー賞を受賞しました。
また彼は、2012年4月から、観光大臣に就任しました。
セネガルには、『グリオ』と呼ばれる、歌や音楽を奏でて冠婚葬祭を
執り行う人々がいます。グリオは世襲制で受け継がれます。
ユッスーは、グリオの子に生まれ、
セネガルの伝統的な音楽を身近に感じて成長しました。
ユッスーが中心となり、セネガルの伝統的な旋律と歌唱法、
伝統楽器によるリズムに、R&Bやロックなどを融合させて、
『ンバラ』という新しい音楽のスタイルを作りました。
ンバラは、自由で活発なセネガルらしい音楽であり、
今後アフリカの音楽をリードしていくと言われています。

筆者は、今後セネガルは、ンバラのように、伝統を取り入れながら、
様々な社会的な問題に取り組んで
アフリカをリードしていって欲しいと考えています。
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
鎌谷雅美(2008年)
画像データを編集し、文章を書いた人:
姉崎沙緒里
編集完了日:
2012年4月23日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/
上記に掲載された写真のうち、
人物が写っていない写真の一部は、
以下のサイトから提供されたものもあります。
トリップアドバイザー
http://www.tripadvisor.jp/