2012年04月19日

台湾 Taiwan

IMG_4694_s.jpg

台湾とは、アジア大陸の東南沿海、太平洋の西岸に位置する
台湾本島を中心とした77の島々をさします。
面積は日本の10分の1ほどで、九州と同程度の大きさです。
人口は日本の7分の1ほどです。

また、台湾の住民は大別すると「混血民族」約80%と
「純粋な中国系」約15%に別れます。
その他に、全体の人口の約2%をしめる複数の先住民もいます。

宗教は「道教」と「仏教」が台湾の二大宗教と言われています。
ちなみに、台湾では法律上も「信仰の自由」が認められていますが、
中国大陸では、共産主義のため法律上、宗教が禁止されています。


asia_asia_taiwan_kouiki_3.gif


また、小さな地域ではありますが、
経済成長が進んでおり、GDP(国内総生産)は世界上位。
経済発展が大きく進んでいる先進国といえます。
日本とそんなに変わらない生活水準と言えば
想像しやすいかと思います。

しかし、それにも関わらず台湾は「国」として認められていません。
台湾を正式に国として承認している国が少ないのです。
台湾と交流が深い我が国、日本でさえも承認していません。

では「なぜ台湾が国として認められていないのか?」
その理由をみなさんは知っていますか?
その理由を知るとともに、まずは台湾の歴史を振り返っていきましょう。


IMG_2239_a.jpg


台湾は16世紀中期に、ポルトガル船により偶然発見されました。
その時の緑が多い台湾の様子を見たポルトガル人は、台湾を
「イラ・フォルモサ」(ポルトガル語で美しい島の意味)と呼びました。
このことがきっかけで、現在でも台湾の別名は「フォルモサ」とされています。


IMG_2761_k.jpg

台湾に初めて本格的に進行したのはオランダの東インド会社です。
東インド会社が主に行っていたのは貿易の独占や植民地の開拓で、
台湾も貿易の拠点として占領されました。

またこの頃、中国大陸の明(みん)の軍人である
鄭成功(ていせいこう)が台湾にやってきました。
中国大陸はそれまで漢民族の王朝である明が支配していたのですが、
満州民族の清(しん)によって滅ぼされてしまい、
これに対抗するために鄭成功は台湾を拠点にしようとしたのです。


IMG_2400_a.jpg


もちろん、鄭成功は台湾を占領しているオランダと
争うことになりましたが、その戦いに勝利し、
台湾で初の漢民族政権による統治が開始されました。

しかしそれもつかの間、鄭成功の子孫は清に敗れ、
中国大陸の政権による台湾への初の支配が始まったのです。


IMG_2366_a.jpg


その後、清は中国大陸に残っていた明時代の官僚
(漢民族の男性)を大量に台湾へ追い出し、
そればかりか中国大陸と台湾間の移動を禁止してしまいます。
漢民族が反乱をおこさないようにするためです。

この結果、台湾へ移住した漢民族の男性と
台湾先住民の女性が結婚するようになりました。
もちろん、その間には混血である子どもが次々に生まれました。

こうして生まれた混血民族が、現在の台湾人の多くをしめる
「本省人(ほんしょうじん)」と呼ばれる人たちとなったのです。


IMG_2253_a.jpg


そんな中、1894年に勃発した日清戦争で日本が清に勝利し、
日本は清から台湾の統治権を得ることになりました。
以降、約50年間の日本統治時代の幕開けとなったのです。

もちろん、台湾の住民は抵抗運動をおこないました。
しかしながら、そのような人々は日本軍との戦いで死んだり、
虐殺されたりしました。
その数は1万人をも超えると言われています。


IMG_2234_a.jpg


特に1930年に台湾の霧社(むしゃ)で起こった
台湾先住民による霧社事件は最大規模の武力闘争となりました。
この事件は、2011年に『賽徳克巴莱(セデック・バレ)』
という台湾映画にもなっています。


また、台湾人は日本語を話すことを強要され、日本語教育を受けました。
現在でも台湾のお年寄りに日本語を話せる人が多いのは、
そのような歴史的背景があるからなのです。


IMG_2902_a.jpg


このようにして、日本は台湾を強制的に支配し、
しかも多くの人を苦しめたのです。
このことは日本人として知っておくべき事実であり、
忘れてはならないことだと筆者は思います。


・・・
・・・


では、それでもなぜ台湾の人々が
「親日」と呼ばれることが多いのでしょうか?

実はその理由の一つに、日本統治時代の
日本による台湾への貢献が大きく関わってるといわれています。

ここからは、歴史の解説から少しそれて
台湾で活躍した日本人について書いていきたいと思います。
台湾と日本の関係、および現在の台湾を知るにあたり
とても重要な内容だと筆者は考えるからです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_066.JPG


「車が走るための道路です」


_MG_4879_a.jpg


当時、まともな産業がなかった台湾は、
日本統治時代を経て大きな経済成長をとげました。
数々の日本人により、インフラ(社会基盤)の向上が図られたからです。

特に民政長官だった後藤新平(ごとうしんぺい)は
鉄道・道路・港湾・電信・建築物といった社会インフラに力を入れ、
その後の台湾の産業を支える大事な柱を作りました。

今でも、日本統治時代に建てられた
木造建築がいたる所に残っています。


eki_n.jpg


また、産業振興では後藤新平の後輩である
新渡戸稲造(にとべいなぞう)が『糖業改良意見書』を提出し、
砂糖キビの栽培改良や製糖工業育成に務め、
台湾における製糖業を確立しました。
これは、台湾の財政独立に大きく貢献したとされています。


「あなたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_077.JPG


「美しい地球です」


_MG_4793_a.jpg


第7代台湾総督であった明石元二郎(あかいしもとじろう)は、
台湾電力を設立し、水力発電事業を推進しました。

また、現在も台湾最大の銀行である華南銀行を設立しました。
日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正したのも
明石元二郎です。

ちなみに、この頃の台湾の電源は約99%を水力発電に
頼っていましたが、その後の高度経済成長により、
水力発電では電力をまかなえなくなりました。


IMG_2255_a.jpg


そのため現在はというと、火力発電が約80%をしめています。
一時は原子力発電が電力の半分を超えた時期もありましたが、
反原子力の世論が高まり、火力発電にシフトしたのです。
しかし、火力発電のためのエネルギー資源に乏しい台湾は
エネルギー源の約99%を輸入に頼っている現状があります。

そこで、台湾政府は限られた資源を効率的に活用するため、
環境にやさしいクリーンなエネルギーを開発し、
エネルギー供給の安定化を目指し始めました。


_MG_4508_a.jpg


石油の需要抑制や
(石油よりはCO2排出量の少ない)天然ガスの輸入拡大、
再生可能エネルギーの利用や省エネの推進を打ち出し、
太陽光発電にも力を入れ始めています。

教育の分野でも、環境保護の教育を義務化する法案が
2010年に成立するなど、現在の台湾はエネルギーにおける
抜本的な改革を進めているようです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_010_a.jpg


「豊かな水と緑です」


_MG_4533_a.jpg


当時の台湾南部の嘉南(かなん)平野では
外部から人工的に水を供給する施設がなく、
大規模な干ばつにおちいっていました。
またそれにより、たくさんの農民が飢餓で死んでいったり
苦しんでいました。

それを改善するためのダムを作ったのが
日本から台湾へ出向いていた水利技術者
八田與一(はったよいち)です。


IMG_2674_n.jpg


彼は、東洋初、そして随一とされた
「大貯水池・烏山頭(うさんとう)ダム」を
企画・推進し、それを成功させ、台湾の多くの農民に
感謝される人物となりました。


IMG_2734_n.jpg


その貢献は今でも台湾の人びとにより評価されており
台湾の馬英九(マー・インチウ)総統も、
2008年から毎年、慰霊祭に参加しています。
またそれだけでなく、馬英九総統は「八田與一記念公園」を建設し、
その公園の開会式では

「日本が台湾を統治した50年にインフラ建設があり、貢献は無視できない。
八田をたたえることは植民地支配を美化すると批判があるが、
恩讐を分ける態度が必要だ」

と発言したほどでです。



IMG_2679_n.jpg



・・・
・・・


さて、台湾の歴史に話を戻しましょう。
1945年に太平洋戦争で日本が敗北すると、台湾の統治権は
勝利国である『中国大陸にある政権』へと再び移ることとなりました。


IMG_2903_n.jpg


ちなみに、台湾が中国大陸に返還された1945年にはすでに、
孫文により「中華民国」が誕生していました。
1912年に、国力を失った清を見かねて孫文が
「辛亥革命(しんがいかくめい)」を起こし、
清を倒して君主制を廃止していたのです。
その中華民国には、2つの政党がありました。


孫文の部下2人が率いる、蒋介石(しょうかいせき)の「国民党」と、
毛沢東(もうたくとう)の「共産党」です。
この2つは、台湾が中華民国に返還される少し前から内戦
(「国共内戦」といいます)を続けており、
台湾返還時には国民党が中華民国を支配し、
蒋介石の独裁が行われていました。


IMG_5893_n.jpg


しかし、蒋介石率いる国民党の政策はことごとく不評でした。
台湾の人も、台湾にやってきた国民党の人々の腐敗しきった振る舞い
(強盗や殺人など)にあきれ、日本統治時代に比べると落胆する部分も多く
「イヌのかわりにブタが来た」と言ったほどです。
(この辺りのことも、台湾の人が日本に好感を
持つようになった理由の1つかもしれません)


このようにして、これ以降、中国大陸から渡来した漢民族は
それ以前からいた本省人(真の台湾人の意味)と区別して
「外省人(がいしょうじん)」と呼ばれるようになりました。


IMG_2900_a.jpg


そのような外省人のふるまいに対して、
本省人も黙っていたわけではありません。
1947年2月28日に発生した「二・二八事件(にいにいはちじけん)」で
本省人の怒りはピークに達しました。
そしてこの事件は、のちに本省人の間で「台湾大虐殺」とも呼ばれる
悲惨な歴史的大事件に発展してしまいます。


IMG_2917_a.jpg


この二・二八事件は、台北市でヤミタバコを売っていた本省人の女性を、
外省人の密売取締員が殺傷したことから始まりました。
この事実を知った一部の本省人の間で大規模暴動が起こり、
これが台湾全土の本省人による外省人・国民党政府への
抗議運動につながったのです。


IMG_2906_n.jpg


しかし、国民党政府はこれを武力によって制圧し続け
約 28,000 人もの本省人の人びとが殺害・処刑されたといいます。
しかも驚くべきことに、事件の際に発令された戒厳令
(かいげんれい:一時的に統治権を軍隊に移行すること、
市民の権利も制限される)は事件発生から40年後の
1987年まで解除されることはありませんでした。

そのため、この事件は台湾を知り、語る上でとっても重要な
出来事となっています。


IMG_2894_n.jpg


そのようなひどい独裁をおこなってきた国民党も、
1949年には中国大陸において、毛沢東率いる共産党に敗れてしまいます。
そうして、共産党が支配する現在の中国、
つまり「中華人民共和国」が誕生したのです。

敗れた蒋介石の国民党は、唯一支配を続けていた台湾へと
逃げ込み、台北を臨時首都としました。
台湾において、中華民国の政権を維持したのです。


IMG_2936_a.jpg


こうしてこれ以降、中国大陸にある共産党の「中華人民共和国」と
台湾にある国民党の「中華民国」が現在でも
二つ同時に存在しているのです。
これを「二つの中国」といいます。


もちろん、中国大陸を支配した共産党は
国民党が支配を続ける台湾を潰そうと考えました。
しかし、1950年「朝鮮戦争」の勃発により
この計画はうやむやとなりました。


国旗.jpg


北朝鮮が韓国よりも優勢であったこの戦争、
北朝鮮に肩入れをしていた中国をよく思わないアメリカが
韓国と台湾の支援を始めたのです。
このため、朝鮮戦争はこう着状態となりました。

ちなみにその後も、こういった状況は続きました。
特にアメリカと台湾は1954年に「共同防御条約」を結んでいます。
これは、アメリカは必要な時に武力を行使し、
台湾が共産党の政権下になるのを阻止するというものです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_050_a.jpg


「海外旅行です いろんな国へ行きたいです」


_MG_4324_a.jpg


その一方で、戦勝国として国連安保理の常任理事国であった
中華民国(台湾)は、工業の発展や自由貿易による国際化により
どんどんと経済成長を続けました。
経済面では、この時すでに中国大陸の上をいっていたのです。


しかし、中華民国はとっくに中国大陸を追われ
大陸は中華人民共和国が支配していました。
このため、国連の「中国」は中華人民共和国にすべきだという
決議が1971年に採択され、
台湾は国連の座を失うこととなったのです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_048_a.jpg


「地球のみんなです」


_MG_4291_a.jpg


また、これにより中国と国交を結ぶ国が増えたのですが
それらの国との国交断絶を台湾は選びました。
その中には、台湾にとって交流の多い、
日本やアメリカも含まれています。
こうして、台湾は世界的に孤立してしまいました。

これが、台湾が「国」として認められていない理由なのです。


・・・
・・・


ここからは、また歴史から少しそれて、
現在の台湾と日本の経済的関係について書きたいと思います。
日本やアメリカなど、多くの国と国交断絶した台湾。
その後、どのようにして更なる経済成長をとげたのでしょうか?


「あたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_060_a.jpg


「私の大切なものはパソコンです」


_MG_4432_a.jpg


先にあげたように、1960年代から台湾は外交の強化により、
高度経済成長をとげました。
そんな経済の発展の中でも、特に成長し、
世界でもトップクラスとなった産業は
パソコンや半導体などのIT分野です。

これらが伸びた理由の1つとして、独特な生産システムである
OEM(他社ブランドの委託生産)と
ODM(他社ブランドの設計と製造まで委託)があげられます。
受託加工生産を強みにし、アメリカの大手ITメーカーから
受注を一手に受けるなどして急激に成長をとげたのです。

日本でも最近では、日立製作所が2012年9月末までに
テレビの自社生産を終了し、台湾メーカーなどに
生産を委託すると発表しました。
その他にも台湾に生産を委託をしている日本メーカーは複数あり
今後も増えていくことが見込まれます。


IMG_2883_a.jpg


もちろん、日本側も台湾に日本の技術を提供しています。
特に最近では2007年に「台湾高速鉄道」が
開通したことが大きな話題となりました。
これは別名「台湾新幹線」と呼ばれている通り、
日本の新幹線の車両技術を輸出・現地導入したものです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


TWN_2009_029_a.jpg


「ゲームの時間です」


_MG_4046_a.jpg


日本の漫画、アニメ、ゲームや音楽、食文化も
台湾にたくさん輸出されており、台湾の街を歩くと
いたるところにその片鱗を見つけることができます。
特にこの日本文化浸透の流れは、
台湾の若者の一部が「哈日族(ハーリーズー)」
(日本文化を好む台湾人)と呼ばれる由来となっています。


IMG_2269_a.jpg


このような流れを受けて、日本の外務省では
「クールジャパン戦略(日本のアニメ、ファッション等の輸出)」
として、海外に日本文化の輸出を積極的に行う
取り組みをしている程です。


IMG_2885_a.jpg


また、日本と台湾は投資協定を2011年に締結し
互いの企業が互いの国で外資としての規制を受けず、
地元企業と同じ扱いで事業展開することが可能となりました。
これにより、日本の企業は台湾へ次々と進出しています。

2011年には、日本は台湾にとって最大の輸入先国となり、
日本から台湾への投資件数もトップとなりました。
台湾で大人気の果物、アップルマンゴーも、
輸入解禁になった2004年頃から急速に日本への輸出が増えています。

IMG_2822_a.jpg

日本は台湾を国として認めておらず、また事実上、国交をたっていますが、
このように多くの経済的な交流により、お互いに経済成長を続けているのです。
今後もこの交流は深まり続けるのではないかと筆者は思います。


_MG_0260.JPG


・・・
・・・


さて、ここからは「国」ではない台湾の未来について
考えていくことにしましょう。
そのためには、もう一度歴史に話を戻したいと思います。
これまでと、これからの中国との関係について。
そして、現在の台湾の政治について知ることが
大事な鍵になると思います。

経済は国民党の元で急成長しましたが、
政治の面では非民主的なままであった台湾。
蒋介石が日本色を排除する政策をとる中で
どんどんと独裁色が強まり、強引で抑圧的な政権となったのです。


IMG_5899_a.jpg


そんな台湾も、1975年に蒋介石が亡くなることにより
転機を迎えました。
蒋介石の息子である蒋経国(しょう・けいこく)が
総統となったことで、少しずつ台湾は民主化の方向へ向かっていったのです。

まず、蒋経国は先にあげた戒厳令を解除します。
さらに、外省人が絶対的地位を持っていた国民党の中で
本省人である李登輝(り・とうき)を副総統に置いたのです。
そうして、蒋経国亡きあと、初めて本省人(李登輝)の
総統が誕生することとなりました。


IMG_5879_a.jpg


これにより、台湾の民主化は瞬く間に進められていきました。
政治犯の釈放・報道の自由化・国民党に反対する野党を承認など。
また、何よりも大きかったのは総統選挙が
間接選挙から直接選挙に切り替わったことです。
これにより、台湾住民は史上初めて自らで統治者(李登輝)
を選ぶことができたのです。


IMG_2938_a.jpg


ただし、これは中国との関係に波紋を投げかけました。
「住民自らが総統を選ぶ」という台湾の行為を
中国は「台湾がまるで独立国家のような振る舞いをしている」
と受け取り、中国は台湾にミサイルによる脅しをおこなってきたのです。
もちろん、この時もアメリカは台湾を中国から守ろうとして
台湾海峡海域に空母を派遣しました。

また、最近(2011年)では、
中国の軍事力増強に懸念をしめしたアメリカが
台湾向けに総額64億ドルもの武器売却を決定し、
中国をけん制したりしています。


国旗2.jpg


このようにして、中国と複雑な関係を続けている台湾ですが
1999年に李登輝は「二国論」を提唱しています。
これはどのようなものかというと、台湾と中国は、
どちらが本当の中国か(一つの中国)を争うという姿勢ではなく
「特殊な国と国の関係」としての姿勢を示したものです。
これは、実質的な独立宣言だったといえます。


「あなたの大切なものは何ですか?」
「みんなの幸せです」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 TWN_2009_078_a.jpg _MG_4705.JPG)






・・・
・・・


最後に。
2011年3月11日、日本は東日本大大震災に見舞われました。
そして、みなさんがご存知の通り、
台湾は日本へ多くの支援をしてくれました。
義捐金は総額200億円を超えると言われています。

「どうしてここまでしてくれるのだろう?」と
思った方も多いのではないでしょうか?

理由の1つとしては、台湾の現総統・馬英九総統が語った通り、
これまでの台湾の大規模自然災害(1999年の大地震や2008年の台風)
に関する日本の支援に対する恩返しというのもあると思います。


IMG_2773_a.jpg


ですが、台湾の日本に対するこれほどまでの支援は、
ここまで書いてきた様な、歴史・経済・文化においての
日本との交流の深さが一番の理由ではないかと
筆者は感じております。

「国」ではない台湾。
オランダによる占領に始まり、日本の占領、
国民党による独裁、軍事政権の抑圧を受けてきた台湾。
今も独立できない台湾。

ですが、台湾は「国」と言っても良いほどに
経済成長をとげ、自立し、
そればかりか他国を支えるまでになっています。

私たちは台湾と、歴史上、経済上深い関わりがある国として、
今後の台湾も見つめ続けていくべきではないかと
筆者は思うのです。


_MG_0179_a.jpg





・・・

・・・


絵と写真を集めた人:
山本 敏晴(2009年)
渡部 加奈(2011年、2012年)

画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部 加奈

編集完了日:
2012年5月11日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

また、上記に掲載された地図と国旗は
以下の無料画像サイトから提供されました。
白地図専門店
http://www.freemap.jp/
posted by お絵描きイベント at 21:40| 日記

2012年04月18日

セネガル Senegal


P1080152a.jpg

セネガルは、西アフリカに位置する国です。
日本の本州ほどの大きさに、約1200万の人々が住んでいます。

公用語は、フランス語が使用されています。
また、ウォロフ語などの各民族語が話されています。

「私の大切なものは、モスクです。」

se_2008_17a.jpg

約95%の人々がイスラム教を信仰しています。
イスラム教は、サウジアラビアで7世紀に生まれた後、
サハラ砂漠を行き来する行商人などによって広まり、
セネガルには11世紀頃に伝わりました。

首都のダカールは、「ダカールラリー」の
かつてのゴール地点として有名です。
ダカールラリーとは、30を越える国々から参加者が集まり、
世界で最も過酷なモータースポーツと呼ばれる、有名なラリーです。



・・・

「私の大切なものは国旗です。アフリカの色が使われています。」

se_2008_03a.jpg

アフリカの色とは、緑、黄色、赤の三色です。
緑は、豊かな大地と、黄色は繁栄を、
赤は『独立の際に流された血』を表現しています。

アフリカ諸国では、今も大統領選挙をきっかけとして
選挙の結果に不満を持つ人が、
内戦や暴動を起こすことがしばしばあります。

国民は、2000年からセネガルを統治していた
ワッド大統領の独裁政治に不満を持っていました。

その理由には、
大統領は2期しか務められないと決まっていた憲法を
自ら変えたことや、
自分が当選するための選挙運動に、
国家予算の半分を使ったこと(地元紙の報道)や、
自分の息子を(強引に)後継者にしようとしたことや、
大統領選挙に、国民的歌手が出馬しようとした時に、
却下したことなどが挙がります。

また、国民が、大統領に不満を持った理由の一つに、
『アフリカ・ルネッサンスの像』の建設があります。
この像は、アフリカを解き放つ象徴として、
膨大な国費を使用して建てられた巨大な像です。

アメリカ合衆国に存在する『自由の女神』よりも、
4m大きなルネッサンス像の建設費は、約19億円でした。
この工事を北朝鮮に注文しましたが、
セネガルは約19億円の建設費を支払うことが出来なかったため、
国有地を北朝鮮に売って、支払いに当てました。

dakar.jpg


ワッド大統領は、この像を見に来る観光客が増えて、
国の利益を上げることが出来ると言っています。

しかし、実際は、ルネッサンス像による観光収入のうち、
35%はワッド大統領の個人的な収入になります。
残りの65%が国の収入となります。

この状況に対して、当然国民は怒り、
ワッド大統領へ不満はさらに高まりました。


こうした中でも、
2011年6月に、
大統領が自分の息子を大統領にしようとしたときには、
国民の怒りが爆発し、
群集は、主要な道路にタイヤを並べ、
そのタイヤに火をつけて、道路を閉鎖するなどの
暴動を起こしました。

この結果、この大領選挙ではワッドは落選し、
次の新しい大統領が生まれました。

(ワッドは、国民のこれ以上の反発を恐れたのか、
 実際の選挙の開票がおこなわれた際は、
 比較的早く、自分の負けを認めました。)


なお一般に、アフリカでは大統領選挙をきっかけに、
暴動が起こり、
そのまま革命やクーデターが発生してしまう事が多いのです。

ですので、2012年のセネガルのケースは、
アフリカの「選挙の前後の混乱」の中では、
かなり「まし」なケースと言えると思います。

(セネガル人たちは、この時の選挙を、
 「自分たちの抗議で、大統領を辞めさせた」、
 「民主主義のモデルだ」と言って、
 誇りに思っているようです。)


・・・

「私の大切なものは、羊です。羊のことが好きです。」

se_2008_32a.jpg

1960年にフランスから独立した後、
西アフリカ諸国の中では比較的、安定した政治を行っていましたが、
1989年に、初めての惨事を経験しました。
隣の国である、モーリタニアとの国境紛争です。

元々は、国境付近のモーリタニア人の家畜が、
セネガル人の農地を荒らしたことによる、農民同士の争いでした。
しかし、モーリタニア軍が、セネガル人を殺害したことで
国家間の問題となりました。
政府やマスコミが介入したことにより、
それぞれの国で起こっていた暴動は、
あっと言う間に過激になりました。

モーリタニアでは、反セネガル運動が、いつの間にか、
アラブ系の白人が黒人を標的とする運動へ変化しました。
黒人はモーリタニアから追い出されました。

そのため、モーリタニアから6万人の国民が、
セネガルへ逃れて難民となりました。

また逆に、
セネガル側にいたモーリタニア人の行商人も、
迫害されて自国に逃げ帰り、難民となりました。

このように、紛争、内戦では、
個人の争いがきっかけになり、
民族や宗教間の争いに変化することがしばしばあります。

senegal1.jpg

この状況に対して、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、
セネガルに逃げてきた難民の生活支援を行いました。
また、難民が自発的に祖国であるモーリタニアへ
帰れるように支援をしました。
しかし、セネガルに住む難民は、
土地や公共サービスを利用できるため、
祖国に帰らず、セネガルに住むことを希望する難民も多いです。
そのため、現在も約2万4000人の難民が滞在しています。

UNHCRは、各政府と会合を行い、
難民が祖国に帰ってからも、生活に困らないように、
法的な枠組みを整える調整を行っています。
また、難民の受け入れ先となる、
貧しいコミュニティのインフラ(道路、水道、電気などの社会基盤)や、
教育や保健サービスの強化を支援しています。



・・・

「私の大切なものは家族です。お母さんやお父さんは
何でも私のためにやってくれます。」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 se_2008_30a.jpg)





南部(ギニアビサウとの国境)に位置するカザマンス地方の独立が
20年間にわたり問題になっています。

現在でも、具体的な解決策はありません。

カザマンス地方は、自然環境や、歴史、社会面で、
セネガルの中心部や北部とは異なった特徴を持ちます。

乾燥している中心部や北部とは反対に、雨に恵まれているため、
密林があり、古くから稲作が行われていました。

宗教は、ポルトガルが、カザマンス地方に拠点を置いた
名残があり、
(セネガルの中では珍しく)
キリスト教(カトリック)が広まっています。

民族は、北部ではウォロフ族、
カザマンスではジョラ族が多いです。
1960年の独立以降、ウォロフ族の住む
北部を中心に都市開発が行われたため、
ジョラ族は追いやられてしまいました。

les-barques-du-lac-rose.jpg

カザマンス地方の独立運動の背景には、
北部とは異なった特徴だけではなく、
初代大統領がカザマンスの人々と交わした、
密約が関わっています。
それは、1960年のフランスから独立する際に、
セネガル政府に協力をすれば、
20年後にはカザマンスの人々は、
セネガルから分離して良いという約束でした。
しかし、20年後の1980年に、
セネガル政府は約束を守らなかったため、
独立運動が始まり、政府側との武装衝突が続いています。

2004年に、内務大臣と反政府勢力は、
和平合意書にサインをしましたが、
その後も具体的な協議は進展していません。
2011年にも武装衝突があり、死傷者が出ています。



・・・

「私の大切なものは、村です。」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 P1080173a.jpg se_2008_22a.jpg)



セネガルは、世界でも貧しい国々が集中する、
「サハラ砂漠より南の地域」にある国々の中では、
比較的には、まだ良い状態にある国だと言われています。

セネガルは、民間による自由貿易が経済を発展させるという
欧米の考え方を取り入れ、
1994年に、国営企業を民営化し、
輸入価格を自由化したことで、経済が成長しました。
また、最近では、民間の投資も増えて、
経済指標は、安定して成長しています。

P1080153a.jpg

しかし、経済指標とは逆に、
貧困状態が悪化したと感じる国民が多いです。

地方は、都市に比べて貧困率が高いです。
また、医療や教育などの社会的な指標も低いです。

地方には、職を求める若者が多く居ます。
ですが、農業などの過酷な作業を嫌う傾向にあるため、
職を求めて都市へ移動する人が多いです。
ところが、
都市にいっても、それほど多くの求人(職場)はないため、
都市は、職にあぶれた若者が、あふれかえっています。


主な産業は、農業や漁業ですが、
大量に発生したバッタやイナゴが作物を食い荒らすなどの
自然災害の影響が大きく、収入が不安定になるリスクが高いです。

持続的に経済を成長させる、安定した収入源は限られています。

P1080170a.jpg

この状況に対して、国際協力機構(JICA)は、
『一村一品プロジェクト』を、進めています。
このプロジェクトは、元々は大分県で生まれた地域振興運動です。
地域が主体的に、資源を選んで、将来的な特産品を作ることで、
地域づくりを促すことができます。
行政は、助成金は出さず、技術や、
マーケティング(市場調査、商品開業)の支援を行います。

セネガルでは、キャンドルや布製バッグ、
環境に配慮したマングローブの石鹸が作られています。
このプロジェクトは、アフリカの特産品となる資源を募集して、
生産者となるグループを作ります。
JICAは、プロジェクトの計画や、技術支援、マーケティング活動を
指導できる人材の派遣を支援しています。

P1080167a.jpg

この住民参加型の支援のように、
住民が持ってるいる活力を引き出し、
地域の結束を強化する取り組みが行われています。



・・・

「私の大切なものは学校です。学校は、色々なことを教えてくれる。
自分の国について、より知ることもできます。」

se_2008_01a.jpg

セネガルには、『ダーラ』と、呼ばれる日本の寺子屋のような
非正規の学校があります。
これは、イスラム教徒の『コーラン』を学ぶ学校です。
コーランとは、宗教の教えが書いてある聖典のことで、
キリスト教の聖書と同じです。
セネガルのイスラム教徒の人々は、正規の学校には通わなくても、
ダーラに通わない子どもはいません。

一方、正規の学校では、小学校から高等学校までの13年間は、
無料で学校に通うことができます。

小学校からフランス語で授業が行われます。
フランスの小学校は4年間ですが、
セネガルでは6年間です。
2年間長いのは、フランス語を習得するためです。

P1080149a.jpg

1990年以降、初等教育へ通う就学率は大幅に上昇しました。
しかし、学校を中退や落第する生徒が多くいます。

中学校以上の学校に進学するには、
試験に合格する必要があります。
合格率は、約6割と、厳しい試験です。

また、学校や教員の数が不足しています。
建物や教員の質が低いことも問題になっています。
小学校のうち、6年生まで教えることが出来る学校は、
全体の半分もありません。
特に、農村部では、ほとんどの学校が
4年生までしか教えることができません。
教員も、中等教育終了後に、短期の研修を
受けて教えている人がほとんどです。

教育環境が整わないため、
多くの学校は、2学年以上を一緒に教えたり、
2部制にして、午前と午後で、生徒を総入れ替えして、
違う生徒を教えたりしています。

2005年の調査では、セネガルの約35%の子どもが
労働に従事していることが分かりました。
中には、物乞いや売春、違法活動を行っている子どももいます。
児童労働は、子どもを教育から遠ざけます。


また、出生届が提出されていない子どもも多いです。

すると、(戸籍や住民票に登録されていないため)
(国が)義務教育を受ける対象とみなさないため、
教育へアクセスしずらい状況があります。

P1080175a.jpg

この状況に対して、国連世界食糧計画(WFP)は、
学校に給食を提供しています。
「給食が食べられる」と、いうことが
子どもたちにとって、学校へ行くことの
動機付けになります。
また一方で、子どもが学校に通うことで、
親にとっては食費の節約となります。

また、女子の学校教育が、その子と、
その子が将来産むであろう子どもの健康に繋がります。
学校に通う女子の結婚年齢は、通わない子よりも遅くなります。
一般に、10代前半で出産をすると、
産んだ母親も、生まれた子供も、
死亡し易いことが、統計調査で分かっています。
これを防ぐためもあり、女子に教育を行うのです。

また、女子に基礎教育をおこなうと、
「読み書き」ができるようになります。
すると、将来、母親になった時、
(政府などからもらった)母子手帳や、
栄養や衛生、予防接種などに関するパンフレットを、
「読む」ことができるようになるため、
「生まれた子どもの生存率」が上昇すると言われています。

これを裏付けるものとして、、国際食糧政策研究所の調査では、
子どもの栄養失調が世界的に改善したのは、
女性が教育へ参加する機会が増えたことによると発表しています。



・・・

「私の大切なものは、病院です。なぜなら、病院のない地区もあるからです。
それでは、病気になった時に困ってしまいます。」

se_2008_27a.jpg

セネガルでは、感染症が蔓延しています。
その中でも、マラリアは、子どもの死亡原因の1位です。

(ただし、アフリカ諸国の中で、セネガルは、
 ここ10年間で、マラリアによる死亡率が、
 大幅に下がった国として知られています。
 ですが、それでもたくさんの人が、まだ亡くなっています。)

マラリアとは『ハマダラカ』と、いう蚊が媒介となって
人から人へ感染を拡大する病気です。
マラリアには4種類ありますが、セネガルでは、
その中で最も重篤な「熱帯熱マラリア」が98%を占めています。

5歳未満の子どもの死亡原因のトップは、
現在でも、マラリアで、
最大の保健課題となっています。

(セネガルは、アフリカ諸国では、
 かなり「まし」な国であるため、
 大人では、マラリアよりも、
 むしろ生活習慣病(成人病。糖尿病、高血圧など)が、
 問題になってきています。)


P1080174a.jpg

この状況に対して、(株)住友化学は蚊帳の製造技術を開発してきました。
蚊帳の素材に殺虫剤を練り込むことで、防虫効果を増すことができました。
世界保健機構(WHO)はこの蚊帳の使用を推奨し、
国際連合児童基金(UNICEF)やJICAも配っていました。

また、住友化学は、2005年に首都のダカールで行われた、
音楽イベントの主要スポンサーになりました。
この音楽イベントは、マラリアに対する意識の向上を目的としています。
8時間のコンサートには、セネガルの国民的な歌手である
ユッスー・ンドュールを始め、多くのミュージシャンが参加しました。
音楽を通して、マラリア予防の重要性を訴え予防として蚊帳の使用が促されました。

P1080130a.jpg

しかし、2011年に首都ダカールにあるフランスの研究機関が、
この殺虫剤を染み込ませた蚊帳が、
かえってマラリアの流行を招くという論文を発表しました。

蚊帳に染み込ませた殺虫剤に耐性を持つ蚊が増え、
使用の翌年はマラリアへの感染を減少することができても、
翌々年以降は、かえって局地的な再流行をもたらす恐れがある、としています。

イギリスの権威ある医学雑誌がこの論文を取り上げたことで、
話題となりました。
この状況を受けて、
UNICEFやJICAはマラリアに対する戦略を見直す可能性が、
(業界の中で)取りざたされました。

ですが、少なくともセネガルの場合は、
現在(2012年)の女性の大臣が、
今後も「薬剤を浸み込ませた蚊帳で寝ましょう」
という方針をとっているため、
大きな戦略の変化はないようです。


マラリアの予防には、殺虫剤や蚊帳の使用だけでなく、
人々の意識の向上が必要です。
マラリアを媒介するハマダラカは、水が溜まる場所を好みます。
JICAの調査では、水が溜まる場所ではハマダラカの生息が17倍にも
なることが分かりました。
人々が、場所を構わずゴミを捨てると、雨が降り、水が溜まる場所が
増えます。排水溝の中に、ゴミを捨てると水の流れが悪くなります。
つまり、排水溝や下水道の流れが悪くなると、
そこの『水のよどみ』ができて、蚊が発生するのです。
人々は、ゴミを指定された場所へ捨てる習慣を持ち、
また、政府は、それをきちんと回収して処分することが望まれます。
ですが、現状は、まだそれらが十分には出来ていないと、いうことです。



・・・

「私の大切なものは木です。」

se_2008_29a.jpg

2008年、首都のダカールから近い、貧しい漁村で、約20人の子どもが
原因不明で死亡しました。かれらは、アフリカ諸国に蔓延している
感染症にはかかっていませんでした。
WHOが村へ調査に入りました。
すると、亡くなった子どもの家族の血液から、
非常に高い濃度の『鉛』が検出されました。
この村では、車のバッテリーを拾い、
分解して、中身を加工し、売ることで生計を立てています。
バッテリーを扱う中で、鉛に汚染され、
鉛中毒になったと考えられています。

P1080142a.jpg

イスラム教の教えでは、ゴミは捨ててはいけません。
しかし、自宅の前など、決まった場所に捨ててはいけないだけで、
広場などの公共の場をきれいに保つ意識は薄いです。
そのため、ゴミをポイ捨てする習慣があります。
多くは、自然では分解されないプラスティックゴミです。

首都のダカールでは、定期的にゴミ収集車が巡回するようになりました。
そのため、道路などにゴミが放置されることは少なくなりました。
しかし、ゴミの焼却炉を持たないセネガルでは、首都で回収されたゴミは
郊外に捨てられています。

ゴミを捨てられてしまう、郊外の人々は、
いずれ地下水が汚染されるのではないかと心配しています。

P1080164a.jpg

このように、セネガルでは、未だ環境に対する意識が低いです。
この現状を受けて、非営利団体(NPO) ダンカダンカは、
環境へ配慮する若者を育てています。
セネガルの小学校の夏休みは約3ヶ月も続きます。
この期間に元気溢れる小学生を集めて、エコクラブを作りました。
エコクラブでは、ゴミ拾いを行ない、
木を育てる土を大切にしています。
また、村の若者へ知識の提供や、資金の運用方法を指導するなど、
自分で木を育て、環境を整える人材を育てる支援を行なっています。



・・・

セネガルの国民的スターに、
ユッスー・ンドゥールが居ます。
ユッスーは、2004年に世界的に有名な(米国の)グラミー賞を受賞しました。
また彼は、2012年4月から、観光大臣に就任しました。


セネガルには、『グリオ』と呼ばれる、歌や音楽を奏でて冠婚葬祭を
執り行う人々がいます。グリオは世襲制で受け継がれます。
ユッスーは、グリオの子に生まれ、
セネガルの伝統的な音楽を身近に感じて成長しました。

ユッスーが中心となり、セネガルの伝統的な旋律と歌唱法、
伝統楽器によるリズムに、R&Bやロックなどを融合させて、
『ンバラ』という新しい音楽のスタイルを作りました。

ンバラは、自由で活発なセネガルらしい音楽であり、
今後アフリカの音楽をリードしていくと言われています。

P1080165a.jpg

筆者は、今後セネガルは、ンバラのように、伝統を取り入れながら、
様々な社会的な問題に取り組んで
アフリカをリードしていって欲しいと考えています。





・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
鎌谷雅美(2008年)

画像データを編集し、文章を書いた人:
姉崎沙緒里

編集完了日:
2012年4月23日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

上記に掲載された写真のうち、
人物が写っていない写真の一部は、
以下のサイトから提供されたものもあります。
トリップアドバイザー
http://www.tripadvisor.jp/

posted by お絵描きイベント at 21:00| 日記

2012年04月09日

長野県 栄村

日本の長野県栄村は、
長野県の一番北に位置する村です。

7D4U1212_RJa.jpg


長野県は、面積が日本で4番目に大きく、りんごの生産量が全国2位です。
平均寿命においては、男性が全国1位、女性が3位であり、
長生きの県としても知られています。

その長野県にある栄村ですが、
村の面積は東京都の10分の1より少し小さいくらいで、
人口は約2300人、東京ドーム収容人数の20分の1ほどにあたります。

mura_chizu.gif

(栄村周辺の地図:栄村ホームページより)

また、栄村には日本最長の信濃川
{長野県内では、千曲川(ちくまがわ)という呼び名です}が流れています。
日本における屈指の豪雪地域で、
1945年の積雪は7m85cmと日本一を記録しました。

7D4U1619_RJa.jpg


豊かな自然、澄みきった空気と水、良い土をもつこの地では、
米づくりも行われており、
農家の人々が、コシヒカリなどの美味しい米を育てています。

一方で、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震がおきた翌日である、
3月12日の大地震により、栄村は大変な被害を受けました。

7D4U1697_RJa.jpg


震度6の地震が3度続き、
9割以上の家が全壊・一部損壊など被災しましたが、
地震そのものにより亡くなった人は0人でした。
本震と余震の間にできた短い時間に、村の人々ができる限りのことをして、
お互いを救助し合ったことが、たくさんの命を守りました。


・・・

長野県の歴史は、今から3万年以上も前にさかのぼります。
この頃、ナウマンゾウなどの狩人たちが県内にある野尻湖の近くで、
狩猟生活をしていました。

5000年前頃、八ヶ岳を中心に大きな集落ができはじめ、
2500年前頃には、西日本から稲作が伝わり弥生文化がひろがりました。

7D4U1524_RJa.jpg


8世紀に、長野県の旧国名である「信濃国」の印がつくられ、
16世紀の戦国時代、のちに栄村ができる長野県北部では、
上杉氏と武田氏・後北条氏が激しい戦いをしました。

7D4U1560_RJa.jpg


1871年の廃藩置県(江戸幕府が置いた藩を明治政府がやめて、
府と県に統一したこと)の後、
1876年に長野県が誕生しました。

その後、それまであった6つの村が合併を繰り返し、
1956年に栄村ができました。


・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「家族みんなで、元気に過ごすことです。」

Sakaemura_Draw001_Maya_a.jpg


7D4U2051_RJa.jpg


栄村は、「過疎」という問題に長く向き合ってきました。
過疎とは、地域の人口が大きく減ることにより、
その地域で生きる人々において、
生活水準や生産力を保つことが難しくなってしまう状況です。

栄村は、
1960年には6000人を超えていた人口が、
2011年には2300人ほどになり、
この50年の間に人口が3分の1に減ってしまいました。

7D4U1584_RJa.jpg


栄村は、村民が主体になって村づくりを進める「実践的住民自治」を、
行っています。

「自分たちの状況にあった、暮らしやすい村を、
私たちでつくりあげよう」という思いのもと、
制度をつくり、アイデアを出して、企画、実行をし、
その出来具合を確かめ、さらによいものにしていくことを、
村民は積み重ねています。

7D4U1566_RJa.jpg


栄村は、主に以下の事業を中心に取り組みを進めています。

1.田直し事業
  :農家の人々が使いやすいように、田んぼを整えます。
2.道直し事業
  :道路を改良して、除雪しやすい道にします。
3.げたばきヘルパー事業
  :村に住む高齢者を地元のヘルパーが24時間支えます。
4.雪害対策事業
  :危険な作業である雪下ろしや排雪を、救助員が手伝うことにより、
   豪雪地における住民の暮らしを守ります。

人々がひたむきに築く、栄村の力強い村づくりの成功を受けて、
総務省と全国過疎地域自立促進連盟は、
2009年、全国過疎地域自立促進連盟会長賞を栄村に贈りました。

7D4U1591_RJa.jpg


日本における「過疎市町村」の数は、
全国にある市町村の約半数にも及びます。
栄村と同じように過疎に悩んでいる地域は、たくさん存在するのです。

7D4U2065_RJa.jpg


現在では、栄村が取り組んでいる「実践的住民自治」を学ぼうと、
多くの人々がこの村に訪れます。


・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「お花や葉っぱに水をあげて育てることと、
命を大切にすることです。」

Sakaemura_Draw021_Yuka_a.jpg


7D4U1897_RJa.jpg


栄村では、「耕作放棄地」の増加が問題になっています。
耕作放棄地とは、農業人口の減少や、村全体の過疎化、村民の高齢化など、
農業を営む人における何らかの理由で、
耕作をしていない土地のことをいいます。

このような土地が増えて、農地が荒れると、
農村地域の活力と生産力が落ちてしまいます。

7D4U1479_RJa.jpg


これを受けて、
栄村は「田直し事業」を行なっています。
田直し事業とは、村の職員と農家の人々が直接相談をして、
農家が田んぼを使いやすくなるよう整える取り組みです。

7D4U1518_RJa.jpg


主に、土地の形に合わせた区画の整備をしますが、
農家が希望すれば、田の排水や入口などの整備も行います。
田直し事業により、これまで使っていなかった農地を、
農家の人々がもう一度耕して活用できるようになりました。

7D4U1890_RJa.jpg


現在では、この事業が耕作放棄地の増加を防ぐのに役立っています。
2000年には70ヘクタール(1ヘクタールは1万平方メートル)
以上あった耕作放棄地の面積が、
2005年には半分以下の30ヘクタールにまで減りました。

7D4U1905_RJa.jpg


・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「赤ちゃんです。一生懸命生まれてきてくれました。」

Sakaemura_Draw048_Ikumi_a.jpg


栄村国民健康保険栄村診療所では、
それまで勤務していた医師が2007年3月に退任し、
村に医師がいなくなる「無医村」になる恐れがでました。

村人の2人に1人が65歳以上の高齢者であり、
そのうち多くの人が農作業とともに生活をしているこの村にとって、
健康を管理する診療所は大切なものです。

7D4U1400_RJa.jpg

 
常時勤務の医師がいる診療所としては唯一である栄村診療所は、
村民の体を守るとともに、
村の人々にとっては心の拠りどころとなる場所でもあります。

「なんとかして村に医師を迎えたい・・・。」
村役場の人が必死に医師探しをした結果、
2009年4月から、新しく佐々木公一医師が赴任しました。

7D4U1220_RJa.jpg


栄村でただ1人の医師として、
佐々木医師は村の人々を支える存在となりました。
2011年3月の震災があった際には、地震直後から避難所で処置にあたり、
翌日からは休診日にも診療を続け、休むことなく人々を助けました。

2012年2月、読売新聞社は、地域医療に力を注いだ人として、
「第40回医療功労賞」を佐々木医師に贈りました。

(その後、2012年3月、佐々木医師が退職されたため、
 4月からは、本村光明医師が、勤務されています。)


・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「栄村の自然です。」

Sakaemura_Draw022_Asuka_a.jpg


7D4U1942_RJa.jpg


長野県は、自然エネルギーの供給率が高い県です。
太陽光発電及び小水力(1000kW以下)発電における、
設備件数と総発電能力は、ともに全国5位以内に入っています。

長く守ってきた自然と昔からある文化を維持しながら、
村をさらにいきいきと元気にしていくことが課題です。

7D4U1552_RJa.jpg


株式会社ブリヂストンは、早稲田大学と協力して、
環境問題に関する研究事業W-BRIDGEを行なっています。

W-BRIDGEは、地球環境が抱える課題に対し、
企業、大学、各地域やそこで生活する人々が一体になって取り組んでいく
新しい場をつくっています。

7D4U1558_RJa.jpg


この研究事業の一環として、
NPO栄村ネットワークは「山村CSRプロジェクト」をはじめました。
山村CSRプロジェクトは、
CSR(企業の社会的責任)を積極的に実践する企業と、
山々に囲まれた村をつなげる取り組みです。

7D4U1548_RJa.jpg


このプロジェクトは、
1.企業に対し、
  資源を有する村との信頼関係や、
  地域活動に参加する社員における心と体の健康増進を提供し、
2.村に対しては、
  恵まれた自然環境とその村の良さを守りながら、
  人々の営みをより活発にすることを目指しています。

7D4U1937_RJa.jpg


この取り組みが、
企業と村のとの間に新たなつながりを生み、
村を活性化させていく、と栄村ネットワークは述べています。


・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「学校とお友達です。」

Sakaemura_Draw009_Anna_a.jpg


7D4U1327_RJa.jpg


長野県は、昔から人材を育てることに力を入れている県でした。
江戸時代には寺子屋の数が全国で一番多い県で、
人々は長野県を「教育県」と呼んでいました。

しかし、近年その様子が変わりはじめています。

7D4U1173_RJa.jpg

長野県教育委員会によると、
県内における公立小学校の生徒数が減っており、
小学校の3割は1学年に1クラスの学級編成です。
栄村においては、小学校1クラス当たりの生徒数は7人で、
教員1人当たりの生徒数は4人です。

2010年に文部科学省が行なった「全国学力・学習状況調査」では、
47都道府県中、長野県が42位という厳しい結果となってしまいました。


7D4U1606_RJa.jpg

長野県民新聞社は、県内で唯一の教育専門紙である『長野県民新聞』と、
子育て情報誌の『すこやか』、『おさなご』を発行しています。


7D4U1340_RJa.jpg


長野県民新聞は1980年代から、
県内の生徒における学力の低下に警告を鳴らしています。
「子どもたちの学力を向上させたい。」
「長野県を、もう一度日本で一番の教育県にしたい。」と、
新聞社は取材と検証を重ねていきます。


・・・

おわりに。

栄村には、栄村国際絵手紙タイムカプセル館という施設があります。
この場所は、世界中から集まった絵手紙を保存しています。

7D4U1616_RJa.jpg


1998年、長野県では、長野オリンピックとパラリンピックが開催されました。
その際には、日本絵手紙協会が企画した栄村の『絵手紙世界展』を、
長野オリンピック冬季競技大会組織委員会が
同オリンピック及びパラリンピックの文化プログラムとして決定しました。

人々が想いをこめて描いた絵手紙が世界中から届き、
それを、村の人々が自分たちの手で展示しました。

7D4U1428_RJa.jpg


オリンピック期間の展示後は、
それぞれの作品に絵手紙世界展記念の消印を押して、
長野オリンピックの記念切手を貼り、描いてくれた人へお返ししました。

2000年には、21世紀を迎える記念として、
60万枚以上の絵手紙が国内外からこの施設へ届きました。
これらの絵手紙は「絵手紙万葉集」という7巻の本になり、
その一枚一枚を施設が保管しています。

栄村の絵手紙が、世界をつなげました。

7D4U1692_RJa.jpg

朝日新聞社と森林文化協会は、
人の暮らしが紡いだ、生命力に溢れていて、うつくしい里に贈る
「にほんの里100選」に栄村を選びました。

山と川、風と花、
そして、そこに生活する人々が受け継いできた生き方、
栄村には、きっと人々の心をやさしく包みこむ力があるのだと
筆者は思います。





・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
山本敏晴(2004年)

画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織

編集完了日:
2012年5月11日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/


posted by お絵描きイベント at 09:28| 日記