2012年02月19日

ペルー Peru


アンデスの山々、フォルクロ−レの音楽、
鮮やかな民族衣装をまとった先住民の人々、
神秘的な古代遺跡、アマゾンの秘境...

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ペルーとは、先住民族のケチュア族の言葉で「豊かな土地」を意味します。

コロンビア、エクアドル、ブラジル、ボリビア、
チリと国境を接し、太平洋に面しています。

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雨のほとんど降らない沿岸部の乾燥した砂漠や、
6,000m級の山が連なるアンデス高地
(南アメリカ大陸の西岸から北岸に連なる大山脈)、
アマゾンの密林地帯など、多彩な自然に恵まれています。

アマゾンといえばブラジルを思い浮かべるひとも多いですが、
ペルーの国土の約60%がアマゾンの熱帯雨林地域なのです。

あの流域面積世界一を誇るアマゾン河は、
ペルーのアンデスを源流としてブラジルへと注いでいるのです。

かつて南米最大の帝国を築いたインカ帝国をはじめ、
紀元前から栄えてきた数々の古代文明、
謎の空中都市と言われるマチュピチュ、
大地に刻まれたナスカの地上絵など
多くの謎に包まれた遺跡がいくつも残されています。

国土は日本の約3.4倍で、2980万人が住んでいます。首都はリマ。
公用語は主にスペイン語で、他にケチュア語やアイマラ語があります。
国民の95%以上はカトリック教徒です。

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ペルー人は、大きく分けて、
先住民(47%)、先住民と移民の混血(40%)、
欧州系移民(12%)、東洋系移民(1%)、
といわれています。

先住民は、
シベリアを経由して渡ってきたと言われる
褐色の肌と蒙古斑を持つ人々です。
今でも先住民の多くは、
アンデスの高地の山間の村々で伝統的で穏やかな暮らしをしています。

この先住民が栽培し、今では世界中に広まったのが、『ジャガイモ』です。
3,000種くらいあり、料理によってジャガイモを使い分けています。

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また、ペルーは日本が中南米で最初に国交を結んだ国であり、
南米で最初の日本人移民先でもあります。
現在、ペルーに暮らす日系人はおよそ9万人。
世界でもブラジル、
米国に次ぐ第3位の規模の日系人社会が形成されています。
2009年は日本人がペルーに移住してから110年に当たる記念の年でした。

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あなたの大切なものは何ですか。

「平和です。」

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(pazとは、スペイン語で『平和』のことです。)


今から3000年前、北部アンデスの山岳地域で文明が発生し、
その後ナスカなどの各地にそれぞれの文化が栄えました。

11世紀末、中部アンデス地域にインカ族が現れ新たな文化を作り出します。

当初は1部族に過ぎなかったのですが、
15世紀末頃には、南北に4000kmにわたる大帝国を作り、
首都クスコを中心に栄華を極めます。
その帝国の範囲は現在の
コロンビア、エクアドル、アルゼンチン、ボリビア、チリに至ります。

インカ帝国はいくつかの点で古代エジプトの王国に似ており、
クスコを中心にして1200万人を越える人間が
自活できるシステムが整えられていました。

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インカ帝国の発見

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15世紀の中頃,インカ帝国から遠く離れたヨーロッパでは、
まだ見ぬ国を探す大航海時代が始まっていました。

1521年にアステカ帝国(メキシコ中央部)を
征服したスペイン人がさらなる楽園を探す中、
フランシスコ・ピサロはアンデスの彼方に、
『黄金の都』があるという噂を聞きつけます。

1526年、ピサロは探検に挑戦し、
インカ帝国の北部の町に辿り着きます。
そしてこの町の繁栄ぶりを見て、
アステカ王国にも劣らない巨大な文明が
アンデスの地に存在することを確信するのです。

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征服の世紀

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この頃、インカ帝国では
2人の兄弟が皇帝の座をめぐって争っていました。

1532年、200人足らずの部下を率いて
再度アンデスを訪れたピサロは、
そんな隙を狙ってインカ帝国を一気に攻めます。
大砲や銃で攻撃するスペイン人に対し、
4000もの兵で固めた先住民の武器は石槍やこん棒。
武器で勝るスペイン人は、
人口20万人の大都市クスコを落城させてしまいました。

ピサロは海岸部に新たな首都リマを建設し、
スペイン人による植民地時代が始まります。

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銀ブームの到来

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ペルーのポトシという山で、1545年に銀が発見されます。
先住民は出稼ぎ労働を強いられ、
アフリカから黒人奴隷も送り込まれました。

17世紀初め、ポトシの人口は16万人にも膨れ上がり、
新大陸で最も大きい都市に成長します。
ここで産出された銀は、
世界全体の産出量の半分に達するほどといわれています。
しかしこうした銀のほとんどはスペイン本国に送られ、
新大陸に残るのはごく一部でした。

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人種差別社会の発達

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様々な人種が暮らし、混血の進んだアンデスでは、
やがて人種差別が生まれます。

最も高い身分は、
スペイン本国で生まれたスペイン人(ペニンスラール)、
二番目が新大陸で生まれたスペイン人(クリオーリョ)、
次が白人とインディオの混血児(メスティソ)、
さらに黒人、先住民(インディオ)と続きました。

リマなどの都市部はヨーロッパのような町並みとなり、
位の高い役人や聖職者はペニンスラールが占めました。

一方、先住民はスペイン人の定めた区域に住み、
ワインを飲むことやスペイン人の服を着ることは禁じられ、
メスティーソも
特定の地位や職業に就くことは許されていませんでした。

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反乱の世紀

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「反乱の世紀」と呼ばれる18世紀は、
クリオーリョ、メスティソ、インディオなどが、
(侵略してきた)スペイン人に対して次々と反乱を起こしました。

なかでも大規模だったのが、
『トゥパク・アマル』の反乱です。

トゥパク・アマルとは、
インカ帝国の最期の皇帝の名前で、
「輝ける龍」という意味です。

インカ帝国を蘇らせることを目指したこの反乱は、
ペルーを中心に広がりますが、
1年ほどで、あえなく鎮圧されてしまいます。

ですが、同じ頃、アンデス北部の各地で反乱が勃発します。

各地のこうした抵抗運動は、独立への気運を高めていくのです。

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そして独立

独立運動は19世紀に入って間もなく、
北部(現ベネズエラの首都カラカス)や
南部(現チリの首都サンチアゴ)で始まります。

南部では、ホセ・デ・サンマルティンが1818年にチリの解放に成功します。

彼はさらに北上して1821年にリマに入城し、ペルーの独立を宣言します。

数々の激戦をくぐり抜けた独立解放軍は、
約300年にわたるスペインの支配からついに自分たちの国を取り戻すことに成功したのです。



しかし、独立後も平穏な日々は、すぐには訪れませんでした。

度重なるクーデター、国境争い、ハイパーインフレ...

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独立後ペルーは、
ボリビアやエクアドルなどを併合しようとして
周辺国の怒りを買い、
1836年逆にボリビアに統合されてしまいます。

1839年に再び独立したペルーは、
産業やインフラの整備に力を入れ、移民政策に乗り出します。
これにより19世紀末には日本人移民も到着します。

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硝石(火薬の原料)の鉱山の利権を巡った戦争で、
ペルーは、チリに敗北してしまいました。

このため国力が衰え、米英による経済支配が進んでいきます。


そんな中、1962年に軍事クーデターが起こり、
その後も度重なるクーデターで不安定な情勢が続いていきます。


1970年代から80年代は経済危機と治安の悪化に悩まされますが、
90年代に入り、
南米初の日系人大統領となったフジモリにより、
それらの問題は、一部改善されました。

しかし、徐々にフジモリ政権は独裁的になり、
その腐敗した政治体制が明るみに出て、失脚します。

その後、経済政策は成果が出ず、国民の支持は低下し、
テロ活動も復活し、治安は悪化していきます。

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あなたの大切なものは何ですか。

「団結と正義です。」

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(絵の下に書かれているSIN LA DISCIMINACION とは英語で WITHOUT DISCRIMMINATIONで、
"差別をなくそう"という意味です。)

80年代と90年代前半のペルー経済 は、最悪 の時でした。
インフレは途方もなく、1990年は、
(日常生活品の物価の上昇率が)年率約8000%にも達しました。

人々は、生活することができず、ペルー政府に絶望しました。

テロリストグループは、こうした人々の心につけこみ、
反政府活動を開始したのです。

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この活動の基本は、元々は、
(軍事的なものではなく)純粋に政治的なもので、
ペルー共産党から始まった流れだったのですが、
後に「センデロルミノソ(輝ける道)」と呼ばれる武装グループに
なっていってしまいます。

そのリーダーのアビマエル・グスマンは、
中央アンデスの貧しい地域のアマン国立大学で、
教授をしていたほどの人でした。
その人は、新しい国の制度として、
マルクス、レーニン、毛沢東などの思想を基本にしようとしました。


もう一方のグループは、ヴィクトール・ポライをリーダーとする
「トゥパクアマル革命運動(MRTA)」です。
このグループは、お金や金持ちの財産を取って、
それを貧しい人々に与えるという、
「義賊的」な考え方を持っていました。

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80年代半ば、センデロルミノソはアンデス山脈の小さな町で、
攻撃的な組織を設立し、暴力的な活動を開始しました。
そしてそれは、中央アンデス全体から首都へ広がっていきます。

それに対し政府は、こうした地域に軍隊を派遣し、
内戦が勃発します。
この紛争での犠牲者のほとんどは、無関係な一般住民でした。

この結果、アンデス山脈の人々が、
沿岸地域の大都市へ移住することとなりました。

ところが、
リマや主要沿岸都市でも、テロリストグループが活動を続け、
町を爆撃し、電線を破壊し、
政府の代表者や警官を殺したり誘拐したりしました。

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そして、最後の大規模なテロ活動は、
「トゥパクアマル革命運動(MRTA)」によって引き起こされた、
1997年の日本大使公邸事件です。

1996年12月に14名のMRTAの構成員14人によって、
日本大使公邸が襲撃され、 621名が人質とされ、
獄中の仲間全員の釈放や革命税(身代金)の支払い、
フジモリ政権による経済政策の全面的転換などを要求しました。

四か月後の1997年4月に、
ペルー軍特殊部隊が、突入し、犯人たちを全員射殺し、
人質を開放しました。

この事件によってペルー国内だけでなく
世界各国からの非難を受けたMRTAは、
その主要メンバーの多くを失っただけでなく、
国内外からの支援も途絶えたために
事実上の活動停止状態に追い込まれました。

2007年4月、
服役中の指導者ビクトル・ポライは、敗北を認め、
武力闘争を放棄したのです。

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ペルーで、武装グループに子どもが巻き込まれているという
数多くの報告を受け、
2009年6月、ユニセフ・ペルー事務所は、
子どもと若者を武力行為に関与させることを非難する声明を出しました。

国連の加盟国の大多数が賛同した「子どもの権利条約」では、
「子どもおよび青少年を武装集団に参加させたりすること」
を禁じています。

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同様にILO第182条は、
18歳未満の子どもを強制的、義務的に雇用することを禁じ、
それが児童労働の最悪の形態であると定義しています。

センデロルミノソによって、
子どもと青少年がたびたび利用される問題は、
子ども権利条約への紛れもない違反です。

子どもたちは家族との普通の生活を送る権利を奪われ、
『大人の兵士のための盾』として、
あるいは料理人、荷物の運搬人、メッセンジャーなどとして利用されているのです。

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あなたの大切なものは何ですか。

「路上での仕事です。」

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(Trabajoとは、スペイン語で、『仕事』のことです。)


ペルー社会では、
(農村部からリマ首都圏への人口集中に伴う)
都市化と貧困問題が、重要な課題になっています。
これは、テロや一般犯罪の一因ともなっています。

貧困層の発生は、元はと言えば、
植民地時代からの階級支配制度に根付いた、
上流階級へ富が集中する社会構造によるものです。

このため、大きな所得格差が生じています。


アンデス山岳地帯の「耕作限界地域」
(農業ができるかどうかのギリギリの土地)
に極貧の農民が多く、
ペルーの最も貧困な10%の人口のうち、約60%は、
「シエラ」(スペイン語で「山」の意味)と呼ばれる山岳地帯の農村部に集中しています。

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1970年代に入ってから、農村部の貧困問題が深刻化し、
農業失業者が首都リマなどの大都市へ職を求めて移住した結果、
都市部の移住者の人口が急激に増えました。

しかし都市には移住者を吸収するほどの働き口は無く、
農村地域からの移住者は(盗みなどの)非合法生活を余儀なくされ、
都市部のスラム(無法地帯)は拡大していきました。

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最低生活すらできない貧困層は、
フジモリ大統領の政策で、一時、減少しましたが、
依然として貧困層の割合は高いままです。

そのうち、約20%は、
1日に必要なカロリーを摂取できないほどです。

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地域的には、都市部では貧困層が約40.0%であるのに対し、
山岳地帯農村部では
約64.7%と地域間格差が大きいことが問題になっています。

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非営利団体「ミンカ」は
ペルー全土で社会的・経済的に立場の弱い先住民や
都市の貧困地域に暮らす人びとが
手工芸品作りで収入を得られるよう支援しています。

標高3,800 メートルのアンデスで生活する
先住民族ケチュアの人びとにとって、
アルパカ・ニット製品作りは貴重な現金収入源です。

(アルパカとは南米大陸原産のラクダ科の家畜です。
 海抜約3500〜5000mで放牧されています。)

しかし、通常、仲買人によって買い叩かれ、
作り手の手元にはわずかな金額しか入りませんでした。

そんなケチュアの人びとを救おうと、
1976年にミンカが設立されました。

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製品の品質向上につとめ、
海外のフェアトレード団体に販売することで、
生産者が適正な利益を得られるようにしています。
アルパカの飼育から編みの工程まで、
化学飼料や機械は一切使われていません。

自然の草を食べて育ったアルパカの毛を刈って、
手紡(つむ)ぎで糸にし、手編みにしたセーターやニット小物は、
自然の力と人の手が生み出すパワーに満ちているようです。

アルパカ製品の生産に携わる約2,000人を含む、
ペルー全土の約7,000人の手工芸職人が、
ミンカの運営する技術研修や教育プログラム、
農業技術の改善プログラムに参加しています。

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アルパカにはブラウンやグレイ、
黒などさまざまな毛色の種類がいますが、
今、色つきのアルパカは絶滅の危機に瀕しています。
大手メーカーが染色の容易な白い毛ばかりを買い求めるため、
商品価値の低くなった色つきアルパカは、
肉として売られるほかなくなってしまったのです。

そこで日本のフェアトレード・カンパニー
”ピープル・ツリー”は、
アルパカの自然な毛色を活かした製品をデザインすることで、
色つきアルパカの命を救おうとしています。
ピープル・ツリーの製品によって、
毎年約1,000頭の色つきアルパカが殺されずにすんでいます。

こうした製品が購入されることにより、
アルパカの命と、職人たちの暮らしを守ることにつながるのです。

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ペルーは、ラテンアメリカにおける医療レベルが
最低の国の一つであるといわれています。

2002年にペルー厚生省が発表した報告書によると、
人口の25%、650万人が、
初期治療(基本的な医療)さえ受けることができていない、
となっています。

そして、
乳幼児死亡率並びに5歳未満の死亡率が高いほか
(1000人当たりそれぞれ40人、52人:97年)、
妊産婦の死亡率も高い(10万人当たり280人:90−97年平均)です。

これらを改善するため、
栄養摂取不足や基本的な母子保健サービスが受けられない地域における、
コミュニティレベルの母子保健活動が重要となっています。

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そこで、NPO法人・AMDA(アジア医師連絡協議会)は、
味の素「食と健康」国際協力支援プログラムの支援を受け、
首都リマ市の貧困地域で、
栄養・母子保健に関する地域住民の、
エンパワーメント(能力発揮)を目指した支援活動を展開しています。

具体的には、同地区の保健所やNGOとの協力の下、
栄養と母子保健に焦点を当てた保健プロモーター(推進者)の育成や、
地域の出産前後の女性への保健教育などを行っています。

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あなたの大切なものは何ですか。

「学校です。」

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また、6歳から16歳までが義務教育期間ですが、
ペルーの公教育は余り普及しているとはいえません。

ペルー の識字率 85.5%(男性91%、女性80%)    
日本の識字率 99.8%(男性99.9%、女性99.7%)

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ペルーでは所得格差だけでなく、教育格差はそれ以上に大きいといわれています。
(なお、男女間の格差もあります。)

就学率という意味ではそこそこの数字ですが、問題は教育の質の問題です。
学校に行っても十分な授業が行われておらず、遊び時間が半分を占めるとか、教師の数・質・やる気とも問題があるとの指摘もあります。

開発の基礎である教育分野への政府の積極的な役割が期待されています。


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ペルーは米国を中心に多くの移民労働者を送り出しており、
200万人にも上るといわれています。

こうした移民労働者が本国に送金する金額は、
IDB(米州開発銀行)の調査では、
2005年は25億ドルにも上り、
10人の成人ペルー人のうち1人は外国からの送金を受けている計算になります。

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2004年の対ペルー直接投資が約130億ドルであることを踏まえれば、
(25億ドルという金額は)あながち無視することのできない規模です。
ペルーの開発にとって重要な資金源といえます。

こうした移民送金の重要性はペルーのみならず、
米州(南北アメリカ)諸国全体で認識されていることです。

移民送金が手数料によって目減りする事を少しでも防ぐために、
米州サミットでも2015年までに移民送金手数料を半減することを目標に
取り組みが行われています。

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旧東京銀行の銀行マンだった枋迫篤昌(とちさこ あつまさ)は
2003年6月にワシントンDCで、
マイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーション(MFIC)を設立しました。

主要顧客は米国で働くラテンアメリカ系移民をはじめとする低所得者層で、
アメリカでは5000万人の中南米移民が母国に年6兆円もの送金をしています。

彼らの多くは銀行口座を持たず、専門業者を使いますが、
小切手の換金や送金などで家族の手に届くまでに、
元金の『3割』が消えます。

そこでMFICは、手数料を業界平均の半分以下にしました。
また、送金直後に現地でお金を受け取れるようにしました。

これを可能にしたのは、
インターネットを使った、
この会社独自の送金・決済システムだそうです。
送金網は近く100カ国をカバーするそうです。

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さらに最近は、
故郷での起業や、住宅建設のための費用を貸してあげる、
「国境越えローン」も始めています。


マイクロファイナンス(小規模金融)を、うまく活用することで、
ラテンアメリカで個人起業家を育成し、
現地の経済を発展させることができるのです。


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日本とペルーの間では、環境・気候変動分野において
「クールアース・パートナーシップ」に基づき
相互協力を一層進めていくことになっています。

2007年に日本の阿部首相が提言した地球温暖化対策です。
具体的には、途上国の火力発電所を効率よくし、
CO2の排出を削減することなどです。

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日本は、ペルーに対し
平成21年度 太陽光を活用したクリーンエネルギー導入計画のため、
4億円を提供しました。

日本は、ペルーの首都リマにある下水処理施設内などに
太陽光発電装置を設置しました。

それにより、ペルー国内における火力発電用の化石燃料の消費量を低減し、
二酸化炭素の排出量を削減しようと試みたのです。


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あなたの大切なものは何ですか。

「自然とともに生きることです。」

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近年、もっとも顕著に増加しているのは、
鉱山会社と地域住民の間に生じる、
環境悪化や企業による利潤の社会還元をめぐる紛争です。

ペルー北部鉱山地帯にあるコンガ鉱山は、
世界2位の産金会社米ニューモント・マイニングが保有し、
開発にはペルー国内で過去最大となる
48億ドル(約3700億円)の資金が投じられ、
国や地元周辺産業への大きな経済効果が見込まれています。

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一方、地元住民や環境団体は、
鉱山開発による水質汚染など、
環境に与える被害が大きいことなどを理由に、
開発の中止を求めた抗議デモを展開しました。

このデモ隊の一部が暴徒化し、
ウマラ大統領は60日間の非常事態宣言をし、
軍隊を投入し治安の維持を行いました。

鉱業の発展と、その輸出による経済効果は期待できますが、
一方、環境汚染への懸念と、
それに反対する住民運動が課題となるでしょう。


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ペルーの森林面積は世界で9番目の規模です。
しかし,違法森林伐採や、自然火災等のため、
過去40年間の間に850万ヘクタールの森林が消失しています。

ペルー政府は,各国からの援助を受けたことにより,
2020年までにアマゾン地域の森林面積の減少をゼロにすることを表明しています。
 
そこで日本政府は、2010年度に、
森林保全のため、9億円の援助をしました。

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あなたの大切なものは何ですか。

「農業です。」

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NPO法人 arcoirisは、
アグロフォレストリーという技術を用いて環境問題に取り組んでいます。

アグロフォレストリーとは、農地に樹木を植栽し、
木と木の間で農作物を栽培する、農業と林業を組み合わせた技術です。

農地に樹木を植えることにより、
フルーツやナッツ等の農産品や、材木などの林産品に加え、
森(樹木)が担う様々な生態系サービスの活用が可能となります。

アグロフォレストリーの技術開発が進めば、
経済活動の結果、森林が破壊されるのではなく、
反対に森林の再生に貢献できる可能性があります。

このため、
アグロフォレストリーの技術を取り入れて作られた農作物などを、
私たちが買うことで、
アマゾンの熱帯雨林が減っていくことを防ぎ、
また逆に、森を増やしていくことに貢献できる
可能性がある、ということになります。

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16世紀初めに侵入したスペイン人は、
産出される金と銀を基に植民地帝国を築き上げました。

現在でも、ペルーは鉱物資源が豊富で、
銀、銅、鉛、亜鉛の産出量で世界の上位を占めます。
石油も、昔から採掘されています。

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ウマラ大統領は「資源ナショナリズム」的な政策を表明しました。

資源ナショナリズムとは、
国内の資源を、(民間の企業ではなく)
国家が直接管理することによって、
国内にある豊富な資源を
「外交カード」(他国との有利な取引)
に使おうという考え方です。

「エネルギーはペルーの財産であり、
 国家が経営に参画し、その利益は国民に還元すべきだ」
と言って、原油や天然ガスの管理を国有化しました。

さらに天然ガスや銅、亜鉛などの
鉱山開発にかかわった外資系企業過去に対し、
過去にさかのぼって課税までしました。

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また、大統領は、
採掘権料を徴収して歳入を増やし、
そのお金を、「貧困対策のために使う」と約束しました。

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ウマラ大統領のこうした『急進左派』的な
(共産主義的・反資本主義的な)政策は、
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領や、
ボリビアのエボ・モラレス大統領などの、
南米の『反米左派』指導者の考え方に似ているとも言われています。

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現在ペルーは、
確実な経済成長が見込まれる国として注目を集めています。
2002年以降は、内需の拡大と輸出向け鉱産物の価格上昇によって、
年平均5%以上の成長率を記録しています。

又、ブラジルを始めとする中南米の近隣諸国との関係を強化する一方、
諸外国との(関税を撤廃する)自由貿易協定(FTA)の締結を
積極的に進めています。

こうした流れの中で、
2009年2月には、最大の貿易相手国である米国との間にFTAが発効されました。

また、2008年には、
APEC(アジア太平洋経済協力、21ヶ国・地域)の議長国を務め、
国際社会の中で自信と発言力を増してきています。

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このように、ペルーは現在、
(経済的には)『新興国』として成長しています。

一方で、(先住民などの)人種差別の問題や、
都市部と山間部の経済格差などがいまだ解決されていません。


さて、今後ペルーはどのように発展していくのでしょうか?
経済的な発展をしながら、
不平等や格差を、解消してゆくことは、できるのでそうか?


ペルーの子どもたちが描いた、「大切なもの」の絵を見ながら、
その子たちにとって、理想の未来は、どんな姿かを、
想像してみましょう。

また、そうした理想のペルーの姿にするために、
私たちにできることはないかを、いっしょに考えてみませんか?


あなた自身の「大切なもの」も、考えながら。


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・・・
・・・

絵と写真を集めた人:
澤田 輪香子
山本敏晴(2003年、2004年)

画像データを編集し、文章を書いた人:
澤田 輪香子
山本敏晴

編集完了日:
2012年4月2日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

posted by お絵描きイベント at 18:22| 日記