2012年01月29日

ミャンマー Myanmar

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ミャンマー(ビルマ)は、日本の約1.8倍の国土と、約5200万人の人口を擁し、インド、バングラデシュ、タイ、中国と隣接し、地政学上で要衝となる国です。
また、長年にわたって鎖国をしていたり、軍事政権下では諸外国から経済制裁を受けていたため、東南アジアでもっとも開発が遅れている国です。

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ミャンマーは古くから日本と強い結びつきをもちます。
たとえば、イギリスによる植民地支配を終わらせるのに日本軍が一役買いました。
また、日本が最初に政府開発援助(ODA)を開始したのがミャンマーでした。
さらに、ミャンマーでは日本の中古車や、日本の歌のカバーが大人気です。
このため、東南アジアでは珍しく親日的な国です。

この国の子どもたちが描いた大切なものの絵を見せてもらいましょう。

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・・・

民族構成は、ビルマ族が70%を占めますが、その他にもシャン族やカレン族など135の民族が居住しています。

公用語はミャンマー語(ビルマ語)です。

宗教は、ブッダの教えに忠実で、出家して修行を積むことによって涅槃にいたろうとする上座部仏教(南方伝来仏教)の信者が90%を占めますが、他にもキリスト教やイスラム教の信者もいます。
なお、日本の仏教は中国を経由して伝わった大乗仏教で、たとえば念仏を唱えることにより誰でも救済されると考えるなど、より大衆向けの教えになっています。


「僕は高僧を尊敬しています」

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日本では、竹山道雄著『ビルマの竪琴』という物語がよく知られています。
これは、太平洋戦争後、ビルマに駐留していた水島上等兵が出家してビルマに居残り、竪琴を片手に亡くなった日本兵を供養するという物語です。
しかし、この物語はフィクションで、上座部仏教は音楽などの娯楽を戒律で禁じています。

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・・・

古くから、ミャンマーにはピュー族やモン族などの民族が住んでいました。
そこに9世紀ごろからビルマ族が進出し、11世紀にはミャンマーではじめての統一王朝(パガン王朝)を作りました。
このとき、ビルマ族は、モン族の文化と上座部仏教を取り入れました。

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上座部仏教では、喜捨(寺や僧侶に寄付をすること)はよりよい来生をもたらすための功徳と考えられており、なかでもパゴダ(仏塔)を建設することが最大の功徳と考えられています。
このため、パガン王朝時代、ビルマ族はバガンで約2300にも及ぶパゴダを建設しました。
現在、バガンは、カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボルブドゥールとともに、仏教三大遺跡と呼ばれており、ミャンマーで最大の観光地となっています。


「私の大切なものはお寺です」

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13世紀末、元(フビライ・ハーン)の攻撃を受けてパガン王朝は滅亡しました。
以後、ミャンマーでは、ビルマ族、シャン族、モン族による勢力争いが繰り返されました。

1752年、ビルマ族最後の王朝であるコンバウン王朝が建国されました。
このコンバウン王朝は、モン族の本拠地バゴーを占領し、タイのアユタヤ王朝を滅ぼすなどして、一時はビルマ史上最大の勢力図を獲得しました。
しかし、1886年に、コンバウン王朝はインドを支配していたイギリスとの戦いに敗れ、滅亡しました。
この結果、ビルマはイギリス領インド帝国に併合されました。

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イギリスは、インドや中国からの移民を大量に受け入れて主要産業に従事させたのに対し、ビルマ族を小作人にさせました。
そのうえ、イギリス人をトップとし、インド人に行政を任せるとともに、キリスト教を布教したカレン族などの少数民族を警察・軍人として採用して大多数を占めるビルマ族を弾圧させました。

イギリスは、スリランカなど他の植民地でも少数民族を重用し、大多数を占める民族を弾圧させました。
これは、国民の怒りの矛先をイギリスではなく、少数民族に向けさせるのが狙いでした。
イギリスのこうした政策が、今も根深く残る民族紛争の原因となりました。


「僕は軍人になって国を守りたいです」

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第一次世界大戦が始めると、ビルマ族による対イギリス独立運動が活性化しました。
1942年、アウンサン将軍(アウンサンスーチー女史の父)率いるビルマ独立義勇軍が日本軍とともにイギリス軍を駆除しました。
そして、1943年にビルマ国を建国しましたが、これは日本の傀儡(かいらい)国家でした。

日本軍はインド北東部を攻略するインパール作戦を実施しましたが、歴史的な大敗を喫し、日本軍は衰退しました。
そこで、1945年、アウンサン将軍は、今度はイギリス軍と組んで日本軍を駆除しました。

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ところが、イギリスは、ビルマの独立を認めるという約束を反故にして、ビルマを再びイギリス領としました。

1948年、第二次世界大戦後イギリスの国力が低下したこともあり、ようやくビルマは独立を果たしました。

初代首相にはアウンサン将軍が就任する予定でしたが、独立の直前に暗殺されてしまいました。
そこで、アウンサン将軍を引き継ぐ形で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の総裁に就任したウー・ヌー氏がビルマの初代首相に就任しました。

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ビルマは独立しても、その政情は当初から不安定でした。
まず、中国国民党軍の残党がシャン州でゲリラ活動を繰り広げました。
また、ビルマ政府は上座部仏教を優遇したため、キリスト教徒の多いカレン族やカチン族、チン族などの少数民族が独立運動を繰り広げました。

そして、少数民族や中国国民党との戦いをするうちに、軍部が強大な政治的権力をもつようになりました。
そして、1962年、軍部の最大権力者であるネー・ウィン将軍がクーデターを起こして政権を握りました。


「ぼくは軍人になって国がバラバラに分裂するのを防ぎたいです」

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ネー・ウィン政権(1962−1988年)は、ビルマ式社会主義政策を標榜し、農業を除く主要産業の国有化を推進しました。
しかし、その経済政策は失敗の連続でした。
外貨が枯渇し、生産は停滞し、対外債務がかさむなどし、ミャンマーの経済は停滞しました。
1987年には、ミャンマーは国連によって世界の最貧国の一つと認定されてしまいました。

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そして、経済が悪化して国民の生活が苦しくなると、1988年に全国的な民主化要求デモが起きました。
このとき、民主化運動のシンボルとなったのがアウンサンスーチー女史(アウンサン将軍の長女)でした。
アウンサンスーチー女史が母親の看病のためにたまたまイギリスから帰国していたところ、建国の父アウンサン将軍の長女ということで民主化を求める国民から熱狂的に迎えられたのでした。


「私の大切なものは花の髪飾り(アウンサンスーチー女史がいつもつけている)です」

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民主化デモにより、ネー・ウィン政権は崩壊し、軍事政権が暫定的に政権をにぎりました。
軍事政権は、1989年、対外的な国名をそれまでの「ビルマ」から「ミャンマー」に変えました。
独立当時から、国内では「ミャンマー」という国名が使われていたのですが、対外的な国名を従来から使われていた国名に合わせたのです。
しかし、軍事政権に批判的な欧米のメディアは「ミャンマー」という国名を認めず、いまでも「ビルマ」という国名を使っています。

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1990年の総選挙では、民主化を求めるアウンサンスーチー女史が率いる国民民主連盟(NLD)が議会の過半数を占め、大勝しました。
しかし、軍事政権は民政移管のためには新しい憲法が必要となることを理由に、政権をNLDに委譲することを拒みました。
アウンサンスーチー女史は、総選挙後に軍事政権によって自宅に軟禁されましたが、自宅軟禁中の1991年、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の功績が称えられてノーベル平和賞を受賞しました。

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以後、軍事政権は、民主化要求デモが起きるたびにこれを弾圧し、アウンサンスーチー女史を軟禁するなどの人権侵害を繰り返しました。
これに対し、アメリカや日本などの諸外国はミャンマーに対してODAの新規案件を凍結するなどの経済制裁措置をとりました。

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2007年9月には、ガソリン代が高騰したのを引き金に国民の怒りが爆発し、僧侶を中心とした大規模なデモ(サフラン革命)が起きました。
このデモは、軍事政権により鎮圧され、日本人ジャーナリスト1人を含む多数の犠牲者をだしました。
この軍事政権の行動に対し、欧米諸国は経済制裁の強化を断行したため、ミャンマーの経済状態はますます悪化しました。

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そこに追い打ちをかけるように、2008年5月には、サイクロン「ナルギス」がミャンマーを直撃しました。
これは、東日本大震災の約7倍にあたる約14万人にのぼる死者・行方不明者の数を出し、そして240万人が被災するという大惨事となりました。

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そこで、軍事政権は、国内の経済を立て直すためには民主化が必要と判断し、ようやく民主化に向けて動き出しました。
大災害の後、すぐに新憲法が承認され、2010年には新憲法にもとづいた総選挙が実施されました。
2011年1月31日、23年ぶりに国会が召集され、軍事政権における最高決定機関である国家平和開発評議会(SPDC)が解散されました。
そして、2011年3月30日、ついに新政府が発足しました。

・・・

「私は軍事政権下で国が一つにまとまることが大切だと思います」

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ミャンマーの軍事政権が長年にわたって民主化を拒み続けていたのは、少数民族の反政府活動が勢いを増す恐れがあるからでした。
特に、カレン族は、ミャンマーが独立した翌年の1949年から『カレン民族同盟(KNU)』という軍事組織をつくってミャンマー政府と激しく対立してきました。
世界で最も長く続く内戦です。

ミャンマー政府は、カレン族の村を焼き討ちしたり、集団強姦などの民族浄化(少数民族を消滅させること)をすすめてきました。
このため、カレン族のなかには土地を追われて、難民となってタイ西部に移住する人が後を絶ちません。
いま、タイ西部には9つの難民キャンプがあり、これらの難民キャンプに暮らす難民の数は約15万人に達します。


「僕は祖国が恋しいです」

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ところが、その難民キャンプにもさまざまな問題があります。
難民はタイの法律上難民キャンプを出ることができず、ストレスに満ちた生活をすることになります。

そこで、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、難民キャンプで仮設住居や食糧、水を提供するとともに、タイ政府に対して政策提言をするなどして、難民キャンプでの生活レベルを向上させています。
また、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会は、難民キャンプに図書館を作り、読書を通じて難民たちの心を豊かにする活動をつづけています。
さらに、株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)は、不要になった衣類を集め、UNHCRを介して難民キャンプに届けています。

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2005年から、難民キャンプで暮らす難民たちをアメリカやヨーロッパ諸国などで受け入れる『第三国定住』が進められるようになりました。
日本は難民に対して閉鎖的な国と言われてきましたが、2010年度からカレン族難民の受け容れを試験的に始めています。
しかしながら、日本には難民同士のコミュニティが少ないうえに、言葉の問題や法的な不備も多いため、難民にとって日本で暮らすのは容易ではありません。
そこで、NPO法人・難民支援協会は、日本にきた難民の法的支援活動や、生活支援活動、難民のための政策提言活動などをしています。

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近年、ミャンマーで軍事政権から民政移譲したのにともない、民族紛争にも大きな変化がおきています。
2012年1月、カレン族とミャンマーの新政府は60年以上も続いた紛争の停止について合意しました。
そして、ミャンマーの新政府はカレン族の難民に対して故郷に戻るよう呼びかけています。

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・・・

とはいえ、ミャンマーの難民問題はカレン族だけではありません。
バングラデシュとの国境付近に住むイスラム教徒のロヒンギャ族の問題も深刻です。
ミャンマーの軍事政権は1990年代に民族の同化政策を強め、イスラム教徒であるロヒンギャ族を迫害しました。
この結果、多くのロヒンギャ族がバングラデシュにある難民キャンプに逃れました。
しかし、その一部は難民キャンプの劣悪な環境に耐えられず、ボートに乗ってタイやマレーシア、インドネシアなどに逃れていきます。
ところが、ロヒンギャ族は政治的な理由によって難民になったのではなく、経済的な理由によって難民となったとみなされているため、移住先でも受け入れられずに本国に強制送還されてしまいます。
そこで、認定NPO法人ブリッジ・エーシア・ジャパンは、帰還民が再び難民となって国外に流出しないように、村のインフラを整備したり、帰還民の女性に職業訓練を施す活動をしています。

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・・・

ミャンマーは麻薬の生産量がアフガニスタンに次いで世界二位です。
特に、タイとラオスとの国境付近の地域(黄金の三角地帯)では、大量のケシが栽培されており、そのケシを原料としてアヘンやヘロインなどの麻薬が生産されています。
こうした麻薬ビジネスは、シャン族の独立運動の活動資金となっていました。

「ぼくの大切なものはシャン族の民族衣装です」

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ミャンマー政府は、1996年、黄金の三角地帯を制圧しました。
そして、2002年にケシの栽培を禁止する法律をつくり、サトウキビ畑などへの転換を呼びかけました。
また、日本政府は、1997年より、ケシの代替作物としてソバを栽培して、できたソバを買い取るプロジェクトをすすめました。
この結果、ミャンマーにおけるケシの作付け面積は、2006年に過去15年間で最小値を記録しました。

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しかし、代替作物を栽培してもケシを栽培したときほど儲からないため、再びケシの栽培をはじめる農家が増加しています。
国連薬物犯罪事務所(UNODC)は、2010年のミャンマーにおけるケシの作付け面積が2006年に比べて77%増加していると報告しています。

麻薬を減らすためには、少数民族の貧困問題を解消することが鍵となります。
そこで、サンバード環境システム株式会社は、ケシの代替として栽培されたソバを日本で販売するフェアトレードを通じて、少数民族の貧困問題を解消しようとしています。

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「ぼくの大切なものは寺子屋です」

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ミャンマーは世界でもっとも開発の遅れている国の一つであるにもかかわらず、その成人識字率は約92%と高い数値を誇ります。
しかも、発展途上国では女性の成人識字率は男性の成人識字率より低くなる傾向がありますが、ミャンマーでは成人識字率に男女差がほとんどありません。
こうしたミャンマーの教育を支えているのが、各地の僧院にある寺子屋です。

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ミャンマーにも公立の小中学校などがありますが、机代や椅子代、給食代などの費用がかかり、貧しい家庭の子どもは学校に通うことができません。
これに対し、寺子屋は一般の人からお寺への寄付で成り立っているため、子どもは一切無料で勉強をすることができるのです。
NPO法人・メコン総合研究所は、日本で寄付金をつのり、こうした貧しい子どもたちが通うことのできる寺子屋をミャンマー各地で建設しています。


「あたしは先生かデザイナーになるのが夢です」

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ミャンマーは医療面で問題が山積しており、特に、エイズ・結核・マラリアが深刻です。
しかし、ミャンマーでは医師・看護師が極端に不足しており、しかも保険制度などの社会保障制度の整備も遅れているため、自国の力で解決するのは困難です。

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そこで、エイズ対策に対しては、日本政府は、献血によるエイズの拡大を防ぐために、献血者の登録システムを開発し、国内の主要な病院に導入しました。
また、NPO法人ジャパンハートは、ヤンゴン市内に子どもの養育施設をつくり、HIV感染の原因となるタイへの出稼ぎ売春・人身売買がさかんな村から、これらの問題の犠牲となる可能性のある子どもたちをひきとっています。

また、結核対策に関しては、日本政府は、ミャンマー政府と協力して新たな治療活動の導入や住民への健康教育活動をしました。

さらに、マラリア対策に関しては、日本政府は、マラリア感染率の高い地域で蚊帳を普及させたり、簡易診断キットや抗マラリア剤の導入を行いました。


「あたしの夢は看護婦になることなの」

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ミャンマーでは乳幼児死亡率も高くなっており、その理由の一つとしてポリオ(小児マヒ)があげられます。

そこで、日本政府や「認定NPO法人・世界の子どもにワクチンを(JCV)」は、UNICEF(国連児童基金)を通じてミャンマーの5歳以下の子どもたちに継続的にワクチンを提供しています。
また、株式会社ガリバーインターナショナルは、中古車が一台売れるたびにワクチン1本分の寄付をJCVにしています。
この結果、2001年からしばらくポリオの発症が見られず、一度はポリオ撲滅宣言をしました。
ただし、近年、近隣諸国から輸入されたものとみられる発症例が報告されており、今後も経過観察が必要となりそうです。

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ミャンマーは、欧米諸国から経済制裁を科されたこともあり、世界経済から取り残されていました。
しかし、民政移譲を機に、欧米諸国による経済制裁は解除される見込みです。

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ミャンマーが国際社会に復帰したいま、ミャンマーは様々な魅力を秘めています。
まず、ミャンマーでは、米などの農作物や、チーク材などの天然資源、石油・天然ガス、宝石などの地下資源が豊富にとれます。
また、ミャンマーでは安い人件費で優秀な人材を雇うことができます。
このため、今後欧米諸国の企業がこぞってミャンマーに進出すると思われます。
ミャンマーの雇用は増加し、経済は活性化する見込みです。

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民政移譲を機にミャンマーの経済は成長すると見込まれますが、その一方でミャンマーの豊かな自然が破壊される懸念があります。
ミャンマーは東南アジアのなかで手つかずの森林を最も豊富に擁する国で、その森林にはトラやゾウなどの絶滅危惧種が多く生息しています。
しかし、近年、タイの伐採業者による森林伐採や、人口増加による過剰な焼き畑により、森林面積が急速に減少しています。

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そこで、日本政府は、森林保全をするためのレンジャーを養成したり、村落での有機作物の収穫を効率的にする活動をしています。
また、NPO法人・地球市民の会は、森林伐採によって木がなくなった地区の森林を再生させたり、土着菌を用いた循環型農業のデモファームを運営するなどして持続可能な村づくりを試みています。


「私の大切なものは自然とミャンマーの文化です」

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一方で、民政移譲を機に自然環境が保護される兆しもみられます。
ミャンマー政府は中国と共同でイラワディ川に水力発電ダムを建設する予定でした。
しかし、発電した電力の9割が中国に供給されることや、生態系が破壊されること、さらに5千人が移転を強いられることから、アウンサンスーチー女史らが建設に反対していました。
すると、新政府のテイン・セイン大統領は、「国民の反対」を理由にダム建設の中止を決定しました。
軍事政権下ではとても考えられなかったことで、国内外に驚きの声があがりました。

・・・

「わたしは軍事政権を敬います」

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ミャンマーというと軍事政権を連想し、「怖い」というイメージをもつ人が多いのではないでしょうか。
しかし、実際にミャンマーに行ってみると、日本よりも安全なくらいで、紛争地域に行かない限り、テロの危険だってほとんどありません。
また、国民はみな素朴で親切、そして、とても幸せそうな笑顔をみせてくれます。
その点、同じ軍事政権とはいえ北朝鮮や戦争前のイラクとは異なります。

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そして、ミャンマーは、民政移譲を機に大きく変貌を遂げようとしています。
たとえば、ミャンマーは、2014年にはASEAN(東南アジア諸国連合)の議長国となることが承認されました。
民政移譲を機に国際社会に復帰したことがASEANから認められたのです。

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これまでミャンマーは国際社会から孤立し、世界でもっとも開発の遅れている国の一つに数えられてきました。
しかし、民政移譲を機に、今後ミャンマーで急速に開発が進むと思われます。

あなたもミャンマーで国際協力をしてみませんか?
きっと、とびきりの笑顔が迎えてくれますよ。

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・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
山本敏晴

画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明

編集完了日:
2012年2月5日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

posted by お絵描きイベント at 13:22| 日記

2012年01月27日

コソボ Kosovo

コソボ共和国は、
ヨーロッパの南東部にある
バルカン半島の中心に位置する国です。

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「私の大切なものは、地球です。
そして、この地球をこの先もずっと守っていくことです。」
この絵を描いたのは、Elmedima Bajrame、14歳の女の子です。

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この国は、2008年に2月にセルビア共和国から独立を果たした、
世界で二番目に新しい国です(2012年2月現在)。
人口は約200万人、
国の面積は、日本の岐阜県と同じくらいです。

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(コソボ周辺の地図:外務省ホームページより)

オレンジ色の国がコソボです。
首都はプリシュティナにあります。

国民は、ほとんどがアルバニア人で、
そのほか、セルビア人やトルコ人などの民族がいます。

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主な言語として、アルバニア人はアルバニア語、
セルビア人はセルビア語を話します。

アルバニア人はイスラム教、
セルビア人はキリスト教宗派の一つであるセルビア正教を信じています。

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国の主な産業は、商業などのサービス業、
大麦や小麦、トウモロコシなどの農業で、
褐炭(石炭の一種)、亜鉛などの鉱物資源ももっています。



・・・

現在のコソボがある土地は、
以前、セルビア王国があった場所の一部、南端でした。

6〜7世紀以前の時代は、アルバニア系の先住民が住んでいた
とされるこの地ですが、
7世紀に、東からセルビア人や別の民族がやってきて、
この土地を統治しました。

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12〜13世紀になると、
セルビア人はここにセルビア王国を建て、
この地をセルビア正教の発祥の地としました。
セルビア王国とセルビア正教が誕生した地であるコソボは、
セルビア人にとって神聖で大切な場所となりました。

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ところが、14世紀にイスラム国家のオスマン帝国が
セルビア王国に勝利すると
オスマン帝国はイスラム教徒であるアルバニア人を
コソボへ連れてやってきました。

コソボにアルバニア人が多く住むようになった理由は、
このオスマン帝国によるアルバニア人の移住でした。
20世紀になるとセルビアはコソボを奪い返したのですが、
そのころには、コソボ人口のほとんどを
アルバニア人が占める状況になっていました。

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この民族構成の変化が、
今に至るまでコソボの抱える大きな問題を生み出しました。
コソボの土地を支配するのはセルビア政府ですが、
そこに暮らすのはほとんどがアルバニア人であるため、
セルビア人とアルバニア人の間に対立ができたり、不平等が生じて、
お互いの仲がうまくいかなくなってしまったのです。

この状況を「不公平だ!」と感じたアルバニア人は、
自分たちの力でセルビアから独立をしようと動き、
1990年に独立宣言をするところまでこぎ着けたのですが、
歴史上、セルビア王国とセルビア正教が生まれた
大事な場所を失いたくなかったセルビア政府は、
アルバニア人による独立運動を力づくで抑えようとしました。

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セルビア政府は、人々がアルバニア語を話すことを制限し、
軍隊をつかってアルバニア人の独立集会や反政府運動を
やめさせました。
また、セルビア政府は確かな理由もなしにアルバニア人を捕まえて
殺害しました。
すると、アルバニア人も武力を備えた組織をつくり、
セルビア人への仕返しとして、攻撃、殺害など
残酷な行為をしました。
対立はさらに暴力的な闘争へとエスカレートし、
コソボの治安は急激に悪くなりました。

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ヨーロッパ地域にあるコソボがこのような状態になっていることを
危険と感じたNATO(北大西洋条約機構
=ヨーロッパの国々と北アメリカとによる軍事同盟)は、
セルビアを爆弾で攻撃し武力で争いを止めようとしました。
1996年から1999年に起こったこの紛争を、「コソボ紛争」といいます。

NATOによる爆弾攻撃の結果、
セルビア側の軍隊がコソボから撤退すると、
国連がコソボの政治を行うことになりました。

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その後、2008年にコソボ共和国は独立し、
2011年5月現在、75ヵ国がコソボを国として承認しました。
国づくりは始まったばかりで、
解決するべき課題は多くありますが、
コソボは新しい時代を切り開き、歩みだしました。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「平和と、人種を越えて自由に人を愛せることです。」
この絵を描いたのは、Ardianna Azemi、14歳の女の子です。

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この子は、「自分の大切なもの」として、
PEACE(平和)の文字と、
愛をあらわすハート、
そして、
「それぞれの指の色(肌色)が異なっている手」
を描きました。


「あなたの大切なものは何ですか?」

「世代を越えて、みんなが一緒に暮らせることです。」
この絵を描いたのは、Drilona Sejgiu、14歳の女の子です。

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 120(80)a-thumbnail2.jpg KSV_053a.jpg)




この子は、絵の右側から、
子どもたち、おじいさん、お父さんお母さん、
車椅子に乗っているおばあさんや、おじさんというふうに、
何世代もの人が家族一緒に暮らす様子を描きました。

コソボがその歴史を歩むなかで直面してきた、
民族同士の対立は、コソボという国にとって大きな問題です。
セルビア人とアルバニア人の争いは、
コソボ紛争という悲惨な結果を招いてしまいました。

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争いにより多くの人が命を落とすなかで、
NATOはセルビアの軍隊をコソボから撤収させました。
しかし、紛争で心も体もボロボロになってしまった人々は
不安でいっぱいです。

「どのようにしたら、
これからのコソボを平和にすることができるだろうか。」
ということを相談するため、
国連安全保障理事会は会議を開きました。

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国連安全保障理事会はこの話し合いにおいて、
国連コソボ暫定行政ミッションをつくり、
混乱状態にあるコソボの政治を、しばらくの間は国連が行う
ことを決めました。

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国連コソボ暫定行政ミッションは、
主に以下4つの範囲に関して、プロジェクトを行いました。
1.人道(人間の苦痛を取り除くこと):
  紛争により被害を受けた人に家や食べ物、医療を提供したり、
  地中に埋まっている地雷を取り除くこと
2.臨時統治:
  雇用、教育、運輸、清掃、警察と消防、郵便と通信など、
  コソボで生活する人々にとって必要なことをすべて指揮すること
3.組織と制度づくり:
  人材育成を行い、選挙を実施し、国の民主化を進めること
4.復興:
  コソボの経済を立て直すために土台をつくること

国連コソボ暫定行政ミッションは、
コソボを少しずつ回復させ、独立への大きな力をもたらしました。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「国が豊かになることです。」
この絵を描いたのは、Gemtrii Veliu、12歳の男の子です。

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もともとセルビア共和国の一部だったコソボは、
(実際は)経済的に、
セルビアから助けられていた面もありました。

コソボは、独立した現在も自分たちの力で経済を成り立たせることが
難しく、多くの国民の生活が、外国からの支援に頼っているのが現状です。

国の主な産業である農業は、
ほとんどが家族で経営している小さな規模のものです。
コソボには鉱物資源があるのですが、
コソボ政府は、まだ有効に活用できていません。
この結果、コソボの経済状況は赤字が続いています。

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人口の7割は35歳以下の若者です。
ところが、彼らには、仕事がなく、
失業率が非常に高い状態です。
このため、国は税収を得ることができず、
国家予算は、赤字になっています。

長い紛争を乗り越え、独立を果たし、
これから国をつくっていくコソボにとって、
経済を成長させることが重要な課題です。

株式会社ウイは、コソボが経済的に自立することを目指して、
コソボワイン事業をはじめました。

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コソボは、降り注ぐ太陽の光とぶどう育成に適した気候によって、
品質の高いワインを生産しています。
現在コソボは、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国へ
ワインを輸出していますが、
この会社は、コソボワインを日本へ輸入し、
紹介、販売をすることで、
コソボと日本における架け橋の役割を果たしています。

また、この活動による利益の一部は、
コソボへ送られ、子どもたちへの支援となる予定です。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「学ぶことのできる機会と、たくさん勉強して将来大学に行くことです。」
この絵を描いたのは、Dorentina Gashi、14歳の女の子です。

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子どもたちが教育を受ける場である学校でも、
異なる民族が争いをせず一緒に学べるかということが、
課題となっています。

これをうけて、
国連児童基金(UNICEF)は、
複数の民族が通う小学校の支援をしています。

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コソボの首都プリシュティナに、エレナジカ小学校という学校があります。
紛争が起こるまで、この地域ではアルバニア人(イスラム教、多数民族)、
セルビア人(セルビア正教、少数民族)、そしてトルコ人というふうに、
違う民族の子どもたちが一緒に勉強をしていました。

ところが、
1989年にセルビア人を優遇する政策をセルビア共和国がはじめると、
エレナジカ小学校では、
人数としては少ない側であるセルビア人の先生と子どもたちが
学校施設のほとんどを使い、
大人数であるアルバニア人の先生と子どもたちは
少ない教室を交代制で使わなくてはならなくなりました。

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すると、これを不平等だと感じたアルバニア人が、
逆に、セルビア人やほかの少数民族を迫害し、
お互いが相手を傷つけるようになりました。
エレナジカ小学校は学校を続けられなくなってしまいました。

このように、教育の場面でも、
もともと同じ場所で学んでいた民族の仲が悪化するなか、
エレナジカ小学校の先生たちはどうすれば、
学校をもう一度はじめることができるか話し合いを重ねました。

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コソボ紛争の結果、セルビア人は他の国へ避難したため、
学校に戻ることはなかったのですが、
国が紛争をしている時に、セルビアの側についたトルコ系の人々は、
学校が再開したとしても、
アルバニア人は自分たちと仲良くしてくれないのではないだろうか
と心配しました。

「紛争での対立でお互いに辛い思いをしたけれど、
これからは、子どもたちのこと、未来のことを考えよう。
もう一度、みんなが同じ場所で勉強できる環境をつくろう。」
そう呼びかける先生と、子どもたち、保護者が努力した結果、
エレナジカ小学校は、アルバニア人もトルコ人も一緒に学ぶ場として
再開校することができました。

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国連児童基金は、民族の壁を乗り越えたエレナジカ小学校における
教育の仕方や、授業内容をさらに広い地域に伝える活動をしています。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「赤ちゃんです。
一生懸命生まれてきてくれたから、うれしいです。」
この絵を描いたのは、Aojrare、5歳の女の子(写真左側)です。

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コソボ紛争により、多くの死者、難民がうまれました。
また、病院や診療所、薬局などの医療機関もほとんど壊れてしまいました。

これをうけて、
NPO 日本医療救援機構は、コソボの医療支援プロジェクトを行いました。
日本医療救援機構は、破壊の状況が特にひどい地域に向かい、
治療に必要な医療器具や薬を人々にあげたり、
診療所を建て直したりしました。

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これにより、
医療を受けられなかったコソボの人々が
治療の望みをもてるようになりました。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、世界保健機関(WHO)、
国連コソボ暫定行政ミッションは、
日本医療救援機構の活動を高く評価しました。

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この評価により日本医療救援機構は、
医療支援プロジェクトの運営をコソボ現地の医療組織へ引き継ぎ、
現地の人々が自分たちの力でプロジェクトを続けられる体制を
つくることができました。
国連コソボ暫定行政ミッションと現地の市は、
日本医療救援機構に感謝状を贈りました。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「僕たちが生きる地球です。」
この絵を描いたのは、Zeqir Sekiraqa、14歳の男の子です。

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国づくりをはじめたばかりのコソボは、
経済面での復興に力を注いだため、
環境の分野における活動はあまりしてきませんでした。

そのため、環境問題に関する課題がたくさんあります。
環境問題の中でも、コソボで特に深刻な問題となっていたのが、
廃棄物の管理でした。

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コソボでは、ごみ収集車が古くなったり足りないことで、
ごみを回収する効率が悪くなりました。
しかも、コソボの首都やそのほかの都市では、
人口が急激に増えているため、ごみの収集が追いつきません。
ごみ問題への対応を少しでも早く行うことが必要です。

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これをうけて、国際協力機構(JICA)は、
環境やエネルギーに関する日本の技術を
コソボの人々に伝える活動を行っています。

この計画は、
1.ごみが出るときに進む環境汚染を少しでも抑えること
2.コソボにおけるごみ収集の仕組みを改善すること
3.ごみを減らして(Reduce)、再利用して(Reuse)、
  再資源化する(Recycle)という「3R」を実践すること
により、環境に負担をかけない国づくりを目指しています。



・・・

おわりに。

コソボの子どもたちが描いてくれた、
100枚近くに及ぶ絵を見ていて、
future(未来)という言葉が何度も目に入りました。

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「大切なものは何ですか?」ときかれて、
大切なものは、未来である、
私たちがつくりあげていくこれからのことである
という言葉がすぐに浮かぶ子どもたち。

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コソボの未来を導く子どもたちと、
彼ら彼女らが描く活き活きとした絵から
真剣な、明るい、希望に満ちた力を、筆者は強く感じました。





・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
安田 弓

画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織

編集完了日:
2012年3月23日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

posted by お絵描きイベント at 09:50| 日記

2012年01月23日

モロッコ Morocco

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モロッコ王国、通称モロッコはアフリカ大陸北方の国の中で唯一の王国です。
アフリカ大陸の北西端に位置しており、
面積は西サハラを除いて44.6万平方キロメートル。
日本のおよそ1.2倍に相当します。

人口は3,199万人(2009年時点)で、日本の4分の1程度です。
首都はラバトで、民族はアラブ人、ベルベル人、
そして両者の混血の人々が暮らしています。


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公用語はアラビア語とフランス語です。
フランス語は、モロッコが昔
フランスの保護国であったという歴史に関係しています。


「あなたの大切なものはなんですか?」


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「ぼくの大切なものはモスクです。
イスラム教徒としてお祈りはかかせません。」


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国が定めている宗教はイスラム教で、
国民の99%がイスラム教のスンニ派です。
しかし、国がキリスト教もユダヤ教も禁止をしていないことから、
穏健的なイスラム国家として、イスラエルとも良好な関係を維持しており、
中東和平に大きな役割を果たしています。

また、世界遺産でもあり、国内外から多くの観光客が集まる都市、
マラケシュの旧市街には、クトゥビーヤ・モスクという
市内で最も大きく、有名なモスクがあります。
これらの歴史的な建物は、国内経済の中心に観光業をおいているモロッコにとって
とても重要な存在になっています。


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産業の面では水産業とリンを中心とする鉱業がさかんです。
この両方で日本政府はモロッコの支援をしてきました。
特に水産業では、水産物の加工や
海運に関わる船員の教育などに力を入れてきました。

こうした取り組みは、モロッコの技術向上に限らず
日本との良好な外交関係作りに大きく影響を与えてきました。


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また、モロッコは日本から学んだ
漁業や水産物加工の技術を
更に他のアフリカ諸国に教えてあげています。



「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは車です。
お買い物に行くのに便利だからです。」


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モロッコは日本と同じく、石油や天然ガスなどのを持たない国です。
そのため、エネルギー需要の95%を輸入に頼っています。
一方で、経済発展によりエネルギー需要は年々増してきています。

そこで、モロッコ政府はエネルギー源の多様化や
エネルギー依存の軽減等を目指して、新しいエネルギー資源を求めており、
太陽光発電に積極的に着手し始めました。


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これを受け、世界銀行はモロッコの太陽光発電プロジェクトに対する
4,320万ドルの融資を承認しました。

また、この計画の先駆けとなったのは、平成21年におこなわれた
日本のODAによる「太陽光を活用したクリーンエネルギー導入計画」です。
今後も、低炭素社会の実現を目指すため、日本の優れた環境関連技術を
活用し、このような取組の支援が進められようとしています。


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順調な経済発展をしているモロッコですが
その理由の1つとして欧州市場へのアクセス(地理的な近さ)の良さがあげられます。

特にフランスとは、かつてモロッコがフランスの保護領だったという
歴史的な関わりから、モロッコにとって最大の貿易相手国になっています。
モロッコは、経済のグローバル化を進めているのです。



「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは道路です。」



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経済のグローバル化は進んでいますが、それを阻む現状もあります。
モロッコは地方の高速道路や鉄道網の整備といった
基幹インフラ整備が不十分なのです。

そのため、国内外での人の移動やモノの流通が
うまくいっておりません。
またこの問題は、地域間の格差を広げる要因ともなっており、
バランスのとれた経済・産業促進が大きな課題となっています。


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そこで毎年、ローカルNGOが地方インフラの整備にあたっています。
このローカルNGOの活動には「草の根・人間の安全保障無償資金協力」
の制度として、日本は在外公館が中心となって資金協力を行っています。



「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは学校です。
みんなで勉強するのが好きです。」


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地域格差があるのは経済面だけではありません。
モロッコでは、教育面でも大きな格差があるのです。
例えば地方の識字率の低さがそれを物語っています。
以下は、モロッコの識字率のデータです。

全国平均→57%
都市→71%
地方→40%
※2004年時点

これらの識字率の低さは年々改善されていっていますが
いぜんとして地域格差は埋まらないままです。

これは、社会・経済的格差によるものです。
人口の約14%が貧困にあえぐモロッコでは
そのしわ寄せが、児童労働などによって
子どもにまでのしかかっているのです。


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また、就学率における格差も大きいです。
都市部を中心とする富裕層は、大卒であるのが当たり前ですが
それに対し、地方での就学状況はけして良くありません。
モロッコの小学校入学率は90%を超えるものの
6年生になるまでには10人に4人は小学校をやめてしまう現状です。
その理由としては、学校教育の質の低さにあると言われています。


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そこで、この現状を少しでも改善しようとユニセフは
【子どもにやさしい学校】づくりを支援しています。

この支援は、学校と地域が一体になり
自らで学校教育の問題点と、その改善方法を考え
計画・実行していくことをを促すものです。

例えば、文字を理解できないことが学校をやめてしまう
理由の1つにあげられ、
学校や親が自ら動き、改善をはかっている学校もあります。


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ただ支援をするのではなく
自立するための手段を教える……
そんなカタチの支援が今、おこなわれているのです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは病院です。」


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経済、教育と並んで地域格差が大きいのが医療です。
モロッコは妊産婦死亡率が高い国で、全国平均が10万人中227人と
隣国チュニジアの平均45人と比べるとその悲惨さがわかります。

特に地方村落部の死亡率は高く、都市部と比べ1.5倍も多いという現状です。
その最大の理由として、地方の公的医療機関の設備
技術水準の低さがあげられます。


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そこで、対策として作られたのが「女性健康手帳」です。
これは、日本政府の無償資金協力によって来日したモロッコ人医師が
日本の母子健康手帳を参考にし、モロッコ女性のための健康手帳を
作りたいという報告書を提出したのがはじまりでした。

この報告書に保健省大臣が賛同したのを機会に、日本の専門家と
モロッコ人研修員たちが共同で原案を作成しました。
更にこの原案によってUNFPA(国連人口基金)から200万円の資金を獲得し
半年後には女性健康手帳の完成にいたりました。


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この女性健康手帳には、妊婦の血液型や妊娠中の経過などの情報が
記録されており、輸血対応の迅速化や問題の早期発見等
妊産婦ケアの質の向上につながりました。
また、地方では数の足りない助産師の負担の軽減など
具体的改善点がすでにいくつもあげられています。



「あなたの大切なものはなんですか?」


「ぼくの大切なものは国王です。
貧困のない国にしてくれるのを期待してます。」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 Moro_17_a.jpg 17_omaru_11_a.jpg)





これまでに紹介した経済、教育、医療、あらゆる地域格差の是正のために
1999年に即位したモハメット6世国王は
貧困撲滅、失業・雇用等の社会問題や
教育問題といった国民に軸足を置いた政策をかかげました。

今、モロッコでは、この国民の立場に立つことのできる
国王に期待の目がそそがれています。


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また、国王は地域格差だけでなく
男女格差の改善をするような方針も打ち出しています。

しかし、他の中東諸国と比べると、その格差は次第に縮まりつつあります。
特に1993年にモロッコ政府が「女性差別撤廃条約」に批准したことが
大きく、また、1990年以降女性の不利な立場を改善するために
憲法の改正などもおこなっています。



「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは技術です。
美しい織物のマットを作れるようになりたいです。」


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進みつつある女性の社会進出ですが、
それでも農村部の女性の就業率は低く、問題になっています。
ここでも地域格差があるのです。

そこで、彼女たちが持つ伝統的な技術で作られた商品を
公正な価格で買い取り、販売するフェアトレードの動きがいくつもあります。


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日本のフェアトレードショップ「サハラへの道」も
ベルベル族の人々の作った織物のマットの販売を通し
彼女たち自立を支援しているお店の一つです。


「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは木です。」


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サハラ砂漠を持つモロッコで忘れてはならないのは、
降雨量が少ないがゆえの砂漠化問題です。
この砂漠化を防ぐのに重要な役割を担っているのが
乾燥に強いアルガンツリーです。アルガンツリーはサハラ砂漠で唯一、
自生している植物で、かつてはモロッコ全土に生息していました。
しかしこのアルガンツリーも開墾のための伐採で数が減少しています。


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そこで、活動の利益の一部をアルガンツリーの
植林活動に使用している組合があります。
モロッコの女性達による、タルガニン生産協同組合です。
アルガンツリーからとれるアルガンオイルを生産して利益を得ており、
この活動は、女性の社会的地位向上を促すものになっているのと同時に
得られた利益の一部を、女性達の職業・識字教育などにも使用しています。


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また、日本の企業である株式会社ニュートリションアクトは
タルガニン生産協同組合から購入したアルガンオイルを使った
化粧品を販売し、間接的に砂漠化防止やモロッコの女性を支援しています。

アルガンツリーを守ることは地球の砂漠化を防ぐと共に、
女性の社会進出と雇用創出の大きな役割も担っているのです。



「あなたの大切なものはなんですか?」


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「わたしの大切なものは花のある平和なモロッコです。」


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最後に、サハラ砂漠と関連して、モロッコにとって
大きな問題となっているのは西サハラ問題です。

スペイン統治後の1975年、西サハラと国境を接するモロッコとモーリタニアが
西サハラの分割統治を始めた所、それに対抗して独立を目指す
「ポリサリオ戦線」がサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言しました。


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それを引き金に、モーリタニアは領有権を放棄しましたが
それを機会にモロッコは西サハラ全域を占領し、
モロッコとポリサリオ戦線の対立は激化。激しい闘争が行われました。

1988年に国連の仲介で、独立かモロッコに帰属か
住民投票で決するという和平案でモロッコとポリサリオ戦線は
停戦に合意したものの、未だに住民投票は行われず、
膠着状態が続いており、この問題は未解決のままです。


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また、西サハラには「砂の壁」と呼ばれる2000キロにも及ぶ
モロッコ軍がサハラ砂漠の砂を高さ数メートルに積み上げて作った
西サハラ領域内を南北に貫く軍事的な境界線があります。
この周辺は鉄条網と多くの地雷で防御されており
これらによって負傷・死亡する人々が絶えません。

この問題が解決し、西サハラの人々に一刻も早く
平和が訪れることを筆者は願います。


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このように、貧困問題や地域格差、男女格差、西サハラ問題など
まだ多くの問題を抱えているモロッコですが、
それらの問題は他国の協力を得て、少しずつ解決に向かっています。
そしてそれは、経済発展にも繋がっているのです。

モロッコがこれから、独自でアフリカ諸国を支援するような
自立した国になればいいなと筆者は思います。





・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
森 やよい(2007年)

画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部 加奈

編集完了日:
2012年1月30日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

上記に掲載された写真のうち、
人物が写っていない写真の一部は、
以下のサイトから提供されたものもあります。
トリップアドバイザー
http://www.tripadvisor.jp/

また、上記に掲載された地図は
以下の無料画像サイトから提供されました。
白地図専門店
http://www.freemap.jp/

posted by お絵描きイベント at 20:20| 日記

2012年01月16日

アメリカ合衆国 USA(United States of America)

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アメリカは、50州他から成る連邦国家で、国土面積と人口が世界第3位、経済規模は世界第1位を誇る超大国です。
アメリカの国内総生産(GDP)は、世界の2割強を占めます。
また、アメリカは世界の70か国以上に基地を建設し、圧倒的な軍事力を誇ります。
ストックホルム国際平和研究所がまとめたデータによると、2010年のアメリカの軍事費は6980億ドルで世界の44%を占めました。

この国の子どもたちが描いた大切なものを見せてもらいましょう。

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・・・

アメリカでは公用語は定められていないものの、英語が広く使用されています。
宗教はキリスト教が主流で、少数ながらユダヤ教やイスラム教などの信徒もいます。

アメリカはもともと、ヨーロッパからの移民が建国したこともあり、様々な人種が共存する多民族国家です。
民族構成は、白人が約72%、アフリカ系が約13%、アジア系が約5%、アメリカ先住民系が約1%などを占めます。
近年、中南米からスペイン語を母国語とするヒスパニック系移民が急増しており、21世紀の半ばには非ヒスパニック系白人の割合は半分を割ると予想されています。

「私の大切なものは祖国プエルトリコです」

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・・・

では、アメリカの歴史を振り返りましょう。

3〜1万年前の氷河期、モンゴロイドたちがユーラシア大陸から凍結したベーリング海峡の上をわたってアメリカ大陸にやってきました。
これがアメリカ先住民で、我々日本人と似た身体的特徴を備えています。

1492年、スペインのクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見すると、ヨーロッパから多くの人たちがアメリカ大陸に移住するようになりました。
以後、アメリカの東海岸はヨーロッパ諸国の植民地となっていましたが、1775年にイギリス領の13植民地が独立戦争を起こし、翌1776年7月4日に独立を宣言、1783年にはイギリスから独立が認められました。

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当時のヨーロッパでは悪天候のためにたびたび飢饉がおきました。
特に、1845−1849年にはヨーロッパ全土でジャガイモの疫病が流行し、人口の20%以上が餓死しました。
そこで、祖国で生活できなくなった人たちが新天地を求めてアメリカに移住するようになりました。
アメリカの人口は急増し、これが引き金になって19世紀の西部開拓へとつながりました。
1803年にはフランスからルイジアナを買収すると、領土を西へとひろげ、1848年にはメキシコとの戦争の末に西海岸にあるカリフォルニアも取り込みました。
その後、1867年にはロシアからアラスカを買収し、1898年にはハワイを併合するとともに、スペインとの戦争に勝ってフィリピン、グアム、プエルトリコなどを植民地にしました。

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アメリカは西部開拓によって広大な国土と豊富な天然資源を獲得し、イギリスを抜いて世界一の工業国になりました。
しかし、それは先住民たちにとっては涙の歴史です。
1860、1870年代には、先住民族たちによる蜂起が相次いでおきましたが、いずれも鎮圧され、先住民たちは不毛の土地(居留地)に強制移住させられました。
こうした行為は、著名なジャーナリスト(ジョン・オサリバン)が主張した以下の言葉によって正当化されました。
「神が与えた大陸全体を所有するのは、明白な使命である」

コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、アメリカ合衆国にいた先住民は約150万人と推定されていますが、1920年には約35万人に激減しています。
ジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』を観ると、侵略された先住民の立場を感じることができます。

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・・・

アメリカは国土が拡がるにつれ、南部の大農場で労働力が必要になり、アフリカから黒人奴隷が連れてこられるようになりました。
1808年に奴隷輸入が禁止されるまで、約50万人もの奴隷が輸入されたといわれています。
他方、北部には大農場がほとんどないため、黒人奴隷などの労働力は必要なく、北部を中心に人権意識が高まると奴隷制度に反対する動きが広がりました。
そして、1861年には、奴隷制度の廃止を求める北部と、それに反発する南部とが争う『南北戦争』が勃発しました。
1863年、北部に所属するリンカーン大統領は、「人民の、人民による、人民のための政治」という一説が有名な演説をしました。
1865年に北部が勝利をおさめると、黒人たちは奴隷から解放され、選挙権が与えられるようになりました。

「私は幸せになりたいです」

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しかし、南部諸州では黒人たちに対する差別が根強く残り、学校や交通機関などさまざまな公共施設が白人と黒人とで分けられたり、白人と黒人との結婚を禁じたなど、人種差別的な法律がつくられました。
民間レベルでも、KKK(クー・クラックス・クラン)など白人至上主義を主張する団体が結成され、同じ思想を持つ警察官による黒人の不当逮捕や裁判所による冤罪が多発しました。

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時がたって1955年、アラバマ州の州都モンゴメリー市で、黒人女性がバスの座席を白人に譲らなかったのが原因で逮捕される事件がおきました。
そこで、キング牧師はインドのマハトマ・ガンディーの非暴力運動を参考にして、モンゴメリー市に住む黒人たちに対してバスをボイコットするよう呼びかけました。
同時に、キング牧師は、バスの人種差別は違憲であると連邦裁判所に訴え、翌年、裁判に勝ってバスの人種差別は禁止されました。

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その後、キング牧師の非暴力運動に触発されるようにして、全米各地で人種差別の撤廃を求める公民権運動が広がり、1964年には人種や宗教による差別を禁止する『公民権法』が制定されました。
キング牧師はこうした人種差別撤廃の取り組みが評価され、1964年にノーベル平和賞を受賞しました。
その翌年、キング牧師は暗殺されましたが、キング牧師の誕生日は祝日となりました。

そのキング牧師が1963年にした『私には夢がある』というスピーチに、以下の一説があります。
「私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。」


「私の大切なものは家族です」

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公民権法が制定されたとはいえ、黒人に対する差別は今も残っています。
都市の黒人街に住む子供の多くが貧しくて満足な教育を受けることができません。
この結果、黒人の犯罪率はきわめて高くなっているという現実があります。
一方で、2009年には、バラク・オバマ氏が黒人として初めてアメリカ大統領に就任するなど新しい動きもあります。

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・・・

アメリカは、独立以来、アメリカ大陸を勢力下におくかわりに、ヨーロッパには干渉しないという姿勢をとりました(モンロー主義)。

1914年に勃発した第一次世界大戦でも、アメリカは中立的な姿勢をとっていましたが、アメリカの船がドイツの潜水艦によってたびたび攻撃されると、連合国として参戦に踏み切りました。
以後、アメリカは軍事大国として国際社会での存在感を強めるとともに、世界一の経済大国となりました。

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ところが、1929年10月24日に株価が一斉暴落したのを皮切りに、アメリカの経済は一気に停滞しました。
国が主導して公共事業を増やすことにより雇用を創出する『ニューディール政策』を実施したものの、持続的な効果は得られませんでした。
しかし、1939年からの第二次世界大戦の特需により、軍需産業を中心としてアメリカの経済は息を吹き返しました。

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第二次世界大戦でも、当初アメリカは中立的な立場をとりましたが、1941年に日本による真珠湾攻撃がおきたのをきっかけに、連合国として参戦しました。
序盤は日本軍に押されていましたが、1942年6月のミッドウェー海戦で勝利を収めて形勢逆転しました。
そして、1945年8月に広島と長崎に原子爆弾を投下し、アメリカは日本に勝ちました。

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原爆投下は、軍人と民間人を無差別に殺してしまうため、明らかな国際法違反です。
しかし、アメリカの歴史の教科書では「終戦を早めるのに役立った」と記載されているため、アメリカ人の約6割が原爆投下を正当な行為であると考えています。
ただし、近年は荒野と化した広島を舞台にした漫画『はだしのゲン』が英訳されてアメリカ人にも読まれるようになったこともあり、アメリカ人たちの歴史観にも変化が生まれつつあるようです。

・・・

「あたしの大切なものは信念だよ」

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第二次大戦後、ヨーロッパが焦土と化したのに対してアメリカはほぼ無傷だったこともあり、アメリカはイギリスにかわって資本主義陣営を代表する超大国となりました。
このため、世界の基軸通貨はそれまでのイギリスのポンドから米ドルにかわりました。
そこで、アメリカは、資本主義・民主主義という自らの理想を世界に広めようというグローバリゼーション(アメリカナイゼーション)を推し進め、共産主義を世界に広めようとするソ連と対立するようになりました(冷戦)。
アメリカは、このグローバリゼーションを後押しするために、軍事力を強化し、世界の各地に軍隊を配備し、朝鮮戦争やベトナム戦争などでソ連と代理戦争を繰り広げました。

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1991年にソ連が崩壊すると、アメリカに対抗する勢力が消滅したため、アメリカ式のグローバリゼーションが一気に加速しました。
この結果、世界を一つの市場として競争原理が働くようになり、地域密着型の中小企業は淘汰され、多国籍企業が巨大な利益を得るようになりました。
このような潮流のなか、多国籍企業の売り上げが国家予算を上回るという現象がみられるようになり、企業の社会的責任(CSR)が問われるようになりました。

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・・・

次に、アメリカの政治をみてみましょう。

アメリカの政治の特徴として、まず、アメリカ大統領に権限が集中していることがあげられます。
アメリカ大統領は行政とアメリカ軍の最高責任者であり、また、議会の決議に対して拒否権を行使することができます。
このようにアメリカ大統領は強い権限をもちますが、アメリカの最高権力者ではありません。
大統領選挙を戦うためには企業からの莫大な資金を必要とし、その資金援助をした企業の意見もかなり聴かなくてはならないからです。

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大統領だけではなく、議員たちも企業によって買収されています。
アメリカには、政策に影響を及ぼすことを目的として政治家に働きかけるロビイストが約3万人もいて、企業はロビイストを通じて議員たちを買収しています。
特に、ユダヤ系財閥は大きな力をもっていて、アメリカ政府はユダヤ系財閥に逆らうことができません。
このため、アメリカは核兵器の保有やパレスチナ人の弾圧などの問題で、イスラエルを擁護しつづけています。

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たとえば、国連ではイスラエルが不利になる決議に対して、アメリカは30回以上も拒否権を行使して握りつぶしています。
また、イスラエルは、2000年以降だけでも7000人を超えるパレスチナ人を虐殺していますが、このイスラエルに大量の武器を輸出しているのがアメリカです。
さらに、アメリカは北朝鮮やイランが核兵器を保有することに対しては非難の声をあげるにもかかわらず、イスラエルが核兵器を保有していることに対しては黙認しています。
その上、イスラエルにとって最大の脅威だったイラクに対しては、「大量破壊兵器を保有している」と言いがかりをつけて攻め滅ぼしました。

アルカイダなどのテロ組織がアメリカを標的にするのは、アメリカがイスラエルを擁護することによって多くのパレスチナ人たち(イスラム教徒たち)が困難に遭っていることが一因だと言われています。


「僕の大切なものは神様さ」

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・・・

アメリカは世界中に軍隊を派遣しているため、アメリカ政府は企業の中でも特に軍需産業と密接な関係をもちます。
このため、アメリカ政府と軍需産業とが結びついた『軍産複合体』という概念が生まれました。


「私の大切なものはひらめきです」

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1961年、アイゼンハワー大統領は、軍産複合体が強大な力をもつようになると、自ら新たな脅威(実際は存在しない)を作り出して仕事を増やそうとする恐れがあることを警告しました。
残念ながらそれは現実となっており、軍産複合体は、冷戦時代には「共産主義の脅威」を声高に叫んで勢力を拡大し、ときには軍事行動をともなって世界中の国々を従わせてきました。
そして、冷戦後、アメリカの軍事費は縮小する方向にすすみましたが、2001年9月11日の同時多発テロ事件を機に、「テロとの戦い」という新しいスローガンを掲げ、ふたたび勢力を拡大していきました。


「僕は世界から戦争をなくしたいです」

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2001年10月には、タリバン政権がアルカイダのオサマ・ビンラディンを引き渡さないことを理由にアメリカはアフガニスタンに侵攻し、タリバン政権を転覆して親米政権をつくりました。
戦争後、アフガニスタンの治安は悪化し、毎年2千人以上の一般市民が治安の悪化が原因で死亡しています。
テロも多発しており、ベトナム戦争と同様に泥沼化しています。

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また、2003年には、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)が「大量破壊兵器の決定的な証拠は見つからない」と報告しているにもかかわらず、アメリカは「イラクが大量破壊兵器を保有している」という理由でイラクにも侵攻し、フセイン政権を打倒しました。
イラク戦争後、イラクで大量破壊兵器は見つかりませんでした。
イラク政府の発表によれば、米軍によるイラク侵攻のために死亡した民間人の数は15万人に達しました。
また、ジョンズ・ホプキンス大学の調査によれば、米軍の空爆による水道等のインフラの破壊により(衛生状態が悪化し)二次的に死亡した人の数は64万人にも達しました。

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このアフガニスタンとイラクの二つの軍事行動は、チェイニー副大統領などの『ネオコン(新保守主義)』というタカ派の勢力が主導しました。
アフガニスタン侵攻後、アメリカはカスピ海からアフガニスタン経由でインド洋へと続くパイプラインを建設し、アメリカの石油企業は莫大な利益を得ました。
また、イラク侵攻後の石油利権を、チェイニーの古巣の石油会社・ハリバートン社等が独占しました。
このため、この二つの軍事行動は、アメリカ政府と軍需産業と石油産業の癒着によるものだと言われています。

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そして、アメリカの次の標的はイランです。
アメリカは、イランが従前から、核技術は原子炉などの平和利用に使用すると主張し、かつ国際原子力機関(IAEA)の視察を受け入れると主張しているにもかかわらず、『イランが核兵器を開発している』とことさらに糾弾し、軍事行動も辞さない姿勢を見せています。
イランを巡る情勢は今後も目が離せません。

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・・・

次に、アメリカの経済をみてみましょう。

アメリカの経済は世界最大で、主な産業は、農業、工業、IT産業、金融、軍需産業などです。
2007年、アメリカの低所得層向けの住宅ローン(サブプライムローン)が破たんしたのを引き金に、世界中で株価が暴落する世界金融危機を引き起こすなど、世界経済にとても大きな影響を及ぼします。

「僕の大切なものは家さ」

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アメリカには世界中の国から様々な製品が流入しており、じつはアメリカは世界最大の貿易赤字国・債務国でもあります。
また、ブッシュ政権(2001−2009年)以降、米軍のイラクやアフガニスタン駐留などによってアメリカの財政が悪化しています。
このように貿易赤字と財政赤字が併存する状態を『双子の赤字』といいます。
その上、2007年にはサブプライムローンが破たんしたため、アメリカの経済は一時壊滅的な打撃を受けました。
この結果、アメリカの失業率は9%と、高い数値を記録しています。

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このアメリカの双子の赤字を救うべく、日本と中国はアメリカが発行する国債を大量に購入していますが、2011年には、もう少しでアメリカがデフォルト(債務不履行)になるという局面も訪れました。

アメリカは超大国として世界の経済をけん引してきましたが、イラクとアフガニスタンへの侵攻以来、国内外の借金がふくらみ、今後の持続的な経済発展が危ぶまれています。

・・・

「あたしは自然が大切だと思います」

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ところで、アメリカは世界最大の経済大国ということもあり、莫大な量の資源を消費し、かつ環境に負荷をかけています。
世界自然保護基金(WWF)は、世界中の人々がアメリカと同じ水準の生活をするためには地球5.3個分の土地(地球の再生産能力)が必要になると試算しています。
それほど大量の資源を消費しているにもかかわらず、アメリカは地球温暖化を防止する『京都議定書』を批准していません。
また、アメリカは世界で最も動物の絶滅危惧種が多い国であるにもかかわらず、生物種を保護する『生物多様性条約』も批准していません。
世界最大の経済大国であるアメリカがこうした姿勢を取るため、地球規模の問題を解決するため取組みがすすまないというのが現状です。

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アメリカは他にも様々な条約を批准していません。
まず、アメリカは、『対人地雷禁止条約』、『クラスター爆弾の使用や製造を禁じる条約』、『武器貿易条約』、『包括的核禁止条約(CTBT)』などの武器の輸出を規制する条約も批准せず、大量の武器を輸出して世界に悲劇の種をばらまいています。
また、アメリカは、国連が規定した人権を認めず、『子どもの権利条約』や『女性差別撤廃条約』も批准していません。


「私は人類の幸福を願います」

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ただし、アメリカは毎年『人身売買報告書』を作成し、人身売買問題を改善する姿勢が見られない国に対してはODA(政府開発援助)を停止するなどの圧力をかけています。
この結果、各国は真剣に人身売買問題にとりくむようになり、実際人身売買が減った国もあります。

・・・

次に、アメリカの国民の暮らしをみてみましょう。

アメリカは世界一の経済力を誇りますが、富が適正に分配されておらず、アメリカの相対貧困率は経済協力開発機構(OECD)加盟国内で最悪です。
2011年、ビル・ゲイツの総資産は590億ドルに達しました。
一方で、2010年の国勢調査によれば、アメリカには年収約2万ドルの貧困ライン以下の人が15.1%もいて、この数値は年々上昇しています。
公民権法が成立したとはいえ、人種による経済格差は大きく、貧困ライン以下の人の割合は、黒人の場合は27.4%、ヒスパニック系は26.6%に達します。

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こうした貧困層の多くが肥満になります。
貧困な人ほど低価格で栄養の偏ったジャンクフードを食べる傾向があるからです。
このため、南部の貧しい州ほど肥満率が高く、2010年、ミシシッピ州の肥満率は34.4%に達しました。
アメリカ人の死亡要因としては、喫煙の次に肥満が高くなっており、深刻な社会問題になっています。

「私はスリムな体型を維持したいです」

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・・・

では、アメリカではなぜ相対貧困率が上昇しているのでしょうか。
まず、アメリカでは医療費が高すぎることがあげられます。
たとえば、日本では約30万円ですむ盲腸の手術が、アメリカでは約250万円もかかります。
このため、病気やけがをすると、その医療費が原因で貧困層に追いやられたり、自己破産する人が後をたちません。


「私の大切なものは健康です」

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加えて、アメリカは先進国で唯一国民皆保険制度がない国です。
民間の保険に加入できない保険未加入者は約4700万人で、保険未加入者はけがや病気をしても治療を受けることができずに死んでいます。
また、保険加入者といえども安泰ではなく、いろいろと難癖をつけられて保険金がもらえないことが多いのです。
このため、アメリカ人の平均寿命と乳幼児死亡率は先進国で最低レベルです。
マイケル・ムーア監督は映画『シッコ』のなかで、こうしたアメリカの医療制度の問題が、保険会社・製薬会社とアメリカ政府との間の強い癒着によって生まれていることを明らかにしています。


「私の大切なものは病院です」

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2011年、オバマ大統領は『医療保険制度改革法案』を成立させましたが、これは税金を使って国民の95%が民間の保険へ加入できるようにするにすぎず、公約として掲げていた国民皆保険制度といえるものではありませんでした。

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・・・

「私は十分な教育を受けたいです」

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アメリカで相対貧困率が上昇しているもう一つの理由として、教育費が高騰していることもあげられます。
アメリカの大学の学費は世界一高いため、多くの学生が学資ローンを組んで大学に進学することになります。
ところが、アメリカの大学の学費がものすごい勢いで高くなっているため、借金がふくらんで途中退学してしまう学生が後をたちません。
学資ローンには自己破産が適用されず、しかも金利がおそろしく高いため、学生は永久に返済することができない借金地獄に陥ります。

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また、たとえ大学を卒業したとしても、ローン会社から借金を取り立てる際に「刑務所におくる」と脅迫されたり、職場に嫌がらせの電話がかけられるなどの事態も多発しており、学資ローンは大きな社会問題になっています。
しかし、アメリカの政治家たちはローン会社に買収されているため、このようなローン会社の暴挙をアメリカ政府は放置しています。


「僕はいっぱい勉強がしたいです」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 _MG_6241_a1.jpg NY_Draw_281_a.jpg)




にもかかわらず、学資ローンを組んで大学に進学しようとする人は増え続けています。
いま、アメリカの大学生の2/3が大学に進学する際に学資ローンを組み、その規模は900億ドルにまで達します。
人の未来の可能性を広げるはずの教育にまで経済至上主義が入り込んでいる、これがアメリカの実態です。

・・・

アメリカの貧しい若者たちにとって最後の切り札となるのが軍隊です。
アメリカ軍に入隊すると、大学に進学するための奨学金がもらえたり、学資ローンが免除されるなどの優遇措置が講じられているからです。
しかし、実際にアメリカ軍に入っても、貧困ラインギリギリの生活を余儀なくされ、兵役を終えた後も貧しいままというのがほとんどです。
しかも、アフガニスタンやイラクから帰還した兵士の多くが重度の精神障害を負っており、家族が離散したり、まともな仕事に就けずにホームレスになることもあります。

「僕の大切なものは家族さ」

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こうしてアメリカの社会からあふれ出してホームレスになった人の一部が、貧困を苦に犯罪を起こして刑務所に行くことになります。
加えて、同時多発テロ後、アメリカではテロを取り締まるための『愛国者法』が制定されており、反政府的な人物が法的手続きを取らずに刑務所に送られるようになりました。

このため、アメリカの囚人人口は増え続けており、囚人人口は160万人以上で、世界の1/4を占めるまでになりました。
近年、こうした膨大な囚人たちを超低価格の労働力としてコールセンター業務などに利用する動きが活発化しており、労働市場が崩壊しています。
ジャーナリストの堤未果さんは『ルポ貧困大国アメリカU』のなかで、刑務所すら利用して利益をむさぼるという企業の実態を明らかにし、市場原理主義の行き過ぎに対して警鐘をならしています。

・・・

「私の大切なものはお金と神様です」

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いまのアメリカでは、規制緩和等を推進して政府の役割を縮小する『新自由主義(ネオリベラリズム)』が勢いを増していますが、その背後には企業によるアメリカ政府の買収行為が横たわっていると言われています。
企業が国民を搾取しているにもかかわらず、アメリカ政府はそれを野放しにしているのです。
このため、わずか1%しかいない富裕層が優遇され、アメリカの富の1/3を独占しています。

そこで、怒りを爆発させた若者たちが、2011年9月17日、『ウォール街を占拠せよ』をスローガンにウォール街でデモ活動をし、オバマ大統領に対してアメリカ政府と企業との資金を通じた結びつきを禁ずるよう求めました。
この運動は全米に拡散し、さらには世界中に拡散しました。

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アメリカ独立宣言には、以下の記載があります。
「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。」

その言葉のとおり、いつかすべての人間が平等で幸せに暮らせるようになる日が来るのを心から祈りたいと思います。

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・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
山賀緩子(やすこ)、乾久美子、山本敏晴

画像データを編集し、文章を書いた人:
矢野弘明

編集完了日:
2012年1月19日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

posted by お絵描きイベント at 17:28| 日記

2012年01月11日

フィジー Fiji

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白い砂浜に、青い海。
日本人が持つフィジーのイメージは「南の楽園」です。
日本からも観光客が多く訪れます。
四国とほぼ同じ大きさである18,300㎢の面積は、
直径数mの小島を含む332島で構成されています。
そのうち、222島は無人島です。

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フィジーは、伝統的に太平洋のハブとして存在し、
国連機関、各国在外公館のほとんどが事務所を置いています。


「私の大切なものは、神様です。」

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フィジーは、1874年にイギリスの植民地となりました。
1879年に砂糖のプランテーションのために、
多くのインド人労働者が移住させられました。
1987年にイギリスから独立しましたが、
現在も、人口の38%をインド系移民が占めています。
58%がフィジー人、5%がヨーロッパや太平洋の島民と華人などです。
定住したインド系の人々が、
後のフィジーの政治、経済に大きく関わります。

フィジーの政治は度々クーデターが生じ、混乱しています。
2011年12月現在、フィジーの政治は暫定の軍事政権が行っています。

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1999年の選挙により初のインド系首相が誕生しました。
しかし、その後、バイニマラマ軍事指令官が、
フィジー系民族の権利擁護や、政府の腐敗粛正を理由に
度々クーデターを起こしています。
2006年に生じたクーデターを、
国際社会、特にオーストラリア、ニュージーランド、EUが批判し、
民主主義体制を取るよう要求しました。
しかし、暫定政府は、国際社会からの要求を断り、
かわりに選挙制度を変えると主張しました。
この結果、フィジーは太平洋諸島フォーラム(PIF)と、英連邦から
参加資格を停止されました。

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暫定政府は2012年に憲法を制定、その後1年間準備をして、
2014年に総選挙を行うようロードマップを発表しています。


政治の混乱は経済にも影響します。
2006年のクーデター後、
2007年に経済成長率はマイナス6.6%と記録しました。
経済を立て直すためにも、政治を安定させる必要があります。

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フィジーの主要産業は、観光、砂糖、衣料です。
砂糖産業には、フィジーの全農地の50%、労働者の20%が関わり
主な輸出品となっています。
日本における砂糖の輸入国第4位です。
しかし、砂糖産業は年々衰退しています。
こちらにも、フィジー系とインド系の民族の対立が関係しています。
プランテーションが行われていた頃から、
フィジー系の民族が所有する土地を、
インド系の民族が借用して砂糖を栽培していました。
しかし、クーデターをきっかけに民族間の対立が表面化し、
異民族間で借地契約の更新が行われないなどの
トラブルが多くなりました。
この結果、インド系の民族には、さとうきび栽培を辞める人や、
借地契約に対する不安から、さとうきびの改植を
行わない人が多くなりました。
さとうきびは、改植(植物を植え直すこと)を行わないと、品質が下がるため、
年々、1ヘクタール当たりの産糖量が減少しています。

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また、2006年から行われたEUの砂糖制度改革も
砂糖産業の衰退に影響しています。
EUは、アフリカ・カリブ海・太平洋諸国から、
EU域内価格を基本とした高い価格で輸入していましたが、
世界貿易機関(WTO)が、規則に違反すると裁定したため、
フィジーの砂糖のEU向け価格が著しく下がりました。
これらに対し、フィジー砂糖公社は、
農家を対象とした改植や肥料購入などの費用を支援するため、
低利融資を行い、砂糖産業の衰退を防ごうとしています。


フィジーでは、国家が強い権力を持っています。
2010年、メディア産業振興法が布告され、
国家がメディアを管理出来るようになりました。
これは、フィジーの報道機関の株を
海外企業は10%までしか持てないと制限するものです。
そのため、オーストラリアのニュース・リミテッド社は、
それまで持っていた株の90%を手放すことになりました。

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フィジー労働組合会議(FTUC)の会長は、
団体交渉に向けた会議を開催したところ、
非合法な集会とされて逮捕されました。

このような状況のために、
日本労働組合総連合会(社会党右派系の労働組合)は、
国際労働組合総連合(ITUC)とともに、
フィジー軍事政権に対して、
労働者の基本的権利と自由な労働組合活動が
行えるよう強く求めています。


「私は将来、ヘリコプターの整備士になりたいです。」

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フィジーを囲む美しい海は、観光産業を発展させた一方、
人身売買などの越境犯罪の脅威が横行し、深刻な問題となっています。
2009年版の米国務省人身売買報告の中で、
フィジーはブラックリストに掲載されています。
麻薬の密輸では、中継点として指摘されています。
状況は、2006年にオーストラリア、ニュージーランド、
フランスの軍事協定が停止されてから、より悪化しています。
広範囲に渡る海域の航空監視が無くなり、
フィジーが監視活動を行うことはまれにしかありません。


「私の大切なものは、みんなが一緒に住める街です。」

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フィジーの貿易は輸入超過となっています。
そのため、フィジー政府は、鉱物資源の開拓による
経済振興に期待をしています。
政府は、銅金鉱山炭鉱プロジェクトを、
日本の鉱山会社グループ(三菱マテリアル(株)と、日鉄鉱業(株))、
オーストラリアのNexcrest Miningナモシ社と進めています。
しかし、現在のフィジー電力公社の発電能力では、
鉱山開発に必要な、膨大な電力を賄うことができません。

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発電能力を上げるためには、
火力発電を拡大させる事が現実的ですが、
環境へ配慮するために、
低二酸化炭素ガス排出技術を取り入れた火力発電と
地熱発電施設を組み合わせて、
発電能力を上げる予定になっています。
地熱発電は、現在も調査が進められています。
火力発電設備を導入するため、国際協力銀行(JBIC)は、
輸入・投資・事業等開発のための融資の
ソフトローンを行う予定です。


「私の大切なものは、きれいな海です。」

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フィジーの人々は、生活必需品の多くを輸入に頼っています。
輸入品は、使用された後、ゴミとなります。
国土の狭いフィジーでは十分な廃棄場を確保することは難しく、
廃棄物の処理に問題を抱えています。
さとうきび農場の契約切れに伴い、地方での失業者が増え、
都市部へと人口が流入してきたため、
都市部でのゴミの、多様化、多量化が進んでいます。

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国際協力機構(JICA)は、志布志(しぶし)市のゴミ処理体系の普及を行っています。
ゴミ焼却場を持っていない、志布志市の取り組みが、
フィジーの廃棄場の確保が難しい現状に活かされています。
志布志市の平成21年度のゴミリサイクル率は75.4%です。
志布志市の職員がフィジーへ派遣されるだけでなく、
フィジーからも研修団の受け入れを行い、技術支援や、市民参加を促し、
「ゴミはリサイクルして当たり前」と、意識改革が行われています。


農村部では、都市部、地方を問わず定職を持たない青年が多くいます。
フィジー政府は、こうした若者が生きる力を身につける場として
国立青年研修センターを設立しました。

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国際NGO オイスカは、フィジー政府の要請を受けて、農業技術研修、
規律訓練を行っています。
研修生には、オイスカが研修センター外で行う
社会貢献活動への参加を義務付け、
村に帰ってからも社会に貢献できる人材を育てています。
将来はオイスカの現地NGOであるOFETAが
センターを独立して運営できることを、目標にしています。
研修センターは、2007年から郵便貯金・簡易生命保険管理機構の助成を
受けています。


「私の大切なものは、勉強するための学校です。」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 FIJ_001.JPG)





島国では、情報を共有するネットワークが重要です。
フィジーにはオセアニアの12の小規模島国が協同で設立した
公立の南太平洋大学(USP)があります。

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19000人の学生のうち、50%以上は遠隔教育を受けています。
1998年から、日本、オーストラリア、ニュージーランドが共同で
通信衛星ネットワークは整備をして
遠隔教育を受けやすい環境を整えました。
南太平洋には、高等教育を受ける機会の無い国も多く、
USPは重要な教育機関となっています。

日本からフィジーへの留学生者は2004年からの2年間で10倍へ増えています。
South Pacific Free Bard(株)は、欧米国と比較して安価で語学留学が出来るよう、
フィジーで語学学校を運営しています。
少子化が深刻となるフィジーで、政府から廃校となった学校を借りて、
政府が雇用できないフィジーの教師を雇用しています。
日本からフィジーを訪れる人を増やし、現地での雇用を増やすことで
地域の活性化に貢献しています。



「私の大切なものは、病院と家です。」

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感染症対策でも、ネットワークが活用されています。
南太平洋は、感染症が流行し易い環境にあります。
人口が少ないため、病院などの設備が少なく、
感染症対策に必要な物資の調達や、
必要とされている場所への運搬が難しい事が理由に挙がります。
また、漁業や観光で頻繁に人が移動するため、
感染症をもたらす原因菌が、人の移動に伴い、拡散します。

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そこで、南太平洋の各国の衛生担当者、臨床医、検査技師、医療関係者が
自発的にネットワークを作りました。
1996年、The Pacific Public Health Surveillance Network(PPHSN)が、
立ち上げられ、各国の情報が共有されています。

フィジーはフィラリア症の流行国です。
1999年より世界保健機関(WHO)のリンパ系フィラリア症の根絶を目標とする
広域プログラムに参加しています。
2002年より、全国民対象の集団治療薬投与が行われています。
抗フィラリア薬配布率の向上のために、
地域医療者等へのフィラリア症教育や、
住民に対しラジオによる広告および質疑応答コーナーを活用し、
情報提供が行われています。


フィジーは肥満大国です。
女性の肥満率は、アメリカと並ぶほどです。
フィジーの死因は82%が生活習慣病です。
また、公的医療機関は無料で診療を受けることが出来るため
膨大な保健衛生費が国家予算を圧迫しています。
外部から高カロリー食品が流入したことにより、
国民の食生活が変化したことが肥満の主な原因です。

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これまで、政府は栄養政策を何度も行ってきましたが
なかなか効果が出ませんでした。
栄養状態とは、住民の日々の食生活に密接していますが、
国レベルの政策が、地域レベルの活動へ
活かされていなかったためです。
正しいことを提言するだけでは、
人々の意識や行動を変化させることは出来ません。
国際協力機構(JICA)は、太平洋共同体(SPC)や、WHOと、
共同して地域でのワークショップを行いました。

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フィジーの国歌は
イギリスから独立する前に行われたコンテストで選ばれ
幸福と自由を歌っています。

フィジーのイメージは南の楽園です。
私は、言葉の通り、フィジーが幸福と自由を実感できる国に
なって欲しいと願います。

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・・・
・・・


絵と写真を集めた人:
渡橋浩子(2007年)
山本敏晴(2007年)

画像データを編集し、文章を書いた人:
姉崎沙緒里

編集完了日:
2012年1月16日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

上記に掲載された写真のうち、
人物が写っていない写真の一部は、
以下のサイトから提供されたものもあります。
トリップアドバイザー
http://www.tripadvisor.jp/

posted by お絵描きイベント at 12:28| 日記

2012年01月10日

ジブチ Djibouti

ジブチ共和国は、
アフリカ大陸の北東に位置する国です。

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この国は、アフリカ大陸と、ヨーロッパ、中東・アジアを結んだ、
地理的にも政治的にも重要な場所にあります。

国の大きさは、
日本の四国と同じくらいです。

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「サンダルです。
ジブチは毎日暑いので、サンダルが欠かせません。」
この絵を描いたのは、Souleiman、14歳の男の子です。

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国土の半分は砂漠地帯で、とても乾燥しています。
最高気温は50℃近くにもなり、
地球で一番暑い場所の1つといわれています。
雨はなかなか降らず、干ばつの多い国です。

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人口は約80万人で(日本の東京都は1300万人です)、
そのうちの半数がソマリア系のイッサ族、
4割近くがエチオピア系のアファール族です。

ジブチの国旗.gif
(ジブチ共和国の国旗:外務省ホームページより)

国旗の青い部分はイッサ族、緑の部分はアファール族を、
白い部分は2つの民族が平等であること、
そして、赤い星は国の独立をあらわしています。

平均寿命は56歳です。
国民はアラビア語とフランス語を話し、
ほとんどの人がイスラム教を信じています。

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ジブチは、アフリカ大陸の東側海沿いにあるエチオピアやケニア、
ソマリアなどの国とともに「アフリカの角」と呼ばれています。
(世界地図で見ると、この地域がサイの角に似た形をしていることから、
このように人々が呼ぶようになりました)

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(アフリカ大陸:外務省ホームページより)

「アフリカの角」地域では、
異なる民族や宗教が集まっているため、紛争が多く発生しています。
そのなかで、ジブチは多くの国と良い関係を築き、
落ち着いた政治をしているので、
「アフリカの角」を安定させる存在です。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「ジブチのゲレ大統領です。僕と同じ部族だから誇りに思います。」
この絵を描いたのは、Moussa、11歳の男の子です。

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19世紀、ソマリア系のイッサ族とエチオピア系のアファール族が
フランスにこの土地を受け渡しました。

フランスがこの地域を植民地とし、
フランス領ソマリランドとして統治する中、
イッサ族とアファール族は対立しました。
対立関係はおさまらず、その後はこの土地の名を、
フランス領アファール・イッサ(それぞれの部族名)
に変えました。

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第二次世界大戦後、アフリカ大陸の国が続々と独立するところ、
部族対立が原因で独立できなかった
フランス領アファール・イッサでしたが、
1977年にイッサ族出身の大統領のもと、
ジブチ共和国が誕生しました。

ところが、部族同士の対立はまだ続いていました。
1990年代に入ると、
政府側の軍と、政府に反対するアファール族の軍が
内戦をはじめました。

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国内紛争は3年にわたって続きましたが、
2001年に、両者は最終的な和解をして内戦が終わりました。
2011年にゲレ大統領が3度目の当選をし、
現在に至っています。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

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「ラクダとヤギです。僕たちの生活に必要なものを与えてくれます。
ラクダは荷物を運んでくれます。ヤギは僕たちの食料となるんです。」
この絵を描いたのは、Mohamed、11歳の男の子です。

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ジブチは国民の多くが貧困状況にあり、問題となっています。
アメリカ中央情報局によれば、
2007年の失業率は6割にもおよび、
国民の半分以上が職につけない状態でした。

ジブチ政府は国の経済を立て直すために、開発計画を立て、
これをもとにして経済政策を実施しています。
政府は、主に以下の4つをもとにして政策を行なっています。

1.国としての経済的競争力を強めることと、
  経済の成長を長い期間つづけること
2.優秀な人材を育てること、基本的な生活力を上げること、
  環境を守ること
3.貧困をなくすことと、社会的に弱い立場の人を守ること
4.経済の管理力をより強いものにすること

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「あなたの大切なものは何ですか?」

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「道路です。
食料などを運ぶ車が通る道路は、大切なものなんです。」
この絵を描いたのは、Choueb、11歳の男の子です。

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ジブチの経済を支えているのが、
主要産業であるジブチ港の施設サービスとジブチ鉄道です。
アフリカ大陸の産物を世界中に運ぶジブチ港は、
ジブチで大切な役割を担っています。
日本人にもおなじみのエチオピア産モカコーヒーは、
この港を経て私たちの食卓に届きます。

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「あなたの大切なものは何ですか?」

「木です。ジブチには木があまりないので、大事なんです。
木は水をためることもできます。」
この絵を描いたのは、Ali、12歳の男の子です。

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「畑です。食べるための大切な野菜や果物を育てる場所だからです。」
この絵を描いたのは、Farah、14歳の男の子です。

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ジブチを含む「アフリカの角」地域では、
1950年代以来最高レベルの干ばつが起こっています。

ジブチでは、内陸部の農業作物が実りにくい地域で生活している人々が
以前から貧困や食糧不足に陥っていました。
今回の大干ばつは、これまでの食糧不足にさらなる打撃を与え、
深刻な食糧危機を招きました。

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多くの民族や宗教が密集している「アフリカの角」地域では、
紛争が多く発生しています。
ジブチの隣にあるソマリアでは、
1991年に大きな内戦がおこり、それが今も続いています。

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紛争の危険から逃れてきたソマリアの難民を、
ジブチは自分たちの国へ受け入れ、助けてあげたのですが、
これにより、ジブチの経済は苦しくなってしまいました。

このように、問題はジブチ一ヵ国で解決するものではありません。
周りの国における政治的状況も大きく影響するのです。

WFP(国連世界食糧計画)は、緊急食糧支援をはじめました。
穀物や豆、塩、砂糖、植物油、栄養価の高いビスケットなどを
ジブチの人々10万人以上へ届けました。

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WFPは、このプロジェクトの実施を通して、
ジブチの食糧危機において、少しでも助けになるようにと、
日々活動しています。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「清潔できれいな家や建物です。」

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ジブチでは、都市部でも下水処理の仕組みが不足しており、
不衛生な状況にあります。

一般に、ジブチの国立病院は、
高い診療費や医薬品代が必要なため、
貧しい人々は十分な治療を受けることができません。

このような中、ジブチ市内にあるポール・フォール病院は、
診療と医薬品を無料で提供しているため、
収入が低い人も安心して受診することができます。
さらに、この病院はWFPによる食糧支援を受けており、
ジブチ国内のNGOと協力して、
1日3食の食事を入院患者に配っています。

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ところが、院内の衛生環境がよくなかったため、
治療中の患者が病院から外へ逃げ出してしまう
ということが何度も起こりました。

患者が院外へ出ると、
その患者がわずらっている病気も
他の人々へ感染する恐れが出てしまいます。

この病院の敷地には、病院用の下水タンク(糞尿を貯めるためのもの)
があったのですが、このタンクから耐えがたい汚臭がしていました。
また、下水パイプは糞尿がつまって使える状態ではなかったため、
それを修理する必要がありました。

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NPO AMDAは病院の下水工事改修プロジェクトを実施しました。

AMDAは、具体的に以下の活動を行いました。
1.下水タンクを取り除き、下水管を整備すること、
2.トイレを修復し、別に新しいものをつくること、
3.病院内へ安全な水を供給すること

これにより、
病院の衛生状況はよくなりはじめました。

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「人々がこの病院で、少しでも心地よい毎日を過ごし、
病院の不衛生さから患者が逃げて病気が広まらないように。
ととのった医療環境の中で病気の治療に集中し、
健康な体と笑顔を取り戻すことができるように。」
と、活動を続けていく、とAMDAは言っています。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「私は、学校の絵を描きました。
学校で勉強できるということが、大事だと思います。」

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ジブチでは、就学率の低いことが問題となっています。
国連人口基金(UNFPA)が発行している
「世界人口白書2011」によると、
1991年から2009年までの初等教育就学率は
50%以下と非常に低く、
世界最低10位の中に入ってしまいました。

ジブチにおける就学率が低い原因の1つは、
学校そのものが不足していることです。

現在ある学校は、すでに満員状態で、
一つの教室に70名近くの生徒が勉強していました。
日中の気温が50度を超えるなか、
隣の生徒と隙間もない状態で勉強することは、
子どもたちにとって過酷な状況です。

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さらに、ジブチ政府が教育制度を改善し、
基礎教育9年間を誰でも無料で受けられるようにしたので、
これからも生徒の数が増える見込みです。

農業に適した土地が少なく、天然資源をもたないジブチが、
国を豊かにするためには、
教育に力を入れ、優秀な人材を育てることが必要です。
しかし、経済状況が厳しいジブチは、
学校や教室を増やしたくても増やすことができず、苦しんでいます。


ジブチ政府から協力を求められた日本政府の要請を受けて、
大日本土木株式会社は、
小学校と中学校あわせて5つの学校を建設しました。

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プロジェクトが新しくつくった教室は100教室以上になりました。
これにより、何千人もの子どもたちにとって、
新たに勉強できる場が生まれました。

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今まで学校に行かれなかった子どもたちが
学校へ通えるようになり、
生徒一人ひとりにおいて勉強できるチャンスが増えました。
ジブチの未来を担う「人」を育てることができるよう、
人々は歩みはじめています。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「家に電気が通っていることです。」

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高い気温と乾燥した気候のジブチは、
水資源や地下資源などの天然資源をもっていないため、
国内で使うエネルギーのほとんどを
海外から輸入した燃料によってつくっています。
現在の発電方法では外国に頼るしかないため、
自分たちの力でエネルギーをつくりだすことが必要です。

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国際協力機構(JICA)はジブチにおいてエネルギー開発計画を行いました。
このプロジェクトでは、
1.ジブチの政府機関である研究センターに太陽光パネルを設け、
2.太陽光発電による電力をつくりだすとともに、
3.持続可能な管理ができるように、現地の人へ技術を伝えました。

太陽光発電システムは、温室効果ガス
(そのガスによって周囲の気温が上がる気体)を減らし、
環境を破壊しにくいという利点ももっています。

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この活動を通して、ジブチの人々が自分たちの力で、
エネルギーを開発できる土台づくりができました。
今回の研究センターのように太陽光発電をもつ施設が増えて、
エネルギー開発がジブチ全土に広がるよう、
国際協力機構は願っています。



・・・

「あなたの大切なものは何ですか?」

「故郷で暮らす家族と、父が飼うラクダです。
普段は会えないけれど、僕にとってかけがえのないものです。」

(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 DBT_001a.jpg h3a.jpg)







一人ひとりは違うけれど、
あなたにもわたしにも、
心から大切にしているものがある。

お絵描きイベントで絵を描いてくれた人たちに、
私たち読む人が会うチャンスは、ほとんどありません。

でも、絵を描いてくれた人それぞれが、
大好きなもの、
宝物にしているもの、
支えとしているもの、

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それらを「大切にする想い」を読む人が感じ取った時、
今まで遠く離れていた存在が少し近くに思えるかもしれません。
そんな、「お絵描きイベント」の願いを、
これからも実感できたらいいなと筆者は思います。





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・・・


絵と写真を集めた人:
原田匡剛

画像データを編集し、文章を書いた人:
渡部香織

編集完了日:
2012年1月17日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

人物が写っていない画像は、
以下のフリー素材会社から提供を受けたものもあります。
(株)データクラフト「素材辞典」
http://www.sozaijiten.com/

posted by お絵描きイベント at 10:09| 日記