
スリランカは、インド洋に浮かぶ緑濃い熱帯の島国です。
北海道を一回り小さくしたぐらいの国土に約2000万人が暮らしています。
首都は、スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。
小学校で世界一長い名前の首都、と覚えませんでしたか?
仏教、ヒンドゥ、イスラム文化などが混在し、
70%のシンハラ人、タミル人、スリランカ・ムーア人で成り立っています。
公用語はシンハラ語とタミル語、そしてこの2つの連結語としての英語があります。
宗教は仏教70%、ヒンドゥ教10%、イスラム教、ローマン・カトリック教があります。

島の地形は変化に富んでいます。
長いビ−チが続く海岸。
いい波を求めて世界からサ―ファ−が集まるビ−チもあります。
あなたの大切なものは何ですか?
「ジャングルです。」


多くの野生動物が生き続けているジャングル。
1000Mを超す山々。
古代から仏教王国として栄えてきた産物」である大遺跡。
スリランカとは、「光り輝く島」という意味です。
かつてはセイロンと呼ばれていました。
世界的に有名な紅茶のブランド名でもあります。
ルビー、サファイアなどの宝石が採れることでも有名です。
また、アーユルヴェーダという医療が、西洋医学と同居しています。
親日としても有名なこの自然豊かな島国、そこに暮らす心豊かな人々
をみていきましょう。
あなたの大切なものは何ですか?
「海岸です。」


2004年12月のインド洋大津波がありました。
これによりスリランカでは3万人以上が死亡、約100万人が被災しました。
日本政府は直ちに緊急医療チームを派遣し、緊急・復旧支援として80億円の
無償資金協力などを行いました。
その時の感謝を忘れておらず、2011年3月の日本の東北地方太平洋沖地震・津波
に対し、スリランカは被災者支援として、義援金100万ドル(約8200万円)のほか、
紅茶の茶葉などを日本に提供しています。
あなたの大切なものは何ですか?
「ジャングルです。木を切り倒さないで。」


植物の絶滅危惧種が多い国として、スリランカは280種と、第8位にあります。
自然保護区近くのゴミ捨て場の野生のゾウ、鳥、チョウ、蘭など
豊富な生物多様性を誇る地域として知られ、国土の10%が国立公園や
自然保護地区で、サファリなどでは野生動物も楽しむことができます。
あなたの大切なものは何ですか?
「蓮の花です。」


一方で、人口の増加や開発が進み人々の居住地域が拡大することが原因で、
動物の生息域は減少しています。森林が国土に占める割合は2005年で29.5%、
その後も微減傾向のようです。
また、南部では港の開発や排水などにより、ここ数年で珊瑚が激減しました。
2011年1月の北中部州洪水被害により、この100年で1万2000頭あまりいたゾウは、
1/4に減っています。
以前の生息区域だった場所でゾウが人を襲うという事故や
人間のごみを食べ消化器官にビニールが詰まり死んでしまう例も・・・
ウミガメやシカにも同様の被害が出ています。

また、気候変動の影響は、人間の生活のみならず動植物の生態にも
大きな影響を与えていることは、言うまでもありません。
将来性が期待されているエコツーリズムの開発にも大きな可能性が
あるといわれています。
今後の発展に向けて、環境と経済の両立が不可欠になるでしょう。
株式会社 ミチコ−ポレ−ションは、
「ぞうさんペーパー」によるソーシャルビジネスを行っています。
スリランカには、住民が農地を開拓し、住家のなくなった象が
人の住む領域に出てきて暴れるので住民は象を撃ち殺してしまう、
といった問題があります。

そこで「象のふんから紙を作って売り、象を単なる害獣から
ビジネスパートナーにすることで、人間と象の対立を緩和する」
というところから、このビジネスが生まれました。
このゾウのフンをリサイクルした100%手作りの再生紙から作られた
ノートやフォトフレーム、メモパッドなどのグッズが、
日本の動物園をはじめ世界中の動物園へも輸出されています。
今ではゾウがより住みやすい環境づくりを進めるべく、スタッフや
地元の人達は植林活動やゴミの分別活動など、環境保全に力を入れています。

このように、ゾウと人間が協力しあい、商品を製造して海外に輸出することで、
外貨を獲得し、そして雇用のチャンスもできるという流れが生み出されるのです。
さらに利益の一部はゾウや自然の保護のために使われ、人、モノ、そしてお金が
上手く循環する人間と野生動物の共生を可能にするビジネスモデルなのです。
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スリランカでは全人口の約3〜4割が貧困層とされています。
そのうち約90%は地方農村部です。
また、紛争による荒廃が大きい北・東部地域の貧困状況は他の地域より
深刻であるとみられます。
あなたの大切なものは何ですか?
「魚を取る人です。」


産業の基盤となる農業・水産業等の開発にもつながる農漁村開発支援が
不可欠になります。
スリランカに対して支援を行っている主要な機関は、日本約47%、
アジア開発銀行(ADB)約19%、世界銀行約8%です。
ADB は、スリランカ政府と貧困削減パートナーシップ協定をくみ、
貧困削減や北・東部での復興事業に協力しています。
また今後4年間に亘って総額10 億ドルの支援を表明しました。
世界銀行は、平和の定着、経済成長、教育や保健などの平等の促進を
重要テーマとして設定し、今後4年間に亘って総額8-10 億ドルに上る
プログラムを計画しています。
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スリランカは、世界で初めて女性の大統領を輩出した国です。
他のアジアの国と比べると、女性の社会進出は進んでいます。
一方で、貧しい世帯の女性が、子どもを残したまま、
経済発展が著しい中東に出稼ぎに行かざるを得ない現状があるのも事実です。

スリランカ国内NGOセーワランカは、そういった貧困農村の女性を支援しています。
女性は鉢を製造し、欧州のイケア(家具店)の店舗でその鉢を販売しています。
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医療は基本的に無料ということもあり、平均寿命は74.1歳で
南アジアの国々(インド:63.7歳 ネパール:66歳)と比較しても
長寿の国であると言えます。

又、スリランカではJICAの支援による5S(整理、整頓、清掃、清潔、しつけ)活動
による保健医療施設のサービス向上が進んでいます。
1945年から行われているもので、
新生児感染症は5%が2%に減り、
帝王切開後の感染症が1.8%が0.9%に減った、
といった実績が出ています。
今後アジアやアフリカの国々でも、スリランカの5Sガイドラインを活用し、
保健医療サービスを向上させることが期待されています。
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あなたの大切なものは何ですか?
「学校です。」


公教育は大学まですべて無料です。その為、91.4% と高い識字率です。
しかし、最終的に13校ある大学へ入学できる生徒は、全体の5%を
少し超えるくらいの狭き門でもあり、私塾なども存在します。
又、都市部と農村部の教育格差の問題があります。
特に内戦の影響を受けている地域や道路や電気などのインフラ整備が
遅れている僻地農村地域では、親の仕事を手伝うためや、
教科書代などの自己負担分を払えないために学校に通えない子どもが多数います。

スリランカで貧困層と呼ばれる人々の生活での支出を見てみると、
貯蓄はもちろんなく、80%の支出が食費、衛生・健康への支出が3%、
教育への支出は1%であるという統計があります。
これでは、学校に通い続けることは、困難であるという現状があります。

NPO法人アプカスは、KDDI財団の助成援助によりスリランカの僻地農村において、
子どもへのコンピュータ&インターネット技術の普及活動を行っています。
この活動を通して、コンピュータを見たこともなかった子どもたちが、
今では基礎的な知識・技術を身につけ、コンピューター上での文章作成などが
できるようになりました。
子どもたちは、新しい "世界" を体験し、興味・関心をますます高め、
意欲的に学習を続けています。
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あなたの大切なものは何ですか?
「ゴムの畑です。」


スリランカ経済は、伝統的には米と3大プランテーション作物(紅茶、ゴム、ココナッツ)
を中心とする農業でした。
経済発展とともに製造業や卸・小売業等が拡大し、最近では衣類製品が
最大の輸出品目となっています。
内戦が終結し、経済活動の活性化等によって、高い成長率を達成しました。
経済の拡大を受けて雇用機会も拡大し、失業率は低下しています。
また治安の改善を受けて観光客数ととも、観光収入が大幅に増えました。
そして高い教育水準や良質な労働力を背景に輸出が拡大し、
海外からの直接投資も着実に拡大しています。
食器製造メーカーのノリタケは、1972年、スリランカに食器の製造会社(NLPL)を
設立しました。それ以来、食器の生産を継続しながら30年以上にわたり地域との
交流を続けています。
工場の近隣の病院や孤児院、老人ホームなどの施設へ文房具、服、靴など
生活物資を寄付するなど社会貢献活動を継続しています。
あなたの大切なものは何ですか?
「水汲みです。」


国際協力機構(JICA)は新興国での水ビジネスの立ち上げを
支援しています。そこで、2011年、豊田通商がスリランカで
水ビジネス事業化調査を名古屋市と協力することになりました。
スリランカのコロンボ市郊外など複数の都市で調査し、
現地の水道当局との調整や、水質改善につながる浄化技術を導入するために
需要動向、料金徴収の実態など広範にわたって調べる予定です。
あなたの大切なものは何ですか?
「シーギリアの壁画です。」


スリランカ中央部シーギリヤで2009年7月、JICAが支援する「シーギリヤ博物館」
の開館式が行われました。
スリランカには国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産に登録されている
七つもの遺跡があります。
その中の一つであるシーギリヤ遺跡は、5世紀後半に建てられた王宮の遺跡が
残る巨大な岩山を中心として、古代都市が栄えた一画が世界遺産となっています。
JICAでは、博物館を中心とするシーギリヤ周辺の観光促進のために無償資金協力、
技術協力などの支援をしました。
スリランカは国の重要政策として、文化・観光開発事業に力を注いでいます。
あなたの大切なものは何ですか?
「バス停です。」


スリランカは、1948年のイギリスからの独立以来、開発途上国の中でも
民主主義国家としての政治制度を保ってきた有数の国です。
スリランカの社会指標(平均余命の長さ、識字率の高さ、乳幼児死亡率の低さ等)
は、一般的に南アジア地域の中だけでなく、開発途上国全体の中においても
群を抜いて良好です。
これら指標からすると、先進工業国に準ずるレベルに
達していると見られます。
また巨大なインド市場開拓に伴う経済活動の発展性が海外から期待されています。
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ここで、26年にも及んだ内戦と酷く悲しい歴史をみてみましょう。
・・・・・王国から植民地時代へ・・・・・
北インドから移住したシンハラ人が王国を作り、
後からタミル人が、南インドから移住します。
以後、この両民族は民族的・宗教的に対立することになります。
両民族の人口の比率は、シンハラ人(仏教徒)が75%、
タミル人(ヒンドゥー教徒)が20%です。
スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、そのため早くからポルトガル、
オランダ、イギリスの侵略にさらされたのです。
あなたの大切なものは何ですか?
「田舎の畑です。」


イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とします。
独立を求めて大規模な反乱が三度起きましたが、いずれも武力鎮圧されました。
そして、イギリスは多数派のシンハラ人を鎮圧させ、統治しやすくする為に、
少数派のタミル人を優遇しました。
それは多数派のシンハラ人の敵意がイギリスにではなく、タミル人に
向くよう仕向けた巧妙な策だったのです。
この分割統治が、現在も続くシンハラ人とタミル人の民族闘争の原因となったのです。
同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧しました。
シンハラ人のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかったのです。
あなたの大切なものは何ですか?
「仏教の歴史です。」


・・・・・独立から、民族間の差別の始まり・・・・・
100年以上に及ぶイギリス支配の後、イギリスがインドから撤退したのと同時に、
1948年 スリランカも独立しました。
この時、「セイロン」として国の主権を獲得します。
同時に、一人一票制による選挙が行われたため、多数派のシンハラ人による
政権ができたことにより、風向きが一気に変わりました。
1956年 「シンハラ人優遇政策」を掲げ、シンハラ語を唯一の公用語とする
シンハラ・オンリー政策など急進的な政治を展開しました。
タミル人はこれに強い反感を抱き、シンハラ人との間で大規模な衝突
が頻発するようになります。
そしてさらにタミル人の「民族浄化」(シンハラ人以外の民族は根絶すること)
を提唱しました。

・・・・・タミル・タイガー(LTTE)の創設・・・・・
1972年 セイロン政府は、「スリランカ」に国名を変更しました。
この年、反発するタミル人が民族内での結束を強めて武装組織を次々と結成します。
これらの武装組織の中心となったのは、当時、高等教育を受けながらも
失業状態にあったタミル人青年たちでした。
その中で、傑出したカリスマ性をもっていたのが「プラブハカラン」
という青年でした。

1975年 タミル・イーラム解放のトラ(Liberation Tiger of Tamil Eelam、LTTE)
が創設されます。 (以下、LTTEと略します。)
プラブハカランは、このLTTEの、議長に就任します。
しかし、彼はあらゆる非合法な方法で、 シンハラ人への復讐を始めます。

1983年 政府軍とLTTEの全面的な戦闘状態へと突入します。
これらにより、両者の対立は深刻となり、以後、内戦が始まってゆきます。
1987年 LTTEが、ついに独立宣言し、首都コロンボで爆弾テロを起こします。
この時インドが平和維持軍(IPKF)をスリランカに派遣し、
LTTEとの仲介に乗り出しました。
しかし、事態の改善には至らないまま、1990年に撤退することになります。
政府軍とタミル人武装組織との間で激戦が再開しました。

2002年2月、中東和平などで仲介外交の実績を持っていた
ノルウェーが仲介に入ったことで、一時的に停戦合意が成立します。
その背景には、2001年の米国同時多発テロ事件(9.11)以降、
国際社会が足並みを揃えて取り組んできたテロとの闘いがありました。
しかしその後和平に進展は見られず、停戦合意違反が恒常化しました。
2006年 再び戦闘が激化して停戦合意は事実上崩壊します。
そして、絶望的な「エンディング」をむかえるのです。
・・・・・最後の決戦・・・・・

2009年シンハラ人政府は、LTTEとの停戦を破棄し、
LTTEへ猛攻撃し、LTTEの本拠地の町ムライティブを攻略します。
LTTEは、ムライティブ近くの海岸の一角に逃げ込み、
民間人20万人を、「人間の盾」にして立てこもりました。
シンハラ人政府は、盾にしていた民間人ごと殲滅します。

LTTEは、「敗北宣言」をし、「武器を置く」と声明を出し、
「民間人も、すべて解放した」と言いました。
しかし、シンハラ人政府は攻撃をやめず、続けました。
この時、民間人の巻き添えを懸念する国連は シンハラ人政府に、
攻撃の自粛を求めましたが、これを聞き入れず、いっそう攻勢を強めたのです。

戦争や内戦の最中でも、民間人の人権蹂躙(じんけんじゅうりん)を監視する
役目をもつ 赤十字国際委員会(ICRC)も、 この内戦のあまりの攻撃のひどさに、
現場からやむなく撤退することとなります。
国際人権団体のNGOたちも、 シンハラ人政府とLTTEの双方が、
戦争犯罪および重大な人権侵害をおこしている可能性があると指摘したのです。
このように、国連や国際機関、NGOから大きな批判を受けました。

2009年5月逃げ出そうとした、プラブハカラン議長ら、LTTE幹部を政府軍が射殺。
跡継ぎの長男も、射殺。
シンハラ人政府は、殺害したプラブハカランの映像を防衛省のホームページで
公開し、完全に勝利したことを宣言しました。
これにより、約25年におよんだ内戦が最悪の形で終結したのです。

内戦終結後.....
スリランカ政府(シンハラ人政府)は、この内戦により避難民となった人たちを
事実上全員強制収容所に閉じ込め、権利と移動の自由を違法に奪います。
その中で大多数が収容されているのは「マニック・ファーム(Manik Farm)」
と呼ばれる巨大な収容キャンプです。
これに対し、ヒューマン・ライツ・ウォッチは日本・米国・EU加盟国などの
国際的ドナー(資金提供)国に、国内避難民を拘束し続ければ、国際社会と
スリランカの関係に重大な結果を及ぼす、という明確なメッセージを
スリランカ政府に伝えるよう求めました。
あなたの大切なものは何ですか?
「自分の国の平和です。」


26年間で7万人以上の犠牲者を出したシンハラ人とタミル人の対立。
内戦終結後、現在シンハラ人にはタミル語を、タミル人にはシンハラ語を
第2言語として学ばせるようにするなど、少しづつ溝を埋める努力がなされています。
この内戦が生んだいくつかの問題をみていきましょう。
内戦中の1991年 おそらく、世界で初めての、自爆テロがありました。
LTTEは、2年前のインドからの攻撃に対し、
元インド首相の、ラジーヴ・ガンディーを、「女性の自爆テロ」で殺害します。
世界で初めて「自爆テロ」を行ったのは、イスラム教徒ではなく
スリランカの、ヒンドゥー教徒の、タミル人ということです。
あなたの大切なものは何ですか?
「子を愛することです。」
(ここに挿入する絵と写真を現在、検討中です。)
(参考 00501_RJ_a.jpg SriLanka2004Draw_085_Nuwanti_a.jpg)
1991年頃から、LTTEは、村の子どもを連行又は誘拐し、
子ども兵を大量に作ってゆくことを行いました。
連行された子どもたちは、イデオロギー教育(いわゆる、洗脳)を受け、
シンハラ人を殺すことをなんとも思わなくなり、
かつ、自爆テロなども、いとわぬ「生きた兵器」となっていったのです。

(実際に子ども兵だった少年たちです。)
2003年からのユニセフの調査によると子ども兵は6000人とされていますが、
この中に戦闘によって命を奪われた子ども兵の数は含まれていません。
一家庭から一人の子どもを招集するというル−ルがありました。
強制的に徴兵された子ども達は、LTTEの訓練キャンプにおいて毎日朝4時半から
夜遅くまで、徹底的なイデオロギー教育を受けます。
そのうちに、子ども達は自分自身をタミル人のための「自由の戦士」と
考えるようになり、自爆もいとわない戦闘員になっていきます。

訓練キャンプを卒業する際には、自決用の青酸カリが支給されるのです。
そして、今度は自分が子ども達を兵士に勧誘する立場になります。
未成年者の徴兵は、タミル人内部でも批判の声があり、1990年代から子どもを
取られた両親や人権擁護組織は、子ども達の返還を要求し始めました。

(実際に子ども兵だった少女たちです。)
子ども兵の問題は、スリランカだけではなく世界各国で存在しています。
特にアフリカ大陸内で多く、これまで国連などによって報告されただけでも、
シエラレオネ、ブルンジ、スーダン、ジンバブエ、ソマリアなど複数の国で存在しています。
なぜ軍隊子ども兵を雇うのでしょうか?
*未成年は大人と違って何も知らないので、命令に対して従順に従う。
*軍隊に入れられるような子どもは身寄りがないことも多いので、逃げ出すことが少ない。
*未成年を戦場に送り出すことで、相手に対して心理的ダメージを与えられる。
*相手をひるませることができる。
何とも酷い理由です。

では撲滅のための国際的な取り組みはあるのでしょうか?
国際社会は当然ながら子ども兵の存在を問題視しています。
国際的に少年兵の問題について述べた法規にはジュネーブ条約があります。
ジュネーブ条約とは、紛争における非戦闘員の保護を目的として、
1864年以降に締結された諸条約のことです。
ジュネーブ条約の第一追加議定書、第77.2条によると「紛争の当事国は
15歳未満の児童を戦闘に参加させないよう、可能な措置を取らなくてはならない」とされています。

しかし、ここで書かれている「可能な措置を取らなくてはならない」という言葉は弱く、
明確に「禁止する」と書かれていません。
これでは「やむを得ない場合は参加させてもいい」と解釈できます。
「児童の権利に関する条約」でも同様の記載がありますが、こちらも
「可能な措置を取らなくてはならない」と書かれているだけで、「禁止」とは言っていません。
子ども兵の問題に対する国際的な取り組みは、まだ弱い部分が多々あります。
しかし心身が未熟な状態で兵士として戦場に送られることは、
その後の人生に大きな悪影響を及ぼします。
子どもが兵士にならざるをえない状況は、世界からなくなるべきではないでしょうか。
ユニセフでは、元子ども兵士が社会復帰できるよう、職業訓練プログラムを行っています。

内戦が続いた地区には、埋められたままになっている地雷の除去の課題が
残されています。
国土には60万個〜140万個もの地雷・不発弾が残っていると推定され、
地雷事故が後を絶ちません。
地雷被害者などの障害者は自力で移動することが難しいため、
怪我が治っても仕事に就けないなど、一層苦しい生活をおくることになります。

対人地雷は、一度埋設されると半永久的に効力を保ち続け、紛争終結後も
一般市民に被害を及ぼすことから「悪魔の兵器」とも呼ばれる、
非人道的な兵器です。
世界では、数千万個ともいわれる地雷が、今日も人々を脅かしています。
地雷は「悪魔の兵器」と呼ばれる、その恐ろしさは三つあります。
1)残虐性。殺すのが目的ではなく手足を破壊し身体的障害者を産むのが目的。
国家と家族に経済的負担を与える。
2)無差別性。兵士だけでなく民間人・女性・子どもも被害に遭う。
3)残存性。戦争が終わった後も半永久的に獲物を待ち構え続ける。

対人地雷は、世界各地で紛争が起きるたびに、大量に埋設されてきました。
その多くは平和が訪れたあとも半永久的に爆発力を保ち、日常生活を送る
一般市民や野原で遊ぶ子どもたちなどの被害者を生み出しています。
この悲惨な状況の解決をめざして、1999年に発効したのがオタワ条約です。
この条約は対人地雷の使用・貯蔵・生産・移譲などを全面禁止するもので、
日本を含む150カ国以上が署名しました。対人地雷廃絶の機運は、
今や日本を含む世界に広がっているのです。

日本政府は、国内避難民の再定住に向けた緊急人道支援と
地雷除去支援を実施してきています。
日本政府は2009年に、国際NGOを通した地雷除去支援として
4件総額約2.9億円の支援を実施しました。
NPO法人 難民を助ける会は、障害者が社会に参加していけるよう、
車イスや松葉杖など補助具の支援を開始しました。
2009年8月より、現地のNGOであるモチベーション・チャリタブル・トラスト・スリランカ
とスリランカ障害者リハビリテーション財団(SLFRD)と協力し、北部ワウニア県の
国内避難民キャンプと車イス等の必要な補助具を届けています。

UNHCR(2008年)によると、世界でスリランカの難民の数は第10位の65万人とされています。
最終局面で激化した内戦によって、約28万人ものタミル人らが国内避難民
となり、避難民キャンプでの生活を余儀なくされました。
終結後1年を経過しても、避難キャンプに収容され続けた人々は、
5万人を超えました。内戦で荒れ果てた土地に戻された人々は生活の再建
のみならず、傷ついた心や民族間の融和までには、多くの時間がかかるはずです。
国内外含めた難民の再定住が今後の最重要課題となります。

日本政府は2009年5月、400万ドルを上限としたテントや、水等の供与といった
緊急無償資金協力を行いました。
またユニセフは、避難してきた人々の多くの緊急のニーズに応える支援活動を
行いました。家族と離れ離れになった子どもたちの保護や、
紛争による影響を受けた子どもたちのための心理的な支援も行っています。
・・・・・・・・・・・
『憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む』
というブッダの言葉があります。

第二次世界大戦中スリランカは連合国の主要地点として、
何千にも及ぶイギリス・アメリカの兵士が駐留していたのです。
そのため1942年4月、日本海軍が、ベンガル湾を越えて、
スリランカのコロンボ北部とトリンコマリー湾とを爆撃しました。
そして日本が第二次世界大戦に負け、1951年にサンフランシスコ講和条約締結後、
世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのはスリランカでした。
後に初代スリランカ大統領になるジャヤワルダナは、日本に対して、連合国側
から分割統治などの強硬案が出される中で、対日賠償請求権を放棄をしたのです。

「戦争は戦争として、終わった。もう過去のことである。
我々は仏教徒である。
やられたらやり返す、憎しみを憎しみで返すだけでは、
いつまでたっても戦争は終わらない。
憎しみで返せば、憎しみが日本側に生まれ、新たな憎しみの戦いになって戦争が起きる。
戦争は憎しみとして返すのではなく、優しさ、慈愛で返せば平和になり、
戦争が止んで、元の平和になる。
戦争は過去の歴史である。
もう憎しみは忘れて、慈愛で返していこう。」
この発言が大きな要因となって日本は完全な主権を取り戻すことができたのです。

このような歴史を経て、今後、スリランカはどのような道をたどっていくのでしょうか。
この演説にあったように、スリランカの人々が思うそれぞれの大切なものを忘れずに...
・・・
・・・
絵と写真を集めた人:
石井洋子(2006年6月)
矢野弘明(2011年3月)
澤田 輪香子(2011年8月)
山本敏晴(2004年11月)
画像データを編集し、文章を書いた人:
澤田 輪香子
編集完了日:
2011年9月29日
監修・校正:
山本敏晴
企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/