2011年07月29日

ベトナム Viet Nam

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ベトナムは東アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義の国です。国土は南北に長く、北に中華人民共和国、西にラオス、カンボジアと国境を接していて、東は南シナ海に面しています。

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(外務省より)

ベトナムには約8600万の人たちが暮らしています。
言語はベトナム語です。宗教は約80%が仏教で、そのほかにもキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などがあります。

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ベトナムの首都は北部にあるハノイで、約620万の人びとが生活しています。ハノイは11世紀から『李朝』(ベトナムに1009年から1225年まで存在した王朝)の首都として定められ、国内の工業、農業の中心地として発展していきました。
1873年にはベトナム全土がフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地でもあったため、フランスの植民地時代の建物が多く残っています。
また、フランスの植民地支配を受ける以前から、隣国である中国からの影響を強く受けていたこともあり、中国風の旧市街などもあります。

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ヨーロッパ風の建物

ベトナムの気候は全体的に高温多雨ですが、長細い国土なので、地域によって気候は異なります。経済は主に農林水産業、鉱業、軽工業で成り立っていて、近年、急速な経済成長をしています。


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ベトナム独立運動
ここでは20世紀のベトナムの歴史的な流れを見ていきたいと思います。

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1939年に第二次世界大戦が始まり、40年にフランスがドイツに降伏すると、同年に日本がベトナムに進駐し、日本軍によるインドシナ半島の支配が始まります。
その後、1945年に日本が無条件降伏をし、同年、東南アジア最初の社会主義国家としてベトナム民主共和国(北ベトナム)が誕生しました。そして、ホー・チ・ミンという人が初代国家主席になりました。

しかし、日本が戦争で負けたことをきっかけに、フランスはインドシナに復帰しようとしました。
そこで、ベトナム全土で『ベトミン』(後述)が指導する蜂起が起こりました。

『ベトミン』とはベトナム独立同盟会という、フランスの植民地主義からの独立を求め第一次インドシナ戦争を戦った独立運動組織のことです。

第一次インドシナ戦争は1946年に始まり、1954年にフランス軍が降伏するまで続きました。

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1950年に社会主義国家であるベトナム民主共和国はソ連と中華人民共和国から国家承認を受けました。一方で、フランスは1949年、ベトナム民主共和国対抗して、ベトナム国(南ベトナム)をサイゴンに成立させ、国家承認をしました。また、ベトナム国(南ベトナム)はアメリカやイギリスからの国家承認も受けました。
こうして、ベトナムはアメリカとソ連の冷戦体制の影響を大きく受けるようになりました。

1954年にフランス軍がベトナム人民軍に降伏し、ジュネーヴ和平協定が締結されてようやく第一次インドシナ戦争は終結し,ジュネーブ協定によって、ベトナムは北緯17度線で南北に分割することが決められました。

その後、フランスに代わってアメリカがベトナムに介入していきます。1955年の国民投票ではベトナム国(南ベトナム)を受け継いだベトナム共和国(南ベトナム)が成立しました。

そして、1960年代のはじめ、ベトナム戦争が始まりました。


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ベトナム戦争

「あなたの大切なものは何ですか?」

「私は平和が一番大切だと思うわ」

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−2つの観点−

ベトナム戦争の本質は2つあるとされています。
1つめは、南北に分かれてしまったベトナムを統一し、新たな国家の建国を求めるために行われた戦争であるという見方。
2つめは、アメリカを中心とする資本主義とソ連を中心とする共産主義との冷戦対立を背景とした「代理戦争」であるという見方です。

そして、資本主義国家であるアメリカが南ベトナムを支持し、共産主義国家であるソ連や中国が北ベトナムを支持しました。

「あなたの大切なものは何ですか?」

「戦争のない世界が一番大切だと思う」

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アメリカ軍は北ベトナムに対し、ローリングサンダー作戦(北爆)という爆撃を行い、多くの民間人が犠牲になりました。

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ベトナム戦争中の1961年、アメリカ軍は大量の枯葉剤を撒きました。
枯葉剤は、除草剤の一種です。森林を枯らしてゲリラ(武器を持った一般市民)を見つけるため、また、基盤である農業にダメージを与えるために撒かれたといわれています。
米軍の枯葉剤の使用について、1965年のタイム誌は「ベトナムに使用される化学兵器は『人道的兵器』である」と記載しました。アメリカ側は爆撃は村の全てを焼き尽くすけれど、化学兵器は全てを焼き尽くすわけではないので爆撃よりは『人道的』だという見方を示しました。

しかし、実際には枯葉剤によって奇形児が生まれる例や、後遺症によって多くのベトナム市民が現在も苦しんでいます。

1992年の国連総会では、枯葉剤などの化学兵器の開発、生産、貯蔵、使用を禁止し、化学兵器の廃棄を定めた『化学兵器禁止条約』が採択されました。

2011年、米軍が枯れ葉剤の汚染除去作業を開始しました。対象となる地域は米軍基地があったベトナム中部のダナン空港周辺です。2013年までの除去を目指し、米国が約3200万ドルを援助することが決まりました。
しかし、ベトナム全土に28カ所あるとされる高濃度汚染地域の除去には20年かかると言われています。

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ホーチミンにある戦争証跡博物館では、ベトナム戦争時に使われた戦車や軍用機、砲弾などを展示しています。また、当時の写真や枯葉剤によるホルマリン漬された奇形児を見ることができ、戦争のありのままの様子を伝えています。


ベトナム戦争は1975年に、ベトナムの最大の都市であるサイゴン(南ベトナムに位置する)が陥落することによって北ベトナムの勝利に終わりました。その後、南北は統合され、現在のベトナム社会主義共和国として成立しました。
さまざまな国の思惑がベトナム戦争で見られました。
この戦争で、200万人近いベトナム市民が犠牲になったといわれています。

ベトナム戦争によってベトナムの人たちの平和への思いはより強くなりました。

そして、忘れてはならないのは、ベトナム戦争は日本の高度経済成長に大きな影響を与えたということです。日本はアメリカに対して軍事基地や燃料補給基地の提供をしました。日本の経済はベトナム戦争特需(大量の軍用トラックの製造など)によって支えられていたという事実があります。

またベトナム戦争によって、多くの難民が生み出されました。そうした難民の人たちを人道的な立場から守ろうと、UNHCR(国連難民高等弁務官)が立ち上がりました。UNHCRはベトナム国民の人たちの声に耳を傾け、難民となった人たちが第三国へ定住、または、帰還できるように取り組んでいます。


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「あなたの大切なものは何ですか?」

「自然が一番大切です」

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近年ベトナムは、経済発展が続いています(GDP成長率7%以上)。
しかし、急激な経済成長によって水環境の汚染、廃棄物の増加、大気汚染などの深刻な環境問題を引き起こしています。

そのため、ベトナム政府は環境問題を改善して持続可能な社会のための取り組みを進めていく必要があるという考えを示しました。

こうした状況を受けて、JICA(国際協力機構)は水環境を改善させて水環境保護能力の向上のため2007年12月〜2011年12月の間、水環境管理技術能力向上プロジェクト(フェーズ2)を行っています。

JICAがODA(政府開発援助)を使って民間企業(開発コンサルタント会社)にプロジェクトを委託していて、『国際航業グループ』は多くの専門家をこのプロジェクトに派遣しています。


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ベトナムは、近年の経済の自由化に伴って貧富の格差が拡がっています。そして、売春やストリートチルドレン、麻薬に手を染める子どもたちが出てきて、大きな社会問題としてとりあげられるようになりました。

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この写真を書いてくれた子は孤児院で生活しています。

国境なき子どもたちというNGO団体(非政府団体)では、ストリートチルドレン収容所で暮らす6歳から16歳の子どもたちを対象に自立のための支援をしました。(2010年12月に活動終了)
国境なき子どもたちではスキルアップだけではなく、子どもたちが日々のストレスから解放されて、心のゆとりを作ることにも焦点を当てました。

このような、ベトナムの教育に焦点を当てているNGOは日本においていくつかあります。実際に現地へ行って直接子どもとふれあい、問題に取り組む草の根の活動は多くの子どもたちを支えます。


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領土問題

−西沙諸島と南沙諸島−

西沙諸島はまたの名をパラセル諸島といい、南シナ海あるいくつかのサンゴ礁の小島です。
一般人は住むことはできませんが、豊富な海洋資源があるとされています。

第一次インドシナ戦争が終わった後、ベトナム共和国(南ベトナム)が西沙諸島の西を、中華人民共和国が東をそれぞれ占領しました。
そして、1974年のベトナム戦争時に、中国共産党軍は西に侵攻して南ベトナム軍を追い出し、諸島全体を占領しました。
この時西沙諸島の戦い(南ベトナムの船1隻が襲撃され、沈没)が起こっています。

その後現在まで、西沙諸島は中華人民共和国の実効的支配下にありますが、ベトナムと台湾も西沙諸島の領有権を主張しています。

南沙諸島はまたの名をスプラトリー諸島といい、南シナ海にある100以上の小島からなる諸島です。
南沙諸島もまた、一般人が住める環境ではありませんが、海底に豊富な天然ガスや石油があり、東アジアとインド洋を結ぶ通商ルートとしても大きな役割を果たしています。

1982年、『国連海洋法条約』が制定され、沿岸国の海洋資源の権利が大幅に認められるようになったことをきっかけに国家間の争いはますます激しくなりました。
現在、島を実効支配しているのはベトナム、台湾、中華人民共和国、フィリピン、ベトナム、マレーシアですが、ブルネイも領有権を主張しています。

ちなみに日本は、1951年の『サンフランシスコ平和条約』で領有権を放棄しました。

南沙諸島をめぐる戦争も起きていて、1988年、中華人民共和国とベトナムの間でスプラトリー諸島海戦が勃発。この海戦で70人以上のベトナム水兵が亡くなりました。
現在でも度々衝突が起きています。


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このようにベトナムは、ベトナム戦争による大きな傷跡、市場経済化に伴った格差の問題や領土問題などといった問題を抱えています。

ベトナムは様々な国の影響を受けながらもその中で新しい、独自の文化を築いてきました。
ベトナムの人たちは多くの戦いを経験し、争いの悲惨さを誰よりも知っていると思います。
だからこそ平和への思いも強いのです。

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絵と写真を集めた人:
2004年にpeace boatに参加した人たち
山本敏晴

画像データを編集し、文章を書いた人:
三雲千穂

編集完了日:
2011年8月15日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

posted by お絵描きイベント at 18:10| 日記

2011年07月23日

モンゴル Mongolia





モンゴル国はユーラシア大陸の内陸部にあり、南側を中国、
北側をロシアに囲まれた内陸国です。

高原の大草原とゴビ砂漠の国として知られています。


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大相撲の白鵬や朝青龍の母国でもあります。

「初恋の味」カルピスがモンゴルの乳製品をヒントに生まれた
飲み物だということはご存知ですか?


国土は日本の約4倍の大きさで、人口278万800人。
世界で最も人口密度の少ない国として知られています。

95%以上のモンゴル人と少数民族のカザフ人等で成り立っています。

モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、ゴビ砂漠以北の一帯に
ほぼ該当する領域がモンゴル国です。

これに対し、モンゴル高原の南部は「内モンゴル自治区」と呼ばれ、
現在は中国の領土となっています。



「あなたの大切なものは何ですか?」

「モンゴルの自然です。」



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実際の彼の生活は都市部に住み、TVゲ-ムの大好きな少年です。
美しい大自然もあり、現代的な物に溢れた生活もあり、と
現在のモンゴルの状況を象徴しているかのようです。


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「あなたの大切なものは何ですか?」

「昔からの遊牧民生活です。」


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かつてはチンギスハーンの下、世界史上、最大の国家を形成しました。

大草原を騎馬で行き交うのが伝統的遊牧民で、
遊牧民の歴史は数千年にわたります。

 



「あなたの大切なものは何ですか?」

「国旗です。自分の国に誇りを持ち、将来もっと素晴らしい国
にしていきたい。」



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モンゴル国の国旗は、赤は繁栄を表す火を、青は平和と永遠を表す青空を意味します。

左側の黄色い模様は国家を象徴し、上から炎(過去・現在・未来の意)、
太陽(民族の母の意)、月(民族の父の意)、上下の逆三角形が槍(敵の制圧の意)、
長方形が正直さを表します。
その間に2匹の魚(警戒心の意)、左右の長い長方形は国民の団結心の象徴とされます。






「あなたの大切なものは何ですか?」

「モンゴル族です。モンゴル族は、勤労、勇敢、悠久な歴史を
持っているからです。」


国名はモンゴル人に由来し「勇敢な人」と言う意味を持ちます。



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13世紀,チンギス・ハンやその後継者たちがアジア,ヨーロッパにまたがる
大帝国を築き上げました。

チンギスの孫であるフビライ・ハーンが派遣した元軍は,日本にも
二度襲来(元寇)しています。

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このように世界を席巻したモンゴル帝国(元朝)ですが,やがて漢民族の明朝
に追われてモンゴル高原へ撤退。

17世紀からモンゴルの諸部族は清朝の支配下に入りました。

1911年の清朝滅亡(辛亥革命)によって独立を宣言しますが,
まもなく中国軍閥の支配を受けるようになりました。

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「あなたの大切なものは何ですか?」

「歴史です。過去の出来事を忘れずにいたいからです。」



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1924年,ソ連の支援を受け、独立。
ソ連に次ぐ世界で2番目の社会主義国として,
モンゴル人民共和国が誕生しました。

それからモンゴルは約70年に渡って社会主義国でした。


その間、モンゴル文字が廃止されたり、歴史の教科書の中でチンギス・ハーン
は否定的にとらえられ、教えられませんでした。




「あなたの大切なものは何ですか?」

「チンギス・ハ-ンです。僕の英雄です。」



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1991年のソ連崩壊の影響を受け、1992年にモンゴルは民主化しました。
モンゴル人民共和国からモンゴル国となりました。

民主化以降の教育では、モンゴル文字やチンギス・ハーンが復活しました。






ノモンハン事件をご存知ですか?
1939年、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した
日ソ両軍の国境紛争事件です。

当時の大日本帝国とソビエト連邦の見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎない
というものでした。
しかしモンゴル国は、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称しています。
たくさんの犠牲者を出しました。


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「あなたの大切なものは何ですか?」

「素敵なレストランで食事をすることが夢です。」

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長い間、社会主義経済システムを採用してきたモンゴルでは,
1990年前後に始まった市場経済への移行により、
旧ソ連の支援の引き上げ、国軍の大幅削減、国有企業の民営化、
不採算部門の切り捨てが進行し、大規模な人員削減、企業倒産によって
失業率の上昇や貧困の拡大が発生しました。



名目GDP:日本の約100分の1

一人当たりGDP:日本の約20分の1








「あなたの大切なものは何ですか?」

「五畜です。」


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モンゴルの経済の特徴として牧業があります。

主な家畜は、羊、山羊、牛、馬、駱駝(ラクダ)で、これらは「五畜」と呼ばれています。


従来は「小さな家畜」と呼ばれる羊、山羊のうち、羊を主な家畜として飼うことが
一般的でしたが、山羊からとれるカシミア原毛が現金収入につながるため、
山羊の頭数が年々増加し、山羊は羊と違い、草を根元から食べるために草原の
砂漠化を助長しています。

また、気候変動による気温上昇や降水量減少による牧草地が衰退し、
砂漠が進行しています。

加えて近年の雪害によって、遊牧民は家畜を失いました。

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その為、遊牧民の人々が仕事を求めて都市部に移住するため、

急激な人口増加が進み、都市の中に貧困に苦しむ人々がたくさんいます。


現在、首都・ウランバートルに人口の半分弱の
115万1,500人が住んでいます。







「あなたの大切なものは何ですか?」

「大都市で暮らすことが夢です。」


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貧困によって家庭が崩壊した多くの子供たちが
ストリ−トチルドレンとなり、5〜14歳の子供たちのうち約35%が
何らかの労働に就くなど、多くの社会問題が生まれています。




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国家崩壊や社会システムの激変が起きるとき、社会的弱者ほど
大きな影響を受けます。







「あなたの大切なものは何ですか?」

「私は歌手になりたいです。
歌が上手なことを皆に知って欲しい。
歌手になって、お金持ちになりたい。」



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彼女は4人家族。社会主義から自由経済の移行により、父親のお給料は
すべてアパ−トの家賃になってしまいました。
その為、母親も働いており、母親のお給料でなんとか生活費をまかなっている
という状況なのです。



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モンゴルでは、貧困の拡大や社会不安から来る家庭不和などによって
多くの子どもたちが家庭の保護を受けられなくなり、
学校にも行けなくなりました。

両親の失職、アルコール中毒からの子どもへの虐待などの困難な家庭事情
により、家出をする子どもが続出しました。

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零下40度にもなるモンゴルの厳しい冬、ストリートチルドレンたちは
マンホールの中に生活の場を求め、「マンホールチルドレン」となります。
マンホールの中は給湯管が通っていて、真冬でも15度と温かいからです。

しかし、マンホールは汚水が漏れている所、虫が湧いている所があるなど
その環境は劣悪で、子ども達は常に感染病や皮膚病の脅威にさらされています。

ほとんどの子ども達が3人〜5人でグループを組んで生活しています。

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5〜10歳の体格が小さい子どもがいるグループは、小さい子に物乞いを
させたり、歌を歌ってお金を稼がせます。

その間、他の子ども達は近くで遊びながらその子の様子を見守っています。
そして、1日の収入を皆で分け合って食料を買います。

10歳〜18歳の年齢で構成されたグループは、市場でのもの運び、車拭き、ガム
売りなど単発の仕事を探して生活の糧にしています。

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女の子は仕事に就くのが難しいため、レストランやホテルのゴミ箱から食べら
れそうなものを拾ったり、外国NGOのお弁当の配給を頼りに生活しています。


世界食糧計画が発表した「2011年世界飢餓現況地図」によりますと、
モンゴルは 北朝鮮やインドと同じく、栄養失調に陥った人の割合が比較的
高い国に分類されました。

モンゴルの住民の20%以上が栄養失調に陥っているとみています。








「あなたの大切なものは何ですか?」

「世の中のあらゆる悪い状況を、皆に知ってもらいたい。
そして、よい社会になって欲しい。」


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恵まれない子ども達を保護するために、都市には多くの孤児院が設置されました。

現在、政府系と民間NGOをあわせてモンゴルに孤児院は50程度あると
言われています。

ウランバートルにある子ども住所確定センターは日常的にマンホールや
路上を見回り、子ども達を保護する活動を行っています。


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保護された子どもは2週間〜1ヶ月センターで身元調査を行われ、
身寄りのある子どもは親元へ、身寄りのない子どもは孤児院へと
連れて行かれます。

モンゴル第二の都市ダルハン市では、マンホールに蓋をつけ南京錠をかける取
り組みを行っています。


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以上のように、国をあげて子ども達を保護する取り組みを行っており、
10年前には数千人いたといわれているマンホールチルドレンは、数百人にまで
減りました。

それでもマンホールで暮らしている子ども達がいなくなることはありません。

孤児院に行っても、集団生活に馴染めなかったり、孤児院の規律に従えなかったり、
孤児院よりも路上での暮らしを選ぶ子ども達がでてきたのです。



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また、最近では、マンホールに家族連れや青年達が住む姿が目立つようになっ
てきました。

以前、家をもてない家庭は、マンションの地下にある配電線室や管理人室に暮
らしていました。


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しかし、貧困層が増え、マンションの地下にさえ住めなくなった家族がマンホ
ールで暮らすようになってきたのです。

日本と異なり、労働需要の絶対数が少ないモンゴルでは、高卒で働ける機会は
非常に限られています。

レストランやスーパーで働くにも競争があります。そして、就職には高度の専
門性が必要とされます。


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孤児院運営の都合上、行き場がなくても卒業させる所が殆どですが、
その結果マンホールでの生活に逆戻りしてしまって貧困から抜け出せ
なくなったり、女性の場合だと性犯罪に巻き込まれたりすることもあります。


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また、運よく職につき、家庭ができたとしても、
低賃金のため子どもを養えないという人も多いのです。

結果、子どもを孤児院に預けたり、あるいは子どもがマンホールでの生活を余
儀なくされる場合もあります。

マンホールから出た子ども達が再び元の生活に戻り、
貧困のサイクルから脱却できなくなることがあるのです。


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NGOゆいま-るハミングバーズでは、こうした貧困のサイクルを断ち切るための
奨学金支援を行っています。

孤児院卒業後の進路の問題によって、 子ども達を真に自立へと導けていない
実情があります。

そこで、孤児院と協力関係を結び、孤児院卒業生の大学進学を応援しています。

貧困のサイクルを解消するためには、孤児院の子ども達が大学で専門性を身に
つけて就職し、モンゴルの明るい未来に貢献する立派な大人へと成長することが
必要だと考えるからです。










「あなたの大切なものは何ですか?」

「学校です。」


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彼女の家族は遊牧民です、ゲル(移動用テント)で暮らしています。
季節ごとに家族単位で移動をして暮らしていく彼女にとって、
唯一外との接点が学校なのです。

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社会主義崩壊後、所得格差による教育の不均衡が発生しました。

教育行政能力の不足、教育インフラの未整備、教員の質の低下、
高等・専門教育の未発達、地方における就学率の低下等
様々な問題が生じています。

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このような状況に対し、モンゴル政府は教育を国家発展の基礎と位置づけ、
教育の質の改善・効率の向上等を掲げた「教育改革基本方針」を
1997年に策定しました。

現政権においても教育に関する政策を重点課題とし、先進国への留学
促進を目指しています。

モンゴルは、貧困削減の国家戦略において、教育の質の向上と
アクセスの拡大及び2015年までの初等教育の完全普及の実現を
開発課題の優先目標の一つとして掲げています。


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ところが、以下のデータがあります。

識字率 (UNESCO)
成人識字率 97.8%(2000) 97.5%(2005) 97.3%(2007)
青年識字率 97.7%(2000) 96.1%(2005) 95.4%(2007) 

つまり、上記のような目標を掲げているにも関わらず、
識字率は、青少年でも、成人でも、低下してきているのです。

早急な対策が求められます。


ちなみに、教育関係に使われるGDPの割合は5%(CIA2004年)で、
経済協力開発機構(OECD)の平均が4.9%であるのと
比べると、平均的です。

識字率の低下は、それ以外にあると考えられます。


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日本政府では平成20年度、首都ウランバートルの小学校12校の教室や
机・椅子・黒板等の建設に協力しました。

この支援により、合計155教室が建設され、
新たに約1万2千人の生徒の受入が可能になりました。

今後ますます教育環境が改善されていくことでしょう。












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モンゴルの経済の中心は畜産業と鉱業ですが、主要産業は伝統的な
牧畜業から豊富な鉱物資源を背景にした鉱工業が
中心になりつつあります。

広大な土地柄、金や石炭、また今や話題のレアメタルにおけるまでの
天然資源が隠れているといわれています。

それは、モンゴル国の約7割が未開拓の土地や場所があるからなのでしょう。


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天然資源である石炭や金、レアメタルなどは年々価格の高騰が続いています。

今後,ほとんど未開発の大規模炭田や注目を集めるウラン,レアアースの
開発が進めば,モンゴル経済は名実ともに鉱物資源大国として
更なる経済発展が見込まれます。


菅直人首相は2010年、モンゴルのTsakhiagiin Elbegdorj大統領と
会談し、モンゴルの鉱物資源開発に向けて
戦略的パートナーシップを締結しました。


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これにより東芝では、ウランや希土類元素(レアアース)や希少金属(レアメタ
ル)などを対象に、モンゴルの持続的な経済成長に重要となる火力や原子力、
太陽光発電システムや送電網などの主要な社会インフラ整備の実現可能性を
検討するとともに、鉱物資源開発の安定した供給の確保に向けて
モンゴルの会社との相互開発を進める方針を出しました。

新興国として、資源国として、外貨流入なども盛んに行われ、モンゴルの経済
発展は続いていくでしょう。


なお、現在のモンゴルの、経済成長率は、6.1%(2010年速報値、世界銀行)
と、2%前後の日本に比べて好調です。


「初恋の味」カルピスのカルピス社は、創業者三島海雲が内モンゴル
(現:中国内モンゴル自治区)でモンゴルの発酵乳にヒントを得て
これをベースにした「カルピス」を作り出しました。


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カルピス社は経済産業省の独立行政法人 製品評価技術基盤機構(NITE)
との間で、モンゴルの発酵乳などから分離された微生物(乳酸菌や酵母)
を現地で収集し、食品への利用可能性を探る産官共同事業を開始しています。

モンゴルは寒暖の差が激しく、砂漠、高山、針葉樹林帯、草原、塩湖等の
バラエティーに富んだ環境や日本にはない特殊な環境があります。


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苛酷な環境に生息する微生物は、環境に適応するため特殊な能力を持って
いることが多く、例えば医薬品、健康食品、工業原料等の製造、有害物質の
分解による環境浄化等への活用がモンゴルにおいても、
また、日本の産業界においても期待されています。

2010年名古屋で生物多様性条約が締結されました。
先進国が途上国にある生物資源(遺伝資源)から
健康食品や医療品を作り出した場合、利益の配分を途上国に対し
行うというものです。

その生物多様性条約に基づき、カルピス社は収集した微生物は
商品化された場合は、製品評価技術基盤機構(NITE)を通じて、
収益の一部をモンゴルに還元するとしています。






「あなたの大切なものは何ですか?」

「モンゴル国の未来と幸せです。」


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経済産業省が2010年秋から米エネルギー省と共同で、使用済み核燃料などの
世界初の国際的な貯蔵・処分施設をモンゴルに建設する計画を極秘に
進めていることが明らかになりました。

ロシアやフランスは原子炉と廃棄物処理とをセットに
国際的な原子力発電所の売り込みをしています。
処分場を自国内に持たない日本とアメリカは、このロシアやフランスに
対抗するのが主な狙いのようです。

そしてモンゴルは見返りとして日米からの原子力技術支援を受けるようです。
原子力エネルギーは気候変動を防ぐ有効策とされ、
原子炉1基数千億円のビッグビジネスとも言われています。
核廃棄物の国内処分地選定の見通しが立たない日米と、技術支援で
核燃料加工施設や原発を建設したいモンゴルの思惑が一致したということでしょうか。

モンゴル政府内には、見返りとして核燃料加工などの技術供与も得ることで、
核燃料の輸出国として経済を発展させたいとの思惑があるようです。




 
モンゴルは、こうした経済成長に伴い、今後大きく発展していくでしょう。

未来は明るく感じられます。

しかし、その一方では貧富の差が広がり、貧困に苦しんでいる人たちがいる現状も

あるのです。

では、幸せとは何なのでしょうか。

あなたの大切なものは、何ですか?





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絵と写真を集めた人:
山本敏晴
(2006年9月)

画像データを編集し、文章を書いた人:
澤田 輪香子

編集完了日:
2011年7月30日

監修・校正:
山本敏晴

企画・製作:
NPO法人・宇宙船地球号
http://www.ets-org.jp/

posted by お絵描きイベント at 14:54| 日記

2011年07月16日

ネパール Nepal





ネパールは、インドと中国に接する内陸国で、首都のカトマンズからはヒマラヤ山脈が臨めます。政治、産業(観光業)、医療、交通はカトマンズ周辺に集中しています。


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国花は真紅のヒマヤラシャクナゲであり、国旗の色にもなっています。



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「僕の大切なものは、国花の『ヒマヤラシャクナゲ』です。」



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また、真紅はネパールのナショナルカラーであり、勇敢さを表します。









ネパール国民の宗教は現在、ヒンドゥー教徒 約80%, 仏教徒 約10%, イスラム教徒 約4%, その他 約5% という割合になっています。



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ほんの数年前までの約250年間、ヒンドゥー教が国教として、政治や生活の基軸となっていました。



そのため、信仰の自由が認められるようになった今でも、ネパール人の生活にヒンドゥー教が深く根付いたままです。ヒンドゥー教に由来する、男尊女卑や身分差別がなかなか解消されません。



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「僕の大切なものは『心』です。どんな変わった人でもどんな身分の人でも、それぞれに『心』があります。」



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ネパールと日本の教育水準を比較すると以下のようになります。ただし、( )内は2010年度の人間開発指数(HDI)の順位を示します。



ネパール(138位)日本(11位)
 15歳以上識字率
 (%、2009年) 
57.999.0
 初等教育就学率
 (%、2004年)
78.899.9
 男性識字率に対する
 女性識字率
 (15〜24歳、%、2005年) 
60.199.9




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識字率は1990年の33%に比べると、大きく上がりました。これは、1990年代から共産党統一毛沢東主義派(マオイスト)が自分の団体の支持獲得と共産主義教育を目的として、学校建設や教師派遣を行ったことが大きな原因と考えられます。


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「私の大切なものは『女の子に教育すること』です。ネパールでは女の子はあまり学校に行っていません。差別があるからです。でも、むしろ女の子に教育したほうがお母さんになったときに、産まれた子どもに学校に行く前から『読み書き』を習慣付けてくれるので、女の子に教育することのメリットは大きいと思います。」



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NGO ルーム・トゥ・リード (RTR) は、約10年前にアメリカでマイクロソフトに勤務していた社員が創設しました。彼は、ネパールに登山に行った際「現地の女の子が教育を受ける機会がほとんどない」ことを知り、本を届けることから始めたそうです。以後、女性の識字教育や学校建設などの活動を、ネパールのほかに、インドやカンボジアでも行っています。


ネパールにおける教育には、性別格差のほかに、地域格差や身分格差が見られます。



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ダリット(カースト最下層)の初等教育就学率を地域別に比べると、山岳地域が約74%、タライ平原が約38% となっています。

これにより、タライ平原におけるカースト社会はより差別が厳格であることが分かります。教育格差ゆえに、タライ平原のダリットは雇用機会を失いさらに貧しくなります。



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なお、カースト制度は人を ブラフマン(僧侶)、クシャトリヤ(貴族、武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(奴隷) の4つの階層に分けます。しかし、これらのカーストよりも更に下位にある人々「アウト カースト」がいます。彼らは、自らを ダリットと呼びます。不可触賎民(アンタッチャブル)という意味です。









ネパールと日本の医療水準を比較すると以下のようになります。ただし、( )内は2010年度の人間開発指数(HDI)の順位を示します。



ネパール(138位)日本(11位)
 5歳未満児死亡率
 ( 人/1000、2008年) 
504
 妊産婦死亡率
 ( 人/100,000、
 2003−2008年)  
8306
 平均寿命
 ( 歳、2010年) 
67.583.2
 病床数
 ( 床/10,000、2010年)  
50139




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「私の大切なものは『健康』です。能力を発揮して、自分を表現できるからです。」



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ネパールの医療問題に関して、日本の企業が取り組んでいる事例があります。ネパールでは、白内障やトラコーマなどの病気によって、高齢者が視力を低下させています。しかし既に日本では、これらの病気は適切な治療や予防で回避できます。そこで、メガネの田中チェーン株式会や株式会社メガネの松田がネパールにおいて、眼鏡やサングラスの提供、眼科検診、眼科薬の無償提供を行いました。



内陸国であるネパールにとって、川は生活に欠かせません。しかし、カトマンズ周辺を除いて下水道がほとんど無いので、川は未処理下水やゴミ投機、火葬死体の放流により水質は悪く、それを住民らが生活水にしていることが衛生状態を悪くしています。



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ネパール特有の医療問題として、リーシュマニア症(黒熱病)が多いことが上げられます。
汚れた川が原因で、リーシュマニア症の主な媒介虫であるサシチョウバエがいるのかもしれません。



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衛生の問題は学校にもあります。現在の公立学校では、過密、トイレの未整備 (特に女子トイレ)、校舎の老朽化などの問題があります。



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「私の大切なものは『学校』です。教育を受ければ、私は何でもできる大人になれるような気がするからです。」



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日本政府は、ネパール政府が策定した「万人のための教育」支援のための小学校建設計画 に無償資金協力と建設資材の調達、また周辺住民参加の教室建設の指導を行いました。これよって、子供たちが安全で健康に学習できること、またマオイストによらない自由な教育が行われることが期待できます。



また、数々の日本政府の支援への御礼として、ネパール政府は東日本大震災直後に、日本に毛布を 5,000枚送りました。

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1990年代にはマオイストが支持率を上げるために、女性運動を積極的に後押し、都市部には女性活動家が現れました。これにより、1991年には女性差別撤廃条約などの国際条約を相次いで批准しました。2002年にはネパール中絶法が成立しました。成立以前は (レイプによるものを含め) すべての中絶が違法とされ女性のみが投獄されていました。2006年には、ネパール憲法に「女性の性と生殖に関する権利は女性の基本的権利である」と明記されました。


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しかし、深く根を張った男尊女卑を解消することは一朝一夕では難しいようです。教育においては、近年でも女子の識字率が男子の3分の2以下です。考えられる理由としては、早婚、家事手伝い(特に長女)、女子トイレの未整備、などが上げられます。



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ダリットの女性は特に差別的な扱いを受けます。21世紀になっても、ダリットの女性が身に覚えの無い罪を着せられて村中から暴力を振るわれた、ということが実際にありました。



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「私の大切なものは『学校で読み書きを習うこと』です。読み書きができるようになれば、新聞が読めたり、文章が書けるようになるからです。」



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年間 5000〜7000 人の貧しいネパール人少女がインドへと人身売買されています。売買される少女は大半が 16歳以下であり、初潮を迎えていない少女も含まれているかもしれません。



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この問題に対し、NPO ラリグラス・ジャパン (Laligurans Japan) はネパールとインドの少女売買春・人身売買の廃絶を提唱し、HIV感染者とAIDS発症者の支援や、障害をもつ女性や子どものサポートを行っています。









1990年代から、ネパール共産党統一毛沢東主義派(マオイスト) が急速に支持を獲得し、長く王室と対立していました。2000 年頃から国土の大半を実効支配し、内戦状態が続いたため、政情不安、治安悪化により観光業が低迷しました。2006年に停戦合意、2008年に王制廃止、連邦民主共和制への移行が実現しました。



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「僕の大切なものは『国旗』です。国は僕らに、安全や安心を供給してくれます。」



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マオイストは男女同権を訴え、近代的な女性から多くの支持を獲得し、女性の地位向上の成果を上げました。しかしこれに対し、「ネパールの典型的な男尊女卑社会を考慮に入れると、男児は家系を絶やさないために都会に逃げ、いずれ嫁いで家を出る娘は兵士としてマオイストに供出されたのではないか」という見解があることは無視できません。



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内戦当時インドやアメリカは王室を支持していたのに対し、マオイストは外国の援助を受けず、兵士の住居や武器弾薬、資金は現地で自己調達していました。その結果、各地でマオ派兵士による家財の略奪、徴兵、上納金の要求が横行しました。この内戦によりネパール国内で家を失った人は5 万〜7 万人と言われています。



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マオイストによる政治活動は教育にも及びました。マオ派ではない教員は給料を不当に取り上げられて生活と雇用を失い、私立学校は資本主義的だとして攻撃の対象になることもありました。



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この事態を重く見た国連は、内戦後の2007年から代表団「国連ネパール政治ミッション(UNMIN)」を派遣しました。UNMIN の軍事監視要員は基本的に非武装で、マオイストキャンプや国軍の兵舎において、2011年3月まで武器と兵士監視を行いました。









次に、なぜ中国のチベット民族がネパールに移住してくるのかを、解説します。



中国政府はチベット民族の診療所や学校を接収したり、チベット居住地域を国定公園に指定して住民を追い出すなど、チベット民族に差別を繰り返しています。そこで、中国のチベット難民は、インドのダラムサラにあるチベット亡命政府をめざして一度ネパールへ入ります。



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なぜネパールに入国するかというと、ヒマラヤ山脈があるため、中国からインドへ直接行くよりも、ネパールを中継したほうが地理的に易しいからです。ネパールを中継した人は、ネパールで難民認定を受けます。



しかし、中にはインドの気候、雇用機会などの理由からネパールに戻ってきて生活するチベット難民もいます。ネパールにいるチベット難民は現在約2 万人です。2007年の亡命者2337人のうち 18 歳以下は 44.8%でした。両親が金銭を工面して子供だけを送り出すケースが多いと考えられています。



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「僕の大切なものは『チベット』です。この場所で、僕らの文化を守っています。」



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NGO チベタン・チルドレンズ・プロジェクト (TCP) はネパールでチベット人支援活動を行っています。ネパールでチベット人支援を行うのは、中国政府の干渉を回避するためです。職業訓練(介護福祉)、語学(チベット語・英語・日本語) の2つのプログラムを提供する「トレーニングセンター」と、児童・乳幼児を対象とした「児童養護施設」、伝統的な予防医学を継承する「チベット予防医学室」をネパールの首都カトマンドゥのチベット人居住地区に開きました。








ネパールの人々は、我々が富士山を愛でるように、ヒマラヤ山脈を慈しんでいます。

我々がそうであるように、彼らも偶然生まれた国で、教育を受け、神を信仰し、生活しています。

我々との相違点は、彼らが 深く根付いた男尊女卑、低い教育水準、衛生問題、政治問題、そしてチベット難民の問題など、様々な難問を抱えているという点です。

偶然にも豊かで自由な生活を手にしている我々がネパールにできることは何か、上に述べたNGOや企業の活動を参考に、今一度考えてみませんか。









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絵と写真を集めた人:
山本敏晴 (2005年3月 )



画像データを編集し文章を書いた人:
小野明日美



編集完了日:
2011年7月29日



監修・校正:
山本敏晴



企画・製作をした団体:
NPO法人・宇宙船地球号


http://www.ets-org.jp/



posted by お絵描きイベント at 19:53| 日記